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2009年12月 2日

大河ドラマの演出手法

3年前に、NHK の朝の連ドラを見るのが苦手だと書いた(参照)。あの、いかにも連ドラらしい演出が、異様に感じられてしょうがない。

虚空を見つめて不器用な長ぜりふをしゃべる主人公の背後で、下手な脇役たちが身の置き場に困りながら凍り付いているのが、見ていて不憫に思えて仕方がない。

サザエさんのアニメを見ていると、セリフをしゃべる人物が口を機械的にパクパクさせている間、他の人物は不自然に凍り付いている。余計な動きを描かないというのは、作画上のコスト削減策なのだろう。あれと同じことが朝の連ドラにもある。

アニメの場合は単なる絵だから、凍り付いている登場人物が身の置き場に困ったりすることはない。しかし朝の連ドラの場合は、生身の人間が演出的に凍り付くことを強要されるので、その身の置き所のなさをひしひしと感じてしまうのである。かといって、もっと自然に振る舞ってしまうと民放ドラマっぽくなるから、避けているのかもしれない。

実を言うと、私が NHK ドラマで苦手なのは、朝の連ドラだけではない。NHK には申し訳ないが、大河ドラマの方も苦手なのだ。やっぱり、あのいかにも大河ドラマっぽい演出手法が苦手なのである。

率直に言わせてもらうと、大河ドラマの出演者の演技は、8割が単なる「ストーリーの説明」に過ぎない。演技に名を借りた説明である。

同じ説明をするなら、歌舞伎の並び腰元が、渡りぜりふで前段までのストーリーを要領よく説明してくれる方が、ずっと違和感がない。あれなら「お約束の様式」と割り切れるから、単に説明として見ていられるのである。ところが大河ドラマの場合は、一応リアリズム的な演技の隠れ蓑をかぶっているから始末が悪い。

リアリズムとお約束が微妙に喧嘩してしまって、どうにも座りが悪いのである。

大河ドラマというのは、長編小説を 1時間一区切りの 1年間 (つまり 50数時間) でやっつけなければならない。見せ場以外の部分は、単なるストーリーの説明として平面的に流さなければならないのだろう。それはわかる。ただ私の感覚だと、その平面的な部分をもっともらしいリアリズムで見せられるのがたまらないのだ。

あれを見ている人の多くは、自分の理解している歴史的ストーリー解釈を、ドラマの中で確認しながら見ているのだろう。それなら説明部分も「うんうん」ってな感じで味わっているのかもしれない。あの部分にユニークさのある演技を求めてはいけないのだろう。

しかし、私は「並び腰元の渡りぜりふのようなもの」と割り切ることが、どうしてもできないのである。細部にも「血の通った人間」をちらりちらりと見せてくれると、私も大河ドラマを見直してしまうんだろうけどなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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