『唯一郎句集』 レビュー #75
今回も 2句。夏の季節の句が続く。夏とはいえ、庄内の夏である。それほど灼熱の太陽というわけではない。夕暮れから夜にかけての情景が似合う夏だ。
俳人には育った土地の風土が乗り移るのだろうか。確かに唯一郎の句は庄内の風土を感じさせるところがある。
庄内の風土には、穏やかさと厳しさの両面がある。春から秋にかけての、極端に走らないやさしい天候と、その間の農作業を勤勉に細やかに継続するきまじめさ。そして、冬の間の地吹雪が吹きまくる厳しさ。そしてその厳しさの中、人は必要以上に暗くなるわけでもなく、ただ淡々と堪え忍ぶ。
唯一郎の句は、とくに十代の頃はややペシミスティックなところがあるが、絶望感を漂わせているわけでは決してない。淡々と哀しんでいるといえばいいのか、不思議な諦観のようなものを感じさせる。そして、視点は鋭いが、まなざしはあくまで穏やかだ。
いづべよりか朴の花散り來て池に敷けり
「いづこ(何処)よりか」 ではなく「いづべ(何辺)よりか」としたのが、この句の肝だ。少し離れたところではあるが、朴(ほお)の花の咲き乱れる木が、確実に存在するという確信をいだかせ、その木が見えるような気にさえさせる。
その朴の白く分厚い花びらが、散ってきて池の水面を覆うほどに浮かんでいる。それを 「池に敷けり」 としたところも見事だ。
如意をかふて來て夜は夏草のかよはきに眼を移し
「如意」というものを買ってきたというのであるが、一体それが何なのか、調べるまではわからなかった。Goo 辞書では、「意の如く」という本来の意味以外に、次のような語義が示されていた。
〔仏〕 読経・説法・法会などの際に僧侶が手に持つ仏具。もとは「インドの孫の手」 といわれ、棒状で先端が指を曲げたように丸くなっている。骨・竹・木・金属など各種の材料で作る。
仏具なんか買ってきてどうするのかと思ったが、よく考えれば、単に「孫の手」のことを言っているのだろうと思われる。背中の痒いところをかくあの孫の手だ。
日が暮れてから孫の手で背中をかきながら、縁側に座って庭を眺める唯一郎。夏草の茎のか弱い細さと、孫の手のしなる弾力、自らの存在はどんなものだろうという疑問が、ふと心をよぎったのかもしれない。
本日はごれぎり。
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