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2010年2月に作成された投稿

2010年2月28日

『唯一郎句集』 レビュー #108

今日は秋の頃の句である。季節の反対側だが、俳句というものの力は大したものだ。目の前に秋の光景が広がる心地がする。

  京野氏別荘にて

くぬぎやぶなやひたむきに落葉してやまず

京野氏の別荘に招かれて作った句であることは明白だが、その京野氏とは一体誰で、唯一郎とどんな関係だったのか、とんとわからない。

ただ、それはあまり重要な問題ではない。重要なのは、別荘から見える自然林の、くぬぎやぶなの葉が、絶えずひらひらと舞い落ちている光景である。

その落葉を、「ひたむきに」と表現しているのが、まさに「ひたむき」という気がしてしまう。

  羽黒山上北日本海紅俳句大会にて

芝生ふけそめて萩のたるるに

羽黒山で、日本海の北側の海紅同人の俳句大会が催されたようだ。

ここに出てくる芝生が、どこにあるのか、羽黒山の近辺にあるのかどうか、わからない。ただ、これもどこにあるかは重要な問題ではないようだ。

芝生が古くなりかけている。それ 「ふけそめて」と表現するところが、ちょっと意表をついているかも知れない。

そして、その古くなりかけた芝生の上に、見事な萩の花が垂れかかっている。枯れた芝色と、萩のみずみずしさの対照。

羽黒樹うれの秋雲をうごかさず

「うれ」 とは、万葉の昔からの言葉で、木や草、枝の先端のことを言う、この句の場合は、羽黒山に育つ木々の上に接して浮かぶように見える秋の雲を題材にしている。

木々の先端によってピンで留めているように、秋の雲が動かず、じっと浮かんでいる。霊山である羽黒山では、時間が止まっているように感じられる (参照)。雲も動かず、止まっている。

本日はこれぎり。

 

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2010年2月27日

『唯一郎句集』 レビュー #107

今日は、「昭和二年湯澤の海紅大会にて 三句」と記された句をレビューする。同じ時に作った句なのだが、なぜか 1ページに 1句という、贅沢な所載のしかたをしている。このあたり、どういう編集方針なんだかわからない。

わからないついでだが、「湯澤」というのも、秋田県の湯沢市だか新潟県の湯沢町(上越新幹線の 「越後湯沢」 のある町)だかわからない。

とりあえず、順にレビューする。

冬海の岩ひきあぐるをとこをんなの声す

秋田県の湯沢も新潟県の湯沢も山の中だから、この句はその土地の情景を目の前にしてつくったものではなかろう。酒田の海岸の情景だろうと思う。

冬の海で岩を引き上げるというのは、どういうことなのかわからない。もしかしたら、荒波で削られて海に落ちてしまった岩を、船の安全のためにどかす作業なのかなと思ったりもする。

いずれにしても、大変な作業だろう。綱をかけて岩を引き上げる時に、力を合わせるためにかけ声がいる。老若男女の大きなかけ声が、波の音に混じって聞こえる。

空はどこまでも鉛色。

あられは鶴のあたまを打つ枯芝の上に

昔は酒田のあたりにも鶴が飛来したのだろうか。「あられが鶴のあたまを打つ」 というのは、ずいぶん荒涼とした光景である。

海岸には自然の芝地が広がっているところがある。風が強くて、芝以外の草木が生えないのだろう。

その枯芝の上に佇む鶴の群れにあられが降り注ぐ。あられを避けるために隠れる場所がない。あの華奢な鶴の頭が、あられに耐える。

霜夜厨房のいもかさなりあへり

霜の降る静かな夜というのは、実は酒田では珍しい。冬はいつも風が強いからだ。

そんな静かな夜、台所にはいもがどっさりとかさなりあっている。暗い中でいもの山をみると、そこに別の世界があるようにみえる。

本日はこれにて

 

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2010年2月26日

TOYOTA、豊田章男社長の英語

親愛なる先輩、alex さんが、アメリカでの公聴会に出席した豊田章男社長の英語力に、だいぶ失望された旨を「TOYOTA社長の英語」という記事に書いておられる。なにしろ、"Believe me, Toyota's car is safety."(信じてね。トヨタの車 [なぜか単数形 = 念のため] は安全性なんです)と口走ったんだそうだ。

