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2009年8月に作成された投稿

2009年8月31日

自民党、やっぱり壊れた

夕べは民主党の当選が 250議席を上回ったあたりから、連日の睡眠不足がたたってすっかり眠くなってしまい、テレビのスイッチを切ってベッドに入ってしまった。

で、今朝ラジオを聞けば、民主党は 308議席で、自民党が 119議席だという。なんだ、言われていたほどの地滑り的結果じゃない。

選挙直前までは、朝日新聞が「民主党 320議席獲得も」なんて、派手な見出しをつけていたが、そこまではいかなかった。アナウンス効果が働いてしまったのだろう。私だって 27日の記事で「民主党への追い風強すぎ」と、やや不安な気持ちになっていたのだから。

とはいいながら、民主党圧勝という結果には変わりない。やっぱり自民党はぶっ壊れていたのだ。そんなことはずっと前からわかっていたことで、私は 一昨年夏の参院選後に "近頃「いい目」を見てなかった保守王国" という記事を書き、そのダメ押しとして昨年春に " 既にぶっこわれている自民党" という記事を書いた。

昨年末にはさらにそのダメ押しとして、"やっぱり「既にぶっ壊れてた」 自民党" という記事まで書いている。だって、もう人がいないじゃないか。小泉さんの「自民党をぶっ壊す」というアジテーションは、まるで 三年殺しのように、後になって確実に効いてしまったようなのだ。

戦後のある時期、とくに高度成長期においては、自民党政権はとても有効に機能した。ところが、ある時代に最適化されすぎたシステムは、時代が変わってしまうと役に立たなくなる。とくに、あの高度成長期というのはなかなか特殊な時代だったのだから、その特殊な時代に最適化されていた自民党は、もうぶっ壊れても仕方ないのだ。

保守王国といわれた田舎では、最近では農家は散々痛めつけられるだけと思っていて、恨み節しかないし、最大の自民党支持層だった土建屋だって、いくら公共事業をもって来られても、大きな利益は中央のゼネコンに持って行かれるだけと気付いてしまった。もう、自民党に義理を果たす必要なんてなくなってしまったのである。

思えば団塊の世代以後の多くの有権者は、物心ついてからというもの、自民党には 「よくやってくれている」 なんていう思いを抱いたことなんてついぞないのである。ただ、他に受け皿となるべき政党が見当たらないので、何らかの組織票に連なる連中がほとんど「義理」で自民党に投票してきただけだ。

組織票に連ならない浮動票は棄権するか、「批判票」として、その時々の最もそれらしい野党に投票してきたにすぎない。ところが今回は、義理で投票してきたじいさん連中が、ついに自民党に愛想を尽かし、現実的になった政権交代を期待して、民主党に一票を投じる層が分厚くなった。

一度政権交代のムードが強まってしまうと、生臭い連中の中では早めにコネを強くしておきたいという意志が働いて、民主党詣でが目立つようになる。そうなるとますます、政権交代に向けた空気は濃くなるばかりになっていた。

今回の結果はそういうことだ。だから民主党に入った票は、これまでの「批判票」よりは大きな意味をもつ。これまでは自民党が調子に乗りすぎるたびに「お灸を据える」なんて称して批判票が増加したにすぎないが、今回は「お灸」なんて生やさしいものでは済まないというわけだ。

これまで何度となくお灸を据えられても、すぐにその熱さを忘れていた自民党に、そろそろ焼きが回ってしまったということなのだろう。願わくは、自民党にはしっかりと健全野党になってもらいたいものだが、やったことのない役割をはたしてうまく果たせるかなあ。

それは、与党をやったことのない民主党が、果たしてうまくやっていけるものかどうか、疑問なのとおなじことで、しばらくはすったもんだが続くんだろう。どうせすったもんだになるなら、300議席超の安定多数を確保したのは幸いだったかもしれない。

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2009年8月30日

『唯一郎句集』 レビュー #57

私の時は、夏が去りかけて秋になったような、さてまた夏が戻ったような、微妙な時分だが、『唯一郎句集』 の中の時はどんどん進んでいく。もうきのこ狩りの季節である。

稲は刈り取られ、きのこ狩りを楽しみ、落ち葉を浴び、そしてまた台風に脅かされる。句集の時の速さは、尋常ではない。

昨日の 2句はまだ素直でわかりやすい句だったが、今日の 4句はなかなか一筋縄ではいかない。大正末期から昭和初期にかけて、酒田という片田舎の青年がこんな思い切りのいい句を作り続けたのだから、周囲は驚いただろう。

レビューに入る。

女工ら茸狩の日が来て森の旭がぐんぐん上る

当初は、女工とは経営している印刷所の女工かとばかり思っていたが、ふと考え直すと、印刷所の工員は、インクまみれになって活字を拾う男が圧倒的に多いイメージである。もしかしたら近所の工場の女工かもしれない。

彼女らが休日に連れだってきのこ狩りに出かけるのだろう。庄内は山の方角から日が昇る。その日の昇る方角を目指して出かけるために集まって、華やかな声を上げている。

その華やかな声と昇る秋の太陽がマッチしている。今日の 4句の中では最もシンプルにわかりやすい句。

二人のたましいがやがては刈田から真直ぐな旭が上る

今日の最初の句はわかりやすいが、2句目からはもう、省略が効きすぎてわからなくなる。「二人のたましい」とは、一体なんのことなのか。

もしかしたら、結婚前の妻と自分のたましいということだろうか。昭和初期のことだから、恋愛に関してはこのぐらいの抑制した表現になってしまうのだろうか。

そうみると、刈田からまっすぐに朝日が昇るような、希望を抱いているように思われる。

夜更けて母を覚ます事の落葉を浴びて歸りしければ

これもよく読むと、なかなかエロチックな句なのかもしれない。23回目のレビューに、「さうした話の結末の草の実を身につけて来る」という句があるが、それと似た雰囲気だ。

逢い引きの後、夜中に帰宅して、母を起こしてしまうことを心配しているということなのだと思う。

「歸りしければ」は、本来なら 「帰りければ」が文法的に正しいのだろうが、破格の用法である。心の動揺を表わすに効果的かもしれない

鮒を食べ野分の日の母に近寄る明るき如し

「鮒を食べ」というのが何を象徴しているのかわからない、あるいは単に事実を述べているだけかもしれない。

一方、「野分の日の母」とは、台風の来た日の母なのだろうが、同時にあまり機嫌のよろしくない母ということでもあるのだろう。その母に、ことさらに明るく振る舞いながら近付こうとしている。

「明るき如し」も破格の用法である。「明るき者の如く」とかが本来なのだろうが、思い切って省略を効かせている。

この思い切りのよさは、言葉の裏に潜ませておきたい要素が、いろいろとあったからなのだろう。

本日はこれまで。

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2009年8月29日

『唯一郎句集』 レビュー #56

あっという間に週末になってしまった。夏の終わりから秋にかけては、時の流れが速い。年の瀬は追い立てられるような時の流れだが、今の時分は流れていく時である。

『唯一郎句集』のレビューも、今回で 55回目である。ページ数からいうと、ようやく半分を越えようとしているところだ。

今日のレビューは 2句である。鮭網を詠んだものだ。昔は酒田でも、秋になれば川を鮭が遡上したのだろう。鮭は塩にして保存食にする。冬の庄内の、貴重な栄養源だ。

さっそくレビューである

夕陽の中に人がぼやけて鮭網の後の河水

これはわかりやすい。鮭網漁が終わり、夕陽の中を人が帰っていく情景だ。ただ、そうした牧歌的な情景に取り残された、暗い河の水に、唯一郎はちゃんと注目する。

ちょっとした対比である。

鮭網の歸りは重たく酔ひ野菊など投げつける

鮭網漁が終わると、いつもは寡黙で物静かな唯一郎も、少しは気分が高揚していつもより酒を飲んでしまうのだろう。

家路を辿りながら、道端に咲く野菊などを抜いて、川面に向って投げつける。そうしたちょっと野蛮な振る舞いをする自分を、酔ってはいながら物珍しく客観的にみつめる自分がいる。

本日はこれぎり。

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2009年8月28日

アップル信者の気持ちがわかる

もう、本当に忙しい日が続いて、危うく今日の更新を忘れてしまうところだった。夜の 9時半を過ぎてパソコンに向ったが、さて、ネタが思いつかない。こんな日もある。

で、ふと気付いたら、iPhone を買って使い始めてから、今日でちょうど 2週間目になるのだった。今日はこのネタで行こう。

このネタで書こうとすると、どうしても一昨日会った M 氏に濡れ衣をかけられたことを報告しなければならない。彼はのっけから 「ウソを書いちゃいけないよ」 なんて言いだした。何がウソなのかと思ったら、私の 2週間前の記事である。それまでのケータイを紛失したので、思い切って iPhone を買ってしまったというものだ。

「あれは、ケータイをなくしたから iPhone を買ったんじゃなくて、iPhone を買う口実にするために、ケータイをなくしたということにしちゃったんでしょ」と言うのである。「だって、あなたみたいな仕事をしていて、そんなに簡単にケータイをなくすわけないじゃん」

いや、私は私自身の名誉にかけて言うのだが、あの記事は断じてウソじゃない。本当になくしてしまったのである。ちょっとおかしな話になっているが、ケータイをなくしたことが名誉というわけでは勿論なくて、ウソを書いたわけじゃないというのが名誉なので、そのあたりは誤解のないようにお願いしたいのだが。

本当になくしてしまったからこそ、連絡先などのデータが移行できなくて、まだ会う人ごとに電話番号を確認しまくって再入力に必死になっているのである。なくしたのがウソだったら、こんな苦労はしなくて済むので、M さん、誤解は解いておいてください。

M 氏がこんなことを言い出すのは、やはり iPhone の魅力というのに薄々感づかれているからだろう。ウソを言ってでも iPhone に替えたいということがあり得ると思っておられるわけだ。

確かに 2週間 iPhone を使い続けてしみじみとわかってきたのは、アップル信者になるメンタリティである。アップルのデザインは、どうも心の琴線に触れてしまうところがあるのだ。この魅力に触れてしまったら、細かい欠点はもう、なんだって許しちゃうという感じになってしまうのである。

