『唯一郎句集』 レビュー #24
今日は午後に車で酒田に向かう。出発を前にして、新しいネタ探しをするのも疲れるから、日曜でもあるし、『唯一郎句集』 のレビューをしてみたい。
今回は「病中吟」と題された 4句である。何の病気かはわからないが、春先に具合が悪くて寝込んだ時の句のようだ。
唯一郎という俳人は、写真でみてもほっそりとして、やや華奢な体のつくりである。少なくともあまり頑丈そうには見えない。肺病病みの文士というほどのステロタイプのイメージではないが、いかにも大正末期の文学青年という感じがする。
私も、今は頑丈そのものだが、子どもの頃は華奢でひ弱だった。よく腹をこわして小学校を休んだ。血筋なのかもしれない。しかし血筋なんて恐れることもない。中学校に入ったらとたんに丈夫になって、無欠席になった。高校に入ってからはサボりを覚えたが、病気で休んだことはない。
肉体的に受け継いだ血筋は、小学校で卒業したが、文芸的才能の方はどうなのだろう。和歌ログなんてことを続けてはいるが、もう少し身を入れて作歌しないと、祖父に恥ずかしいかもしれない。
話が横道にそれかかった。本筋に戻して、さっそくレビューに入ろう。
發汗の春の夜明けはくらしさびしき此の人と人とのつながり
春の夜明けに寝床の中で発汗に体をぐっしょりと濡らしながら目が覚める。苦しい思いは自分だけで、家人は安らかに眠っている。
朦朧とした中で、自分一人と向き合っている。くらしとは、人と人とのつながりとは、この程度のさびしいものなのか。熱のせいでこんな愚にもつかないことを思うのか。それとも、人生とは本当にさびしいものなのか。
春の夜明け特有の、しかも熱に浮かされたための気の迷いであればいいのだが、心の底では、春の夜明けに限らず、また熱のある時に限らず、そんな漠然とした思いを抱いているようにも思える。
心の底の思いが、急に表面に浮かんできたような気がする。だからと言って、ことさらに悲しいわけでもない。ただ熱に耐えるように、淡々と淋しさに耐える自分がいる。
じつとして母の炊事の音聞いている我がむらぎもも病める如し
布団の中で熱の苦しさに耐えていると、母の炊事の音が聞こえる。その音にじっとして聞き入っている。聞き入る以外に何もできない。
「むらぎも」 とは 「群肝」 で、群がった肝、つまり五臓六腑のこと。体の中の五臓六腑が病んでいるような気がする。せっかく作ってくれた朝食も、食欲が進まず、食べられないだろう。心苦しい。
悲しいとかいう主観的な気持ちではない。ただ 「病める如し」 という客観的心境である。それだから、ただじっとして聞いているほかない。
鎮痛のくすりに目をつむるあはれや春の夜風
鎮痛剤を処方され、しばし意識が遠のく。眠気が襲う。目をつむっていると春の夜風の音が急に大きくなったように聞こえる。
春の夜風が吹いているだけなのだが、ぼんやりとした意識の中で、それはとても不思議な音になる。日常的な意識から日常的な感性をカットすると、残るのは唯一郎特有のややペシミスティックな部分。単なる夜風の音がかなり哀れに聞こえる。
いちめん舞ひ上る屋根の陽炎にどうしたのか涙が出て来る
二日目の朝になってもまだ病が癒えず、寝床に横たわっている。窓の外に見えるのは、隣家の屋根。夜来の雨が春の日に暖められて、陽炎になっている。
外の世界は、春の日に照らされて明るい。しかし自分は病を得て寝ている。その自分の視界の中で、世界は頼りなげに揺れる。
世界はこんなにも明るいのに、どうしてこんなにも頼りなくはかなげなのか。不思議だ。悲しくもないのに涙が流れる。
大正末期から昭和初期の雰囲気が感じられる。日本は一見明るくもはかなげだった。本日はこれぎり。
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