さらに "But we will try to increase our products better." (しかし、もっとよく製品を増加しようとするでしょう)と続けたと伝えられる。ふぅむ、確かに、高校 1年生レベルの英語ができていれば、こうは言わないだろう。

alex さんは、「輸出企業・トヨタの北米担当だったのに、この英語力! トヨタは、この社長をまずリコールしなきゃね(笑)」と書かれている。豊田社長は高校時代と慶応大学卒業後の 2度に渡る米国留学経験をもち、マサチューセッツ州のバブソン大学で MBA まで取得しているはずなのに、何だかなあという感じである。

で、実際はどんな風な感じだったのかなと思い、YouTube で検索したら、公聴会での証言の模様のビデオが見つかった。

(* この動画は消去されてしまったようだ)

このビデオを見た限りでは、多分誰かに書いてもらった原稿を読んでいるようなので、あまりへんてこな間違いはしていない。いかにも日本語で書かれたものの直訳調で、自然な英語には感じられないが、それはまあ、仕方のないことだ。

ただ、発音やアクセントがめちゃくちゃな部分があるので、ところどころ何を言っているのか米国人には理解されなかったかもしれない。(カタカナ英語に慣れている日本人の私にも、わからないところがあった)

とはいえ、あまり大きな破綻があったとは感じられない。悪意に満ちていることでは定評のある米国の公聴会を、まあ、なんとかぎりぎりで乗り切ったんじゃないかなという印象だ。

ところが、alex さんの指摘する問題の英語が飛び出したのは、その後の記者会見のようだ。どっかの記者が 「時間がないから英語で答えて」と要求したら、とたんにめちゃくちゃブロークンになっちゃったらしい。

(* この動画も消去されてしまったようだ)

米国の記者としては、米国で MBA を取った世界的企業の社長の英語が、そんなにもお粗末だとは思わなかったのだろう。しかし結果としては、かなり意地悪な要求になってしまったようだ。

聞きようによっては、東洋の怪しいブローカーみたいな口調だ。で、"But, believe me, Toyota's car is safety, and but we are try to increase our products better. " と言っている。

まあ、日本人の経営トップの英語力としては、これでも平均よりずっと上かもしれない。ただ、そう思うと、ちょっと悲しい。

 

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2010年2月25日

大声でアイサツしさえすれば……

メインの仕事先が秋葉原にあるので、私はちょくちょくあのでっかい「アキバのヨドバシカメラ」で、オフィス用品の買い物をする。9時半の開店と同時に店内に飛び込んで買い物をすることもしばしばだ。

このヨドバシカメラという店は、開店直後に店内にはいると、店員がずらりと勢揃いして、まるで百貨店の開店直後みたいに、慇懃無礼な最敬礼をする。私はこれが嫌いである。百貨店でやられるのも嫌なのに、ヨドバシはやたら大声の「いらっしゃいませ!」まで加わるので、顔を背けたくなる。少なくとも秋葉原の街にはそぐわない。

こんな慇懃無礼をするくせに、開店からしばらく経つと、今度は単なる「無礼」に変身する。ここの店員は、通路を歩く客の目の前に平気で急に立ち止まったり、直前を横切ったりする。人混みの中を走るようにやってくる店員に条件反射的に道を譲っても、礼も言わずに行ってしまう。

ごく普通のマナーがなってないのに、開店直後の最敬礼さえすれば、ホスピタリティを示したと思っている。で、もしかしたら、世の中には、「開店直後に最敬礼して大きな声のアイサツで客を迎えるヨドバシは、店員教育がしっかりしてる」なんて思ってる人もいるかもしれない。

なんで急にこんなことを言いだしたかというと、実は今月 19日に書いた "「スポーツとナショナリズム」 という魔物" という記事の関連なのである。例のスノボ、ハーフパイプの国母選手の件で書いた記事だ。

私はこの記事の中で、「体育会系の石頭と、ゆるゆるヤンキーとは、あれだけ対極にあるように見えても、実は根っこの部分ではかなり近いのではないか」と指摘している。

それどころか有り体に言ってしまえば、体育会系の中には既にかなり前からヤンキー的、あるいはヒップホップ的な要素がちらほら見え隠れしている。朝青龍、亀田兄弟、山本 "KID" 徳郁あたりを見さえすれば、誰もそれを否定できないだろう。

