『唯一郎句集』 レビュー #23
唯一郎の父が亡くなり、「弔」と題された句が作られ、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋の彼岸が過ぎたようだ。
唯一郎句集の中では、このあたりの句の並び方が一足飛びに飛んでいるようで、またまた時間軸が曖昧になる。それでも、読むものはそれに付いていくほかない。
というわけで、レビューも今回で 23回目になる。今回は 4首をレビューする。この間に、唯一郎の環境はずいぶん変わっているようなのである。作風も変化をみせている。
すくすく彼岸花が伸びきって恋慕もなし
夏の間一斉に咲き誇っていた草花が枯れ始め、他との競合がなくなった秋の彼岸頃になると、彼岸花は見計らったように咲く。その妖しいまでの色合いと相まって、一際目立つ。
妖しいまでの色香が伸びきってしまった頃、「恋慕もなし」と歌う唯一郎だが、恋慕というほどのことはなかったとしても、何かはあったのだとうかがわせる句である。
氷柱黄な雫を甞めて入る薄暗き家ぬちに妻うごけり
ほぅら、知らないうちに妻をめとっているではないか。結婚するまでの間に、それをうかがわせる句が一つも見当たらないというのも、唯一郎らしい。実は上記の句がそれをうかがわせているのだろうが、それは言外の意である。
「氷柱」は「つらら」。 その次の「黄な雫」というのが、さあて困ってしまう。もしかしたら、月の光だろうか。うぅむ、月の光を 「黄色の雫」 と表現したのだということにしておこう。
氷柱が月の光をなめるという時分の薄暗い家の中 (「家ぬち」は、「家のうち」) で、「妻うごけり」という。あっさり読み飛ばすとなんということはないが、ちょっと深読みすると、ものすごくエロティックな句である。
さうした話の結末の草の実を身につけて来る
これも一見淡々としているが、実は大胆に艶っぽい描写。「そうした話」というのは、衣服に草の実がついてしまうという類の 「そうした話」なのだろうから。
はるばる野葡萄摘みの父子が水涸れわたる
野葡萄を摘みに行く親子が、秋の水の涸れた川を渡って行くという、なかなか牧歌的な風景。
この頃、それまでの唯一郎の句を彩っていたペシミスティックな情感が少し後退している。これは成熟とみるべきかなのか、過渡期と言うべきなのか、レビューを重ねて行くに連れてそれは見えてくるだろう。
本日はこれぎり。
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