『唯一郎句集』 レビュー #35
『唯一郎句集』 の中で 「群像」 時代と題されたまとまりをレビューしているのだが、このあたりはなんだか、時系列が乱れてしまっているようだ。
昨日レビューした冬の 2句に続いて、晩秋を歌う 3句があり、しかも最後は彼の父の存命中の句のようなのである。
なにしろ、唯一郎の句は「作り捨て」みたいなもので、自分では句帳を持たない人だったから、周囲の者が句会などでよまれたものや、新聞・雑誌に載った作品を書き留めておかなければ、後世には残らなかった。実際、この句集に載った何倍もの数の句は、消えてしまっているというわけだ。
それだけに、時間軸がずれてしまうのも仕方のないことかもしれない。50年も経ってからレビューを試みる孫にとっては、ちょっと辛いところだが。
かざりなく落葉降る夜は我が病根に思ひいたる
晩秋である。落ち葉が「かざりなく降る」というのが素敵だ。ちらちらと舞い散るのではなく、無骨にただ落ちてくる。ぼそりぼそりと落ちてくる。
器用に世を渡るわけでもなく、ただぼそりぼそりと生きるように見える自分が重なる。それが病根だという。
水底の落葉ありありと見えて來て我心病めり
池の底に落ち葉が堆積していく。その様がありありと透き通って見える。
からりと乾いて朽ちていくのではなく、いつまでも姿を留めて堆積していく落ち葉が、自分の心の中の哀しみと重なる。
庄内では痛いということを「病める」という。私の祖母は「歯が痛い」というのを 「歯(ふぁ)、病める」と言っていた。「我が心病めり」というのは、心が痛いのである。
父喀血の夜のひややかなる菊花の影
唯一郎は、だいぶ前に父の死を読み込んだ句を作っている。ここで父の死の前の句が出てくると、読むものはかなり戸惑う。
父が亡くなったのは春だった。ここに現れた情景は秋である。とすると、亡くなる半年前のことだろうか。それとも、亡くなってから半年後に思い出して句をつくったのだろうか。
唯一郎句集を順に読んでいくと、時の流れというのが単に一筋の流れではなくなってしまう。それは錯綜した印象のようなものだ。我々の時間も、実はそんなようなものだ。
菊の花は晩秋の気に晒されて、ひややかである。その菊は、黄色ではなく、濃いピンクであったろう。それでもひややかなのである。
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コメント
ツララの太さ、『猿曳き』がやってくる風景、尽きない落ち葉、底まできれいに見通せる水質…。
『猿回し』は特にそうですが、母の実家へ訪れても、なかなか見られない光景となったと実感しました。ちなみに母の実家(の地域)では、その昔、定期的に馬市が開催されておりましたので、人の往来は顕著でした。(おらの生まれるずっと前ですけんど。)
最近は里山の整備というところに、政治的な道具としての側面を見るようになりましたが、唯一郎さんの句をtakさんのお手によって拝読し、しみじみ考え入った次第です。
投稿: 乙痴庵 | 2009年6月22日 09:28
乙痴庵 さん:
人間の記憶というものには、個人の直接体験による記憶以外に、先祖の記憶、人類的記憶みたいなものがあるような気がします。
それがたとえ、後からの学習による疑似体験であったとしても、まさにありありと浮かんでくるのは、不思議といえば不思議です。
投稿: tak | 2009年6月22日 21:49