『唯一郎句集』 レビュー #28
週末の恒例となった『唯一郎句集』レビューである。今回は冬の句が 2句、春から夏にかけての句が 2句の、合わせて 4句。
20歳は明らかに超えた頃の句だろうと思う。10代の頃の句とは、作風がかなり変わってきている。文人趣味が色濃くなっているような気がする。
わずかに 20歳を過ぎたばかりの青年で文人趣味というと、ちょっと変かもしれないが、唯一郎は 10代の頃からその片鱗はみせている。文芸趣味の中に身を浸しながら、どこか醒めたところから自分を眺めている。
ナルシシズムを色濃く感じさせながら、自己憐憫には陥らない。線が細いようでいて、実は案外図太いところもある。とりあえず、レビューをしよう。
寒夜さめたるありありと吹雪の中の一木を思ひて眠る
「寒夜さめたるあり」(「寒い夜に目の覚めたるものがある」 の意)と 「ありありと」の掛詞っぽい効果。
寒い夜に目が覚めたのは、もちろん唯一郎自身だが、なんだか突き放したような感覚だ。吹雪の中の一本の木に思いを馳せたのだが、その吹雪の中に立ちつくすのも、自分自身の投影だ。
朝なさなの冬山の光を享けてかそけくも生くか
「朝なさな」は、「朝な朝な」から変化したもので、多くの辞書で、副詞として認められている。ところが唯一郎はそれに「の」という助詞をつけて、名詞的に使っているところがおもしろい。
庄内は西側を海に面しているので、朝の光は山の後ろから射してくる。冬の間は大抵どんよりとした思い雲に覆われているが、それでも春が近付くと、雪の山が光を反射する。
その雲の背後からのわずかな光のように、「かそけくも生くか」というのである。ほとんど野心を抱いていない。ただひっそりと生きて行こうというのである。まるで生きることが重荷であるような人生。
理想主義者が青梅の種の白さを淋しがりくらす
「理想主義者」とは誰のことなのか、ずっと謎だと思っていたが、もしかしたら唯一郎自身のことを言っているのではないかという気がしてきた。
青梅の種は、決して白いものではないのだが、青い梅を割って種を露出させると、生々しい梅肉の中で白く見える。その白さを淋しがるのは、かなり老成した感性である。
老成してしまったのは、本当は心の底で理想主義に燃えていたからなのか。複雑な心情だ。
はつきりと行々子の巣が見える六月の朝空
「行々子」は「ギョウギョウシ」で、オオヨシキリの別称。今となっては、俳人の間でしか使われないんじゃなかろうか。
この句からは、木の枝の高いところにある巣が見えるようなイメージが喚起されるが、実はオオヨシキリは、葦原に生息する。葦原の上に 6月の朝の空が広がるのである。
庄内は 6月の半ばを過ぎてから梅雨に入るから、案外さわやかな空の下、葦原の中にオオヨシキリの巣がはっきりと見えるのだろう。
さわやかな空の下、「ギョウギョウシ」という名前の由来になった、ちょっと騒々しい鳴き声が聞こえる。不思議なフラッシュバック。
本日はこれぎり。
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