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2009年9月に作成された投稿

2009年9月30日

(勝手ながら) 新聞に望むこと

近頃、本当に新聞を読まなくなってしまった。ニュースは電車に乗っている間に、iPhone で Google や 日経のサイトに行って読む。

朝のあわただしい時に、あの大きな紙の新聞を広げたり折りたたんだりして読んでいたのが、今となっては信じられないほどだ。フツーの情報収集なら、ネットで十分である。

十分どころではない。ネットでは複数のメディアの読み比べが容易にできるので、かえってありがたい。日本の新聞の記事なんて、どれを読んでもそれほど大した違いはないとはいえ、例えば、朝日と産経を読み比べたら、それはそれは、笑ってしまうほどの視点の違いがあったりする。

ところが、紙の新聞がまったく要らないというわけでもない。その証拠に、我が家では依然として新聞を購読している。私の妻はあまりインターネットとの親和性を発揮しなくて、相変わらずアナログの紙の新聞のファンだし。

ところが、私の妻とて紙の新聞のニュースを丹念に読んでいるというわけではないようなのだ。彼女が熱心に読んでいるのは、家庭欄とか文化欄とか書評欄とか、もっぱらそうしたページである。そして、実は私も新聞の文化欄などは、日曜日などにまとめ読みしている。だって、インターネットのニュースに載らないんだもの。

インターネットのニュースばかり読んでいると、頭の中身がフツーの会社のオッサンみたいになってしまう。それだけは避けたい。だって、つまらないじゃないか。どうしてネットのニュースって、政治、経済、国際、社会、スポーツ、芸能欄しかないんだろう。

ネットのニュースで文化欄や書評欄の記事が読めたら、こんな嬉しいことはないのにと思う。しかし、ほとんどの新聞社はそこまではネット配信してくれる気はないようだ。ということは、ニーズがないんだろうか。それとも、ニーズがないと、勝手に思いこんでいるんだろうか。

まあ、文化欄の記事をネット配信してくれないなら、それはそれでいい。そうした情報は、個人のブログなどで補えないこともないから。ただ、それでもいつもアクセスしているブログの管理人が、一人で広範な文化情報を伝えてくれるというわけじゃないので、新聞の情報も欲しいところなのである。

というわけで、結局のところ私の希望というのは、新聞が文化的情報を日曜版に集約してどっと届けてくれたらということなのだ。そうすれば、勝手な願いだが、新聞の定期購読なんかしないで日曜版だけを買って済ませることもできる。普段のニュースはネットで読めばいいから。

例えていえば、あのニューヨーク・タイムズの日曜版みたいなやつだ。普段の新聞の何倍もの厚みのあるやつ。そうなると、ほとんど週刊誌みたいなものかもしれないが、あくまでゴシップ中心でなくまともな権威のある文化記事を、一週間分まとめて読みたいと思うのである。

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2009年9月29日

Thunderbird から iPhone へのメール転送

以前はケータイなんて、通話と家族とのちょっとしたメールにしか使っていなかったのだが、7月に iPhone に乗り換えて以来、かなりヘビーに使いこなしている。

もしかして、スケジュール管理なども、これまでの「超」整理手帳 から iPhone に中心が移ることになるかも知れないほどだ。

7月まで使っていたケータイだって、スケジュール管理の機能ぐらい付いていたように思うが、それは形だけのことで、実際には使える代物ではなかった。なにしろ、あのテンキーで日本語を入力するのは、QWERTY キーボードに慣れ親しんだ私には拷問に近いものだったし、老眼になってしまった身には、画面の小ささも致命的だった。

ところが、iPhone は使えるのである。それに容量が 32GB もあるから、出張などでも必要な情報をすべて iPhone に放り込んでしまえば、これまでのように行き先やホテルの地図、飛行機や鉄道の乗り継ぎ、先方との打ち合わせの要点などをいちいちプリントアウトして、「超」整理手帳に折り込んで持って行く必要もない。

10年以上も慣れ親しんできた 「超」整理手帳 だが、このまま行ってしまうと、2010年版は買わないことになってしまうかもしれない。使い始めた頃は 「こんな便利な手帳はない」と思ったほどだが、時代は変わるものである。

「超」整理手帳 の最も便利なポイントは、必要な資料を A4 サイズでプリントアウトし、それを四つ折りにするとリフィルと同じサイズになるので、手帳のカバーに差し込んで持ち歩けることだった。これは本当に便利だったのである。

ところが、iPhone を使い始めると、これまでプリントアウトしていたものを、データとして持ち歩けることに気付いた。訪問先やホテルへの地図は、iPhone のマップ機能を使えばいつでも画面で見ることができ、それだけでなくリアルタイムでナビゲートまでしてくれる。

連絡先を登録するとき、電話番号だけでなく、最初はちょっと面倒だが、住所も登録してしまうと、あとはポンと指でタップするだけでピンポイントの地図を表示してくれる。初めて行くところや、年に一度ぐらいしか行かないので道順を忘れてしまいがちの訪問先を登録しておくと、方向音痴の私には後々とても便利なのだ。

飛行機や鉄道の乗り換え情報も、その都度 iPhone を見ればいい。細かいデータも、メールとして iPhone に転送しておけばいつでも見ることができるから、いちいちプリントアウトして持ち歩かなくて済む。ずぼらな私には、本当にありがたいことなのである。

ただ、この iPhone メールに転送するにあたっては、ちょっとした紆余曲折があった。私はメーラーに Thunderbird を使っているのだが、これで iPhone に転送すると、転送内容が eml として添付ファイルになってしまい、これがなぜか、iPhone では開いてみることができないのである。

しかたがないので、Gmail のアカウントに転送し、iPhone 標準ブラウザーの Safari からアクセスして開いていた。ブラウザーで見ると開けるのだが、iPhone デフォルトの「メール」という機能を使うと、開けないのである。サクサク見られるデフォルト機能が使えず、いちいちブラウザーを開くというのは、ちょっとしたストレスだった。

ところがこの問題も、いろいろトライしてみた結果、このほどめでたく解決した。同じ悩みを抱えている人もいると思うので、ノウハウを公開しよう。この問題は、Thunderbird 側の設定で回避できるのだ。

Thunderbird というメーラーはメールを転送するとき、転送される内容を本文中のテキストとしてではなく、eml として添付するのがデフォルトになっているようなのである。すると、iPhone で受け取った場合、開けなくて難儀なことになるのだ。PC でなら何のことなく開けるのに。

ということは、この問題の解決策は Phone の側ではなく、Thunderbird の設定にある。Thunderbird の側で、メッセージを転送するときの設定において、元のメッセージを「ファイルとして添付する」ではなく「メール本文に含める」にしてしまえばいいのだ。

やり方は、Thunderbird のメニューバーから「ツール - オプション」を開き、開いた小さなウィンドウで「編集 - 一般」を選択する。すると一番上にメッセージを転送するときの設定欄があり、プルダウンメニューから「メール本文に含める」を選択して、「OK」ボタンを押せば、それで終わり。(Version 2.0.0.23 で確認)

こうしてから試しに iPhone にメールを転送してみると、ちゃんと本文中に転送メッセージが表示され、Word, Excel, PowePoint などの添付ファイルまで、多少の文字化けや表示の崩れはあるが、開いてみることができる。どうせメモとして参照するだけだから、そのくらいの崩れは我慢できる。

これでいろいろなデータをいちいちプリントアウトすることなく、iPhone だけで持ち歩くことができるようになった。かなり身軽になった気がする。ますます使い勝手がよくなって、「超」整理手帳 の影が薄くなりつつある今日この頃なのである。

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2009年9月28日

「デリニエーター」というものを廻る冒険

この年になって初めて知った英単語がある。"Delineate" という言葉だ。「輪郭を描く、描写する」という意味がある (参照)。

"Line" (線) という単語に「完全」といった意味を付加する "de" という接頭語 「~する」という意味にするための接尾辞 "ate" が付いたんだろう。

"~ ate" で動詞化されるのは、"active"(活発な)、"activate"(活性化する) などの例でもお馴染みだろう。

ところで、なんでこんな単語を初めて知ったのかというと、道路脇などに取り付けられている反射板(リフレクター)に興味を持ってしまったからである。あれ、専門用語で 「デリニエーター」 というのだそうだ。で、調べてみたら英語の "delineator" (「輪郭描き装置」 とでもいえばいいのかなあ)というのが元々の言葉なんだそうだ。

日本語では 「視線誘導施設」 というのだそうだ。日本語の方がより具体的なような気がしてしまうが、じゃあ要するに一体何なんだと言われると、いきなりそう言われただけではわからない。実際は五十歩百歩である。百聞は一見にしかずで、Wikipedia に飛んで見ればすぐにわかる(参照)。

真っ暗な夜道を運転していると、道路がこの先真っ直ぐなのかカーブしているのか、あるいは道路の端っこがどこなんだか、全然わからなくなってしまうことがある。そんな時、このデリニエーターがあると、反射光で道路の幅と曲り具合がわかるので、安心感がある。

そして、そのありがたみが実際にわかっていると、日本語で「視線誘導施設」と言われても、英語で「輪郭描き装置」と言われても、両方「なるほどね」としっくりくる。

こんなものは日本中の道路で見ることができるので、珍しくもなんともないのだが、私がちょっと感心してしまったのは、水戸街道(国道 6号線)の取手駅付近で見つけたデリニエーターだ。風車が付いているのである。

Crack_090928 リフレクターの表面に風車がついて、車が通りすぎる時の風圧でくるくる回るのは、ここだけでなく日本中で見られるが、私はこれの意義がわかっていなかった。単に「目立たせるための酔狂」と思っていたのである。ところが、よくみると決して酔狂ではなかったのだった。

風車のように回る 3本のアームには、ブラシが付いていたのである。しかもそれぞれ、外側、中程、内側と、別の位置にブラシが付いていて、3本が回ることでリフレクターの全面がブラシで掃除されるという仕掛けなのだ。セルフクリーニング方式である。

粉塵の多い道路では、あっという間にリフレクターの表面が汚れて、反射効果が低下してしまうだろうから、こんな仕掛けで自動的に、しかも電気などのエネルギーを使わずに掃除されるというのは、なかなかのアイデアである。これを考えた人は偉い。

ところで、案外知られていないのだが、リフレクターというのは、光を当てるとどこからでも光って見えるというわけじゃない。自動車のヘッドライトなどで照らすと、その自動車の方向にだけ光って見える。他の方向からは、リフレクターの反射光は見えないのだ。

一見すると、入射角と反射角という理屈を無視しているのである。普通は光を当てた方向とは反対側の方向に反射光が行ってしまうのだが、リフレクターは、どうして光を当てた方向にのみ反射して見えるのか。正面からならまだわかるが、かなり斜めから光を当てても、光の来た方向にのみ反射光が返る。これが不思議でなくてなんだろう。

その原理を知ったのは、私が 30歳を過ぎてからのことである。まだご存じない方は、こちら をご覧いただきたい。感動するほどわかりやすく図解してある。文系の私としては、「世の中には頭のいい人がいるものだなあ」と、ひたすら感心するばかりである。

