« 必要なときに必要な措置ができればいいのだが | トップページ | 「赤いスイートピー」を巡る冒険 »

2010年1月27日

不条理な電話人生相談

先週の金曜日、仕事先に向かって車を走らせながらカーラジオを聞いていると、電話による人生相談のコーナーがあった。相談の回答者は作家の吉永みち子さん。相談者は還暦過ぎの男性である。

相談者は房州育ちで、きつい房州弁が抜けない。しかし一緒に住んでいる年の離れた兄夫婦が別の土地で育ったという事情があり、一つ屋根の下で言葉が通じず、疎んじられているということなのである。

兄は酒を飲むと「お前の言うことはさっぱりわからん」と怒り出すし、兄嫁は普段から口をきいてもくれないという。市役所などでも職員が自分の言うことを理解してくれず、困っているのだそうだ。

と、こう書くと、そもそも電話相談自体が成立しないのではないかと思われるはずだが、不思議なことに、回答者の吉永さんには、この男性の言うことがちゃんと不都合なく通じている。ラジオを聞く私も、苦もなく理解できる。

吉永さんが「房州弁が通じないと言いますが、あなたの言うことは、私にはちゃんとわかりますよ」と言うと、相手は「今は、ちゃんとていねいにしゃべっているから」と言う。

「普段だって、わからないならどこがわからないか言ってくれれば、ちゃんと言い直してやるのに、聞き返しもしないで、ただわからないとだけ言われるのが癪に障る」のだそうだ。かなり勝手な理屈ではある。

そこで、相談は当然ながら次のような流れになる。

「あなたね、ちゃんと房州弁も共通語も両方しゃべれて、バイリンガルなんだから、あなたの方が、初めからちゃんとわかるようにしゃべればいいだけのことでしょうよ」
「でも、身内なんだから、つい房州弁でしゃべる」
「それで通じないんだから、しょうがないでしょ。あなたがちゃんと通じるようにしゃべればいいのよ」

というわけで、相談者は心の底から納得したようなふうではなかったが、この不条理極まりない電話相談は、こんな具合のまま時間切れになった。

この不条理の根底にあるのは、相談者の「甘え」である。彼は独身で、兄の家の二階に住まわせてもらっているのだが、要するに、淋しいのだ。彼の潜在意識は、身近な身内の兄夫婦に甘えたいのである。

甘えたくてたまらないのに、他人行儀な標準語なんか使えない。どうしても慣れ親しんだ房州弁でしゃべって理解してもらいたいのだ。ところが兄夫婦としては、ろくに働きもしないで居候を決め込んでいる上に、乱暴な房州弁でわけのわからないことばかり言う弟に、うんざりしているという構図である。

この救いがたいギャップを埋めるのは、話し方のテクニックなんかではない。心の問題だ。それも「感謝」という心である。相談者は居候させてくれている兄夫婦に、これまでずっと感謝の意を表現したことがないということに思い至りさえすればいい。

自分のことをわかってくれろと要求するばかりで、相手の気持ちをわかってやろうという気持ちになっていない。そんな一方通行な気持ちでは、兄夫婦に拒絶されるばかりである。

兄夫婦に心から感謝して謙虚に振る舞い、進んでできるだけの手伝いをすることだ。それだけで、同じ房州弁で話しても兄夫婦は聞く耳をもつ。人間とはそういうものである。思い切り甘えた経験のない人間が感謝の意を表すのは難しいことだが、どんな に不器用なやり方でもいいから、すべきことはしなければならない。

感謝する気持ちになれず、兄夫婦は冷たいと思いこんでいる限り、「あなたがわかるようにしゃべればいいのよ」では、問題は決して解決しない。

 

|

« 必要なときに必要な措置ができればいいのだが | トップページ | 「赤いスイートピー」を巡る冒険 »

世間話」カテゴリの記事

コメント

“個”を認められる人と、認識できないで居る人。

 形骸化した感謝の意には辟易ですが、ここ一番で“ピタ”と決まる「ありがとう」を喰らうと、しばらく身体が打ち震えるほどハッピーです。アドレナリンか、なんちゃらホルモン大放出中なのでしょう。
 その感動を次につなげたいと、気持ちの上では実行中なのですが、真相は藪の中…。

 個を認識している人かそうでないか、ペットの犬や猫だとその辺の見極めが出来るんですってね。アナオソロシ。

投稿: 乙痴庵 | 2010年1月28日 12:58

感謝って本当に大切だと思いますね。先日の記事でお医者さんを訴える人の話がありましたが、お客様は神様というのは売る側、サービスをする側の心得であって、売ってくれる人やサービスをしてくれる人たちのほうが神様だと日頃感じています。ただ、最近は他の人が言わないので、「ありがとうございます」と言ってからちょっと気恥ずかしいような気持ちになってしまうこともありますね…。

房州弁って初めて聞きました。千葉県の方言なんですね。

投稿: ぐすたふ | 2010年1月28日 18:49

乙痴庵 さん:

>“個”を認められる人と、認識できないで居る人。

それを認められるまでには、精神の発達の過程を経なければならないんですが、途中でしっかりとした愛情を注がれて満足感を得ている人とその経験の希薄な人では、ちょっと違ってくるような気がします。

いつまでも「甘えたがり」の幼児段階を引きずっているひとは、それを卒業できていないんですね。

>骸化した感謝の意には辟易ですが、ここ一番で“ピタ”と決まる「ありがとう」を喰らうと、しばらく身体が打ち震えるほどハッピーです。アドレナリンか、なんちゃらホルモン大放出中なのでしょう。

別にとりたてて言い立てる必要もないんですが、要するに気持ちの持ちようなんでしょうね。

投稿: tak | 2010年1月28日 21:25

ぐすたふ さん:

>感謝って本当に大切だと思いますね。先日の記事でお医者さんを訴える人の話がありましたが、お客様は神様というのは売る側、サービスをする側の心得であって、売ってくれる人やサービスをしてくれる人たちのほうが神様だと日頃感じています。

サービスを受ける自分が神になりすぎると、ちょっと大変ですね。

相手も観音様だというぐらいに思わないと。

>ただ、最近は他の人が言わないので、「ありがとうございます」と言ってからちょっと気恥ずかしいような気持ちになってしまうこともありますね…。

言い慣れることも必要かもしれませんね。
自分なりに自然に言えるようになるには、年季が必要です。

投稿: tak | 2010年1月28日 21:28

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 不条理な電話人生相談:

« 必要なときに必要な措置ができればいいのだが | トップページ | 「赤いスイートピー」を巡る冒険 »