『唯一郎句集』 レビュー #25
「病中吟」 と題されたかなりペシミスティックな 4句の後に、夏の光景の 3句が続く。健康を取り戻したようで、唯一郎特有の新感覚派的なシュールレアリズムも復活した。
旅に出るでもなく、特別の場面に遭遇するでもなく、目立った軋轢があるわけでもない。日常の中に小さな非日常が見出される。
世間一般の価値観とか意味付けとかを、何の疑いもなく受け入れる者には見えないものが、唯一郎の眼にはいつも見えていたのではないかと思う。当たり前以外のちょっとしたことは、ステロタイプな判断からは切り捨てられる。唯一郎の注目していたのは、その切り捨てられがちの、一見無意味な感慨だったのだろうと思う。
この一見無意味な現象の中に何を見出すのか。唯一郎の場合は、どちらかといえばペシミスティックなあわれさとか、哀しみのようなものだったようだ。ただ、そこに耽溺したわけではなく、むしろ客観的に表現するところが、シュールレアリスティックな味わいになっている。
レビューを始めよう。
鼈甲縁の眼鏡を折々は曇らして訪ね來る夏朝かな
「夏朝」というのを何と読むべきか。「夏朝や」で始まる俳句もあるから、ここは素直に「なつあさ」と読んでおこう。辞書の見出し語には見つけにくいが、そういう季語なのだろう。唯一郎は自由律の俳人なのに、伝統的な季語が好きなようで、それについては前にも触れた。
ただ唯一郎のユニークなのは、「夏朝」という季語を、まるで輪郭のある実体的なもののように歌っているところだ。擬人化された「夏朝」が訪ねてくるというのである。
さわやかな夏の朝ならいいが、時々は眼鏡を曇らせるほどの湿度で、訪ね来る。昔「ミスター・サマータイム」という歌があったが、これは「夏朝じいさん」かもしれない。
遠景の夏雲がゆらゆら飛んでゆく地を這ふ毛虫
唯一郎が得意とする、意表をつくフラッシュバック効果。遠景と近景、天と地、飛ぶものと這うものの圧倒的な対称。
現代の映画の手法としても、うまく使えば斬新だ。これで、自分の見ている世界というもののかなりの部分が、有機的なまでに表現されてしまう。
真青な鶏頭に眼をとめて居る羅物の腰の圓さ
色づく前の青い鶏頭を、身を屈めて見ている女。「羅物」は「うすもの」と読む。
色づく前の鶏頭と、薄い生地の着物を通して感じられる成熟した腰の丸さ。これもまた、唯一郎得意とするフラッシュバック効果である。
かなり視覚的な 3句。今日はこれぎり。
| 固定リンク
「唯一郎句集 レビュー」カテゴリの記事
- 『唯一郎句集』 レビュー 番外編1(2011.10.21)
- 『唯一郎句集』 レビュー まとめ(2010.04.25)
- 『唯一郎句集』 レビュー #123(2010.04.24)
- 『唯一郎句集』 レビュー #122(2010.04.18)
- 『唯一郎句集』 レビュー #121(2010.04.17)
コメント