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2009年7月20日

『唯一郎句集』 レビュー #43

今日で "「群像」 時代" の章に収められた句のレビューは終わり。次回からは "「海紅」時代" の章に入る。

前にも述べたが、「群像」というのがどういうものなのかは、まだわからない。講談社発行の今の文芸誌「群像でないのは明らかだが、それ以上は謎だ。心残りである。

俳句のできとしても、こう言っては何だが、他の章に収められているものと比べて、それほど冴えをみせているというほどではないような気がする。その分、なんだか取っつきやすいような印象はあるのだが。

そんななかで、今日取り上げる「群像」時代最後の 3句は、しみじみとして唯一郎の壮年期に移行する変わり目のような趣を感じさせる。ただ、彼は壮年期に入るに連れて俳句作りからはやや間をおくようになったようなので、俳句としてはその前の時期の方が輝きをみせているということもあるかもしれない。

では、レビューに入ろう。

靜かな夜はひそかに結氷の川底に思ひ廻らす

今の酒田では、いくら寒くても川面が凍るなどということはないが、昭和初期にはそんなことがあったのだろうか。

結氷の川底には、さぞ別世界の静けさがあるだろう。もしかして、唯一郎の棲みたかったのはそうした別世界の静寂の中だったのかもしれない。

正月の夜の吹雪に聞き入って居る小さな父子の顔

正月の頃は、酒田の地吹雪の最も激しい時期である。夜になれば、ヒュウヒュウとなる風の音が常に聞こえている。

この音が聞こえる間は、先のことは考えない。今夜暖かく眠ることだけを考える。大切なのは、今この時の暖かさなのだ。人間の営みは、吹雪の自然に比べれば悲しいほどに小さい。

吹雪の音に聞き入っている自分の子どもの顔が、ガラス戸にでも映っているのだろうか。ガラス戸の向こうは暗い。

馬曳きも馬も眼を閉ぢて吹雪かれて居たりけり

今どきは 「吹雪(ふぶき)」という名詞のみが日本語として定着しているような気がするが、元々は 「吹雪く」 という動詞からきたものだろう。だが、関東に来てからはこれを動詞として使う言い回しを聞くことは希だ。

庄内では 「吹雪く」 という動詞が今でも健在である(と思う)。さらに、「吹雪かれる」という受け身の使い方も珍しくない。庄内では「吹雪」という客観的な名詞よりも、「吹雪かれる」という身体的実感を伴う言葉が、今でも必要なのだ。

とくに強い吹雪の時は、目を開けていることさえできない。目を開けていてもどうせ地吹雪で少し先は見えないのだから、閉じる方がまだましなこともある。

馬曳きも馬も目を閉じているという風景は、地吹雪の中のぼうっとおぼろな映像である。凍える寒さという体感と、印象としての非現実性が隣り合う。

身体的実感の一瞬が、印象としては非現実的になるという庄内的世界が、唯一郎の中では重要なファクターだと思う。そのファクターは多分、私の中にもある。

本日はこれぎり。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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