例えば、2週間前の記事でも触れたことなのだが、フツーのケータイとして考えれば、iPhone はむしろ使いづらい。日本のドメスティックなケータイは、通話、メールに関してはもう、痒いところに手が届くというほどの進化を遂げてしまっているが、iPhone のインターフェイスはそこまで行っていない。というか、向いている方向が違うのだが。

iPhone に慣れようとしてちょこちょこと触っているうちに、つい用事もないのに相手の電話番号をタップしてしまい、意図せずに発信してしまったということが 3~4回ある。タップしたというよりは、つい何気なしに指先で触れてしまったという方が正しいのだが、それだけで電話がかかってしまうのだ。

これは本当に注意しなければならない。あわてて相手が出る前に電話を切っても、すぐに 「電話もらったみたいだけど、何か用ですか?」 なんてコールバックされてくる。「い、いや、買ったばかりの iPhone に慣れなくて、間違えて発信しちゃった。ゴメン」 なんて、謝りまくりである。

それから、今や当たり前になっているワンセグがみられない。iPhone は根がアメリカ人だから、国内仕様であるワンセグ機能は搭載していない。まあ、私はテレビがなくても全然困らない人だからそれでもいいのだが。

そして細かいことだが、なんと iPhone はストラップを付けるホールがない。だからソフトバンクの販売店がサービスで付けてくれた白い犬のお父さんのストラップは、無駄になっているのである。

さらに一番困るのは、バッテリーの消費が激しいことだ。なにしろケータイというよりはコンピュータだから、電力消費が大きい。そうでなくても、いろいろ楽しくて役に立つ機能が付いているので、電車に乗っているときなど、ついつい触ってしまう。

パケット定額だから、気軽にネットにつなぐ。パケット定額をフルに使いこなさなければ iPhone ユーザーである意味がない。当然にもバッテリーはどんどん消費される。それでいつも充電していなければならない。

こうした諸々の不都合があっても、それには目をつむりたくなってしまう。それほど iPhone は可愛いのである。もはや他のケータイには戻れない。こればかりは、理屈ではなく感覚の世界になってしまっている。

今や、5人家族の我家では、2人の娘が Mac ユーザーになった。そして、全員が iPod ユーザーである。この全員が iPod ユーザーというのは、私と長女が iPhone ユーザーで、次女が iPod Touch ユーザーであることを含んでいる。我家におけるアップル浸透率は、かなり高くなってしまった。

私なんか、娘の Mac をちょっと触らせてもらってから自分の Windows マシンに向うと、そのインターフェイスのダサダサ加減が目について、なんだかうら悲しい気分になってしまう。このあたりの感覚が、アップル信者の増える根本的な要因なんだと思う。

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2009年8月27日

民主党への追い風が強すぎて

大方のニュースでは、今度の総選挙は民主党の圧勝で、300議席は間違いなさそうという見通しである。

それどころか朝日新聞によると、「衆院の再議決に必要な 3分の2の 320議席を得る可能性」まであるんだそうだ。でも、こんなに圧勝してしまったら、選挙後がつまらなくなりそうだ。

「衆院の再議決に必要な 3分の2の 320議席を得る可能性」といっても、参議院はもう既に民主党が第一党なんだから、よほどしくじらなければ 「ねじれ状態」にはならないだろう。だから、別に民主党に 320議席以上やる必要はない。

それに、民主党が安定与党になってしまうと、総選挙後の「政界再編」がなくなってしまう。民主党がギリギリギリギリの勝利だったら、なんだかんだといろいろな思惑が働いて、政界再編の動きが生じ、今のわかりにくい状況がシャッフルされてすっきりわかりやすい状態になってくれると期待していたのに、それもおじゃんである。

まったくもう、それじゃつまらなすぎるじゃないか。そんなことになったら、民主党がいかにチョンボしようが、問題が起きようが、ほかから突っつかれようが、今回の麻生政権みたいに任期ギリギリまで粘ってしまうことになるのが見え見えである。

近頃、天気といい、選挙といい、どうしてこんなに極端から極端に振れたがるのだろう。こうなったら、民主党が極端にも極端を重ねた形で一人勝ちしてくれる方がいいかもしれない。そうすればきっと、そのうち内部分裂を起こし、それに呼応する形で自民党が分裂して再編成が促進されるかもしれない。

民主党の実質的な親分はあの小沢さんだから、あり得ないことじゃない。いや、それどころか、きっとやってくれるだろう。そうなるためには、確かに 単独で 330議席以上取ってもらう方がいい。そうすれば、きっと何かある。期待して待とう。

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2009年8月26日

コピー機のパフォーマンスチャージ

業務用コピー機をオフィスに導入すると、普通は機械購入に伴う支払いのほかに、パフォーマンスチャージというものが発生する。

コピー 1枚当たり 7円とか 8円とかいう料金である。案外知らない人も多いのだが、あれって、コピーする枚数に正比例して料金が発生しているのだ。

私はこれがずっと腑に落ちなかった。コピー機はローンとはいえ、ちゃんと買い取っているのである。自分の会社で買い取った機械を使っているのに、レンタルじゃあるまいし、なんでまた、1枚コピーするたびに、例えば 7円とかを払わなきゃいけないのだ。1ヶ月に 1,500枚コピーすると、10,500円になる。年間だと 126,000円になる。

これだったら、同じビルの 1階とか、筋向かいにコンビニがあれば、そこでコピーすればいい。1枚のコピーに 10円かかったとしても、高いリース料を払わなくていいだけ、ずっと得ではないか。まあ、コピーの度ごとにコンビニに行くというのも、面倒ではあるが。

近頃、このあたりのことをちょっとだけ勉強してみてわかったのは、あのパフォーマンスチャージというのは、コピー代ではなく、保守点検料として支払っているもののようなのである。コピー枚数が多ければ多いほど物理的な動きが大きいため、トラブル発生の確率も高いというわけで、枚数に正比例する形でチャージされているということなのだ。

しかし、これっておかしいと思わないか? 中にはちょっと紙詰まりしたとか、読み取り面が汚れてコピーに線が入るようになったとかで保守要員を呼びつけるオフィスもあるが、その程度の小さなトラブルなら、オフィス内にちょっと慣れたやつがいれば簡単に解決できる。本当に面倒なトラブルが発生するなんて、普通は年に 1度あるかどうかだ。

だったら、保守点検契約を結ばないで完全に自前で運用すれば、パフォーマンスチャージは発生しないわけなのだが、それだと、運悪く大きなトラブルが発生した場合にスポットで修理してもらった際の請求が、めちゃくちゃ高いものにつくらしい。

要するに、あのパフォーマンスチャージは保険みたいなものと考える方がいいようなのだ。コピーする頻度が高いほどトラブル発生の確率が高いから、保険料に相当するパフォーマンスチャージも高くなるような仕組みになっているのだ。

だが、保守点検要員に来てもらうほどのトラブルが発生する確率は、単にコピー枚数だけで左右されるものではない。前述のように、オフィス内にハードに詳しいやつがいれば、小さなトラブルなら自前で解決できる。

そんな事情があるから、パフォーマンスチャージというのは、交渉次第でかなり安くなる。もしかして、あなたのオフィスでずいぶん高いチャージを払っているようなら、一度交渉してみるといい。かなりな経費削減になる。

自動車保険だって、事故を起こさなければ割引率が大きくなるのだから、そのくらいの交渉はして当たり前である。もっとも、コピー機の代理店としては、ちょっとした紙詰まり程度でも呼び出してくれる方が、いかにも保守点検してあげているようで、高いパフォーマンスチャージの説得材料になるようなのだが。

さらに、あなたのオフィスが小規模オフィスで、コピーの枚数なんて 1ヶ月に 500枚程度なんてことだったら、大げさな業務用コピー機なんていらない。家庭用に毛の生えたようなスモールオフィス用の複合機で十分なことが多い。

これだと、せいぜい 5万円台で購入できて、保守契約なんていらない。何かトラブルがあったら、販売店に持ち込めばいい。保証期間内だったら、無料で修理してもらえる。

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2009年8月25日

民主党には公選法を変えてもらいたい

私のサイトの "選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい" というページへのアクセスが急増している。23日の日曜日なんて、1500近いアクセスがあった。

私のページに来てくれた人が、日本の公職選挙法って、馬鹿馬鹿しいんじゃないの? と認識してくれるだけで、まずはありがたい。

日本の選挙の投票率の低さを嘆く声があるが、こんなにも馬鹿馬鹿しい公職選挙法の上に成立している選挙だもの、投票するのがあほらしくなるのも当たり前というものである。それでも強いて投票するのは、組織票というもののなかに連なっている人か、個人として何らかの信念をもつ人かのどちらかしかない。

本来なら、フツーの人が当たり前に投票してこそ民主主義というものなのだろうが、残念ながら、今の日本ではそうした「当たり前」が実現されていない。

ところが、今回は投票率が上がりそうである。本格的な政権交代の実現が確実とみられているだけに、その歴史的イベントに自分も参加してみたいと思う人が増えるのは、これまた当然だろう。阪神が優勝目前になると、何十年も前から阪神ファンだったみたいな顔をする者が増えるのと同じである。勝ち馬に乗るのは気分のいいものだから。

民主党政権になったら、この馬鹿馬鹿しい公職選挙法を根本的なところから改正してもらいたいと、私は思っている。何しろ、今の公選法というのは、古い体質の政党が政権の座にあり続けるための防護壁みたいなものだ。ここから変えてもらわないと、政治なんて変わらない。

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2009年8月24日

政見放送を聞いていて思ったこと

私はラジオ派なので、テレビの政見放送というのは全然見ないが、ラジオから聞こえてくるのを聞くともなしに聞いている。

画像での演出がない音声(つまり、候補者のしゃべり)だけで聞いていると、この国の政治家たちの言葉による説得力のなさがよくわかって、ちょっともの悲しい気持ちになる。

とくに政党ベースの政見放送を聞くと、自民党はじいさんの素人芝居、民主党は学芸会みたいなできで、もう少しなんとかならんものかという気がする。たまにテレビの前を通り過ぎると、自民党の CM では、麻生さんの自分でしゃべりながら自分で小首をかしげる悪い癖が直っていないので、いかにも自信なげに見えるし。

ところで、今回の選挙は民主党の圧勝が既定事実みたいに語られていて、民主党は政権交代を前提にしているとしか思えないものの言い方をしている。しかし、本当に「民主党の圧勝」が実現するのだろうか。私はまだ少し懐疑的だ。

