感情と論理の狭間で
昨日の裁判員裁判に関する記事へのコメントで、ぐすたふさんが和歌山カレー事件の判決についての疑問を述べてくださった。
その参考記事として、「愛と苦悩の日記」というブログの 「和歌山カレー事件の状況証拠がこれほど脆弱だとは!」 という記事を紹介してくださっている。
紹介された記事は長文だが、ただ長いだけではなく非常にわかりやすく整理されたもので、これを読むことで、私が抱いていたある種の 「割り切れない思い」がかなり整理されたような気がする。つまり、あの事件で林真須美被告を真犯人と断ずるには、ちょっと無理があると思うのだ。
あの事件は世の中でもかなり話題になったので、事件の背景、林夫婦の奇妙なキャラ、それまでの保険金詐欺の実体などがセンセーショナルに報道された。そうしたサイドストーリーを知ってしまえば、被告の印象は、ほとんど真っ黒に近い灰色である。彼女以外に犯人なんかいるものかという考えを持ってしまっても、無理もない。
私としても、個人的には彼女がものすごく怪しいと思う。怪しいとは思うが、彼女が真犯人だと言い切るまでの十分な根拠となってしまうと、はなはだ心許ない。数々のサイドストーリーから導かれた「印象」というのが、一番大きな根拠と言ってもいいぐらいだ。
なにしろ、知れば知るほど「とんでもない、ひどい、しょうもない夫婦」なのである。できればお近づきになりたくないタイプの人たちである。保険金詐欺で食ってきたと言ってもいいぐらいだし。
しかし、それと「カレー事件の判決」とは、分けて考えなければならない。やはり、彼女を真犯人と言い切るには物証不足だと思うし、動機としてあげられているのも、十分な説得力があるようには思えない。
この事件の裁判が裁判員裁判で行われたと仮定して、もし私が裁判員として参加していたとしたら、私は多分「無罪」を主張するだろうと思う。林真須美被告が「絶対にやっていない」とする証拠があるわけではないが、「絶対にやった」と言い切るだけの根拠も薄い。
「疑わしきは被告人の有利に」の原則に従う限り、そうならざるを得ない。「無罪」と言わざるを得ない。
実際には、彼女がヒステリックな感情の爆発で、後先を考えずにやってしまったのかもしれない。その可能性だって、かなり高いと思う。しかし、純粋な「論理」だけでは、そうだとは言い切れない。言い切るには「論理 プラス 感情」が必要だ。
本当は彼女がやってしまったのかも知れないけれど、そしてその可能性を否定するわけではないけれど、それに、あんなひどい女に「無罪」なんて言い渡すのは、確かにけったくそ悪いけれど、裁判制度の「論理性」のためには、私なら感情を捨てるという苦渋の選択をするだろうと思う。
こうしたことを考えるにつけても、よく言われることだが、日本語の「有罪/無罪」という言い回しはちょっと問題ありだと思う。英語の "guilty/not guilty" (有罪/有罪にあらず)の方が、納得しやすい。"Not guilty" のすべてが "innocent" (罪がない、潔白、無邪気)というわけではないのだから。
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コメント
自分も怪しいとは思いますし、保険金詐欺についても無茶苦茶だとは思います。
ただ、ころころ変わっている目撃証言や、論理的に考えて疑問の残る証拠を判決文で採用して死刑、というのはかなり乱暴な気がします。
松本サリン事件で河野さんが取材に答えていたときに、(河野さんには申し訳ないのですが)ひどく冷静に見えたのと独特の話しぶりから、この人が犯人だろうと思い込んでしまいました。ところがその後の展開で、思い込みがいかに危険かということに気付かされました。
当時もいろんな「証拠」が出てきましたがいずれも無関係で、本人の発言もかなり歪められて伝えられていたことが明らかになりましたが、オウムがサリンはまずいと考えてあそこでやめていたら河野さんがどうなっていたかと考えるとぞっとします。
冤罪などというと自分とは無縁だと考えがちですけど、痴漢や交通事故がらみの冤罪は誰の身にも降りかかる可能性があることだと思います。
調書については捜査員の方々の負担になっている部分もあるようなので、人数を増やすなどの措置も必要なのかなと思ったりもします。マスコミ報道が捜査当局のプレッシャーになるような状況も変えていかないといけないでしょうね。
>こうしたことを考えるにつけても、よく言われることだが、日本語の 「有罪/無罪」 という言い回しはちょっと問題ありだと思う。英語の "guilty/not guilty" (有罪/有罪にあらず) の方が、納得しやすい。"Not guilty" のすべてが "innocent" (罪がない、潔白、無邪気) というわけではないのだから。
これは考えてみたことがありませんでしたが、たしかに「無罪」は別の言葉にしたほうがいいかもしれませんね。
投稿: ぐすたふ | 2009年8月 9日 10:38
ぐすたふ さん:
>自分も怪しいとは思いますし、保険金詐欺についても無茶苦茶だとは思います。
>ただ、ころころ変わっている目撃証言や、論理的に考えて疑問の残る証拠を判決文で採用して死刑、というのはかなり乱暴な気がします。
「世間の空気」 なんでしょうね。死刑判決にさせたのは。
「けったくそ悪さ」 に、世間は耐えられないのかもしれません。
>マスコミ報道が捜査当局のプレッシャーになるような状況も変えていかないといけないでしょうね。
松本サリン事件の時も、河野さんは一時、すっかり真犯人扱いされてましたからね。
投稿: tak | 2009年8月 9日 20:39
感情と論理の狭間でのトラバから来ました
個人的には「けったくそ悪さ」よりも、
他に真犯人の居る可能性の方が、恐ろしいです
また、やってもいない罪で殺されることの恐ろしさも想像するに堪えない
投稿: nanashisan | 2009年10月30日 03:26
すいません
「愛と苦悩の日記」 のトラバでした
投稿: nanashisan | 2009年10月30日 03:27
nanashisan さん:
>個人的には「けったくそ悪さ」よりも、
>他に真犯人の居る可能性の方が、恐ろしいです
>また、やってもいない罪で殺されることの恐ろしさも想像するに堪えない
あくまでも、この和歌山カレー事件に限っての話ですが、私の個人的印象しては、他に真犯人がいる可能性はものすごく小さいんじゃないかという気がします。
ですから、(繰り返しますが、この件に限っては) 「他に真犯人の居る可能性の方が、恐ろしい」 という感覚はあまりありません。
ただ、裁判という論理の世界に 「印象」 なんてものを持ち込みたくないので、「有罪」 にはしたくないと考えているわけです。
印象からくる感情としては、私は確かに彼女が犯人と 「決めつけている」 というところがあります。
しかし、私の論理がそれを認めないし、私は感情より論理を尊重したいという建前をもっているので、本音としては 「けったくそ悪い」 気もするけど、「無罪」 と言いたいなと。
その意味で、私は 「建前重視」 です。
「建前論」 の復権を
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2005/02/__1.html
本音と建前の使い方
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2006/09/post_fbf2.html
投稿: tak | 2009年10月30日 10:22