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2009年9月27日

『唯一郎句集』 レビュー #65

今週が終わらないうちに 9月が終わる。そうすれば、今年もあとわずか 3ヶ月しかなくなる。人の世はあわただしいことである。

あまりあわただしい中にどっぷりと浸っていると、心までせわしくなってしまうから、時には俳句や和歌の世界にひたって、少しは別の次元の時の流れに身を任せるのがいい。

というわけで、『唯一郎句集』のレビューもこれで 64回目ということになった。さっそくだが、今日は真夏の 3句である。

古ぼけた蚊帳の匂ひよ螢をころす

昔はどこの家でも夏の夜は蚊帳を吊って寝ていた。年代物の蚊帳は独特の匂いがあったのだろう。決して不快な匂いではなかったようだが。

この蚊帳の中に誤って入ってきた螢をつい叩いて殺してしまったのだろうか。今は螢は貴重品扱いだが、昔はどこにでもいたので、それほどの感傷はなかたのかもしれない。それにしても、暗闇の中でぼうっと光る螢を殺してしまったので、少し夢見が悪かったのかもしれない。

夏夕妻を叱りたる心天を胸につまらすなり

「夏夕」 は普通の辞書には載っていないほど珍しい言葉だが、俳句の世界では「なつゆうべ」と読むらしい。当然ながら夏の季語になっている。

「心天」は「ところてん」の当て字。「心太」と書くのが本来だが、音のよく似た「心天」 の表記も並行して使われていた。

夏の夕べに心ならずも妻を叱ったので、普通は胸につかえるはずのないところてんが胸につまる気がする。繊細な心である。

随身の女の悲しみ見る夏草の夜にしげり

「随身」とは、お供をすること、または付き従うこと。上記の句と同じ夜に作られた句だろうか。叱ってしまったものの、妻の悲しみがわかるような気がする夏の夜。

暗い庭に夏草が茂っていて、そこで虫が小さな声で鳴いている。

本日はこれぎり。

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2009年9月26日

『唯一郎句集』 レビュー #64

秋の彼岸が過ぎて、初めての週末。雲は多いが、雨の心配はないという土曜日になった。近所から子どもの声が聞こえる。

しばらく子どもの声のない街並みだったが、この住宅地ができた頃に子どもだった世代に、子どもができ始めている。私もここに住み始めて 30年近くになっているわけだ。

さて、週末恒例の『唯一郎句集』レビューである。前回に引き続き、初夏の頃から真夏の頃と思われる 4句。初めの 3句が見開きの右側のページにあり、4句目は「父三周忌」として、左側に 1句だけ載せられている。

雀の巣の藁を垂れたるままなり

雀は屋根の隙間などに巣を作るので、人の目は届かない。ただ、巣の下に材料の藁くずなどが散乱していると、その上に雀が巣を作ったのだとわかることがある。

この句のように、多分軒下にだろうが、藁くずなどが垂れ下がったままになっていると、そこに雀の巣があると、誰にでもわかってしまう。

軒下で、風に吹かれている藁くず。ほほえましいが、なんとはなしに中途半端な光景。もしかしたら、自分の身の上と重なる思いがあったかもしれない。

風の夜の蛙の声とだえてはひたすら聞ゆ

風の強い夜、一際の強風がごぉっと渡ると、さしもの蛙の大合唱も一度途絶えることがある。

一度途絶えても、すぐにまた聞こえてくる。ひたすら鳴き続ける蛙たち。

あるいは、風がわたって途絶えている間でも、しーんとした静寂の中にいながら、耳の奥で蛙の声はひたすら聞こえているのかもしれない。

順々に接木をしては咽せて居るなり

庭の気の手入れをする唯一郎。順々に接木をしている。そして時々咽せて咳をする。

ただそれだけの句である。それだけなのだが、妙な高密度を感じさせる。

目の前の植木、その他の要素は一切視界にない。そして自分の体の側のいがらっぽさ。小さな小さな無関係の関係性。

  父三周忌

やすけやしおくつきの夏草の花にかしこまる

いつの間にか、父の三周忌の句になっている。

ちなみに三周忌とはあまり聞かない言い方で、普通は「三回忌」である。亡くなった翌年は、いわば「満年齢」のような数え方で 「一周忌」、その翌年から「数え年」的なコンセプトで「三回忌」というようになる。

ただ、Goo 辞書で「三周忌」を引くと「三回忌」と出てくるから、一周忌をすぎてしまってからの言い方は、あまり厳密な区別はしないようだ。だから、この句も父が亡くなってから 2年目の命日に作られたのだろう。

「やすけやし」とはまた、ずいぶん古めかしい言い方だ。少なくとも私は、この句のほかにこの言い方を知らない。

三省堂の『例解古語辞典』を引くと「安けく」という言葉があり、「く」は上代の助詞で、「心が穏やかなこと、心が安らかなこと」とある。父の御霊に向かい「安らかであってください」という深い詠嘆の心が、凝縮されて「やすけやし」という言葉になっている。

「おくつき」は「奥つ城」で、本来は外界から離れた神聖な霊域を指すが、一般的には「お墓」のことである。夏草の繁る父の墓所に花を供え、かしこまって手を合わせる唯一郎の姿が目に浮かぶ。

「夏草の花にかしこまる」という表現が、「周囲の夏草が供えられた花にかしこまるように、子孫がおしなべて亡き父にかしこまる」という比喩のように思われる。

唯一郎は信仰心篤く親孝行であったと伝えられるが、この句にもそれが現れている。

本日はこれぎり。

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2009年9月25日

エコナとタバコ

いささか旧聞になりかかっているが、花王が特定保健用食品「エコナ」シリーズ全商品の出荷を停止したと伝えられた。(参照

商品に「グリシドール脂肪酸エステル」が多く含まれ、これが体内で発がん性のある「グリシドール」という物質に分解される可能性があるためだという。

ただ、この問題について花王は「安全性に問題はない」としている。いささか無責任な発言にも受け取られかねないが、余計な混乱を回避するためには、まあ、妥当な発言だと私は思っている。

今回の出荷停止の直接的な理由は、「欧州を中心にグリシドール脂肪酸エステルの安全性を懸念する声が高まっている」ためらしい。ただ、グリシドール脂肪酸エステルがグリシドールに分解されるメカニズムや可能性は、まだよくわかっていないという状態で、その危険性についてもよくわからないというのが実情のようだ。

簡単に言ってしまうと、エコナに含まれるある物質が体内で分解されると、発がん性があるといわれる物質が生じるかも知れないが、詳しくはまだよくわかっていないという程度のリスクということなのだろう。

というわけなので、あまり騒ぎだてする必要はないが、念のため、販売は自粛しますというのが、今回の花王の措置だ。なにぶん、口から体内に入ってしまうものだし、大事を取るに越したことはない。企業としては妥当な措置だと思う。

発がん性のある物質、あるいは化学変化によって発がん性物質を生じる可能性のある物質なんて、実は身の回りに結構いっぱいあって、できるだけ排除するに越したことはないが、あまり気に病むと切りがないのである。(参照

ただ、それにつけても不思議でならないのが、タバコの販売である。「発がん性のある物質が生じるかも知れないけど、詳しいことはまだよくわかっていない」 という商品がいち早く出荷停止になるのに、発がん性が明らかな (販売元が自分で認めて、パッケージに表示している) タバコは、相変わらず堂々と売られている。

喫煙者は覚悟の上で吸っているからいいというのかもしれないが、周囲で煙を吸わされる人間は覚悟なんてしていない。エライ迷惑なのである。エコナは、少なくとも周囲の人間にまで迷惑を及ぼさない。

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2009年9月24日

公益法人見直しで思うこと

民主党政府は公益法人の見直しを行うと明言している。いいことである。無駄な法人は本当にたくさんあるから。

大分前のことだが、ある地方都市のパンフレットを英訳するという仕事を請け負ったことがある。外国人向けにアピールする必要があるからというのだ。

パンフレットの巻末には、その地方都市にある官庁、公益団体の名前がずらずらっとリストアップされている。それも全部英訳してもらいたいという。そこで当然にも、私は依頼会社の担当者にこう言った。

「ちょっと待ってくださいよ。官庁や団体の固有名詞を勝手に英訳してしまっちゃ、まずいでしょ。正式の英文名称があるはずだから、それをまとめて送ってちょうだいよ」
「いやぁ、そんなのないみたいですよ。日本語の名前しかないみたい。この際、一度に英文名をつけてもらう方がいいって言ってます」
「いくらなんでも、そんなはずないでしょ。そこの団体の職員が海外出張するときとか、どんな名刺持っていったわけ?」
「海外出張なんて滅多にないし、たまにあっても、いつも適当にやってて、フィックスされた英文名称ってないみたい。だからこの際、お願いしますよ」

というわけで、半ばあきれながら翻訳にとりかかったのだが、そこでまた困ってしまった。英語に翻訳するとまったく同じになってしまうような、とてもよく似た名前の団体がいくつもあるのだ。日本語の小手先レベルで表現を微妙に変化させても、フツーに英語にすると、みんな同じ言い方に収斂されてしまう。

名は体を表すというから、同じような仕事をする団体が、いくつもあるということである。私はまた、担当者に問い合わせた。

「どう考えても同じようなことをしてるとしか思えない、似た名前の法人がたくさんあるんですけど、これって、どう区別したらいいんですか?」
「まあ、確かに、似たようなことを垣根争いしながらやってるみたいです。そこはまあ、適当にお願いします」

まあ、実態って、そんなようなことらしいのだ。

私はその仕事を請け負うまで、そんな地方都市のレベルでまで、一つの団体でこなせるような仕事を、3つも 4つもの団体が群がって、妙な分業でこなしているとは、実感として知らなかった。同じような仕事をいろいろな複数の団体が分業的に受け持って、それぞれに理事長だの専務理事だの事務局長だの経理担当だのがいるわけだ。

誰が考えても、似たような仕事は一つの団体がまとめてやる方が効率がいいのだが、効率よりも天下り先のポストをたくさん用意する方が重要と考える人が力を持っているから、こうなるのである。「本当にもう、一体、誰の金だと思ってるんだよ」と、私はつぶやいたものである。

それぞれの団体が少しは収益事業(まあ、ちょっとした手数料徴収とか)を運営してはいるんだろうが、多くは税金が注ぎ込まれているのである。うまくやればそれぞれ 1人ずつで済むはずの理事長とか、専務理事とか、事務局長とか、経理担当とかが、それぞれ団体の数だけ存在し、その複数分の給料を税金を注ぎ込んで払っているのだ。

民主党政権になって、こうした公益団体の見直しを行うというのは、大賛成である。政権交代がないと、こうしたことはやりにくい。何度も書いているように、私は全然民主党支持ではないのだけれど、やはり時々は政権交代のある方がいい。

ちなみに、前にもちょっと書いたのだが、私がさんざんくさした「正しい和食認証制度」関連で、いつの間にか、ちゃんと農水省関連の立派な天下り先ができていた(参照)。「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」なんていう法人である。これがどれほど役に立つものなのか、私には甚だ疑問である。

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2009年9月23日

小沢昭一さんが 80歳なんだって

あの小沢昭一さん(小沢一郎ではない)が、『道楽三昧―遊びつづけて八十年』(岩波新書)という本を出されたそうだ。

「なに、80年だと !?」とビックリして Wikipedia で調べてみると、確かに「生年月日 1929年4月6日(80歳)」とある。なるほど、80歳に間違いがない。

