昭和 50年の大晦日
今どき、普通の勤め人の仕事納めは、大体 12月 28日頃と相場が決まっているが、昔は大晦日まで働いたものである。
私も大晦日まで働いた経験があるが、それは学生時代のアルバイトで、昔ながらの燃料店で灯油配達の仕事をしていた、昭和 40年代末から 50年代初頭ぐらいのことである。
今は灯油は大抵、生協やガソリンスタンドの宅配とか、ホームセンターとかで買うが、昔は個人経営の炭屋に毛が生えたような燃料店で配達してもらうことが多かった。私はそうした燃料店で、4年間ほど、冬が来るたびに灯油配達のアルバイトをしていた。
その燃料店は今はなき安倍球場の近くにあって、早稲田一帯から落合のはずれに到るまで、かなり広範囲の家々に灯油を配達していた。そして、店主は昔気質の商売人だけに、大晦日の夜まで商売していたのである。
いくらなんでも、昭和 50年を越す頃にはコンペチターのガソリンスタンドの宅配などは、暮れの配達は 29日までということにしていたようだが、その店は頑固に大晦日の夕方まで注文を受け付ける。配達が終了するのは、日が暮れて 7時頃になっていた。
昭和 50年代の冬は、今よりずっと寒かったという印象がある。身を切るような木枯らしの中、軽トラで配達しまくるのである。今とは違い、昔は店で 18リットルずつポリタンクに入れ、得意先に行くと、そのポリタンクからお客の容器 (まだブリキの一斗缶が主流だった) に移し替えるのである。
両手に 18リットル入りのポリ容器をぶら下げて、得意先の裏庭に廻り、そこに置いてあるブリキ缶にジョボジョボっと灯油を注ぎ込む。これがエレベーターのない団地の 4階だったりすると、なかなかの苦行になる。まあ、当時はやたらと体力があったから結構平気でやっていたが。
こうして大晦日の夜に仕事を終え、バイト代をもらって家に帰る。当時は武蔵境に住んでいたので、中央線を降り、駅の北口から自宅に向うと、まともに向かい風が吹き付ける。周囲の家々から、紅白歌合戦を見ながら盛り上がる声が聞こえる。
そして一晩寝て、元旦の朝、上野駅から酒田の実家に向う。今のように上越新幹線から羽越線特急なんていうルートではない。貧乏学生だから、急行列車で 9時間かけて行くのである。元日の急行列車は、混雑のピークは過ぎてはいるものの、スキー客が多いため、越後湯沢を過ぎてようやく座れる。
こうして昔を思い出してみると、日本もずいぶん様変わりしたのだなあと思う。今どき大晦日の夕方に灯油が切れたからといって、その時間に注文を受け付けてくれるところなんて滅多になかろう。ホームセンターまで行って買ってこなければならない。
というか、ほとんどの家庭では 28日までにちゃんとたっぷり注文して、正月を乗り切る備蓄をしておく。大晦日に灯油切れに気付くなんていうのは、よほどのうっかり者だ。しかし昔は、そうしたうっかり者でも救われていたのである。
帰郷するにも、9時間がかりの急行なんて、とっくに廃止されてしまった。今は新幹線と特急の乗り継ぎか、そうでなければ、各駅停車を延々と乗り継がなければならない。
毎年大晦日になると私は、あの周囲の家から紅白歌合戦の中継の音が聞こえる寒い夜道を、背を丸めながら帰っていた頃を思い出すのである。
ちなみに、昭和 50年といえば日本赤軍がマレーシア、クアラルンプールの米国大使館を占拠するという事件が起きた年である。ずいぶん昔のことのような気がするが、一方ではマイクロソフト社が設立された年でもあって、それほどかけ離れた年というわけでもない。
今年の更新はこれで終了。平成 16年から、6年まるまる毎日更新達成。
それでは皆さん、よいお年を。
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