自民党は、いかに惨敗を防ぐかに戦略をシフトしているようにみえる。少なくとも保守の固定票だけは失わないために、「国を守る」というテーマを全面に押し出している。これさえ言っておけば、「民主党政権になったら、あの日教組に頭が上がらなくなるだろうなあ」という危機感が、保守層を辛うじてつなぎ止めるだろう。それは確かにある。

政権交代待望論者の私でも、民主党と日教組のつながりは、ちょっとやばいかなあと思う。私は戦後民主主義教育の、一番素敵だった頃の空気を吸って育った世代だが、一部なんだろうけれど、伝え聞く日教組の跳ね返りぶりは、かなりみっともないと思ってしまうのだ。

でもまあ、私の政権交代待望論は変わらないから、別にいいのである。私はなにも、民主党にずっと政権の座にいてほしいとも思っていないから、やばかったらすぐに次の政権交代を望むだけだ。要するに必要なのは、政権交代が当たり前にできるシステムである。これまでは、それがなかった。

と、こういうと「政権交代が目的みたいな言い方はおかしい」なんていう的はずれな批判が出てくるので疲れる。私は「政権交代のできる実効的なシステム」を、「必要条件」と言っているのであって、「十分条件」とは言っていない。こんな当たり前のことで低次元な議論をしたくないので、そのあたりはよろしく。

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2009年8月23日

『唯一郎句集』 レビュー #55

昨日はたった 1句のみのレビューだったが、今日は一転して 4句もある。しかもわかりやすいようにみえて、実はちょっと難しいところもある句なので、難儀である。

文字通りの単純なわかりやすさというのは、実はその奥の何かを隠すための、隠れ蓑だったりすることもある。

今回の 4句は、そんな感じのする句である。それだけに、何となく一筋縄ではいかないような気がする。さらりと流してしまっては、唯一郎の術中にはまることになるのかと用心しなければならない。しかし、案外さらりと流す方がいいのかもしれないなどと、さらにまた余計なことまで考える。

とりあえず始めてみよう。

女教師茸汁を吸ひながら様々な案山子など思ひ出して

女教師といえば、唯一郎の初期の頃の作品に 「醜い女教師の朝寝よ枕辺の団扇よ」というのがある。そしてその次に「黒い襟巻の伯母が鰊の煙の中にて叫び」という句がある (参照)。

もしかしたら、この女教師は唯一郎の伯母と同一人物で、身近に暮らしていたのかもしれない。当時のことだから、女教師になれるのはそれなりの家柄の女性だったのだろう。そして唯一郎は、この人があまり好きじゃなかったのではないかと思う。

困ってしまうのは、どうしてここに「様々な案山子」が出てくるのかということだ。この頃の唯一郎はシュールレアリズム的な感覚がものすごく強いので、読む方はあれこれ余計なことを想像してしまう。

女教師がとろみの強い茸汁を、ずずっと音を立てて吸う。そして「様々の案山子」。なんとなく通じてくるイメージがあるが、それを具体的には書き表せない。レビューしにくい句である。

案山子が一列に見えてはおかしいこともある俺の家で

当時は唯一郎の自宅兼印刷工場から、田んぼが見渡せたのだろう。彼岸が過ぎて稲刈りの季節である。案山子がずらりと並んでいる。

前の句の女教師が思い出したのは、このずらりと並んだ案山子なのだろうが、おそらくその背後に、もっと別なものをみている。世のしがらみを背負った別のものである。

しがらみを背負ったものが、一列に並んで見える。それはおかしいと唯一郎は思う。しがらみは様々に見えても、その奥に共通した不条理がある。

女が朝に歩いて小鳥網にからまつてから日が出で

ここに出てくる 「女」も、伯母であり、女教師である人物かもしれない。この人物がなぜか、夜明け前に畦道を歩く。

薄明の中で、霞網にからまった雀がもがいている。その横を女が歩く。無表情に歩く。そうこうするうちに、東の山から日が昇り、世界が明るくなる。

不思議なイメージの句である。

片仮名の手紙に野菊など描いて其日は安心で

手紙を書いてそれに野菊の絵を添える。今でいう絵手紙みたいなものだ。

その手紙は、カタカナで書いた。どうしてカタカナなのだろうか。まず考えられるのは、子ども宛の手紙だからではないかということだ。近代の子どもだから、活字で育っていて、流麗に続けた変体仮名は読めない。

もしかしたらこの手紙を書いたのは、唯一郎ではなく、女教師なのかもしれない。教え子宛に絵手紙をしたためて、安心した気分になったということなのか。

あるいは、唯一郎がこの女教師である伯母宛にカタカナの手紙を書いたのか。敢えてカタカナにしたのは、本心を隠すためか。それはなんとも言えない。

本日はこれぎり。

 

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2009年8月22日

『唯一郎句集』 レビュー #54

ウチのサイトは休日のアクセスが急減する。そこで最近の週末は、超地味ネタの『唯一郎句集』のレビューをしている。

ところが今週は缶詰め出張をしていた関係で、水曜日まで句集レビューをしていた。そしてまた週末なので、7日のうち 5日が 句集レビューというスペシャル・ウィークである。

前回まではちょうど今時分の季節の句だったが、今回は少し暦が進んでしまって、秋の彼岸の頃の句である。しかも、今日はたった 1句である。1ページに 1句しか載っていないので、そういうことにする。

これまでは、1ページに 1句だと、となりのページの 2~3句と一緒にしてレビューしてきたが、今回はとなりのページに 4句も載っているので、合わせて 5句になる。それではちょっと疲れる。

前回のレビューに加えておけばよかったようなものだが、前回は出張前の予定稿を書きためた関係で、次のページのことまで気にしていられなかった。それで、今日はたった 1句のレビューである。

彼岸花を剪り静かに伏せて行きしはたれぞ

夏が過ぎ、彼岸花の咲く頃の句だ。なかなか印象的な作品である。とりあえず「剪り」は「きり」と読むことを確認しておこう。

夏の陽気な花が咲き終わって地上が静かになりかけたときに、その間隙を縫って、彼岸花はが妖艶なまでの色の花を咲かせる。それがとても目立つ。彼岸の頃に咲くだけに、死者の思い出を蘇らせる。

そうした彼岸花を正視するに耐えない誰かがいたのだろう。花だけを剪り、根元に静かに伏せて行った、その気持ちを唯一郎はとてもよくわかっている。

本日は本当にこれのみ。

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2009年8月21日

「電車内での化粧」に関する「良識の落とし穴」

良識というのはあった方がいいものだけれど、ありすぎると、なんとなくうっとうしくなる。世の中の「過度に良識ある大人」の方々には、ちょっと違和感を覚えるところがある。

例えば、「電車内での化粧」に対する反応である。「我こそは良識の固まり」と思っているような方々は、あれを目の敵にする。

彼らは口を極めて電車内での化粧を罵倒する。「みっともない」と罵倒しながら、心の中ではほとんど「悪いこと」と思っているのである。彼らにとっては、ほとんどの「みっともない」は「悪」の一部と位置づけられるようなのだ。

電車内での化粧が「悪」であるなら、化粧をしないことが「善」であるかといえば、そういうわけじゃない。それは単に「フツーのこと」である。良識派としては「善」を為したいと思う限り、単に「フツー」のままではいられない。

「フツー」以上のことをして「善人」の領域に収まるためには、電車内での化粧を非難しまくるほかない。そこで初めて彼らは「善」を為したような気になる。だがこれって、もしかしたら「善の奴隷」なのかもしれないと、私は疑う。

私自身は電車内での化粧をことさら「悪いこと」とは思わないが、「みっともない」とは思う。とくに化粧の終盤で鼻毛のチェックだかなんだかしらないが、手鏡をのぞき込みながら鼻の下を思い切り伸ばしてものすごい形相をされたりすると、もう違和感を通り越して「お笑い」か「ホラー」になってしまう。

私は「善悪」と「マナー」はある程度区別して考える方がいいと思っている。「悪」は非難されてしかるべきだが、軽度のマナー違反に間して「善悪」の視点で必要以上に咎め立てしすぎると、「うざったいオッサン/オバサン」になってしまう。

そんなわけで、「どうして電車で化粧しちゃいけないの?」とか「誰にも迷惑かけてないんだから、ほっといて」なんて、良識派にとっては思いがけない言葉で返されるとうろたえたりする。

世の中には「いい/悪い」より、「かっこいい/かっこ悪い」という視点で語る方が説得力があることも多い。このことに良識派は気付かない。

私の 8月 12日のドラッグについて論じた記事に、きっしーさんが "「ドラッグは危険」と錦の旗を振り回すよりも、「いいトシこいて」と冷笑するに限る" というコメントをくださった。麻薬はマナーのレベルの話ではないが、これも確かに「かっこいい/かっこ悪い」という視点の方が効果があるかもしれないと思ったりする。

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2009年8月20日

老舗大国、日本

今朝、駅までの道でカーラジオを聞いていたら、日本は長寿企業大国なのだという話をしていた。

日本には創業 200年以上の企業が約 3000社あり、世界でトップ。2位のドイツが約 800社、3位のオランダが 約 200社だから、比べ物にならない。

何しろ世界中にある創業 200年以上の企業の半数以上が日本にあるというのだから、どえらいことである。そのうちのほとんどが中小企業で、そのまたほとんどが近畿にあるのだそうだ。さすが、いにしえの昔からの都に近いだけのことはある。

先日、京都で乗ったタクシーの運転手さんと雑談をしていたら、「ウチはせんに本願寺がお東さんとお西さんに分かれる前からの檀家ですんで、両方から寄附を取られて、かないまへん」なんてことを言っていた。「せんに」分かれたといっても、それは徳川家康の頃の慶長 7年、西暦では 1602年、つまり400年以上前のお話である。

アメリカ合衆国が誕生するより 200年近くも前のことだ。そんなものすごい旧家のオッサンが、呑気にタクシー運転手をしているのが京都というところである。

まだ上がある。「ウチにも先祖伝来の家宝がぎょうさんおましたんですが、さきの戦(いくさ)で、だいぶ焼けてしまいまして」なんていう。「さきの戦」といっても、京都は米軍の空襲にはあわなかったはずと思っていると、応仁の乱の話だったりする。1467年、つまり、540年以上前である。

そんなような恐ろしい風土だから、200年以上ものれんを守るなんていうのも、それほど珍しいことでもないわけだ。京都の老舗が長く続くのは、企業規模を大きくしないからだとよく言われる。