いやはや、お元気なものである。あの TBS ラジオの名物番組 『小沢昭一の小沢昭一的こころ』 を聞いている限りでは、80歳とは到底思えない。同じ TBS の『土曜ワイドラジオ TOKYO 永六輔その新世界』を聞いていて、こう言ってはなんだが、「永さん、近頃、しゃべりがじいさんっぽくなっちゃったなあ」と思ってしまうのとはえらい違いである。

しかも、小沢昭一さんの方が永六輔さんより 4つも年上なのである。この若々しさは、驚異的だ。芸能というものをやっていると、年とりにくいのかなあ。

思えば、小沢昭一・著『私は河原乞食・考』は、私の人生の方向を決定づけた本の一つである。早稲田大学第一文学部演劇学科なんていう妙な学科を選択してしまったのも、高校時代にこの本を読んでしまったというのが、その理由の一つだ。その後の人生、経済的には一向にうだつが上がらないのは、この人のせいである。

TBS ラジオの『小沢昭一的こころ』には、ミヤサカお父さんという、ちょっとスケベだがいたって小心のオジサンが登場する。ただ「ミヤサカお父さん」は、固定的な人物ではない。しがないサラリーマンだったり、ミヤサカ薬局の店長さんだったりする。

昔、毎日新聞に連載されていた加藤芳郎さんの『まっぴら君』に、「まっぴら君」という固定した主人公がいなかったのと、ちょっと似ている。「ミヤサカお父さん」は、日本の中高年男子の最大公約数ともいえる。それを小沢昭一さんが絶妙の「口演」で語る。

私は小沢さんの歌う「唱歌」が好きだ。歌手ではないからこそ、「唱歌」があんなにも演劇的なのである。いつまでもあの「唱歌」を歌い続けてもらいたいと思う。

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2009年9月22日

「渋滞吸収運転」の威力

3年以上も前の "「渋滞学」 ってのは、面白そうだ" という私の記事は、今でも検索サイト経由で訪問者の多い記事になっている。

なにしろ、「渋滞学」 でググルと、今日現在、私の記事が上から 6番目のポジションにいる。それどころか、1~2年前は私の記事が長らくトップにランクされていた。

件の記事で紹介した 『渋滞学』という本の著者、西成活裕先生は、3年前は東大助教授という肩書きだったが、今は教授になられているようだ。渋滞学という斬新な視点の学問が世間の注目を集めたことが大きいんではなかろうか。

3年前、私もさっそく『渋滞学』という本を買って読んだのだが、そのレビューをしそびれていた。今さらのようだが、なかなかおもしろいのでオススメである。渋滞回避のヒントが得られるばかりでなく、人間学の一環としても興味深い。

私がこの本を読んで得た渋滞回避運転のヒントは、ブレーキを踏まないということだ。それでは危なすぎるじゃないかという人のために、もう少し詳しく言うが、やたらとブレーキを踏んでブレーキランプを点灯させなくてもいいように、前の車との車間距離をたっぷりととって、ゆっくりと行くのが渋滞回避につながるのである。

ブレーキランプが灯るというのは、とにかく渋滞の一番大きな原因になるんじゃなかろうかとさえ思える。後に続く車が軒並みブレーキを踏んでしまうので、団子になる。そして、そこが渋滞の先頭になりやすい。

高速道路のトンネルの入り口などで、少なからぬ車が無意識に速度を落とす。その後にぴったりとつけていた車は、追突を避けるためにブレーキを踏む。すると、そこから後の車が連鎖的に全部ブレーキを踏む。それで、トンネルの入り口は渋滞の先頭になりやすい。

この現象で有名なのが、東北道の福島トンネル付近である。単にトンネルがあるというだけの理由で、そこに渋滞が発生し、そこを通り過ぎると嘘のように渋滞は解消される。

今年のゴールデンウィークの帰郷の際に、私は西成教授のいう「渋滞吸収運転」 というのを心がけてみた。高速道路に「○km 先、渋滞」という表示があるのを発見すると、意識してスピードを落とすのである。すると、確かに周囲の車は増えるが、本格的渋滞の最後尾にはなかなか追いつかない。

そして、スピードは確かに落ちるが、時速 60km より遅くなることはほとんどない。だから、ストレスもない。気付いてみると、渋滞区間と言われていたポイントは知らぬ間に通り過ぎていて、そこから先はまたスムーズな高速運転ができる。

こうした「渋滞吸収運転」について、Trendy Net で紹介されているのでご覧いただきたい(参照)。「『ゆっくり走る』は金も時間もオトク」なのだそうだ。

実は昨日も常磐道を通って水戸方面から帰ってくるとき、同じように渋滞吸収運転をした。道路の電光表示は、「友部パーキングより先は渋滞 20km」となっている。それで、友部の手前で意識して時速を 80km 以下に落とした。前の車との車間距離は、意識して「なんでこんなに」と思えるほど十分に取る。

なるほど、友部パーキングを過ぎると、周囲を走る車の台数がやたらと増え始め、スピードが遅くなる。時速 80km すら維持できない。大体 60km ぐらいになる。だが、車間距離を十分とっている限り、極端なノロノロ運転になるということはほとんどないし、ましてやストップしてしまうということはない。

車間距離が短いと、追突を避けるために急ブレーキをかけなければならない事態が頻繁に生じるが、前の車との余裕が十分だと、その必要はない。前の車のブレーキランプが点灯しても、こちらはエンジンブレーキで対応できるので、あまりブレーキを踏む必要がない。すると、後ろの車もブレーキを踏まずに済んでいるはずだ。

時として時速 30km ぐらいにまで落ちるが、それは長くは続かず、すぐに時速 60km ぐらいに回復する。だから、あまりストレスはない。下手に急いで前の車との車間距離を詰めたら、ストップしないまでも、時速 5km 以下の歩くより遅いノロノロ運転に、頻繁に陥ってしまっていたと思う。

で、ふと気づくといつの間にか渋滞区間を通り抜け、時速 100km が回復されていた。この間、スピードが極端に落ちた時でもブレーキを踏んでいないので、燃費効率は落ちていないはずだ。経済的で、ストレスがないというのは、なによりである。

問題は、件の記事で紹介されていたように「金も時間もオトク」かどうかだ。金に関しては、ほぼ確実にオトクになっていると思うが、時間もオトクだったかどうかは検証できない。ただ、少なくとも「ゆっくり走ったから時間がかかった」というような実感はない。一度も止まらずに済んでいるので、全然遅くなってはいないと思う。

こうした「渋滞吸収運転」が多くのドライバーに認知され、実感として理解されれば、高速道路上の渋滞は劇的に減ると思う。渋滞は下手な運転のせいで、必要以上に作り出されているのだ。

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2009年9月21日

カップヌードル 1個のための蕩尽

カップヌードルが「生誕 38周年」だそうで、日清食品が記念イベントを開き、渋谷で 3万食を配布したところ、無料試食コーナーに 2時間待ちの列ができたんだそうだ (参照)。

目黒の「さんま祭り」でも、さんま 1尾をもらうのに 3時間行列する(参照)というから、日本というのは、世にも珍しい国である。

普通に考えれば、カップヌードル 1個やさんま 1尾をただでもらうために 2~3時間も行列に並ぶというのは、飢えに苦しんでいるわけでもない日本では、尋常な考えではない。日本人というのはそんな「尋常でないこと」を平気でする国民なのかと思われてしまいそうだ。

しかしこのニュースをして、「日本人というのは尋常でない国民だ」と決めつけるのも考え物だ。というのは、この日の該当時間帯に渋谷を訪れた人が何十万人いるか知らないが、列に並んでまでカップヌードル 1個をもらった人は、「たった 3万人」なのである。ちらりと横目で見て通り過ぎた人の方が、比較にならないほど多いのだ。

しかも、その 3万人の中のかなりの部分は、「サクラ」である。こうしたイベントを開くのに、最初に列を作るサクラを用意しないのは考えられない。そして列ができた初期の頃は、それほど並ばなくてもカップヌードルにありつけたはずである。2時間も並んだのは、3万人のうちのよほど後になってから並んだ一部の人たちだ。

だから、カップヌードル 1個のために 2時間も並ぶという「ちょっと尋常でない」人というのは、当日渋谷に訪れた中でも、ほんの数千人だったろう。何十万人という多くの人の中の数千人ぐらいなら、まあ渋谷という土地柄もあるし、群衆心理も手伝って、このくらいのことはするだろうということだ。

さらに目黒のさんま祭りにいたっては、「縁起物」でもあるし、明確にその目的で目黒まで出かけているのだから、3時間ぐらいは並ぶだろう。周囲では退屈しないイベントだっていろいろあっただろうし。

考えてみれば、人間というのは馬鹿馬鹿しいことに相当な時間を使っている。カップヌードルやさんまばかりではない。経済人類学では「過剰/蕩尽」という理論があるが、人間は時としてどうでもいいことに貴重な時間さえも蕩尽して、しかもそれなりの満足を得てしまうという存在のようなのだ。

ところで、日清食品がこんな大イベントを打ったのは、カップヌードル「生誕 38周年」を記念してのことだというのだが、どうして 「38周年」などという中途半端な年にやらなければならないのだろう。法事なら十三回忌とか十七回忌とかがあるが、それはそれなりに根拠がある。生誕 38周年とは、不思議といえば、こちらの方がずっと不思議だ。

その疑問の答えらしきものは、件の記事の中にある。「今回のイベントは誕生以来、初めて具材を一新したことを機に実施した」 という文言である。ふぅん、ごれでは「不思議感」がますます膨らんだような気がするがなあ。

ちなみに、カップヌードル誕生以来の 38年間で、私は、正確にカウントしたわけではないが、カップヌードルを食べたのは 10回あるかないかというぐらいだと思う。「他に食い物がないわけじゃあるまいし」と思ってしまうのだよね。たったあれしきのものを食っただけで、後に発泡スチロールの変な容器が残るのも割り切れない気がするし。

最近では、1~2年前にどこだか忘れたがうらさびしい地方都市に出張したとき、晩飯を食いっぱぐれ、夜中に腹が空いてしょうがなくなって、ビジネスホテルのロビーの自動販売機で売られていたのを食ったという 1度きりである。あのときは、他に食い物がなかったのだ。

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2009年9月20日

『唯一郎句集』 レビュー #63

ちょっとした秋の連休だが、私は全然休みではない。「シルバーウィーク」 といういう名前が白々しく聞こえる。

『唯一郎句集』も続きに続いて、今回が 62回目。今回の 3句は、なかなかやっかいだ。単純そうでいて、なかなかその奥が見えない。どう読んだらいいのだろう。

唯一郎の句は、短歌より長いかと思うと、急に短くなったりする。普通の五・七・五より短いのは滅多にないが、それでも時々現れる。そんな句に限って、難解である。

まあ、仕方がないからレビューに移ろう。

麻畑に立ちし男たちまち消えて見えず

47回目と 48回目のレビューで取り上げた句にも、麻が出てくる。「握れるだけの麻を引き抜きさりげなしや」 「ある時麻畑をめぐり我身ひじりの如き」 という 2句だ。

麻畑というものについて、唯一郎はなんとなく不思議な感覚を抱いているようだ。周囲はうっそうとした麻。背高く生茂った麻の上に見える狭い空。どこか目眩を起こさせるような光景だからだろうか。

