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2009年7月11日

『唯一郎句集』 レビュー #40

あっという間にまたウィークエンド。『唯一郎句集』 のレビューである。ここのところ、なんとなく唯一郎のスランプの時期だったのではないかという気がしていた。

しかし、今回レビューのあたりから、スランプを脱してまた鋭い感覚が戻ってきたような案配である。

唯一郎が「朝日俳壇」に投稿を始め、全国の注目を集めていた頃のシュールレアリスティックなシャープさが、また光を発し始めているようだ。

レビューに入ろう。

人相の話をする悲しげな叔父の空ラ梅雨の一室

唯一郎の叔父って誰だろう? よくわからないが、人相の話をしていたらしい。悲しげに話していたというのだから、あまりオプティミスティックな方向の話ではなかったのだろう。愚痴のようなものだろうか。

しかし、外は空梅雨で、明るいからりとした陽気である。外の明るさと、家の中の一室の陰鬱さというコントラスト。

あえて「空ラ梅雨」と表記しているが、まだこ言葉があまり一般的ではなかったのだろうか。

不幸な父子が泳ぐかなしきは落日の一つの海月

夏の日本海は穏やかである。冬は荒波になるが、夏は日本列島が防風壁になっているようなものだから、凪いでいる時は鏡のように平らな海になる。

その穏やかな日本海をゆったりと泳ぐ「不幸な父子」とは、自分自身と自分の息子(私の伯父にあたる)だろう。端から見れば決して不幸ではないのだが、それでも「不幸な父子」と言ってしまうところが、唯一郎の悲しさである。

夕方の海である。凪の時だろう。日が沈む。日本海側の夕日は海に沈む。赤々と沈む。悲しいほどの赤い日に照らされて、さしもの凪いでいる海原にも、小波の影が刻まれる。

浮かびながら見上げると、頭の上に朧な半月がある。父と子の朧な悲しさを空に投影したような半月である。

黒献上の帯で行く若者よ高原の踊場のはやも秋草

酒田の近辺で「高原」というのは、鳥海山の中腹あたりのことだろうか。博多織の黒献上の帯を締めた若者が行くという。高級品の帯を締めているのだから、いいところのぼんぼんなのかもしれないし、あるいはまた、自らの姿を回想しているのかもしれない。

「高原の踊り場」という言い方が面白い。ジグザグに昇る道のちょっとした休憩場所になっているようなところか。 「はやも秋草」という結句がすごくいい感じだ。可憐な秋草が見えるような気がする。

白浴衣に黒献上の帯。高原のくっきりとした稜線。足下の秋草。映画を見るような感覚の句である。

今日はここまで。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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