平常是道
今日は朝から晩まで仕事にかかりきりだったので、ネタの仕入れができなかった。で、苦しいときには久々の『無門関』ネタである。
もっとも、こんな難物をネタにしてしまうと、どう書けばいいかでまたまた苦しんでしまうのだが、元々正解なんて誰もわからないのだから、テキトーに書けるという良さもある。
今日は十九則の「平常是道」という公案についてである。「平常心、是れ道なり」なんていうと、その辺のおっさんが説きそうだったり、仏教系私立高校の校長室の額に入った書にありそうな文句で、なんとなくわかりやすい気もする。ところが、本文を読むとやたらに長くて面倒くさい。
「南泉因みに趙州問ふ、如何なるか是れ道。泉云はく、平常心是れ道」というのである。趙州が師の南泉和尚に「『道』とはどんなものか」と聞くと、南泉和尚は「平常心が道というものだ」と答えた ―― と、それだけのことで、この公案は始まる。
趙州というのは、新参者の修行僧に「飯を食ったらささと食器洗いをするのが仏道だ」(参照)と教えた、あの趙州和尚である。その趙州和尚が若かりし頃、師匠の南泉和尚に、「大切なのは平常心だよ」と教えてもらったのだ。なるほど、この時の教えが、「飯を食ったらさっさと食器を洗え」につながったのだろう。
ところが、この時の趙州和尚はまだ若かった。こう言われてもピンとこなかったようで、「還って趣向すべきや否や」と食い下がった。これには 「それには努力してその道に向うべきでしょうか」と聞いたのだという解説がある。
それは、この質問に対する南泉和尚の「向かはんと擬すれば即ち乖(そむ)く」 という回答に引きずられた解釈だろうと思う。しかしいくら趙州若かりし頃とはいえ、そんな禅の「いろはのい」にもひっかからないような青臭い質問をしただろうか。
「平常心というのは、あまり漠然としすぎていてわかりにくいところがありますから、心を廻らせて、多少の趣向をして、その道の方向性を見極めるべきでしょうか」というような質問だったのではなかろうかと、私は思うのである。
そして、それに対する答えが、前述の 「向かはんと擬すれば即ち乖(そむ)く」というものだった。「方向性なんてものを想定しようとしたら、かえってわけわかんなくなっちまうよ」というのだ。
趙州はさらに食い下がる。「方向性を想定しなければ、それが道だか何だか、どうして知られるんですか」
すると、南泉和尚は続けてこう言う。「道というものは、知るとか知られんとかいうもんと違うのだよ。知ったと思ったら、それは迷いで、知られんと言ったら、そりゃ論外じゃ。もし『不疑の道』に達してしまったら、空がからりと晴れるように、ずぅっと遠くまで見通せてしまうんじゃよ。それがわからんうちに、ああじゃこうじゃと言うようなことじゃない」
南泉和尚というのは、実にわかりやすく説明してくれる方である。禅宗の師としては、例外的に親切な存在だ。さすがに趙州もここですぅっと悟ったというのである。大したものである。
しかしこれで大変な悟りを得たとしても、無門和尚は 「南泉和尚のこの素晴らしい指導によって趙州は悟ったとはいえ、さらに三十年の座禅の修行をして、初めて本当の悟りに到達する」と書いている。
ああ、まったくもって禅とは難物である。悟ったような気がしても、それからまだ 30年も座れというのだ。少なくとも言えるのは、本物の 「平常心」 とは、その辺の政治家やスポーツ選手がよく「平常心で勝負に臨みます」なんて軽い気持ちで言うようなレベルのものではないみたいだということである。
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