麻畑の中で、たちまち見失ってしまった男は誰だったのか。あるいは自分自身の幻想だったのか。

麦を刈る刈りのこせる父

これもまたやっかいな句である。省略が効きすぎて、よくわからない。

しかし、この句は唯一郎の父が亡くなってからの句と思われる。麦をきれいに刈っても、父に関する息子としての、しかも長男としての思いは、整理がついていない。

なまじ旧家に生まれただけに、好きな俳句の路は趣味にとどめて、家業を継がなければならなかった。その家業を始めた父が亡くなってからでさえ、どのような位置付けにしておくべきか、迷ってしまっている。

一つ二つ螢をとらへ吾子と行く青萱のみち

麻、麦と続いて、今度は青萱である。まだ枯れた色になっていない萱だ。昔の庄内はいろいろな作物があったのだと感心する。

その青萱の茂る道は、水路に沿っているのだろう。螢の光りが糸を引くように飛び交う。子どもを連れて、その螢を捕らえながら夜道を歩く。ようやくわかりやすい句になった。

今日はこれぎり。

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2009年9月19日

『唯一郎句集』 レビュー #62

あっという間にまた週末。恒例の『唯一郎句集』のレビューである。前回は早春の句だったのに、もう初夏の句になってしまった。

『海紅』という雑誌に載った句を集めた章なのだが、この頃、唯一郎は寡作になっていたのだろうか。それとも、多く作っていてもそれほど雑誌に投稿しなかったのだろうか。

何しろ、句帳を持たずに俳句は作り捨てみたいな人だったらしいので、後世に残るのはこの『唯一郎句集』に載せられた作品しかない。だから、順を追ってレビューしていくしかないのである。

とりあえず、今日は 3句。

あはれ鮎釣りの股間へ朝の川霧が吹きあげて來る

風流なようで、ちょっと滑稽味を感じさせるような句である。唯一郎は時々こんなような味わいの句を作る。

滑稽味はあるけれど、やはり風流である。情景描写的でいて、身体的実感もある。不思議な句である。

夏山の霧に祈る隠行の男まなこきたなし

不思議な句といえば、これもまたずいぶん不思議である。

庄内は山岳信仰の本場で、羽黒山などは山伏の本拠地みたいなところだ。で、こう言ってはなんだが、山伏の中にもずいぶん怪しげなのはいたのである。

夏山の霧の中でひっそりと行をしている男の、眼差しが妙に生臭かったりもするのである。前の句よりもさらに身体性が重い句である。

谷川の一つ岩しぶきにぬれてせきれいを翔ばし

前の 2句とは対照的に、きれいに風流が決まっている。谷川の中の一つ岩に激しいしぶきがかかり、そこに止まっていたセキレイが急に飛び立つ。

セキレイの飛ぶのが見えるのは、ほんの一瞬である。飛び去った後は、しぶきに濡れる一つ岩が残るのみ。

本日はこれぎり。

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2009年9月18日

「脱官僚国家」 ということ

民主党政権は官僚の記者会見禁止の方針を打ち出すなど、「脱官僚国家」のビジョンを強調している。官僚は近頃、すっかり悪役になってしまっているようだ。

別にかばい立てする義理はないが、官僚が根本的に悪いわけではないと、私は思っている。ただ「制度疲労」を起こしていたのだ。

近頃の日本は、確かに「官僚主導」と思われてもしかたのないことが多かった。要するに「官僚国家」の様相を呈していたのだと思う。大抵の施策は官僚がお膳立てし、しかもそのお膳立てが微に入り細に入り、役人のさじ加減で決められているという場合が多かった。

中には、「そんな施策、何の意味があるの?」というような、はっきり言って無駄としか思われないことでも、勘ぐれば(というか、別に勘ぐらなくても)、官僚の点数稼ぎ(内容はともかく、形式的な実績作り)のために進められているというようなことも、いくつもあったし、今でもある。

そしてそんな馬鹿馬鹿しいことに、税金は容赦なく注ぎ込まれてきたし、現に今も注ぎ込まれているのである。靴の上から足を掻くような書き方をしてしまっているが、あまりはっきりと書けないようなことを、ちょっとだけだけど知ってしまっているわけなのだ。まあ、いろいろな業界で長くやっている人なら、少なからずそうしたしがらみはあるだろうと思う。

こうした無駄遣いは、やはり「官僚主導」だからできるのだと思う。政治家と官僚が持ちつ持たれつの関係を続けているうちに、「ツーカー」になりすぎて、官僚が自分たちの判断で適当に進めたり根回ししたり、いろいろなことをやってしまえる土壌ができているのだ。

大きな案件(と、小さくても利権がらみのこと)は、さすがに政治家が最終的判断をするのだろうが、小さな案件は、ほとんど官僚が主導している。そして世の中のほとんどのことは、多くの「小さなこと」の積み重ねなのだ。さらに「ちょっと大きなこと」でも、官僚が都合のいい情報ばかり政治家に上げてしまえば、大抵何とかなってしまったりする。

で、官僚の情報なんて、こう言っちゃ何だが案外現実離れした机上の空論ということが多いので、世の中では「ひとつの業界で成功するには、国の方針と逆のことをすればいい」なんて言われたりする。少なくとも、お国の方針に忠実に従っていてはまず浮かばれない。

こうした「政官癒着」による芳しからざる状況は、適当に政権交代のある世の中でないと打開できないと思う。事実、これまではずっと進む一方だったのだから。やはり時々「ガラガラぽん」することが必要なのだ。それでこそ、政治家にも官僚にも適度な緊張感がでようというものだ。

私は決して民主党支持というわけじゃないのだけれど、そんなわけで、この度は政権交代が実現してうれしいと思っている。そして、自民党にはきちんと二大政党の片っぽでいてもらいたいと思う。このまま万年野党におちぶれることのないように。

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2009年9月17日

ブロガーのスランプ

昨日、自分のブログの 3年半前のある記事を確認する必要が生じて読み返したら、我ながらおもしろいのである。

その翌日の記事もおもしろいし、翌々日の記事もまたおもしろい。つい、ほぼ 1週間分の過去の記事を読み返して、「あの頃は今より冴えてたのかも」なんて思ってしまった。

実は近頃、ブログのネタに少しだけ苦労し始めている。いや、決してネタがないわけじゃない。いくらでもあるのだ。私のメモ帳(最近は iPhone の「メモ」機能を使っている)には、日頃書きためたネタが常に 5つか 6つゴロゴロしている。

しかしメモしたネタのうち、実際に使えるのは 5つに 1つあるかどうかである。さらに、実際書き始めてから、「始めに感じたほどおもしろいネタじゃないかも」 なんて思ってしまうこともある。

直観でサクサクっと書いてしまえるネタというのもあるのだが、このくらい長くブログを続けていると、そんな重宝なネタはほとんど過去に書いてしまっている。繰り返しを絶対に避けたいというわけでもないが、同じようなネタばかりになってしまっては、自分の気が済まない。

スポーツの世界でも、好調をコンスタントに維持するのは難しい。単に体調の波ということもあるが、メンタルな要素も大きい。例えば野球の打撃について、前にある解説者が次のように言っているのを聞いたことがある。

打撃の好調が続くと、選手自身気をよくしてしまって、大抵の球はヒットできるような気がしてくる。それで欲が出て、打ちにくい球にもつい手が出てしまいがちになる。その結果フォームが微妙に崩れ、だんだん思うようなヒットが出なくなる。それがスランプの始まりなのだという。

ブログブームといわれた現象が過ぎ去ったのも、こうしたことと無縁ではないだろう。多くのブロガーは、初期の頃の書くことがいくらでもあった時期を過ぎて、いわばスランプになってしまったのだ。

誰だって腹の底にたまっていて、いつか書いてやろうと思っていたようなネタはいくつかある。ブログを始めた当初は、そうしたことを思い切り書いてしまうと胸のつかえがおりて気持ちがいい。ところが、ネタが尽き始めて小ネタを書き始めると、初期の頃の 「いい気持ち」 がなかなか得られなくなる。

「こんなはずじゃない」と思う。「ブログを書くって、もっと爽快なことのはずだった」という気がする。すると、なんだか馬鹿馬鹿しくなって更新をしばらく休むことになる。そのうちまた書くことができればいいが、そうでないと「しばらく」が「ずっと」になって、消え去ったブロガーも多い。

私個人としては、ここまで「毎日更新」を続けてしまった以上、更新を休もうという発想がないのである。それは意地とかそういったものではなく、もはや「毎日ブログを書き続けるカラダ」になってしまったのだ。書かないと気持ち悪いのである。まったくもって因果なことだ。

こんな時には無理に大ネタを書かずに、ぼちぼちと小ネタで続けていると、そのうちヒットが出始めたりする。というわけで、「近頃、胸のすくようなヒットがないなあ」と思っている方も、よかったら辛抱してお付き合い願いたい。

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2009年9月16日

「八ッ場」と書いて「やんば」と読むわけ

今話題の「八ッ場ダム」の話である。このダム建設計画、1952年から持ち上がって、今なおぐずぐずしているそうなのである。

1952年といえば、私の生まれた年だ。素人考えでは、半世紀以上もなくて済んでいるのだから、今さらいらないんじゃないかと思ってしまうのだが、どうなんだろう。

深く調べもしないでどうこう言いたくないので、ダム建設の必要性については、これ以上は言わない。ただ、私がものすごく興味をもってしまったのは、「八ッ場」と書いて「やんば」と読むという、世にも珍しい表記についてである。

結論を先に行ってしまうと、「八ッ場」は昔は「やつば」と読まれていて、いつの頃からか音便化して「やんば」になったのだろう。小さな「ッ」の字は、正式の文字と言うよりは「やば」などと誤読されるのを防ぐための「補助表記」みたいなもので、だからこそ小さく書かれてきたのだろう。その表記のみが残ってしまったのだ。

地名としての「八ッ場」は今は残っていないようで、Wikipedia では「群馬県吾妻郡長野原町川原湯地先」とされている。Google Map でも、群馬県付近の 八ッ場」に該当するのは「八ッ場ダム」建設関係の 5カ所の事務所しか見当たらない(参照)。 最寄り事務所の住所は「吾妻郡長野原町大字川原湯 395-1」ということになっている。

それにしても、できるかできないかわからないダム建設のために、これらの 5カ所の事務所を維持するだけでも結構な無駄遣いのように思える。

まあ、建設予定のダムの名前になるぐらいだから、昔は「八ッ場」という地名があったのだろう。前述の通り、正式には「やつば」だったのが音便化によって「やんば」 に変化したのだろう。「ば(ba)」と発音するには上下の唇を合わせるので、それに引きずられて「つ」が「ん (m)」に変わるのは十分あり得ることだ。

ただ、「やんば」が正式な読みと認められてからも表記が「八ッ場」のままというのは、なかなか珍しい。「やつば」だろうが「やんば」だろうが、表記は「八場」ぐらいにしておけばいいのに、なんでまた「ッ」という文字を挟み込まなければならないのかが、より興味深い問題である。頑固に「ッ」を守り通したことには、何か特別な理由があるはずなのだ。

この件に間して 「千日ブログ」 の管理人さんが、Wikipedia で「っ」を引いて、大きなヒントをつかまれている(参照)。以下に Wikipedia の記述を引用する。

