« 彼岸過ぎの寒さ | トップページ | 街路樹の根元にネギが生えている不思議 »

2009年3月26日

ロジカルでない犯罪のロジカルな解釈

秋田連続児童殺害事件で、控訴審判決は第一審の無期懲役を支持する判決を下した。この件に関して、産経ニュースがかなり詳細な長文の記事を載せている (参照)。

全文を読み切るのが疲れるほどの長文なので、ざっとした確認をされたい場合は、時事ドットコムのニュースの方が手短だ (参照)。

産経ニュースがこれほどまでに長文の記事を書いてしまったのは、この理解しにくい事件の裁判過程で複数の視点からの検証を行い、ぎりぎりまともに思えそうな結論として「無期懲役」に辿り着かざるをえなかったというプロセスを、できるだけ忠実に追おうとしたからだろう。それほど、「フツー」 に考えては合理的な理解がしにくい事件なのだ。

私はこの事件直後の平成 18年 6月に、「ロジカルな犯罪、ロジカルでない犯罪」 という記事を書いていて、その中で次のように述べている。

世の人は、「どうして、近所の子どもを殺したのか?」と口にするが、「どうして?」とフツーに考えては、その疑問は解けない。「とにかく、殺してしまった」のだ。考えるよりも行為が先に立ったのである。よく考えてしまったら、こんな殺人は実行できない。

(中略)

村上ファンドの件を「ロジカルな犯罪」とすれば、秋田の事件は「ロジカルでない犯罪」の典型例である。

この秋田の事件は、論理的に突き詰めようとしても、ついに不可能に終わってしまう類のものだ。なにしろ当の畠山鈴香自身が、自分のしたことをよくわかっていないようなのだから。取り調べ段階で自供が二転三転したというのも、自分でもよくわかっていない行為について、場当たり的にヒステリックな取り繕いをしようとしたからである。

不条理小説の代表格のようにいわれるアルベール・カミュの『異邦人』では、ムルソーという主人公がふとしたはずみに殺人を犯してしまい、その動機を「太陽が眩しかったから」だと言う。

「太陽が眩しかったから」だなんて、さすがにカミュだけあって、秋田の田舎町の畠山鈴香よりずっとカッコよく、大向こうから「いよっ、不条理っ!」と声をかけたくなるほどのレトリックなのだが、よく考えれば、不条理に上も下もない。いろいろな解釈を試みても説明しきれない、わけのわからなさという点では同じである。

この小説はルキノ・ヴィスコンティ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化されており、私も高校時代に、知る人ぞ知る酒田のグリーンハウスのシネサロンで見た。このグリーンハウスという映画館について語り出したら、それはそれで長文の記事になってしまうので、今日のところは Wikipedeia 記事 にリンクしておくにとどめる。

この映画では、ムルソーが港町で殺人を犯す直前、太陽が画面いっぱいに眩しく輝いてハレーションを起こす(ということだったと記憶する)。映画としては小説そのままの描写なのだが、一方では精一杯の説明的描写でもあったと思う。

ところがこのあたり、原作を知らないで先に映画を見てしまったら、「一体何なんだ? わけわからん」ということになる。実際、一緒に見た友人はそう言っていた。そうなることがわかっているのだから、ヴィスコンティもどう描写するか、少しだけ悩んだろうなあ。

「百聞は一見にしかず」なんてことが言われるが、逆に映像では表現しきれないことがある。映像は一見して具体的であるという強みがあるが、その強みの裏返しとして、具体的でない複雑系は、表現しきれないのだ。

そしてこの映画の場合は、その「表現しきれない、わけのわからなさ」というコンセプトが伝わればいいのだが、それを単に「わけわからん」で済まされてしまっては、どうしようもない。

重要なのは「わけわからんこと」を、わからんままに認めるということなのだ。人間の行動というのは、論理的かつ具体的に説明しようとしても、その全貌は説明しきれないものであり、常に説明しきれない多くの要素が残る。そして時に、その「説明不能さ」のみが際だってしまうことがあるのである。