確実に売れるとわかっている分しか作らない。「売り切り御免」方式である。近頃では需要があっても在庫がないと「販売機会損失」なんていって愚かなことのようにいうが、京都ではそれを「機会損失」とは捉えない。「欲しかったら、またおいで」ぐらいに思っている。

逆になかなか手に入らないから、希少価値が出る。どっと作ってどっと売ってしまったら、時代が変わればそれっきりだが、希少価値のある品物は時代の変遷に左右されない。いつでもそれなりに売れる。だから、企業もいつまでも続く。

時代に左右されにくいとはいえ、時代が変わればほとんど売れなくなるものもある。甲冑とか昔の農機具とか、そんなものだ。ところが、小さな企業だと、得意の技術はそのまま伝承して新しい製品を作るという変わり身の速さで、サバイバルすることもできる。

最近は企業合併やらな何やらで、企業のスケールメリットが追い求められているが、大きければいいというものでもない。

ちなみに、世界最古の企業というのも、日本にあるのだそうだ。それは大阪にある金剛組という寺社建築の会社で、創業はなんと 「飛鳥時代第30代敏達天皇 6年 (西暦578年)」 なのだそうだ。なにしろ大化の改新以前だから、元号もない。創業 1431年目である。世界最古の企業として、ギネスブックにも載っているそうだ。

日本のもつ「東洋の神秘の国」的要素は、大切に残したいものだと、つい思ってしまった。

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2009年8月19日

『唯一郎句集』 レビュー #53

今回は晩夏から秋にかけての 3句。最初の句は鳥海山に登ったときの句である。といっても、頂上まで登ったわけでもなさそうで、麓の高原を散策した程度なのではなかろうか。

    鳥海山行 (一句)

雲が動いては冷たく退き鳴く鳥もありけり

鳥海山はその麓を日本海に没しているので、海風をまともに受ける。だから雲の動きもとても速い。さっきまで見事な姿が見えていたと思ったら、すぐに雲に隠れてしまうということもある。

ただ、この日は小さな雲がどんどん流れていくという天気だったのだろう。流れる雲は山頂の影に消えていく。風が冷たい。その中で鳥の鳴く声も聞こえる。

「冷たく退き」といういかにも唯一郎らしい新感覚派的な表現もあるが、基本は写生である。大きな自然の中で、写生に徹するしかないと思ったのだろうか。

構ってくれる者なく虫を飼っては出歩くや

孤独癖のある唯一郎は、虫を飼っていたようだ。鈴虫の音が毎夜聞こえただろう。

 

人と会っているよりは虫を相手にしている方が気楽だったのだろうか。しかし、その虫を後に、出歩く用事もある。浮き世の義理もあるのだが、それについてはつまびらかにするほどのことでもない。

 

醸造人の小さな眼にて秋になっても萩が乱れける

年老いた醸造職人の、しわだらけの眼は小さい。その眼で眺める世界に、萩の花が咲き乱れている。

あの豊富な萩の咲きようが、小さなめにも映っている。一杯に映っている。醸造職人の心が秋に満たされる。

本日はこれにて

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2009年8月18日

『唯一郎句集』 レビュー #52

今回のレビューは折良く、ちょうど今頃の季節の 2句である。さっさくレビューに入る。

灯籠絵師けふは晴れ晴れと額をもたげ

酒田では、私の子どもの頃はあまり灯籠流しはしていなかったように思うが、お盆の一般的な行事でもあるので、昔はしていたのだろう。だから灯籠絵師はお盆が過ぎるまでは大忙しだっただろう。

お盆が過ぎて、ようやく一息つき、晴れ晴れと額をもたげる様子が目に見える。

ふだん着をいとしめる女に花火が多い夜にて

「ふだん着をいとしめる女」というのは、どういうことだろう。ちょっとしたことでもよそ行きを着たがるわけでもなく、いつも普段の格好でいたいという庶民的な女だろうか。

もしかしたら、これは唯一郎の妻となる女(私の祖母ということになる)だろうか。一緒に歩いていると、あちこちで線香花火をするのが見える夏の夜。

本日はこれにて

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2009年8月17日

『唯一郎句集』 レビュー #51

『唯一郎句集』 も今回で 50回目である。おそらく 100回ぐらいのシリーズになるだろうとは覚悟していたが、50回目にしてページ数の半分もこなせていない。

(注: 後日に連番の付け間違いが発見され、修正したので、実はこれは 51回目である)

まだまだ続くことになる。月遅れのお盆を過ぎても半分に到達していないという、祖父の句集の重さを感じる。

今日は 2句である。さっそくレビューを始めよう。

たづね行く途にて公孫樹の夏の夜風に逢ひ

「公孫樹」はイチョウの漢語。唯一郎は時々古めかしい言葉を使うのが好きだ。かえって若さ故なのかもしれない。

夏の盛りの夜、初めて訪ねるところに行く途中、大きなイチョウの木がある。葉は青々と繁り、大きなシルエットである。その大きなシルエットをわずかに揺らし、夜風に吹かれる。

気持ちのいい風ではあるが、イチョウの大きなシルエットに圧倒されもする。初めての途なので、その感が増幅される。

七夕の蚊遣香を据えては消え入る如き

酒田の七夕は月遅れだから、8月 7日に祝われる。一番暑い盛りだが、夜になれば少しは涼しい風も吹く。もうすぐ盆だ。

蚊遣香とは蚊取り線香だろう。ちなみに蚊取り線香が渦巻き型になったのは戦後のことらしいので、この当時の 「蚊遣香」 は、普通の線香のように立てておいたもののようだ。

「消え入る如き」というのは、線香の小さな火であるだけでなく、天の川の下に暮らす自分の心持ちも言っているような気がする。

本日はこれまで。

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2009年8月16日

『唯一郎句集』 レビュー #50

本日から 4日間、缶詰め状態の忙しさになるので、多分 "Today's Crack" の更新ができないのではないかと思う。

仕方がないので、『唯一郎句集』 のレビューを書きためておいて、自動更新されるようにセットしておくことにする。

今日は枇杷の登場する 3句である。前にも枇杷の出てくる句があったような気がして、検索をかけてみたが、見つからなかった。ちょっと意外である。

さっそくレビューしよう。

われ枇杷をふり仰ぐさみしき心せぬとき

庭に枇杷の木があったのだろう。その枇杷の木をふり仰ぐのは、「さみしき心せぬとき」であるという。

心淋しいときには、枇杷をふり仰ぐこともできない。枇杷の実のなるのは晩春から初夏である。さわやかな気持ちのする季節、取り立てて気持ちが高揚したわけでもないが、ようやく枇杷を見上げる気持ちになった唯一郎。

我家の如く振る舞ひ枇杷の種が大きく

枇杷の種がいくら大きいといっても、それが家の中でそれほど堂々とした位置を占めるわけでもない。しかし唯一郎独特のクローズアップ手法では、それがとても大きい存在である。

我家のごとく振る舞うほどの枇杷の種が、艶々と輝いている。種の大きさと、その背後の小ささ。

はづかのたたみの温もりを親しみて枇杷を食ふ夜

さあて、困った。唯一郎句集を読んでいると、時々見慣れない言葉が出てきて、どういう意味だかわからないことがある。よく考えればわかるのだが、この「はづかの畳の温もり」は、本当に困った。「はづか」って何だ?

「二十日」 かとも思ったが、それでは意味が続かない。もしかして「僅か」かもしれない。かなり古い時代の古語表記では「はつか」というのがある。発音通りに濁点をふれば「はづか」である。

ここでは、「わずかな畳の温もり」 という解釈を採用しよう。

畳がひんやりと冷たい季節を過ぎ、枇杷を食べる頃はようやく畳が温もりを持つ頃だ。夜更けになっても、その温もりは失われない。ざ

その温もりがうれしいが、家族の誰とともにということもなく、一人で夜更けの枇杷を食う唯一郎。

本日はこれまで。

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2009年8月15日

レス・ポールよ、永遠に

レス・ポールが 13日に死んだという訃報が入った(参照)。義母(妻の母)の命日が 8月 14日で、やはりお盆の期間中である。

義母が亡くなったとき、坊さんが「お盆に亡くなる御霊は、徳が高いのです」と言って、ずいぶん立派な戒名を付けてくれた。レス・ポールも徳の高い御霊なのかもしれない。

レス・ポールといっても、知らない人はさっぱり知らないかもしれないが、エレクトリック・ギターの「レスポール・モデル」を作った人である。「レスポール・モデル」といっても、これまた知らない人は知らないだろうが、今でもフェンダーのストラトキャスターと人気を二分するモデルで、誰でも見覚えがあるだろう (参照)。

私はずっと、レス・ポールという人はとっくに死んでいるものだと思っていたのだが、2005年に 90歳を迎えた記念に「レスポール・アンド・フレンズ」というアルバムが発売されたというので、「まだ生きてたのか」と驚いた覚えがある。このアルバムには、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、キース・リチャーズ、スティングなど、ものすごいメンバーが参加している。

レスポール・モデルは一時、ギブソンが廃版にしてしまい、今の SG モデルにチェンジしてしまったのだが、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジがレスポールでギンギンのハードロックを始めてから人気が再び盛り上がり、復活したという経緯があるらしい。それで、レスポールといえばハードロック系というイメージがあるが、本来は甘い音色が特徴とされていた。

その本来の甘い音色は、Coors ビールの CM で見事に再現されている。

酒場で若い兄ちゃんが粋がって澁々のブルース・ギターを弾いている。そこに現れたじいさんが、「なかなかいい音出してるじゃないか。ちょっと貸してごらん」と言う。

「あんたが弾くってのかい?」と、兄ちゃんは馬鹿にするが、このじいさん、ギターを手に取るとものすごい腕前で、グッとくるフレーズを弾きまくる。

驚いた兄ちゃんが、「あんたの名前は?」と聞くと、じいさんは微笑んで「ギターを見てみな」と言う。そのギターのネックには、"Les Paul model" と書いてある。唖然として振り返る兄ちゃん。

レス・ポールよ、永遠に。

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2009年8月14日

iPhone を買ってしまった

ついに、ひょんなことから iPhone を買ってしまった。3GS、しかもちょっと張り込んでしまって、 32GB モデルである。

実は、これまで使っていたケータイの 2年シバリが 10月に切れるのだが、iPhone の優待セールが 9月末までなので、ギリギリ 9月に機種交換してしまおうと思っていた。