以前は「っ」は数助詞としてのみ使用され、現在でも地名や人名など使用されているケースが多い

数助詞として「ッ」が使われている例
三ッ里村、三ッ島、三ッ林弥太郎、六ッ川料金所、岡崎市立六ッ美中学校、八ッ場ダム

ここに挙げられている例の読みを調べると、「みつさと」「みつしま」「みつばやし」「むつみ」「やんば」 である。「やんば」以外は、小さな「ッ」を促音でなく「つ」と読む。(六ッ美中学校の地元での略称は 「むっちゅう」 だそうだが、それはまた別の問題)

それも自然なことで、どれも、「つ」と普通に読む方が言いやすく、促音の方が発音しにくい。試しに 「みっむら」 「みっしま」 「みっばやし」 などと発音してみると、不自然さがよくわかる。それなのに、文字表記の時だけ小さな「ッ」になるというのは、筆文字の昔からの慣習的表記が、ずっとそのままになっているということなのだろう。

筆文字の時代は、字の大きさに厳密な決まりなんてなかった。例えば「饗応」のふりがなを「きょうおう」と書くようになったのは近年のことで、昔は「きやうおう」(「きゃうおう」ではない)と書いた。「観音」のふりがなは「くわんおん」または「くわんのん」だった (「くゎんおん」「くゎんのん」 ではない)。

同様に、昔は促音を表わす 「っ」 や 「ッ」 を小さく書くなんていう決まりもなかった。「納豆」のフリガナは「なつとう」とふられたのである。そしてここが今回の記事で一番大切なことだが、上記の例の「三ッ里」「三ッ島」なども、促音を表すのでは決してなかったのである。

これも前述の通り、誤読防止のための「記号」とか「補助表記」的な意味合いで「ッ」が小さく添えられたのだろう。それぞれ「みさと」「みしま」「さんばやし」「むかわ」「ろくび」「やば」 などと誤読されるのを防ぐために、便宜的に「ッ」の字を挟んだのだ。

字の大きさに無頓着だった昔でも、あくまで誤読防止のための補助表記的なものだから、敢えて小さく書かれたのである。ところが、それがいつのまにか定着した表記になり、盲腸みたいな形で今に残っているのだろう。

だから 「八ッ場」 も、昔はほぼ確実に 「やつば」 という読みだったのであり、本名「やつば」、通称「やんば」で、本名の方は既に忘れ去られたが、字で書くときだけ先祖返りしているということなのだ。

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2009年9月15日

電車の「○分の遅れが出ています」 って……

いつものように JR 常磐線取手駅までの道を車で辿っていると、カーラジオが武蔵野線の電車の遅れを伝えていた。

「信号確認のため約 10分の遅れ」が出ているという。私はこうした情報を聞く度に、ちょっとイライラする。「10分の遅れ」って、一体どういう意味なんだよ!」と思うのだ。

普通は「10分の遅れ」といえば、その電車の通常のダイヤに比べて、発着が 10分遅れているのだと思う。つまり、ある駅を 8時 15分に発車するはずの電車が 8時 25分の発車になってしまうという意味に受けとられる。そして、事実そういう意味らしい。「○分の遅れ」というのは、ダイヤと比較しての遅れなのだ。

ところが、そんなレベルの情報自体は、利用者にとってはかなりビミョーなお話になるのだ。意味があるのかないのか、私には判断できない。そもそも、首都圏の主要路線ならラッシュ時は大体 10分より短い間隔で電車が相次いで発着しているし。

ダイヤに比較して 10分遅れというだけなら、利用者の感覚では、いつもは 10分前に発車してしまっているはずの電車に乗れるということだ。そして、そのまま乗っていればいつもの時間に目的地に到着できると思ってしまいがちだ。つまり、利用者にとっては「10分の遅れ」なんて意味がなさそうにみえる。

ところが、実際にはそうではない。いつもは 10分前に発車しているはずの電車に乗ると、途中駅でいつもの倍ぐらいの人が乗車してきて、なかなかドアが閉まらない。おまけに、動き出しても「前に電車がつかえている」とかで、途中でのろのろになったり止まったりする。

そして目的地に到着したときには、いつもより 10分遅れていたりする。それで「10分遅れってそう言う意味か」なんて思ったりするが、前述の通り、元々はダイヤと比較しての意味なのだ。この場合は、10分遅れて発車した電車がさらに途中で 10分遅れたのだから、結局は 20分遅れということになるはずだ。

だったら、運行状況の発表も「始発駅の発車が○分遅れで、さらに終着駅までの途中で△分程度の遅れが生じる見込み」といった言い方をしてもらいたいところだが、なかなかそうはならない。多分、途中での遅れの見込みは一概には計算しにくいところなのだろう。

だったらせめて「さらに遅れが出る見込み」とか「徐々に回復しつつある」とかいう程度の状況説明ぐらいはつけてくれてもいいような気がする。そうすれば「10分遅れとはいえ、目的地に着くまでにはそれじゃ済まないな」とか、「所要時間はいつもとそんなに変わらないだろう」とかの判断がつきやすい。

鉄道会社にとっては、ダイヤと比較して何分遅れているかというのが重要なことなのだろうが、利用者にとっては、目的地までの所要時間がどうなるかというのが、最も必要な情報なのである。その最も必要な情報を、何らかの形で提供してもらいたいと思う。

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2009年9月14日

iPhone 使用レポート

先月半ば、それまで使っていたケータイを紛失し、ちょうどいい機会だからと開き直って、 iPhone を買ってしまった(参照) 。

先月の 28日にもちょっとしたレポートを書いたが(参照) 、購入してからちょうど 1ヶ月経った今、もう少しだけ詳しいレポートを書いてみようと思う。

ざっと言えば、先月末の記事でも「電話としては、むしろ使いづらい」というようなことを書いたが、それはまさにその通りである。例えば、既に先月にも触れたことだが、通話履歴を見ているうちに、知らないうちに相手に電話してしまうということがある。

電話帳の中から相手を選択して電話するときには、「連絡先」(いわゆる電話帳)のリストから個人のデータまで踏み込み、その中の自宅電話、ケータイ、勤務先などを選んで、そのナンバーをタッチしないとダイヤルできない。ところが、通話履歴のリストだと、かかって来た相手の名前をなにげなくタッチするだけで、すぐにダイヤルされてしまうのである。

まあ、考えてみれば、履歴データは電話番号直接だから、それでも不思議はないのだが、取り敢えずタッチしたところで「○○さんに電話しますか?」ぐらい聞いてきてくれてもいいじゃないかと思ったりする。

いきなりダイヤルされてしまうものだから、しらないうちにつながってしまい、「何か用?」なんて聞かれて、「い、いや、ちょっと操作を間違えてかけちゃった、ごめん」なんてことになってしまったことが、5~6回ある。今でも、いつの間にかダイヤル開始されてしまって、あわててストップすることがある。

それから、iPhone で電話帳を作成する際には、個人がベースになる。姓と名前を分けて登録するわけだが、入力の際の漢字変換前のかなデータがそのまま「姓の読み」(ふりがな)として自動入力されてくれるとありがたいと、誰でも思う。ふりがながないと、50音順に並んでくれないから、これは是非とも必要なのだ。

しかし、そうはできないのである。姓の欄に「すずき」と入力して「鈴木」と変換し、さらに「姓の読み」の欄にまた「すずき」と入力しなければならない。これは案外ストレスである。ちょっと探してみたら、フリガナを自動入力してくれる ABFixer というアプリケーションがあるみたいなのだが、このくらいはデフォルトでやってもらいたいなあ。

それから、これはちょっと Windows と Apple の文化摩擦的な意味合いもあるのだが、ボタンの位置の問題だ。

例えば、iPhone 上で何か別の作業をしているときに、突然誰かから電話がかかってくるとする。すると、画面上にどこからの電話かが表示され (電話帳に登録してあれば、名前が表示される)、その下に「拒否」「応答」という 2つのボタンが表示される。

これがちょっとやっかいで、多分慣れの問題なのだが、私はこれまで、何度か応答しようとして「拒否」ボタンをタッチしてしまった。相手には 「あなたは通話拒否されました」なんて応答がされるわけじゃなく、自動的に留守電メッセージが流れるようなのだが、それでもちょっと面倒なことである。

なんでこんなにボタンをタッチし間違えるのかと思ったら、どうも「拒否」ボタンが左側、「応答」ボタンが右側にあるせいなのだ。Windows だと、「OK」ボタンが左側、「キャンセル」ボタンが右側にあり、その感覚に慣れているので、つい応答しようとして左側をタッチしてしまうのである。

これなんか、「ポジティブなボタンは右側」というマック流のポリシーがあるようなのだ。ウェブ上で検索してみたら、やっぱり [OK] ボタンは右なんだよ というブログ記事が見つかった。少し引用する。

ウェブは横書き! 左から右に読む!
左からやってきたんだから、[戻る] のは左!
右に進んでいくんだから、[進む] のは右!

だから、[次へ] も [保存] も [OK] も右が自然!

なるほど、説得力がある。怒濤の出足で押し切られてしまいそうだ。さらに、次のような記述もある。

だけど、なんで[OKは左なのかも、って思っちゃうことがあるんだろう…!

たぶん、それはもう全部、Windowsのせいだと思う!!
Windowsのダイアログは、[OK]が左、[キャンセル]が右だもんね。

ここから先は、ほんとにただの想像なんだけど…、

たぶん、Windowsの [OK] が左なのは、当時のUIデザイナーが考え抜いた結果とかでも何でもなくて、「MacのOKは右だから左にしよう」って理由に尽きるんだと思う。

Windows の UI デザイナーは、ボタン関係は何でもかんでもアップルと左右または上下を逆にしてしまったのではないかと、このブログの管理人は疑っている。単に Mac と同じでいたくないというだけのことで。私もそれはあり得る話だと思ってしまう。

おかげで、今になって iPhone を使い始めた Windows ユーザーが、ボタンの位置で戸惑うのである。

とまあ、いろいろ問題点を挙げればきりがないが、総論的に言えば、私は iPhone に満足している。前に使っていたケータイは、通話とメールとアラーム以外にもいろいろ機能は付いていたが、実際にはほとんど使えなかった。メールを打つにも、ほんの一言打つのにエライ手間がかかっていた。

ところが iPhone の場合は、いろいろな機能が実際に使えるのである。とくにマップ機能は、初めての訪問先に行く場合、とても心強い。前のケータイでも地図ぐらいは表示できたが、画面が小さいのでさっぱり役に立たなかった。

それに、先に述べた Windows と Apple の文化摩擦的な要素に関しては、「Apple が正しい、後から来て逆にしちゃった Windows がお馬鹿」と思わせてしまう雰囲気のあるところが、Apple のデザイン・パワーなのだと思う。

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2009年9月13日

『唯一郎句集』 レビュー #61

『唯一郎句集』のレビューも、もう 60回目になってしまった。ようやく半分を越えたところである。まだ先が長い

(注: 後日、連番の付け間違いが発見されて修正したので、実はこれは 61回目である)

