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2010年2月20日

『唯一郎句集』 レビュー #105

今回は明らかに前回の続きで、晩秋から冬にかけての句だ。さっそくレビューである。

芒群輝かずなり陽の照れども

「芒群」は「ぼうぐん」と読んでおこう。ススキの群落のことだと思う。

ススキは白くほやけると、秋の日を受けて美しく輝く。しかし、この日の太陽はススキを照らすほどの力がない。

枯れススキがさみしく風に揺れている。秋が深まり、冬はもう近い。

落葉とあそぶ児らといてしばしば日のてり

鉛色の雲が垂れ込める冬にはまだ間があるが、さりとて晴れ渡っているわけではない。雲の量が日に日に多くなる。そして太陽の見える時間がどんどん少なくなる。

落葉を踏んで戯れる子どもたちと過ごす唯一郎。子どもたちは時々落葉を掴んではぱっと放り投げて歓声を上げる。そんな時にちょうど日が射すと、子どもたちの顔が輝く。

氷雨す象潟の海の波頭おもし

象潟は秋田県境を越えてやや北に行ったところにある景勝地。奥の細道を辿って芭蕉が訪れた頃には、松島のような島の点在する海だったらしいが、今は海底が隆起して田んぼの所々に、昔は島だったところが盛り上がっている。

その陸地から、氷雨の降る日本海を眺める。海の様相はだんだんと冬の荒海に近付いてきている。高い波頭がぐんぐんと陸に近づき、白く砕けて、ずぅんと腹に響くような重々しい音を立てる。

冷たい灰色の水の塊の、果てしない重量を感じさせる。こんなにも重々しいものを支える海というものは、一体何なのかと思わせる。

ふゆ谷川のながれあふところ響をかゆる

白い雪が所々に残る初冬の谷あいを辿る。谷川に別の流れが注ぎ込む地点に差し掛かると、急に水音が変わる。

「かゆる」は、「変える」の古語。本来の終止形は「かゆ」だが、通常「かゆる」で用いられることが多い。

音の変化を言葉にしただけで、目に見える光景や肌に感じる空気の質感の変化までを感じさせる。

本日はこれまで。

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