Crack_090814 9月中に iPhone にしてしまえば、パケット定額フルの料金が 4000円台になる優待期間に間に合うので、残り 1ヶ月分の違約金を払っても、お得になると思っていたのである。ところが、昨日の夜にどこかでケータイを落っことしてしまったみたいで、今朝、いくら探しても見つからないのだ。

これはもう、早めに iPhone に交換してしまえという神のお告げに違いないと、都合良く解釈した私は、さっさとソフトバンク・ショップに出かけて、iPhone を購入してしまったのだ。

前のモデルを紛失してしまったので、電話帳などのデータを引き継げないのと、残り2ヶ月分の違約金になってしまったのはちょっとだけ痛恨だが、まあ、結果オーライということにしておこう。

iPhone ユーザーの先輩である I 氏は、「これ、電話としては、むしろ使いづらい」と言っていた。単に通話とメールだけしか使わないなら、フツーのケータイの方がずっといいようなのだ。それ以外の総合的な機能を使うつもりでないと、iPhone ユーザーになる意味がないという。

そりゃそうだろう。とりあえず、私にとっていちばん役立ちそうな機能は、マップである。これまでは、初めてのところに行く前に Google マップなどで調べた地図をプリントアウトして持っていくことにしていた。それを忘れると、ノートパソコンを取り出して地図を表示し、その画面をデジカメで写していた。

しかし、これからはそんな必要はない。どこにでもリアルタイムで道案内してもらえるというのは、かなりありがたい。これまでのケータイだって、地図ぐらいは表示できたが、なにしろ画面が小さすぎて使えなかったのである。

それから、iPod とケータイが一体化したのもうれしい。これまでだって、ケータイで音楽を聴くことはできたが、ユーザーインターフェイスの点で iPod に及ばないというか、どうも取って付けたような感じで使いづらかった。これからはケータイと iPod を二つ持ち歩かなくても済む。

それから、ブログの更新も少し楽になりそうだ。込み入ったことを書くときはやはりちゃんとしたキーボードで打つ方がずっとストレスが少ないが、ちょっとした更新なら iPhone でやれそうだ。

ライフスタイルがほんの少しだけ変わりそうである。

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2009年8月13日

茨城県知事選挙もあるらしい

選挙用ポスター掲示板に、既に何枚かのポスターが張り出されているのでびっくりしたが、これは茨城県知事選挙のポスターだった。

私は現在の居住地である茨城県との縁が薄いので、知事選が今日告示されたとは全然知らなかった。総選挙と同日投票なんだそうだ。やれやれ、ダブルでうるさくなるのか。

告示されちゃったってことは、ここで特定候補者についてあれこれ書くと、厳密に言えば公職選挙法に抵触するおそれがあるので、まあ、警察が私ごときのブログなんて気にするとは到底思われないが、あえてことさらに、ちょっとだけ慎重に「腹に一物」的な書き方をしてみよう。

まず、客観的なお話として、今回は保守分裂選挙なんだそうだ。現職の橋本昌氏はこれまで自民党の支持をバックに 4期 16年も知事を務めたが、自民党県連は「4期限りの約束だった」として、今回は元国土交通次官小幡政人氏を推薦しているらしい。

ところが、橋本氏はそんな約束をした覚えはないと言っている。ありがちな「言った、言わない」というお話である。年だって「新人」の小幡氏より橋本氏の方が若いし、まだまだ意欲満々だ。自民系首長や地方議員の中には橋本氏支持を表明する向きも多いらしく、事実上の分裂選挙になっている。

ややこしい話なのである。橋本さん、16年も知事の座にいる間に、ずいぶんたくさんの子分を作っちゃったみたいなのだ。長い年月をかけて都合のいいシステムを構築しちゃった限りは、もったいなくてやめられないだろう。(このくらいの表現は、別に公選法に触れないよね)

で、自民党分裂という絶好の機会なのに、何をやってるんだか、民主党は独自候補を擁立できていないというのがお笑いぐさである。本日付の読売新聞の記事によると、次のような事情があるもののようだ。(参照

一方、衆院選の前哨戦の大型地方選挙や都議選で勢いに乗る民主党は、長塚さんと接触するなどしたが、連合茨城や衆院選で支援を受ける県医師連盟が橋本さんを推薦したため、「衆院選の勝利優先」 から自主投票を決めた。

ちょっと見るだけだと、「奇々怪々な様相」と思ってしまうのである。4期 16年も知事をやれば、誰がみても多選の弊害が出て当たり前なのに、連合茨城というところは、前回まで宿敵の自民党推薦を受けてきた橋本氏を支援するというのである。県医師連も、橋本氏のままでいてくれる方が、ずっといい目がみられるのかもしれない。

裏で何があったのかしらないが、何だかなあと思ってしまうような相関図である。そうした中に身を置いたら、ストレスだろうなあ。

で、上記の読売新聞の記事の引用に出てきた「長塚さん」というのは、競輪選手でアテネ五輪銀メダリストの長塚智広氏、若干 30歳である。単なるタレント候補というわけでもないようで、聞くところでは、株の世界では少しは知られた経済通という触れ込みである。私は株も競輪もよく知らないので、どのくらいの「通」なのかはわからないが。

当初は民主党が独自候補として擁立したかったが、上述の理由で流れたもののようだ。総選挙と重ならなかったら、もしかしたら 「民主党推薦」 てなことになったかもしれない。多分、今回の知事選の台風の目である。あるいは民主党としては、自主投票でも非公式な支援次第で、長塚氏で勝てる可能性があるとみたのかもしれない。

それにしても、私は茨城県に住んで 30年を越したが、どんなに長く住んでもよくわからんところである。親分子分の関係がかなり根強いようで、私のように他から引っ越してきて、仕事はほとんど東京でしているというような人間には、軽い気持ちで入り込めない雰囲気が残っている。

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2009年8月12日

ドラッグはクスリになるのか?

デーモン古暮閣下がブログでかなり興味深い記事を書いている。20年ほど前、薬物に手を出してしまう人々を批判する歌詞を書いたところ、当時のディレクターから逆に非難されてしまったというのである (参照)。

まあ、その歌詞の曲が世に出てたとしても、あまり売れなかったかもしれないけどね。

デーモン古暮という人は、表面的なイメージからすると一番クスリでキメていそうな感じだが、なかなかどうして、ずいぶんコンサーバティブな考えをお持ちのようで、例えば大相撲なんかが大好きなんだそうである。

件のブログから少し引用させて頂くと、こんなことなのである。

その昔…と言ってもせいぜい20年くらい前であるが、「薬物使用」で逮捕などされる人が続出した時期があって、そんな業界を取り巻く状況…って言うか、そういう「薬」に手を出してしまう「**い」人々(安っぽい国民)を批判した歌詞を新曲用に書いたら、当時のディレクターに「ROCKって文化はdrugがあって進化したという紛れもない事実があるのだから、現在ROCKを生業としている我々がdrug全般を安易に批判する立場にはない!」「ある意味こんな歌詞はROCKへの冒涜だ」みたいな言い方で強く批難された。

へぇ~~! と驚くほかない。このディレクターはもしかしたら、「正義」が強く出過ぎた歌詞が、聖飢魔 II というロック・グループのイメージを傷つけることを怖れたのかもしれない。しかし、元々表面的なイメージと実像のギャップが売りと言えば売りのグループなのだから、かえって面白かったかもしれないのに。

それから、これは個人的な印象だが、このディレクター、きっと「ヤッてたな」と思う。ヘビードラッグの常習者というわけではなかっただろうが、大麻程度なら何度か経験があったに違いない。だからデーモン閣下の歌詞をみて、自分が責められているような気がしたのだろう。

あの手の世界というのは、もう本当にドラッグが浸透している(と、この際、断言しちゃってもいいだろう)。その気になれば、軽い気持ちで入手できる。そんな雰囲気が、ドラッグに走るバリアを低くしている。

それにしても、このたびのドラッグ騒動、私はちょっと違和感をもってしまうところがある。大麻や覚醒剤やなんちゃらかんちゃらという合成ドラッグをヒステリックに責めまくるオッサンが、タバコをスパスパ吸っていたりする。

常習性があって、体に害があって、周囲に迷惑がかかるんだから、タバコだって客観的にみれば、立派な 「ライト・ドラッグ」 である。酒だって似たようなものだ。飲み過ぎて人格を失うことにかけては、ヘビー・ドラッグ以上のレベルである。世の中、酒で人生を棒に振ったという例は枚挙にいとまがない。

因果なことに、どうやら人間は「麻薬チックなもの」 を求めてしまうカラダをもって生まれてきてしまったようなのである。「麻薬」と「嗜好品」の差は、限りなく曖昧だ。そして人間の体は、コーヒーとかお茶とかだけでは満足できない「業」を持ってしまっているようなのだ。

それを暗に認めて、どうしても必要なものならば、酒やタバコは、税金さえ納めれば麻薬扱いから逃れさせてやろうというのが、今の社会のあり方である。

麻薬として取り締まられるのは、見方を変えれば税金を払わないドラッグなのである。高い税金さえ納めれば、相当カラダに障るものでも、合法になる。まさに「世の中、何でも金で解決がつく」ってなものである。

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2009年8月11日

生物多様性ということ

近頃「生物多様性」ということがよく言われるのだが、私はこれについてはあまり多くの専門的知識を持たない。だが、多様性が損なわれるとやばいというのは、直感的にわかる。

短期的な視点の経済的見地からは、何でもかんでも最も効率的なものに絞り込む方がいいが、それは文字通り「近視眼的」思考だ。

自然界は人間の経済を活況に導くためにあるわけじゃない。自然界にそうした意味での「目的」があるわけじゃない。自然は自然としてあり続けるということが、人間的な意味での「目的」を離れた「ありよう」なのだと思う。そして「よくもまあ」と感嘆するほどの、絶妙なバランスを形成している。

そのバランスを人間の経済的効率という近視眼的視点で崩してしまうというのは、長期的に見れば経済そのものにも打撃を与えてしまうということが、ようやくわかってきた。いや、そんなことは初めからわかっていたのだが、客観的なデータで立証されてきたのが、近頃の話である。