本格的にレビューを始めたのは今年の 1月末だから、もしかしたら今年中に終わらずに、来年にかかるかもしれない。

始めた時から、息の長い仕事になるとは覚悟していたが、やはりちょっとしたものである。今日のレビューは 2句だ。

春暁の路をひた行けば熱くも馬に突きあたりたし

春暁は「しゅんぎょう」と読み、春の明け方のこと。庄内の春のことだから、明け方はまだ寒い。息が白く見える。

そうした寒い明け方の路を行くと、馬車に出会う。この頃の輸送機関は、馬車が主力だった。馬はからだに汗をかく。だから春の明け方には、鼻息だけでなく体中から湯気を立てていたかもしれない。

そんな熱い馬に突きあたってみたいと思ってしまう、不思議な一刻である。

残雪の川波のさみしさの舩頭ばくちうち

早春の川の土手は、いつも日影になる斜面に雪が残る。その残雪を映すように流れる川の波に、小舟が揺れる。

小舟の上でばくち打ちをしている船頭たちの姿がみえる。それほど盛り上がっているようにもみえない。淋しさだけが漂う光景である。

本日はこれぎり。

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2009年9月12日

『唯一郎句集』 レビュー #60

近頃、やたらと忙しくて静かにものを考えるという暇もないうちに、またしても週末がきた。というわけで、週末恒例の 『唯一郎句集』 レビューである。

句集の中の季節の進み具合は、さらに早い。もう晩秋から初冬である。酒田の晩秋から初冬は、かなり重い季節感がある。

あれこれ言わずに、スピーディにレビューをしよう。今日は 4句である。

女の饒舌の前に腹をつき出してる男と真っ黒な炭と

火鉢の廻りの光景だろうか。女が饒舌にしゃべりまくる。男は黙りこくって腹を突き出すばかり。その静かなること、まだ赤くなる前の炭のようだという。

働きくらし母と語り更かせば寒菊ばかり

もう唯一郎の父は亡くなっているのだろうか。前々回のレビューで 「父が居眠りをして父の活けた菊の前で長男であり」 という句を取り上げたが、時間的に飛躍がある。しかし、どうも亡くなっているとしか思われない。

このあたりは、句集のまとめ方自体に、時系列に沿って性格に並べられたとも思われないところがあるので、仕方がない。

父の亡き後、家業を継いで忙しい暮らしが始まった。母と話し込んでいるうちに夜は更けていく。廻りは寒菊ばかりになっている。余所余所しい感じがするのは、これが本当に自分の暮らしなのかという実感が伴わないからだ。

動物園の雪朝よ悲しく胸をもだへたる大象の足踏み

酒田に動物園があったという話は聞かない。いや、もしかしてあったんだろうか。そう考えると、あってもいいような気がする。子どもの頃、身近に象のいる動物園があったような錯覚にさえ捉えられる。

いや、そんなことはどうでもいい。雪の朝に悲しくもだえつつ足踏みする大象の姿が思い起こされればいい。

本来ならば、雪の降る場所になどいないはずの象である。自分本来の居場所ではないところで、足踏みしているしかない悲しい存在である。

月光の雪のいきりに咽せ拾ひたるむらさきの手袋

「雪のいきり」とは、ちょっと意表をつく表現だ。「いきる」とは勢い込むこと。「いきり立つ」などという場合の「いきる」である。珍しい月夜の晩、積もった雪が瞬間的な強風に吹かれて地吹雪となり、それに咽せてしまったのだろう。

そしてふと下をみると紫色の手袋が落ちている。それを拾い上げる唯一郎。月光、白い雪、紫色の対比。

本日はこれぎり。

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2009年9月11日

高速道路無料化を巡る冒険

総選挙で圧勝した民主党だが、「圧倒的な支持を得た」というわけではないようなのがおもしろい。例えば、目玉政策の一つ「高速道路無料化」は必ずしも支持されていない。

複数の世論調査の結果をみても、高速道路無料化に関しては「賛成」が 3割ちょっとで、「反対」が過半数という傾向だ。

反対の理由としては、「受益者負担が当然」「どうせ税金から支払われる」「自動車利用が増えて CO2 排出が増える」「渋滞が増える」というようなところが代表的なものだと思う。だが、世の中のものごとというのは、一方的に論じるのではなく、裏側からも見てバランスよく判断しなければならない。

ここでは敢えて、反論の反論をしてみよう。

まず「受益者負担」ということだが、よく考えればほとんどの国民が「受益者」なのである。日々の買い物の多くが、遠くの産地や工場から高速道路を通って輸送されてきている。高速道路が無料化されれば、この輸送コストが軽減される。

軽減された輸送コストがそのまま 100%商品の小売価格に反映されて安くなるというのは、あまり期待しない方がいいし、反映されたとしても微々たる金額だろうが、輸送業者の経営が楽になることの波及効果は、かなり期待していいだろう。

「どうせ税金から支払われる」ということに関しても、高速料金徴収にかかわる人件費、設備費その他の固定経費がいらなくなる。現状は、金を取るにも結構な金がかかるのだ。それ以外にも、そもそも高速道路に関しては利権の巣窟で、自分の支払う料金のうちの相当の額が天下り役人の退職金になると思うと、なんだか裏さみしい気分になる。

そうした部分の経費をいらなくすれば、かなりの節約になる。いずれにしても自動車と道路に関しては、これまでだってずいぶん高い税金を払っているのである。それをきちんとまともに使ってもらいたいと、私は思っている。

「CO2 排出」は頭の痛い問題だが、よく考えると、日本の田舎というのは今や、自動車がないと人間らしい暮らしのできない地域となっている。どうせ日常の足なのだ。こうした地域の人にとっては、ちょっと遠出するのに信号の多い一般道を通るより、スムーズに通れる高速道路を気軽に走る方が、CO2 排出も減らせるだろう。

「渋滞が増える」というのも、多方面から検討する必要がある。近頃、休日限定でどこまで行っても 1000円という措置が講じられ、そのために渋滞が増えたという印象があるが、ある意味、休日限定だからそうなるのである。平日に動ける人まで、高速料金節約のために休日に高速道に乗ったりする。

毎日無料にすれば、少なくとも集中は避けられる。問題は盆暮れの帰郷ラッシュだが、この時期の渋滞は、有料なら避けられるというものではないというのは、現状が証明している。一度高速道路に乗ってしまったら、途中では気軽に一般道に降りにくいという現状も影響していると思う。

ならばいっそ無料化して、混み具合によって高速道路に乗ったり一般道に降りたりすることが、気軽にできるようすればいい。誰だって空いている方の道を利用する。今はカーナビも普及したので、少しは交通量が分散するだろう。

と、高速道路無料化で想定されるメリットも書き連ねてみた。想定されるメリットとデメリットをきちんと天秤にかけて判断しなければならないが、現実は常にシミュレーションを少しずつ裏切る。本当のところは、やってみないとわからないのである。

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2009年9月10日

なしくずしのネット選挙解禁?

日経 BP が 「なし崩し的に広がったネットでの選挙運動を憂う」という記事を配信している。「選挙で Web を使わせろ」 というサイトを持っている私としては、見逃せない記事である。

読んでみればわかるが、この記事は、「選挙運動にネットを使うな」というものではなく、「悪法でも法は法」という主旨のものだった。

その上で、筆者は次のように結んで、ネット選挙がまともに行われるように公職選挙法の改正を求めている。

だが、政権交代によって「ネットでの選挙活動」 恐れ抑え込む層が、これまでのように公職選挙法の改正を店ざらしにしつづけるのは難しくなっただろう。けっして性急な対応を求めるわけでではないが、「ネットでの選挙活動」に決着をつけるのも、第一党である民主党の責任なのは間違いない。

少なくとも、「選挙でネットなんか使うな! なし崩し的に、みんなで渡れば怖くないなんていうやり方はやめろ!」という時代錯誤の記事ではなかっただけ、私としては読み終えてほっとした。

この記事にあるように、ネット選挙解禁をまともな形で行うのは、民主党の責任だと思う。今までじいさん連中の支配する自民党が、ネット選挙を遠ざけていたという方が、どう見ても異常だったのだ。

ただ、選挙期間中はネットを使ってはならないという現状も、本当のところは微妙な話らしい。件の記事にも、「ブログの内容が『選挙運動とみなされる』と、『公示後に規定のビラなどを除く文書図画の配布を禁じる』公職選挙法に『抵触する可能性がある』というのである」とある。

単なる日常的な日記なら問題ないが、「選挙運動と見なされる」内容なら「抵触するかも知れない」程度のことだというのである。これでは、総務省が恣意的にどうにでも判断できるではないか。

そもそも、選挙期間中に単なる日常的な日記を書く馬鹿な候補者がいるものか。(ただ、いたら逆におもしろくて、ある意味では無手勝流選挙運動になってしまうかもしれないが)

記事中にもいろいろな難しい点の指摘はあるが、そんなことで逡巡しているよりも、今となっては選挙でネットを使えないデメリットの方がずっと大きいのだから、民主党政権には是非公選法改正をしてもらいたいものである。

件の記事はなし崩し的解禁を憂いているが、私としては、なし崩し的に実質解禁状況になった方が、法改正圧力としては大きいと思うので、既にネット選挙をやっている人や政党には、さりげなく、しかし、どんどんやってもらいたい。

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2009年9月 9日

バスタオルを巡る冒険

昭和 27年に、当時は陸の孤島みたいなものだった山形県庄内地方で生まれた私は、戦後の日本のライフスタイルが急速に変わっていく様をリアルタイムで見てきたと思う。

多分それは、都会生まれの 3~4歳上の世代よりもずっと急激な変化だったと思う。なにしろ、田舎のタイムラグはすごいから。

例えば私は、輸送機関が馬車とか牛車だったころの光景を鮮明に記憶している。酒田の街の目抜き通りでも、いつも道の真ん中に馬糞や牛糞がぼたぼた落ちていたものだ。だから私は、馬糞と牛糞の違いは一目でわかる。コロコロしているのが馬糞で、ベトベトなのが牛糞だ。

恐ろしいもので 4歳違いの妹は、街中が馬糞と牛糞で埋められていた光景は全然記憶にないという。そうすると、妹が物心つき始めた頃には輸送手段がオート三輪や自動車に変わっていたのだろう。私はぎりぎりで戦後の貴重な 4年間を目撃することができたのである。

さらに恐ろしいことに、私は小学校 4年頃まで、学校で定期的に DDT を振りかけられていた。いくら何でも、ダニやシラミのたかっている子なんていなかったのに、終戦直後の措置が廃止されずにずっと継続していたもののようだ。

月に 1度ぐらいの割で、白衣を着た保健所の職員が学校に来て、全校児童に DDT 散布をするのである。まず噴霧器の先を首筋に入れてプシュプシュとやる。子どもたちは無邪気なモノで「ひゃあ、気持ちいい!」なんて喜んだりする。さらに、ロジンバッグのお化けみたいなもので頭にバホバホとふられる。髪の毛が真っ白になる。

今そんなことをしたら、大問題になるが、当時は呑気なものだった。これも 4歳下の妹が小学校に入る頃にはようやく廃止になったので、彼女はこんな野蛮な風習を知らない。

さらに恐ろしいもので、東京生まれの人間は私より 3~4歳年上でも街中が馬糞と牛糞だらけという光景なんて見たことがないし、DDT をふられた記憶もないという。となると、当時の東京と酒田のタイムラグは 4年以上あったのだろう。だから私は感覚的には、ちょっと年上の都会育ちよりもずっと「古い人間」みたいなところがあると自覚している。