水泳の北島康介選手が北京オリンピックで金メダルを取ったときの「チョー気持ちいい!」発言なんて、あの目つきからしてかなりヤンキーっぽかったという印象があるのだが、あれは熱狂的なご祝儀ムードのうちに、むしろ好意的に受け入れられ、流行語大賞にまでノミネートされた。「チョーご都合主義」である。

最近のスポーツ選手というのは昔と違って、ずいぶんカジュアルになっている。地方の高校の野球部員の制服の着こなしなんて、あの国母君よりひどかったりする。あの程度で「出場辞退せよ!」なんて迫ったら、甲子園の予選は成立しない。

それでも、頭を短く刈って、野球のユニフォームだけはちゃんと着て、先輩には大声でアイサツしさえすれば、他はユルユルでも「礼儀正しいヤツ」と思ってもらえる。スポーツの世界とは、いや、日本の社会というのは、かくのごとく「気分次第」、あるいは「アイサツ次第」で評価されるのである。

あの国母君だって、直後の記者会見で、深々と最敬礼してから「申し訳ありませんでしたっ! 気がゆるんでましたっ! 反省してますっ! 今後決してあのような格好はいたしません!」とかなんとか、しゃっちょこばって心にもないコメントをしさえすれば、一発で許されたのである。それをしなかったところが、国母君らしいところだけど。

まあ、体育会系の世の中では、ゆるゆるのヤンキーだったのが、社会の荒波にもまれて改心して妙に更生すると、今度は急にこっちんこっちんの石頭の指導者になったりするのである。両者の根っこの部分はすごく共通しているから。

で、私としては、そりゃアイサツはないよりゃあった方がいいけど、他はユルユルでも大声でアイサツさえすれば礼儀正しいと思ってもらえるなんていう、「大声のアイサツ=免罪符」みたいに機能させる風潮は、なんとかしてもらいたいと思っているのである。

とくに、ヨドバシカメラのあれ、うるさいだけだから。

【3月 2日 追記】

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某ビジネスホテル・チェーンのエレベーター内で、こんな広告を見つけた。やっぱり「大きな声の挨拶」って、錦の御旗みたいな機能をもっているようだ。

ただ、それが 「一番の仕事」 というのもなんだかなあ。

 

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2010年2月24日

「日本のチベット」発言

民主党にも配慮のない発言をぽろりとしてしまう人が少なくないようで、今回は石井一参院議員の「島根・鳥取は日本のチベット」発言が物議を醸している。本当にもう政治家って、こんなことを公の場で言ったらおかしなことになると決まっているのに、どうして言ってしまうんだろう。

前の「女性、産む機械」論でおかしなことになった自民党の柳澤伯夫さんの場合もそうだが、こういう人たちって、こんな馬鹿馬鹿しい発言がその場でウケるものと期待して、わざとそんな言い方をしているんじゃないかと思われるフシがある。

そんな言い方をする必然性のある文脈では全然ないのに、あえてウケを狙って、「私は冗談ぽい言い方や柔らかい例え話もできる政治家なんですよ」というところを見せて、ポピュリズム的な人気を得ようなんて思ってるんじゃないかという気さえするのだ。

で、結果はまったく当人の思惑とは反対の効果しか生まないわけで、要するに発言した人物の悪趣味を露呈しただけに終わってしまう。スベってしまうだけならまだいいが、こういう発言って、とかく「差別だ!」と言われるようなニュアンスを含みがちだから、アブナイのだ。そのアブナイ橋を、不用意に渡る政治家が多すぎる。

で、今回の 「島根・鳥取は日本のチベット」発言だが、これに対する非難の仕方もなかなか難しい。単純に「島根・鳥取を蔑視している」なんて言ったら、その非難発言自体が「チベット蔑視」の価値観から生じたものとして、さらに面倒くさいことになる。

実は、インターネットを検索してみると、そういうエラーをおかしている人が、誰とは言わないが結構多い。注意してもらいたいものである。

その辺り、自民党の石破政調会長ぐらいになると、なかなか達者なもので、「両県とチベットにとって極めて侮辱的だ。思い上がった発言で、謝罪のうえ、撤回すべきだ」と批判したという。これぐらいなら合格点だろう。

それにしても、昔は「岩手県は日本のチベット」なんて言われていたものなのだがなあ。(以下、Wikipedia 「岩手県」 からの引用)