熱帯雨林というのは、気候的にはとても安定しているのだそうだ。それは豊富な生物多様性が関係していることでもあるらしい。驚くほど多種多様の動物・植物が生育しており、それが絶妙のバランスを維持している。生物多様性が豊富だと、多少の変動要因は自然に吸収するというバッファリング機能が大きいらしい。

一転して日本では、「近頃、天気がおかしいよね」と言われ始めて久しい。どうおかしいのかというと、温帯特有の穏やかさが損なわれて「極端から極端に振れる」という印象だ。ドカ雪になったかと思えば猛暑になる。

冬が終わりかけても春の来るのが遅れるし、夏はいつまでも残暑が続く。春らしいとか、秋らしいとかいう時期が短くなった。つまり、暑いか寒いか、あるいは猛暑か暖冬か、その差が激しすぎる印象なのである。

これは、日本の自然界における生物多様性が損なわれていることによるという説がある。これまでは日本の自然は案外豊かだったから、ちょっとした変動要因は自然の中で吸収されて、全体としては穏やかな温帯としての気候が維持された。いろいろな変動要因を吸収する 「バッファリング・プレイヤー」(これは、私の造語)が、いくらでもいたのである。

ところが近頃は、夏になれば熱帯以上の暑さになり、東南アジアから来た人たちまで「日本の夏は暑すぎる」と言い出す。暑くなりすぎる要因を吸収してくれるバッファリング・プレイヤーが、いなくなってしまったのだ。

「夕立」という言葉は、夕暮れ近くに急に降り出す激しい雨を言うが、近頃の夕立は、そのイメージを越えて「スコール」である。どうも温帯の天気ではなくなってきたような気がする。

取り敢えずは、日本の森林を元の豊かな広葉樹林に戻す必要があると、私は思っている。とくに戦後、日本中の森林がスギ林に変えられてしまったが、針葉樹林の根の張り方は弱いから、斜面に生えたスギは大雨に耐えきれず、土砂崩れで川に流れ落ちる。流れ落ちたスギの木は、下流の街の橋桁を壊す。今回の大雨でもみられた現象だ。

保水力の豊かな広葉樹林がなくなったので、ちょっと日照りが続けばすぐに水不足になり、大雨が降れば土砂災害が起き、そのためにダムがどんどん建設され、川の流量が少なくなり、海岸への砂の供給が減り、浸食されて地形まで変わる。

山ではスギ林の手入れが行き届かず、それでもスギはスギで必死に生き残ろうとするから、花粉を大量に飛ばす。それで花粉症が国民病になってしまった。

自然界は「多様性」があるからいいのである。いろんな種類がまぜこぜになっているからいいのである。人間界でも、「あいつはちょっと違ってるから」などと言って、いじめの対象にしたり排除したりするというのは、これはもう、滅びに向かう所行である。

「違ってるからおもしろい」 というぐらいに思わなければならないのだ。

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2009年8月10日

海外でぼったくられまくる日本人

日本人観光客へのぼったくり問題で、ローマ副市長が訪日し謝罪へ」というニュースが、一部で話題になっている。

ローマでは、一流と言われるレストランでも「ぼったくり」が横行していたらしいが、「日本人観光客への」という枕詞がどうも気になる。日本人は「カモ」にされているようだ。

同じ日本人である私から見ても、日本人は外国では最高の「カモ」だと思う。警戒心が薄いし、おっとりして争いごとを好まないし、英語はできないし、喧嘩は下手だし、言えば言っただけの金を払うし、すぐに諦めるし、それに何より、なぜか現ナマを持っているし。

25~6年前、会社勤めの頃、上司 2人とロサンジェルスに出張し、リトル東京で晩飯を食おうということになった。私としては、何でロサンジェルスまで来てそんなところで日本メシを食わなきゃいけないんだと思ったが、上司は私が付いていないと外国ではどこにも行けない人たちなので、仕方なくお付き合いである。

今はどうだか知らないが、当時のロサンジェルスのダウンタウンは夜になると物騒だったから、タクシーで行くにこしたことはない。ホテルからリトル東京までのタクシー料金は、よく覚えていないが、大体 5ドルぐらいだったと思う。

適当に大して旨くもないメシを食い、外国で営業しているということが唯一の差別化ポイントであるとしか思えない飲み屋で酒を飲んで、ホテルに戻るために、またタクシーをつかまえた。

タクシーの運転手にホテルの名前を告げると、彼は "OK" と言って発進したが、なぜか料金メーターを始動させない。そのくせ、カー・オーディオで流行りの音楽をかけ、"Service." なんて言って妙な愛想笑いをする。

2人の上司もさすがに不審に思ったようで、「おいおい、こいつメーター倒さへんで、ぼったくりちゃうか」と言い始める(彼らは大阪人である)。私は、「大丈夫大丈夫、任せてください」と答える。

ホテルに着くと、運転手は思ったとおり、「なんてこった、メーターをスタートさせるの忘れてた」と (もちろん、英語だが)、白々しくも言う。私は「知ってたよ」と答える。彼は「安心しなさい。私にとってはいつもの道です。大体 12ドルです」と言う。

"Twelve dollars?" 私はことさらに大声で聞き返す。
"Yes, sir." 彼はいけしゃあしゃあと答える。

「12ドルですってよ」と、私は苦々しげに上司に言う。5ドルで行ったのと同じ道を帰ってきて、12ドルとはふざけている。まあ、30ドルと言わないだけましかもしれないが。

私は運転手に向き直り、即座に「ふざけるんじゃない。行くときには同じルートで 3ドル 75 だった!」と、はったりをかます。日本人なら誰でも言い値で素直に払うと思ったら大間違いだ。「払わない」と言わないだけ、ありがたく思え。

彼は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに落胆した様子で、「OK、それでいい」と応じた。元はと言えば彼に非があるので、警察を呼ばれたら面倒だし、それに、もらう金額がいくらだろうと、どうせ彼のポケットに入るだけだから、即断即決である。

ところがなんと、そうこうしている間に信じられない光景が現出した。上司の片方が、財布から 10ドル紙幣 1枚と 1ドル紙幣 2枚を取り出し、さっさと運転手に渡してしまったのである。おいおい、私がせっかく 3ドル 75セントにまけさせたのに、一体何を考えてるんだ?

ああ、そうか、このオッサン、目の前の英語のやり取りが理解できていないのだ。その直前に私が言った 「12ドルですってよ」 で、情報がフィックスされてしまっていたのだ。それにしても、それを素直に払うなんて大阪人とも思われない所業は、私としてはまったく想定外だった。

「ちょっと、ちょっと、この兄ちゃんは 3ドル 75 でいいって言ってるんですよ」
「まあ、ええやないか、面倒やから、12ドルぐらいなら、気持ちよく払っといたろやないか」

私はこの瞬間、うら悲しくなってしまった。国内ではしみったれのくせに、外国に来るとどうしてそんなに、急に太っ腹になれるのだ、このオッサンは。

"No tips!" (チップはなし!) と私が吐き捨てるように言うと、運転手は嬉しそうに "Sure. Thank you, sir!" とウィンクしやがった。

とまあ、こんな苦々しい経験があるのだが、ことほど左様に、こんなだから日本人は外国で甘く見られるのである。言葉ができなかったら、とりあえず日本語でいいから怒りまくったふりを見せ、そして一言 "Police!" と叫べばいいのに。

自分一人だけ泣き寝入りすればいいと思っているのだろうが、そうではない。それによって日本人全体が、ますます甘く見られるのである。

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2009年8月 9日

『唯一郎句集』 レビュー #49

唯一郎の俳句作品は、雑誌「海紅」に載ったものが最も多い。句集の中の半分以上を占めるほど多い。

だから、ほかの雑誌や新聞に載ったものをこれまでレビューしてきて、「海紅」時代に入ると、時代が遡って、まるでレビューのレビューをしているような気がする。

今日は 2句のレビューだが、「海紅」初期の、まだ若かりし頃の作品である。まだ結婚もしておらず、瑞々しい少年と青年の狭間の頃の感性がうかがわれる。

さっそくレビューしてみよう。

母の前にて箸更へる夏帯びも事なげに結び

箸を更えるとは、小さな非日常である。日本の食事作法の特徴の一つは、主食の椀と箸が、家族それぞれの専用であるということだ。椀も箸も、ある意味では自分の分身である。

その箸を更えるとは、単に古びたから新しいものに替えるというだけではなく、「更」 という字を使っていることからもわかるように、生活のステージが更新されるというほどの意味を持つ。もしかしたら、自分で選んで誂えた箸かもしれない。

その日、初めて夏帯に更えた。帯を結ぶのに母が手伝ってくれていた子どもの時代は、そう遠いことでもないような気がするが、今の自分は事もなげにできてしまう。

精神が独立しつつある唯一郎である。

ある時麻畑をめぐり我身ひじりの如き

麻畑の麻は背丈より高く繁っているだろう。それを廻ると、空しか見えない。ということは俗世間への視線が遮断されたということだ。

しかも、麻は古来より神聖な植物とされてきた。そうした雰囲気に包まれて、空の高みを見上げる。

ひじりとは、聖なるものである。位の高い僧ではない。零落した放浪僧というイメージがある。自分がそうした放浪僧のように思われる。しかし精神は高く保とうと思っている、若き日の唯一郎。

本日はこれぎり。

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2009年8月 8日

『唯一郎句集』 レビュー #48

世の中は総選挙目前の慌ただしさと、芸能界の麻薬騒ぎでかなり浮き足立っているが、こうした時こそ浮世離れして、昭和初期の自由律俳句に浸ってみよう。

「海紅」に載せられた初期の句は、唯一郎の、多分二十歳前の作だ。このレビュー初期の瑞々しい感性に、再び触れることになる。

とりあえず、レビューを開始しよう。

工夫ら空を見ながら時鳥を聞いているのか

俳句とは無関係の話だが 「工夫(こうふ)」は ATOK では変換されない。MS-IME では変換されたが、ATOK はこの言葉を「差別表現」と思っているようだ。いちいち単語登録するのも面倒なので、「くふう」と入力して変換した。ちなみに放送禁止表現にもなっているようだ。