前置きがずいぶん長くなってしまったが、今日のテーマはバスタオルである。最近見つけた「よそいきの妄想」というブログに、バスタオルをめぐる攻防 という記事がある。以下にちょっとだけ引用する。

結婚して間もない夫婦が揉める最大最強の原因として、バスタオルをめぐる対立がある。即ち、バスタオルは毎日新しいものを使いたいという人と、バスタオルを洗うのは2-3日に1回でいいという人の対立である。

これは思いの外に大きな問題らしい。バスタオルを毎日洗って欲しい夫と、「2~3日に一度で十分じゃん」と思っている妻の組み合わせだと、夫の方がことさらに「だらしない妻」という不満を抱いてしまいかねないようなのだ。

で、このバスタオルなのだが、まさに私が物心つく頃に、日本で、あるいは私の郷里で急速に普及し始めたように記憶している。小学校に入る頃までは、そんなもの使ったことがなかったのだが、急に生活に入り込んできて、あっという間にごく普通のものになってしまった。

ところが、東京の大学に入って一人暮らしを始めると、当時は銭湯である。私はあっという間にバスタオルを使うという習慣を捨ててしまった。元々、バスタオルって、後から入ってきた新参者みたいな気がしていたので、捨てるのには全然抵抗がなかった。日本男児は本来、手ぬぐい一本あれば風呂に入って、体を洗って、拭くことができるのだ。

というわけで、結婚してからしばらく、妻が当然のごとく私にバスタオルを押しつけてきたので、風呂上がりはなんとなくそれで体を拭いていたが、面倒なのでいつの間にか使わなくなった。だから現在、我が家では妻と娘たちだけがバスタオルを使っている。そして、2日に一度ぐらいの割で洗っているようだ。

私としては、今使ったばかりのフェイスタオルをもう一度よく洗って、体を拭く方がずっと清潔な気がしているので、今後もバスタオルを使おうという気にはなれないでいる。

ちなみにバスタオルを洗う頻度というのは、前にも書いたことがあるので、こちら を参照して頂きたいのだが、本家本元の西洋では、1週間に 1度ぐらい洗うというのが当たり前のようなのである。多分湿度が低いので、雑菌も繁殖しにくいのだと思うが。

それに、西洋人はお風呂の中ではタオルなんて使わないようなのだ。日本人はバスタブの外で洗うので、フェイスタオルを使ったりしているが、あれは本来、そういう目的のものではない。日本は古来より使い続けた手ぬぐい代わりに、それを使い始めたもののようなのだ。

タオルは本来、乾いた状態で濡れた手や顔や体を拭くためのもののようなのだ。だから、おしぼりというのも、西洋には本来ない。そして私はそうした文化とは別に、日本人は手ぬぐい一本あれば風呂に入ってから出るまで、全部まかなえると思っている。

ところが近頃は、手ぬぐいというのがどちらかというと「趣味のモノ」になってしまったので、しかたなくその代替としてフェイスタオルを使っているだけのことなのである。

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2009年9月 8日

桃の葉ローションを使わずにすんだ

私にとって夏を乗り切る必需品だった 「桃の葉ローション」 を、今年は一度も使わずにすんだ。汗疹が出なかったからである。

私の体は結構丈夫にできているのだが、なぜか夏の間だけはお肌が敏感になってしまって、汗疹が出やすいのである。まるで赤ちゃんの肌のようなのだよ。まったく。

お肌が敏感といっても、全身汗疹だらけになるというわけじゃない。とくにひどいのが、肘の内側である。なにぶん、パソコンに向かって仕事をする時間が長いので、いつも自然に肘が曲がっている。その曲がった肘の内側に汗がたまってしまうのだ。気付いたときには、真っ赤っかになっている。

この汗疹対策には、私は桃の葉ローションが一番だと思っている。いろいろな薬を使ってきたが、ここ 10年ぐらいは、桃の葉ローションに落ち着いている。しかも、上記でリンクしている「薬用桃の葉ローション」というのがいい。効き目が穏やかで、しかも清涼感がある。肘の内側の痒みがすぅっとひいていく。

つけると痒みが落ち着いて、ちょっとつけ忘れるとまたすぐに汗疹がひどくなるので、本当に手放せなくなる。とくに猛暑だった一昨年の夏なんかは、一夏でまるまる 2瓶を消費した。朝目覚めた時と、風呂上がり、そして寝る前の 3回、体中にたっぷりとすり込むのである。疲れまで取れるような気がする。

ところが、今年の夏は汗疹が全然出なかった。これは、私のお肌が年のせいで鈍感になったというより、やはり涼しい夏だったからだろう。それで、桃の葉ローションも全然使わずに済んだのである。こんな夏は、いつ以来だろうか。

近所を歩くと、道端に小さな秋の花が咲き始めている。夏休みがうやむやのうちに終わってしまった子どもたちにとっては、なんとなく気の晴れない今日この頃かも知れない。

今年は梅雨明けが遅れて、蝉の鳴き始めるのが遅かった。それで、例年ならツクツクホウシだらけになる今頃になっても、つくば方面では、まだミンミンゼミが「ミ~~ン、ミ~~ン」と、やたら大きな声で鳴き続けている。その後ろの方で、アブラゼミが申し訳なさそうに 「ジー、ジー」 としょぼくれて鳴いている。

まるで総選挙の結果みたいな様相になっている。

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2009年9月 7日

自民党は首班指名選挙をどうするか

16日に行なわれる首班指名選挙で、自民党議員は誰の名前を書くべきか、はたまた白紙投票でいくべきかで、延々ともめている。

今さら 「麻生太郎」 なんて書くのも、確かに馬鹿馬鹿しいだろうし、だからといって白紙投票で行こうといっても、国会議員としての責務を放棄していると批判される。

自民党の議員が誰の名前を書こうと、どうせ結果は鳩山由紀夫に決まると見えているのだから、そんなことでもめているより、今後の再建策を考えろと言いたくなるが、そもそも、その再建の第一歩がこの首班指名なのだということにしておきたい人が、たくさんいるようなのだ。ああ、面倒くさい。

で、いろいろ言われていることをまとめると、次の三つの意見に集約されるんじゃないかと思う。

  1. 新総裁決定は 16日までには間に合わないし、なんだかんだ言っても仕方ないから、ここは形式的にでも筋を通して 「麻生太郎」 と書いておけ。

  2. 総裁辞任を表明した人の名前なんて書いてどうする。ただ、新総裁決定が間に合わないなら、「白紙投票」 ということで調整しよう。

  3. 16日の首班指名の前に急いで新総裁を決定すれば、すべて解決するじゃないか。

残念ながらこれらのどれをとっても、決定的な説得力がない。1番目の選択肢だと、形式的な筋は通せても屈辱的すぎるし、2番目の白紙投票は、いかにも党として白旗を上げている惨状が目立ちすぎ、責任放棄と言われても仕方がない。

さらばとて、16日の前に新総裁を決めようといっても、現状ではつぶれかかった会社の社長には誰もなりたがらないのと同じで、なり手がない。ある程度担ぐ人がいれば、「万難を排して立候補しましょう」というストーリーが成立するのだが、ここまで負けちゃうと、ちまちました準備程度では吹っ飛んでしまった。

一部で与謝野馨氏の名前が挙がっているようだが、ただでさえ党内が混乱しているのだから、小選挙区で落っこちた人を総裁に据えても、その後の運営が大変だ。とまあ、自民党は八方ふさがりなのだから、現実的にみれば、要するにどうしようもないのである。

どうしようもないなら、それを素直に認識すればいいではないか。「白紙投票」したけりゃすればいい。ただ、白紙投票で調整しようなんて「みんなで渡れば」的なやり方をしようとするから、ますます混乱するのだ。

大政党だった時代は、党内にいろいろな勢力が存在する方が多様な対応ができて都合がよかったが、ここまで落ちぶれてしまうと、単に「ばらばら」なだけである。仕方がないから、とりあえずは党内のガバナビリティ喪失をちゃんと認め、時間をかけてしっかりまとめ直せばいいじゃないか。どうせ惨敗したんだから。

自民党、ここまで追いつめられても、まともに目覚めていない。惨敗したくせに、まだ体裁にこだわろうとするから、こんな非生産的なくだらないところでもめて、醜態の上に醜態を重ねるのである。

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2009年9月 6日

『唯一郎句集』 レビュー #59

いよいよ秋の気配が濃厚になってきた。風は爽やかになり、田では稲刈りが始まり、虫の声がきれいに響き始めた。

今日レビューする 3句は、長い。字数だけを比べれば、三十一文字の短歌よりも長い。それにかなりシュールレアリスティックだ。いくら自由律俳句でも、ちょっと型破りだったのではなかろうか。

前にレビューした句と照らし合わせると、「前後誌」時代から「酒田俳壇」時代にかなり長い俳句を作っている。この頃の作風だろう。これを越えると、また少し短くなる。当人としてもかなり実験的なつもりで作っていたのではなかろうかと思う。

早速レビューにはいろう。

群盲らが秋夜の底で唄ってる我行く道にも温かい落葉する也

秋の更けた夜道を歩くと、その夜のそこで群盲が唄っているように思えるというのは、のっけからたまげるほどのシュールな表現だ。

その秋の底には落葉が温かいという。意外な対比で締められている。

鶏肉屋の青い娘が鶏を縊ってはみぞれの中で俺も淋しい

鶏肉屋の「青い娘」とは、まだ若い娘ということだろう。その娘が手慣れた様子で鶏を縊る。ちょっと刺激的な光景である。

それを見てしまった唯一郎は、みぞれの降る淋しい町の中で、自分もさらに悲しいと思った。

秋別荘に一人住む男よ毎日海へ向つて犬を吠えさせたく

「秋別荘に一人住む男」 とは自分のことではなかろうか。決して本当の別荘というわけではないが、同じ家にいても自分だけ別荘にいるような気がしている唯一郎。

毎日海に向って吠えさせたい犬を、心のうちに飼っている。

今日はこれぎり。

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2009年9月 5日

『唯一郎句集』 レビュー #58

今年は秋の訪れが早い気がする。今日も晴れている割には風が爽やかで、雲も高く盛り上がらない。

『唯一郎句集』の進行はもっと速い。もう晩秋の句に差し掛かった。庄内の晩秋は冷え冷えとしている。地吹雪の季節が、角を曲がったあたりまで来ている気がする頃だ。

今回の 4句は、かなり粒ぞろいだ。さっそくレビューにはいろう。

心沈みはてし時は赤き柿の葉にふれてありぬ

晩秋の午後、心が沈む。単に沈むのではなく「沈みはてし時」というのだから、大変なメランコリーである。

庭の地面に柿の赤い落葉が散り重なっている。その落葉を拾い上げている姿が想像されるが、句としては、沈みはてた心が地面まで降りていって落葉とともに重なっていると歌っているのだとみたい。

唯一郎の新感覚派的感性である。

心病む若者が畦の霜の音ひそまり聞きし

心病む若者とは、自分自身のことを言っているのだろう。

朝に畦道を歩くと、霜柱を踏んでその音がひそかに響く。

夜中から明け方にかけてせっかく盛り上がった霜柱を無惨にも踏んで歩く。霜柱の崩れる音が、自分の心の静かな叫びのようにも聞こえる。

父が居眠りをして父の活けた菊の前で長男であり

唯一郎の父が生きている頃の句である。だから、まだまだ若い頃だ。

父が居眠りをしている。その父が、菊を活けた。多分それは仏壇に供えたのだろう。

仏壇に供えられた菊の前で、長男であることのさだめのようなものを感じる唯一郎。長男である限りは、家業を継がなければならない。俳句で身を立てることは諦めなければならない。

