「離却語言」 を巡る冒険
久し振りに『無門関』ネタで書いてみよう。第二十四則「離却語言」という公案である。登場するのは、風穴和尚という偉い坊さんだ。
風穴和尚とはニックネームのようなもので、正式には延沼禅師というらしい。中国は汝州南院の和尚で、風穴というところにおられたため、風穴延沼禅師とも呼ばれている。
この風穴和尚に、ある若い僧が「語黙は離微に渉る、如何んが不犯を通ぜん」と問うた。といっても、何を聞いたんだかすら、よくわからん。これって一体、どういう質問なの? というあたりから、解釈によっていろいろあって、とにかくうっとうしいのである。
前半部分を文字通り行儀良く解釈しようとすれば、「語」は「離」に、「黙」は「微」に対応する。ここのところをおさえておいて、私なりに超訳してしまうと、こんなようなことになる。
言葉にして語ってしまうと、その言葉にとらわれて真実の悟りから離れてしまい、さりとて黙してしまっては、なおさらビミョー過ぎてわけわかりません。
さて後半。「不犯」って何だ? この言葉は「ふぼん」と読み、普通は女性と交わらないという意味で使われる。「上杉謙信は一生不犯だった」とかいう使い方が一般的だ。Goo 辞書によると、「〔仏〕戒律を破らないこと。特に、邪淫戒を保って異性と交わらないこと」 とある。
ただこの場合は、「悟り」 というような意味で使われているのだろう。五感とそれに準じた第六感(『般若心経』 に出てくる「色声香味触法」)では伺われない真理ということを、「不犯」という肉体的な要素とは正反対の言葉を借りて象徴的に表現しているのだろう。つまり質問の意味は、こんなようなことだ。
言葉にしてしまうとしっくりこないし、黙っているとますますよくわからない真理というものに、どうしたら通じることができるんでしょう?
この問いに答えて、風穴和尚はすかさず杜甫の詩をちょっともじって、こう応えた。
長(とこしな)えに憶(おも)う。江南三月の裏、鷓鴣(しゃこ) く處(ところ)百花香(かんば)し
(超訳) わしゃ、いっつも思うんじゃが、江南も三月頃になると、鳥はさえずるし、いろんな花が咲いて、いい香りがするんじゃわいのう
ちっともまともな答えになってないのだが、禅問答というのは大抵こんなものなのである。
このやりとりを評して無門和尚は、「風穴和尚って、まさに稲妻のごときすばらしい解答を示したもんじゃないか」と褒めている。さらに、こんなチンケな質問をするようなやつは、その舌をちょん切ってしまえばよかったのにと、過激なことまで言っている。
舌はちょん切られないまでも、第三則の「倶胝竪指」という公案では、どんな問いにも指を一本立てて見せることで応えたという倶胝和尚が、生半可に真似した小坊主のその指を一刀両断に切ってしまったという。禅宗とは怖いものである。
ただ、指を切られた小坊主に恨めしげに睨まれた倶胝和尚が、すかさず指を一本立てて見せたら、その小坊主は忽然として悟ってしまったというのだから、怖いけれどすごいものである。
まあ、悟りというのは、生半可に語ってもしっくりこないし、黙っていればなおさらわからんものではあるけれど、江南三月の風景のように「行ってみれば、その素晴らしさがわかるよ」ということのようなのだ。
そしてそれは、「行ってみなけりゃわからん」 というようなものではなく、「既に来ているのだ」ということに気付きさえすればいいということのようで、修行とはそれに気付くためのもののようなのだ。
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コメント
「無門関」という文字で思わず反応しました。
かつて思索した人間です。
公案は回答できたことがありません。
が、群魂について公案を通じて身に沁みた
ことはあります。
私は貴兄の文章力に魅惑されておるので、
今後ともそのペースで文章を書き続けてくださる
ことを切望いたします。
これからもよろしく。
投稿: jersey | 2009年4月 8日 00:34
jersey さん:
励ましのお言葉、ありがとうございます。
>公案は回答できたことがありません。
>が、群魂について公案を通じて身に沁みた
>ことはあります。
「群魂」 って、"group soul" とかいうやつですかね。
私、心霊関係のことはあまりよくわからないのですが、公案がそれに関する解答になっていることもあるんでしょうかね。
投稿: tak | 2009年4月 8日 11:09