そのような堅苦しい自主規制のない時代の句である。唯一郎にことさらな差別意識があったとも思われない。「工夫」という単語を素直に受け取っておこう。

線路工事だろうか、道路工事だろうか。それとも川の護岸工事だろうか。あるいはホトトギスの声が聞こえるぐらいだから、林道の工事といったところだろうか。

工夫らが誰ともなく一斉に手を止めて、空を見上げる。「キョ、キョ、キョ…」 という鳴き声が聞こえる。

ホトトギスの表記は「時鳥」以外にもいろいろあって、文芸関係者ならば、「子規」「不如帰」の方が馴染みがあるだろう。敢えて「時鳥」と書いたのは、工夫らが辛い作業の終わりを待つ気持ちが通じたのだろうか。

姉の部屋まで百合をもたされ去りがたきまま

唯一郎には姉がいたようだが、彼の句の中にはあまり登場しない。父と母はしょっちゅう出てきて、とくに母親にはとても孝行を尽くしているが、姉にはどんな想いを抱いていたのだろうか。

姉の部屋に百合を持たされて、そのまま去りがたいというのである。多分白百合だろう。その白百合の花がよほど部屋の雰囲気に似合ったのだろう。姉のいない姉の部屋が、異次元のように感じられる。

姉とはいえあまり親しげに接することのできない、昭和初期の青春期の想いが現れている。

握れるだけの麻を引き抜きさりげなしや

私は見たことがないが、昔は酒田にも麻畑があったようだ。麻袋などというものがあるように、当時は今よりもすっとありふれた繊維原料だったのだろう。今のように煙を吸うなどということは、少なくとも酒田あたりではあまりなかったようだ。

麻の生育は早い。あっという間に背丈以上に伸びる。その麻を握れるだけ握って引くと、生育が早いだけに根もそれほど頑強ではなく、案外するりと抜けるのだろう。それが「さりげなしや」と表現されている。

シティボーイである唯一郎の受けた、思いがけなく新鮮な感触。

本日はここまで。

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2009年8月 7日

感情と論理の狭間で

昨日の裁判員裁判に関する記事へのコメントで、ぐすたふさんが和歌山カレー事件の判決についての疑問を述べてくださった。

その参考記事として、「愛と苦悩の日記」というブログの 「和歌山カレー事件の状況証拠がこれほど脆弱だとは!」 という記事を紹介してくださっている。

紹介された記事は長文だが、ただ長いだけではなく非常にわかりやすく整理されたもので、これを読むことで、私が抱いていたある種の 「割り切れない思い」がかなり整理されたような気がする。つまり、あの事件で林真須美被告を真犯人と断ずるには、ちょっと無理があると思うのだ。

あの事件は世の中でもかなり話題になったので、事件の背景、林夫婦の奇妙なキャラ、それまでの保険金詐欺の実体などがセンセーショナルに報道された。そうしたサイドストーリーを知ってしまえば、被告の印象は、ほとんど真っ黒に近い灰色である。彼女以外に犯人なんかいるものかという考えを持ってしまっても、無理もない。

私としても、個人的には彼女がものすごく怪しいと思う。怪しいとは思うが、彼女が真犯人だと言い切るまでの十分な根拠となってしまうと、はなはだ心許ない。数々のサイドストーリーから導かれた「印象」というのが、一番大きな根拠と言ってもいいぐらいだ。

なにしろ、知れば知るほど「とんでもない、ひどい、しょうもない夫婦」なのである。できればお近づきになりたくないタイプの人たちである。保険金詐欺で食ってきたと言ってもいいぐらいだし。

しかし、それと「カレー事件の判決」とは、分けて考えなければならない。やはり、彼女を真犯人と言い切るには物証不足だと思うし、動機としてあげられているのも、十分な説得力があるようには思えない。

この事件の裁判が裁判員裁判で行われたと仮定して、もし私が裁判員として参加していたとしたら、私は多分「無罪」を主張するだろうと思う。林真須美被告が「絶対にやっていない」とする証拠があるわけではないが、「絶対にやった」と言い切るだけの根拠も薄い。

「疑わしきは被告人の有利に」の原則に従う限り、そうならざるを得ない。「無罪」と言わざるを得ない。

実際には、彼女がヒステリックな感情の爆発で、後先を考えずにやってしまったのかもしれない。その可能性だって、かなり高いと思う。しかし、純粋な「論理」だけでは、そうだとは言い切れない。言い切るには「論理 プラス 感情」が必要だ。

本当は彼女がやってしまったのかも知れないけれど、そしてその可能性を否定するわけではないけれど、それに、あんなひどい女に「無罪」なんて言い渡すのは、確かにけったくそ悪いけれど、裁判制度の「論理性」のためには、私なら感情を捨てるという苦渋の選択をするだろうと思う。

こうしたことを考えるにつけても、よく言われることだが、日本語の「有罪/無罪」という言い回しはちょっと問題ありだと思う。英語の "guilty/not guilty" (有罪/有罪にあらず)の方が、納得しやすい。"Not guilty" のすべてが "innocent" (罪がない、潔白、無邪気)というわけではないのだから。

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2009年8月 6日

裁判員裁判レポートの印象

注目された初の裁判員裁判の経過を、産経新聞がほとんど速記録に近い形でレポートしていて、それをまとめたディレクトリが こちら のページにある。

私はずいぶん注目して、すべて読んでしまったが、その感想を述べるとすれば、「人間って不条理だなあ」ということに尽きてしまう。

人間とは元々不条理な存在であり、さらに罪を犯す時の心理状態となれば、ますます不条理の度合いは増す。それを一見条理に見える基準 (法律とか心証とか情状とか) でもって裁こうとするのだから、そもそもそこに無理がある。どえらい不条理を目の当たりにしたら、悩んでしまうのはいつだって条理の側である。

ある出来事について、後追いで調べを勧め、関係者や証人の言葉を文書資料にまとめても、それが客観的に正しいとは全然限らない。今回の裁判でも被告を含め、主要な登場人物の法廷での発言は、提出された調書とかなり食い違う。

「あの時はああ言ったが(あるいは、言わなかったが、はたまた、よく覚えていないが)、本当の気持ちはこうだ」というのがやたらに多い。そして、後になって言い出したことが、本当に「本当の気持ち」なのかどうかは、誰にもわからない。第三者の入れ知恵だったりもする。

さらに近所の証人の証言にしても、検察の提出したものと弁護側の提出したものでは、そこから発せられるメッセージがかなり違う。被害者の女性が思いやりのある常識的人物だったのか、かなりきつい性格でいつも一言余計なことを言う人だったのか、さっぱりわからない。真実は決して一つではなく、人の数だけあるということになってしまう。

ものごとを上手に適切に表現できる人なんて、案外少ない。それに、一人の人間でも時と場合と相手によって言うことが違ってくる。さらに、その人の最も混乱した状態の時に調書を取られたら、それに署名したとはいっても、被害者の長男のように、「よく覚えていない」なんてことになる。そんな調書が一人歩きするというのも、危ない話である。

こんなにまで矛盾した材料を出されて、まあ、どうやら有罪には違いないだろうが、情状面を含めて検討して、「さあ、判決を出せ」といわれても、フツーの人間なら途方に暮れてしまうだろう。

実際には明らかな矛盾は一つずつつぶしていって、ある程度納得のいく(ような気がする)ストーリーを再構築するという作業が必要になる。しかし、それが事実であるという保証はない。あくまでも再構築したストーリーである。

そして、判決はその再構築したストーリーに沿った、最大公約数的なものになってしまうのではなかろうかという気がするのである。判決自体には真実はない。最大公約数としての、最もつまらない物語である。それが導き出されるプロセスを左右するのが、検察と弁護人の力量、パフォーマンスということになる。

つまらないことだが、社会を運営する上ではそれが最も当たり障りのないことなのかも知れない。とはいえ、あくまでも単純な最大公約数的物語によって、多くの人間の運命が左右されるということは、常に意識しておかなければならないだろう。

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2009年8月 5日

錯覚と歴史の物語化

近頃、週末には『唯一郎句集』レビューをやっている。私のブログは休日には極端にアクセスが落ちるので、それならそれで、一般受けしないテーマで行こうということもある。

これは、大正末から昭和初期まで自由律俳句を作っていた私の祖父の句集に載った句を、すべてレビューしてしまおうというものだ。

このレビュー・シリーズは今年の 1月から初めて、このほど 50回目を越したのだが、やっていると、なにやらタイムマシンで時間を遡っているような錯覚にとらわれることもある。昭和初期の風景というのは、今の日本の風景とはかなり違っているようなのだ。

なにしろ、一日の時間感覚が違う。昔は夜が早かったみたいだ。大正末期には日本中の都市部では電灯が普及していたが、それでも今のようなライフスタイルではない。句集を初めから読んでいると、夜の家の中は、いまほど明るいものではなかったようだ。多分、一部屋に大して明るくもない一個の電球がぶら下がっていただけなのだろう。

ましてや、卓上スタンドとか電気スタンドなんていう単語はまったく出てこない。だから、夜中まで机に向かうなんていうことは、ほとんどなかったのではなかろうか。電灯がそんな状態だから、ラジオなどという単語も登場しない。

たかだか 2代前の先祖の若かりし頃、テレビ、ラジオはおろか、卓上スタンドがなかったなんてことはあまり実感として湧いてこない。私は若い頃、夜中になるまで座机に向かい、古めかしいデザインの卓上スタンドの明かりで読書をする唯一郎を想像していたが、それは多分あり得なかったのだろう。

当時は私の田舎でも独自の政治誌が発行されており、その中に文芸ページもあって、唯一郎はそこに盛んに俳句を発表していたらしい。あんな田舎町で、よくもまあそんなことができたと思うが、考えてみればテレビもラジオもない時代だから、地方独自の印刷メディアがあっても、それほど不思議ではない。むしろ当たり前だったろう。

昨年秋の「特攻機のボイスレコーダーの教訓」という記事は、あるブログの特攻機に積んであったボイスレコーダーに、敵艦に突っ込む瞬間の特攻隊員の「お母さん」と言う声が録音されていたという記事について考察したものだ。考えてみれば、昭和20年にボイスレコーダーなんてあったわけがない。

とくに近頃は「ドッグイヤー」と言われるほどに科学技術の進展と、その成果の市場への適用が速い。今では当たり前のことが、つい 4~5年前には実現しておらず、「こうなったらいいのになあ」という世界の話だったりする。