ちなみに次男(唯一郎の弟)は、東京に出て立身出世し、海運業界の団体の理事長にまでなった。自分はそうした自由を許されていないと感じている。自分の不自由さを受け入れつつも、それに馴染めないでいる唯一郎。

若い舩乗にマントを借りし暗い街で鰰がひかる

酒田は港町である。船着き場に出ると、大陸からの季節風がことさらに吹き付ける。あまりの寒さに、若い船乗りがマントを貸してくれた。

鰰(はたはた) が陸揚げされる。庄内の冬の風物詩だ。暗い空の下で、魚偏に神と書く魚が光る。その光を見て、この町で生きていこうとする自分を励ましている。

本日はこれぎり。

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2009年9月 4日

片山さつきさんの土下座

既にあちこちで書かれているし、こんなこと自分で書いたってしょうがないだろうと思い、敢えて触れずにきたのだけれど、どうにも夢見が悪いのでやっぱり書いてしまうことにする。

今回の選挙速報番組では、自民党候補者の「土下座」場面が繰り返し放映された。あれを見た人の多くは、不愉快になっただろう。

テレビで一番多く流されたのが、あの片山さつき氏の土下座場面だろう(参照)。あの東大法学部卒で大蔵官僚というキャリアをもつエリート中のエリートが、切羽詰まると土下座までしてしまうというストーリーは、かなりセンセーショナルなものだったのだろう。

ところが、このパフォーマンスに対してあちこちから批判の声があがっている。もっとも正論なのは「国会議員の議席は個人のためにあるのではない」という指摘だ。有権者は有権者の都合で投票するのである。候補者が自分の都合で「お願いします、助けてください」と言って土下座するのは、お門違いというものだ。

しかしこの国では、このお門違いが時々通ってしまっていた。有権者が情にほだされて一票を投じてしまうということが、ままあったのである。ところが今回の片山さんの場合は、「情にほだされる」というバックグラウンドがなかった。地元では「どうせ落下傘」と思われていたのである。

ほだされる情が醸造されていないところにもってきて、急に自分の都合で土下座なんかされても、何も効果がなかったばかりか、逆に哀れさを増幅するという結果にしかならなかったのである。

今回、片山さんの土下座に対してあちこちのブログで不快を表明する記事がアップされているのは、こうした背景があったのだと、私は思っている。

土下座選挙が完全にナンセンスとして批判されているわけじゃない。土下座が素直に受け入れられる土壌を、選挙区に作る努力を怠ってきたくせに、唐突に哀れを乞うようなまねをしてみせるから、そのギャップが不快感を呼んだ。あるいは、「いい気味だ」と思われてしまったのかもしれないのである。

この国でもようやく「土下座選挙」がナンセンスと思われてしまうという、当たり前の感覚が養われてきたという指摘が多いが、私はそれを言うには早計だと思う。片山さんの土下座があまりにも唐突だっただけで、他の候補の土下座は案外素直に受け入れられていたりする。

まだまだ土下座が有効だと思われているのは、我々選挙民の責任でもある。そんなに見くびられるような存在でしかないのだ。悲しいことに。

最後にへそ曲がりとして、ちょっと別の視点から言わせてもらうのだが、片山さんのあの「土下座」は、写真を見る限り「正しい土下座」になっていない。中途半端すぎる。正しい土下座は、あんな風に足のつま先を立てて伏すものじゃない。ちゃんと足の甲まで地面に付けて、正座しなければならないのだ。

土下座だって、きちんとやればそれはそれで美しいものだったりするのだが、あれでは哀れなだけだ。土下座なんてしたことないから、やり方を知らなかったのかなあ。それとも、最後の最後までプライドが邪魔しちゃったのかしらん。

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2009年9月 3日

ユニクロのネオレザー商品

ファッション業界では既に秋冬シーズンの商戦がスタートしていて、店頭では、夏物はバーゲンの棚に山積みされ、ちゃんとしたところは秋物で埋められている。

ただ、今年はやや秋の訪れが早いとはいえ、例年は 10月の声を聞かないと、秋物なんか買う気になれないのである。なんだかなあ。

そんな中で、話題先行とはいえちょっとだけ注目を集めているのが、ユニクロがメンズで展開する「ネオレザー」製品だ(参照)。リンク先のニュースから、ちょっとだけ引用しておこう。

“ネオレザー”は特殊加工を施し本革に近い質感で軽量かつ通常のドライクリーニングが行える点が特徴。合革ジャケット類は1万円を超えるものが多いが、“ユニクロならではの価格”を意識し、ベストが2990円、ライダーズジャケットが5990円、エアテックコートが7990円など、全6アイテムすべてを1万円以下に抑える。

本皮に近い質感で、しかも軽くて普通のドライクリーニングができ、そのうえ安いのだから、本皮の品物を買うよりずっと利口のように思われるが、ネックがある。ポリウレタンコーティングによる合成皮革素材というのは、長持ちしないのだ。大体 3年ぐらいで 「経時劣化」 という現象が現れ、表面がヌメヌメ、ボロボロになって、コーティングが剥げてしまう。

これについて私は今年の 3月に、「合成皮革の寿命は 3~4年と覚悟すべし」という記事を書いて警鐘を発しているので、時間があればご覧いただきたい。

店頭の合成皮革商品のほとんどは、経時劣化に関する警告表示を付けているのだが、なにしろ小さな下げ札でそれについて触れているだけなので、消費者は購入に際してほとんど注意を払わない。店員だって聞かれない限りは、わざわざ「3年でダメになりますよ」なんてことは言わない。

ちなみに、ユニクロのネオレザー商品も場合も、店頭で確認したらちゃんと警告表示の下げ札が付いていた。ただ、やっぱり小さな下げ札なので、きちんとそれを確認して買う人は少ないかもしれない

だから、これまでの合成皮革製品では、消費者からのクレームが多発していた。「3年で着られなくなるなんてひどい」「安い買い物じゃなかったんだから、納得できない」というのである。

本来なら、ちゃんと警告表示が付いているんだから、それを見ないで買う方に責任があるし、「安い買い物じゃなかった」と言われても困る。「合皮なんだから安いんですよ。本皮だと、値段 10倍しますよ」なんて答えたら、喧嘩になる。私は今年 3月の記事で、以下のように書いている。

この問題はメーカーの説明不足と消費者の無知の合わせ技であり、もう本当に付き合いきれないお話なのである。私としては、今さら衣料品に合成皮革なんて悪趣味なものは使うべきじゃないと思っている。そんなものを使うから、後で馬鹿馬鹿しい問題を起こすのだ。

というわけで、ユニクロのネオレザー、大丈夫かなあと、少し心配になったのだが、まあ、多分大丈夫だろうと思うことにした。なにしろ本当に安いし、それにユニクロの顧客は買ってから翌シーズンまでに着倒してしまう。3年着れば OK で、4年着ようという人は珍しいだろう。

それでも中には、「およそ行き」みたいに誤解して、1年に 2~3度しか着ないうちにボロボロになり、ショックを感じてしまう人がいないとも限らない。そういう人はもう、気の毒な限りと言うほかない。

何度も言うけれど、合成皮革製品は、買ったら 3年以内にどんどん着倒して、早めに元を取ってしまうことだ。

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2009年9月 2日

関東甲信の梅雨明け、修正されず

気象庁は昨日、「平成 21年の梅雨入り・明けと梅雨時期の特徴について」という報道資料を発表した。(参照

それによると、関東甲信地方の梅雨明けは、当初の発表通り、7月 14日(実際には「ごろ」というのがついているが)で確定されてしまったようなのである。意外だなあ。

今年の夏は、7月 14日に梅雨明けが宣言されて、その日の前後 3日間は確かに晴れたものの、その後は、4~5日降っては 1日晴れるという繰り返しで、梅雨が明けたなんていう実感はほとんどなかった。世間でも「戻り梅雨」なんて言われていたのである。

私としても、7月 15日の記事で、梅雨明け宣言は早まってしまったんじゃないかと、疑問を呈している。そしてさらに、8月 3日の記事で「多分、気象庁はデータを修正することになるだろう」と書いている。ところが、気象庁は一度発表してしまったものを修正しようとはしなかったようなのだ。案外頑固なところがある。

というわけで、今年の夏ははっきりしないうちに、というか、気の晴れないうちに既に終わりかけているのである。今日の東京の天気予報でも、最高気温は昨日より 7度も低い 25度にしかならないとある。

ただ、25度といえば、痩せても枯れても「夏日」である。これで涼しいと感じるのは、やはり夏が終わって秋に向かっているからだ。春から夏に向かっている頃の 25度といえば、ちょっぴり夏に向かう暑さを感じさせたものである。

人間の体というのはおもしろい。同じ気温でも暑く感じたり涼しく感じたりする。要するにベクトル的な要素が大きいようなのだ。例えば、片手をしばらく氷水に浸してから、両手を室温の水に浸すと、それまで氷水に浸していた方の手には、ぬるま湯のように感じられる。同じ水に対して、同じ人間が同時に別の感覚を得てしまう。

こうした錯覚を人生全般にうまく使うと、世の中は結構楽しいものに感じられたりする。

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2009年9月 1日

茨城県知事選の結果

総選挙と同日に行なわれた茨城県知事選挙は、現職の橋本昌氏が 5選目の当選を果たした。しかも次点の小幡政人氏をダブルスコアで破る圧勝である。

茨城の政治風土って、よくわからないところがある。「ウチの県知事、5選目だよ」とは、私としては恥ずかしくて言いにくいなあ。

普通の感覚では、地方の首長は 3期 12年やれば十分である。4期 16年になったら、長すぎる。そんなに長くやってしまうと、周り中イエスマンだらけになってしまって、弊害が目立つようになる。どんなに立派な首長でも、それは例外ではない。

それがわかっているから、まともな神経をしている人なら、いくらなんでも 4期 16年もやれば、次は降りる。降りずに 20年もやってしまおうという姿勢をみただけで、この人、まともじゃないと、私は判断した。

ところが、結果は圧勝である。橋本氏は茨城県のほとんどの自治体の首長の支持を取り付け、しかも、労働組合である連合の支持まで取り付けてしまっていた。茨城の連合って、一体何を考えてるんだ? よっぽど裏でつながっているのか?

次点となった小幡政人氏は、自民党茨城県連の推薦で立候補した。自民党としては、いくらなんでも 5選目なんてべらぼうな人を推薦するわけにいかないとして、国交省官僚あがりの小幡氏を推薦し、いわゆる「分裂選挙」になったのだが、なにしろ時期が悪かった。

自民党への逆風が吹き荒れていたので、橋本氏がちょうどいい受け皿になってしまったのだ。橋本氏だって、前回までは自民党推薦で当選していて、支持してくれている地方自治体の首長だって、ほとんどは自民系のくせに、何がどう幸いするかわからない。

というわけで、私の居住する茨城県の知事は、カラダさえ丈夫なら 20年勤めることになってしまった。今どき、すごい県だなあ。

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