『唯一郎句集』 レビュー #57
私の時は、夏が去りかけて秋になったような、さてまた夏が戻ったような、微妙な時分だが、『唯一郎句集』 の中の時はどんどん進んでいく。もうきのこ狩りの季節である。
稲は刈り取られ、きのこ狩りを楽しみ、落ち葉を浴び、そしてまた台風に脅かされる。句集の時の速さは、尋常ではない。
昨日の 2句はまだ素直でわかりやすい句だったが、今日の 4句はなかなか一筋縄ではいかない。大正末期から昭和初期にかけて、酒田という片田舎の青年がこんな思い切りのいい句を作り続けたのだから、周囲は驚いただろう。
レビューに入る。
女工ら茸狩の日が来て森の旭がぐんぐん上る
当初は、女工とは経営している印刷所の女工かとばかり思っていたが、ふと考え直すと、印刷所の工員は、インクまみれになって活字を拾う男が圧倒的に多いイメージである。もしかしたら近所の工場の女工かもしれない。
彼女らが休日に連れだってきのこ狩りに出かけるのだろう。庄内は山の方角から日が昇る。その日の昇る方角を目指して出かけるために集まって、華やかな声を上げている。
その華やかな声と昇る秋の太陽がマッチしている。今日の 4句の中では最もシンプルにわかりやすい句。
二人のたましいがやがては刈田から真直ぐな旭が上る
今日の最初の句はわかりやすいが、2句目からはもう、省略が効きすぎてわからなくなる。「二人のたましい」とは、一体なんのことなのか。
もしかしたら、結婚前の妻と自分のたましいということだろうか。昭和初期のことだから、恋愛に関してはこのぐらいの抑制した表現になってしまうのだろうか。
そうみると、刈田からまっすぐに朝日が昇るような、希望を抱いているように思われる。
夜更けて母を覚ます事の落葉を浴びて歸りしければ
これもよく読むと、なかなかエロチックな句なのかもしれない。23回目のレビューに、「さうした話の結末の草の実を身につけて来る」という句があるが、それと似た雰囲気だ。
逢い引きの後、夜中に帰宅して、母を起こしてしまうことを心配しているということなのだと思う。
「歸りしければ」は、本来なら 「帰りければ」が文法的に正しいのだろうが、破格の用法である。心の動揺を表わすに効果的かもしれない
鮒を食べ野分の日の母に近寄る明るき如し
「鮒を食べ」というのが何を象徴しているのかわからない、あるいは単に事実を述べているだけかもしれない。
一方、「野分の日の母」とは、台風の来た日の母なのだろうが、同時にあまり機嫌のよろしくない母ということでもあるのだろう。その母に、ことさらに明るく振る舞いながら近付こうとしている。
「明るき如し」も破格の用法である。「明るき者の如く」とかが本来なのだろうが、思い切って省略を効かせている。
この思い切りのよさは、言葉の裏に潜ませておきたい要素が、いろいろとあったからなのだろう。
本日はこれまで。
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