女性のエネルギーというもの
11月末は、仕事関連ではあるが、5人もの素晴らしい女性のお供をして、庄内の旅をしたのである。何という至福であろうか。
あのアルケッチャーノでのディナーも本当に喜んでいただき、私なんか和歌ログに、「年内はもう、粗末な食事だけで十分というほど食べた」(参照) なんて書いてしまった。
こう書いてしまってから私は、自分はおいしいものを食べるのが大好きではあるのだが、本当のグルメにはなれないのだなと思った。同行した女性たちは、おいしいものを食べることを心から喜び、感動し、そして「もう年内は粗末な食事だけで十分」なんてことは決して思われないみたいなのだ。
大阪人は贅沢をするとよく、「今晩はお茶漬けや」なんてジョークを言うが、私なんか本気で「年内はずっとお茶漬けでいい」なんて思ってしまったのであった。グルメの修行が足りないのである。
これはもしかしたら、血筋なのかもしれない。私の母はおいしいものを食べるのが大好きで、去年の 5月に、豪勢な朝食をしっかりと完食してから(実際には、体が動かないので、市から派遣された介護サービスのおばさんに 1時間がかりで完食させてもらってから)、20分も経たないうちに、至福のうちにあの世に旅立った。
「食事が済まないうちは、あの世に行くに行けなかったんだね」と、葬式が終わってから家族でしみじみと語り合ったほどである。
一方、父はと言えば、まるで英国人みたいなところがある。味には結構うるさいのだが、食べることそのものにはあまり興味がない。食べなきゃ死ぬから、面倒だが仕方なく食べている。父が味にうるさいのは、味を楽しむというよりは、せっかく我慢して食べるのだから、まずいのはかなわんというような気持ちみたいなのだ。
それで、ちゃんとしたディナーを食べるなんて、特別な日の「ハレ」の儀式であり、普段は死なないだけの栄養をさくさくっと摂れれば、それで十分と思っているフシがある。まあ、曹洞宗の坊主の倅だから、それはそれで尊いことなのかのかもしれない。お粥のほかには一汁一菜でさっさと済ますという美学だ。
私は両親から均等に食に対する姿勢を受け継いでしまっているが、なかなか自分の中でうまく混ざり合ってくれない。両極端なのである。おいしいものは大好きだが、時間をかけてしっかり食うなんていうのは、月に一度でいいと思っている。あとはお茶漬けさらさらか、盛りそばツルツルでも全然不足じゃない。
もちろん、お茶漬けも盛りそばも、まずいのは御免被りたくて、ちゃんとしたおいしいのを食べたいということに変わりはないのだが。
ちなみに今回の旅行では、食事だけでなく、往時の繁栄の面影残る割烹や廻船問屋など、酒田の旧跡をしっかりと見てあるき、東北に咲いた京文化に思いを馳せ、とてもハイブロウな観光を楽しんだのである。今回ご一緒した女性たちは、人生を楽しむエネルギーをしっかりとお持ちである。
実は、夕方に特急列車で酒田を発ち、新潟で新幹線に乗り換えるとき、私はもう、全然おなかが空かなくて駅弁を買う気になれなかった。ところが、私より小食のはずの女性たちが、しっかりとおいしそうな駅弁を買い求め、嬉しそうに召し上がるのである。
「負けたなぁ」と思った。父も、母の最期を目の当たりにして「負けたぁ!」と思ったと言う。女性のエネルギーというのは、男を感動させるところがある。さすがに原初は太陽だっただけのことはある。
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