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2009年3月 2日

『唯一郎句集』 レビュー #9

9回目の『唯一郎句集』レビューである。「朝日俳壇」時代の句は、まだまだ続く。今回は本格的な春から初夏にかけての句だ。

5月頃のに作られた句だと思う。ここに詠み込まれているのは、酒田の一番大きな祭礼、山王祭の光景のようだからだ。ずいぶん歴史のある祭りなので、大正の頃も盛んに行なわれていたのだろう。

山車や神楽、縁日で賑わっていたのだろうが、人付き合いが苦手でふさぎがちなところのあった唯一郎は、手放しで祭りの中に溶け込んで楽しむことはなかったようだ。どこか他人事のように眺めている。

皿廻し 皿が春雨に濡れながらの午後

多分、山王祭の大道芸の様子だろう。山王祭の頃はお天気が長くは続かず、よく春雨が降る。雨の中で皿廻しが皿を廻している。

別に祭りの喧噪を嫌うでもなく、一応、街に祭り見物に出かけている。しかしその喧噪の中に溶け込んで一緒になって浮かれ楽しむわけでもない。皿廻しの皿が雨に濡れるのを、遠くを見るようにただ眺めている。喧噪も遠くから聞こえるようだ。

俺と一緒に映った顔よ 春雨の床屋の鏡

3回目のレビューにも、床屋の鏡の句が出てきた。唯一郎は床屋の鏡の中で、自分自身の姿よりもむしろその背後に映るものに注目する人だったようだ。

山王祭とて、さっぱりと散髪するために床屋に行ったのだろう。「俺と一緒に映った顔」というのは誰だったのかは語られない。床屋のあるじだったのか、その後ろで順番待ちをしている客だったのか。それとも、春雨の降る店の外からのぞき込む人の顔だったのか。

鏡の中に一緒にはいても、なかなか親密に心を通わせることができない。

若い神楽師が何か淋しくて祭の街中

山王祭は今では「酒田祭り」なんていうしょうもない名称に変わってしまっている。400年も続く由緒ある祭りの名前を、いくら 「酒田大火からの復興を祝って」とはいいながら、簡単に変えてしまうというのが、古いものや伝統を大事にしない酒田の人の困ったところである。

現在の祭りでも延年の舞や神楽が奉納されるが、大正時代にも近郷近在の神楽が奉納されたものだろう。唯一郎の目には、その神楽を奉納する若い神楽師が、何か淋しげに映った。

祭りの只中の異邦人と、祭りに溶け込めない異邦人の、触れあうことのない触れ合い。

歸りの野茨の道にて口なしとなるが悲しく

祭りの帰り道のことだろうか。今では日枝神社のある日和山と、唯一郎の家のある浜町は街並みとしてすっかりつながっているが、当時は途中の寺町を越える辺りは街並みが途切れていたのだろうか。どうやら道端にノイバラの咲くところがあったようだ。

そのノイバラが途中でクチナシに変わる。どちらも白い花で似てはいるが、クチナシの方は庭木として栽培されていることが多い。祭りの街中からはずれ、さらに歩いてまた自分の街に近付きつつある。

祭りを存分に楽しんだわけでもないが、その雰囲気から離れて日常に戻るちょっとした物憂さ。日常に戻るまでには、「死人に口なし」の連想から、「ちょっとした死」を経過しているのかもしれない。

本日はこれぎり。

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