件のボイスレコーダーに関する記事の中で、私は次のように書いている。

まず、今のハイテク時代の常識は特殊なもので、いくら最近の歴史でも、そのまま適用してはとんでもない勘違いをしてしまうということだ。いくら近い過去にあたる歴史でも、ハイテク時代の常識で作り話をすると、すぐに破綻するのである。

もう一つの、そして最も大切な教訓は、まこりんさんのコメントの言葉を借りれば、「歴史はこのようにして物語化される」
ということだ。そして、いわゆる 「歴史」 の中にも、多くの「物語」が混入していないはずがないのである。我々は歴史を読むときには、せいぜい行間を読み取らなければならない。

歴史の物語化は、錯覚や無知にによって生じることがある。適度の物語化は面白い趣向になることもあるだろうが、行きすぎるとリアリティから乖離しすぎる。

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2009年8月 4日

「お返し」という風習

JR 山手線の車両では、ドアの上に液晶モニターがあって、CM やスポンサー企業制作の短いプログラムが放映されている。

その中に任天堂提供の「大人の 60秒講座」というのがある。ビジネスマナーを中心とした豆知識を提供するものとして、ファンも多いようだが、私はあまり評価していない。

名刺の正しい受け取り方とか、お辞儀の角度とか、着席の順番とか、車の座席の序列とか、手紙の時候の挨拶とか、初対面の人との会話での当たり障りのない話題とか、そりゃ、知らないよりは知っていた方がいいというぐらいの知識を、権威あるマナーの如く紹介する。

 

知らない人にとっては、案外「目から鱗」みたいなものなのかもしれないが、実際問題としては、別にそんなことは知らなくても構わないみたいなことも多い。常識的なことは別として、あまり微に入り細に入りすぎた形式的マナーは、こだわりすぎるとかえって邪魔になることがある。

実際問題として、名刺の受け取り方なんて、あまりぞんざいにしなければいいというぐらいのもので、大勢の名刺交換の時なんかは、一人があまり作法通りにやりすぎると、後がつっかえて迷惑になったりする。身に付かないことをやりすぎると、いかにも 「私、新人セミナーを受けてきたたばかりです」 みたいなイメージを醸し出して、滑稽だったりする。

ブロゴスフィアでも、「役に立つ」という反応がある一方で、「どうでもいい虚礼じみたことばかり押しつける」などと批判的な意見もみられる。それに本当に「役に立つ」かということも、実際はかなり疑問だ。電車の中でちらっと見たことなんて、その時は「へぇ~!」と思っても、その日の午後には大抵忘れてしまっているものである。

私としては、名刺交換で妙にかしこまるよりも、道を歩いていて他人とぶつかった時にはきちんと謝る(参照)という方が、ずっと実践的なマナーだと思うのだが、このプログラムではそんなことが紹介されていた例しがない。

ところで今日電車で見た「大人の 60秒講座」は、「贈り物の習慣で、日本独特のものは何か」という設問で、その答えは「お返し」というものだった。これは、微妙な答えである。正しくもあり、間違いでもある。

民族学の世界で、贈与に対する返礼が日本独特のものだなんていったら笑われてしまう。日本のお返しなんて、ある意味生やさしい。贈与・返礼で一番有名なのは、「ポトラッチ」である。北米インディアンの風習で、互いにパンクするまで贈与と返礼を繰り返す。

一方、欧米社会では確かに、贈与に必ず返礼をしなければならないという観念は薄い。しかし皆無というわけではない。英語でも "acknowledgment" という単語があり、「謝辞、感謝のしるし」といったような意味を含んでいる。

まあ、欧米ではモノの贈与に対して直接モノで応えるというようなことは少なく、大抵は丁重なお礼の言葉を返す。もらって迷惑なものでも、一応は心にもないような言葉でお礼を言う。それをしないと「礼儀知らず」ということになってしまうところは、日本の「お返し」と同じである。

一般には、東洋は精神文化で西洋は物質文化だという迷信的言い方がされているようだが、贈与・返礼に関する限り、それは一見したところ、逆である。西洋人は 「心を込めた(ように感じられる)言葉」 で感謝するが、日本人の多くは「機械的にでもモノを返しておきさえすれば義理は果たせる」と思っている。

私個人としては、モノに対して直接モノで応える日本式の「お返し」という風習(虚礼)は、かなりうっとうしいと思っている。できればなくなってもらいたいぐらいだ。返礼は「お礼の言葉」で十分ではないか。

それに、単に儀礼的な「お返し」でもらうモノ(香典返しとか)って、本当に「つまらないもの」ばっかりで、持って帰るのも面倒だし、持って帰っても食ったり飲んだりするものだとあまりおいしくなかったりするし、そうでないと置き場所やしまい場所に困る。かといって、すぐに捨ててしまうわけにもいかないし、なかなか始末に困るのである。

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2009年8月 3日

やっぱり梅雨は長引いた

いやはや、忙しい。自分から忙しいなんていうのはあまり好きじゃないのだが、正真正銘忙しいのだから、この際、遠慮なく書いてしまう。とにかく忙しい。

やるべき事が 3つも 4つも重なって、手を付けてくれるのを待っている。ところがなかなか手がつかない。えらいことである。

というわけで、今日はあまり長いことは書けない。そのかわり、ちょっと自慢である。

今日、関西・東海地方の梅雨明けが発表された。関東はとっくに梅雨明け宣言が出ているが、実際のところは戻り梅雨気味で、ずっと梅雨が続いていたようなものだ。多分、気象庁はデータを修正することになるだろう。

今年の 5月 1日、私は「今年、旧暦 5月が 2度あるということは、五月雨、つまり梅雨も長引きそうだ」と書いている(参照)。今年は実際、旧暦では閏 5月があるので、五月雨の時期が長引くだろうと書いたのだ。旧暦は日本の季節感にうまく当てはまるといわれるが、結果としてやっぱり梅雨も長引いた。予想通りである。

もっとも、これは私の自慢というよりは、旧暦の強みではあるのだが。

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2009年8月 2日

『唯一郎句集』 レビュー #47

週末恒例の『唯一郎句集』 ビューは、1月から本格的に初めて、50回目が近くなってきた。ずいぶん続けてきたものである。

4回目のレビューで「今年の年末に最後まで辿り着けるか、やってみないとわからない」と書いているが、このペースだと、ぎりぎりか、あるいは年越しになるかというところである。

なかなか本格的な夏空が続くという天候にならないので実感が湧かないが、何しろもう 8月 2日である。今週末には立秋になって、「残暑お見舞い申し上げます」なんて書かなければならない。不思議な夏である。

祖父の句集を、ほぼ 1年かけて最初から最後までレビューしようなどと思い立ったものだから、こんなにも時の流れがわかりにくい年になってしまったのかもしれない。

さて、今日は 3句のレビューである。

籐椅子に並んだ二人の足よ日覆快くふくれ

籐椅子といえば、伯父の家の縁側に年代物があった。多分この句に登場する籐椅子と同じ物だろう。

大正末期か昭和初期、初夏の籐椅子に座る二人は、唯一郎の父と母だろう。まだ父の死んでいない頃の句だ。

「日覆」は夏の季語で、「ひおい」(旧かなでは 「ひおひ」)と読みたい。要するに日除けの簾である。その日覆が、快い風に吹かれて少しだけ内側に膨らんでいる。

この日覆は、縁側と座敷の境に吊されていたのだろう。座敷からは縁側の籐椅子に座る父と母の足だけが見える。庭から見えたのだとしたら、「ふくれ」という感覚ではなくなるだろう。

日覆が「ふくれ」るという表現は、見ようによっては単なる即物的な言い方だが、「快く」が付くことでものすごく斬新になっている。

なかなかハイカラな句である。小津安二郎の映画にでも出てきそうな光景だ。

この夏を淋しがらせじと夜店の薔薇を抱き

「この夏を淋しがらせじと」が、ぐっとくるほどいい。この夏を、夏の家族を、父と母を淋しがらせまいと、初夏の夜店で薔薇を買う。

薔薇である。この句もハイカラである。その薔薇を胸に抱いて家路を急ぐ唯一郎。

若葉けむり暮るる縁側の柱を叩き

ハイカラな 2句を受けて、最後に夕暮れの縁側の句になる。そこには家族の誰も登場せず、けむる若葉と唯一郎だけだ。

萌える若葉を眺め、取り残されたように、ただ呆然と柱を叩く若き唯一郎。

本日はこれにて。

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2009年8月 1日

『唯一郎句集』 レビュー #46

今年の夏の天気は、一体どうなっているのだろう。関東は梅雨が明けたと発表されたのだが、実際は完全に戻り梅雨である。この戻り梅雨はいつ明けるのだろう。

はっきりしない週末だが、恒例の 『唯一郎句集』 レビューである。今日は 2句をレビューしてみる。

今回の 2句も、前々回の "「群像」時代" まで下ってきた年代を、少しだけタイムマシンで遡っているように思われる。『唯一郎句集』の後半を占める "「海紅」 時代" という章は、唯一郎が 「朝日歌壇」で認められてからずっと、「海紅」に載せられた句を拾ったもののようで、その前の章と、時間的にはかなり重なるとみていいだろう。

さっそくレビューである。

山吹莖のシンの白きをわすれず

山吹は背がそんなに高くはならないにしても、一応「木」だから、莖(茎の異体字)と言うのはちょっと意外である。しかも「芯」 という漢字を使わず、片仮名で「シン」と言っているのが暗示的だ。

鮮やかな黄色の花を咲かせる山吹だが、その「莖のシン」は白い。

印刷業を継ぐ決意をしたものの、俳句を追及する志は忘れていない自分を表現したとみるのは、深読みすぎるだろうか。

春日町中の出来事の白い鳥籠

"「朝日歌壇」時代" の章にも「鳥籠」が登場する句がある。「朧明りよ 鳥籠今し声したり」というものだ。それと共通したシュールレアリスティックな感覚の句である。同じ頃に作られたものだろうという気がする。

さて、冒頭の「春日町中の」だが、「かすがまち」といった名称の町は、酒田にはない。これは、「春日」と「町中の」に分けて読まなければならない。「春日」は「しゅんじつ」と読み、俳句の季語である。春ののどかな一日、あるいは春の陽光を意味する。

春のうららかな日に照らされる鳥籠。界隈にはいろいろな出来事があるが、そんなことはこの白い鳥籠には届かない。俗事の中にいながらも、それにはまみれない精神。

本日の 2句のキーワードは、「白」 だ。

本日はこれぎり。

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