私はこの類の事件に関しては、警察も、検事も、弁護士も、裁判官も、みんな気の毒なほど苦労しているのだろうなあと同情してしまう。なにしろ、論理的には説明しきれないことを何とか論理的に解釈して、論理主導の世界である裁判の土俵に上げざるを得ないのだから。

裁判の判決というのは、広大無辺に不条理な人間性の一部分のみを切り取って得られた要素を操作した結論でしかない。このことを思えば、凶悪事件の容疑者に死刑が言い渡されることで遺族の気が済むなんていうのは、幻想に過ぎないと思うのだ。遺族の心の底にだって、論理的に処理しきれない要素がどっさりあるのだから。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« 彼岸過ぎの寒さ | トップページ | 街路樹の根元にネギが生えている不思議 »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

私も以前、ブログに
<人間がいつも「まともな感覚でまともなことだけを考え、行動する」という事には何の保証もない。>
という一節を書いたことがあります
北朝鮮が核ミサイルを日本に向けて発射する可能性について論じた際の文章ですが

この「まともな」は「論理的な」という言葉に置き換えても同様でしょう

一般に「まとも」とか「論理的」と見なされることは、最大公約数的なものであって、現実に個々人の思考と行動に於ける input と output の中間部分がブラックボックスであることは多々あるわけです
また脳科学の分野で言えば人間の脳が常に論理的な行動を指令するという保証も無いし、病理的な疾患の問題である場合もある

特に女性の場合は男性に較べて論理性という意味では少し違いがあるかも知れませんね
当人がロジカルであると思って主張することが他人から見れば必ずしもロジカルでは無い場合もある
(この部分、表現に苦慮しています) (笑)

人間が常に論理的であるというのは幻想に過ぎないと思います

投稿: alex99 | 2009年3月26日 21:48

alex さん:

>現実に個々人の思考と行動に於ける input と output の中間部分がブラックボックスであることは多々あるわけです

疑いもなくはっきりしていることは、原因があって結果があるということで、それ以外のことはあり得ないのですが、その原因と結果の間には、ものすごく複雑系の要因があります。

原因と結果の関係は、仏教では 「因果」 というわけですが、その中間の複雑系要因は 「縁」 といいます。
英語で言えば、cause - medium - result って感じでしょうかね。

この 「縁」 ってやつが、かなりのくせ者です。

>特に女性の場合は男性に較べて論理性という意味では少し違いがあるかも知れませんね

ユングは、気質を 論理、感情、感覚、直観の 4つに大別していますが、女性の頭の良さは、論理的なものではなく、感情的なものだという説が有力です。
(私が言ってるわけじゃないので、フェミニストの方は、私を責めないでくださいね)

投稿: tak | 2009年3月27日 00:05

高校時代、自転車泥棒をして検挙された学友。「なんで、自転車なんか盗ったの?」という事に対して、「歩くの疲れたから」という論理的なんだか、ただ単にアホなんだか分からない言い訳をしていたのが居ました。

殺人者が、事の重大さに気づいて懺悔の日々を送ろうとも、司法が事件の経緯を解明しようと躍起になっても、失われた命や財産が戻る由も無し。残るのは、犯行事例と判例ばかり。どうして人を殺してはいけないのかという基本的な事だって、突き詰めて教えてくれない。

どうして人を殺してはいけないの?と問われれば、命は大切なものだからという漠然とした答えしか出せない。裁判員制度で、チョイとチョイスされない事を願うしかありません。法の前に感情ありきの私などは、まさに「わけわからん」犯罪者には感情むき出しで、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの感じで、必死に弁護する人間まで極悪非道に思えますから。

投稿: やっ | 2009年3月27日 10:49

やっ さん:

>どうして人を殺してはいけないの?と問われれば、命は大切なものだからという漠然とした答えしか出せない。

この件について、私は 3年前に書いています。
よろしければお読みください。

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2006/04/post_8fc4.html

投稿: tak | 2009年3月27日 11:28

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ロジカルでない犯罪のロジカルな解釈:

« 彼岸過ぎの寒さ | トップページ | 街路樹の根元にネギが生えている不思議 »