戦後、1950~1960年代には、山岳地帯のため交通の便が悪いことや、主な産業が新日本製鐵の釜石製鐵所位しかなく、所得水準が全国でも低いことから、自ら「日本のチベット」と呼び、政府の振興策を求めたこともあった。

この問題に対する小沢さんのコメントを聞きたいものである。

 

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2010年2月23日

ポリエステルのスカートやズボンの毛玉

アパレル業界に寄せられる品質面でのクレームの中で上位に入るのが、「ピリング」という問題だ。いわゆる「毛玉」である。生地の表面に生じた毛羽(けば)が絡まり合い、小さな粒になったものだ。小さな粒なので、英語では錠剤の「ピル」と同じ言葉で表現し、それが業界用語になっている。

ピリングは大なり小なりどんな生地にも発生するが、圧倒的に短繊維織物や編み地に多い。短繊維とは、綿やウールなど、比較的短い繊維である。それを撚り合わせて糸にする。短い繊維を撚り合わせているので、糸の中に繊維の端っこが多い。その端っこが摩擦で表面に引き出されると、互いに絡み合って粒状になり、ピリング発生ということになる。

一方、シルクなどは一般的にピリングが発生しにくい。蚕の口から吐き出された長い長い繊維(長繊維)を使って糸を作るからだ。糸の中の繊維に端っこがほとんどないようなものなので、毛羽も出にくい。

そして、ポリエステルも一般的には長繊維に分類される。蚕の口からシルク繊維が吐き出されるように、工場のノズルから細いポリエステル繊維が延々と吐き出されるので、端っこがほとんどない。それで、生地の表面に毛玉が発生する発端も少ないのだ。

ところが、ピリング関連で寄せられるクレームのほとんどは、ポリエステル 100% のスカートやズボンに生じたものである。これは一体、どうしてなのか。

ポリエステル繊維を使って糸を作る際に、長い長繊維をわざわざブツブツ切って、短繊維にし、綿やウールのように撚り合わせて糸にすることがある。どうしてこんなことをするかというと、安いポリエステルを使って、いわゆる「ナチュラルな」質感を表現しようとするからだ。

ポリエステルを長繊維のまま使えば、一見シルクのようなテレンテレンの表面感になる。ブラウスやワンピースドレスなどは、そうした使い方をすることが多い。だから、これらのアイテムではピリングのクレームがほとんどない。

しかし、スカートやズボンの場合、シルクのようなテレンテレンの表面感ではなく、ちょっとざらっとした綿やウールのような感覚が求められる場合が多い。そんな感覚を表現するために、ポリエステル繊維をわざわざブツブツ切って、綿やウールのような短繊維にしてしまうのだ。

いくらポリエステルでも、ブツブツ切って短繊維にしてしまうと、それを撚り合わせて作った糸の生地は、表面がテレンテレンしない。一見すると綿やウールの生地に近い感覚が生じる。それで「天然繊維ライク」とかいう謳い文句で市場に流れる。綿やウールよりも安いから、値段の安いスカートやズボンに使われる。

ところが、ここからが問題だ。「天然繊維ライク」のポリエステル生地は短繊維だから、毛羽が発生しやすい。とくにショルダーバッグとの摩擦が生じる腰の辺りとか、椅子との摩擦が生じるお尻の辺りに、びっしりとピリングが発生する。

綿やウールの場合は、繊維がポリエステルより太いので、ピリングも比較的大きい。そしてポリエステルよりずっと弱いので自然に落ちやすいし、指でつまんで容易に取り除くこともできる。しかしポリエステルはなまじ丈夫だから、なかなか取れにくい。それで、「小さな毛玉がびっしりとついて取れない」というクレームになる。

私個人としては、天然繊維のような感覚のスカートやズボンが欲しかったら、綿やウールのものがいくらでもあるのだから、それらを買えばいいと思う。しかし世の中には安い値段に釣られて、ついポリエステル 100% のものを買う人が多い。店でも「ポリエステルだから丈夫ですよ」なんて言って、無責任に売りつけたがる。

ポリエステル短繊維の生地は、ピリングが避けられない。そして前述の如く、なまじ丈夫なので一度生じたピリングは取れにくい。だから、それを承知で安物を買うのだと思った方がいい。

ところが、消費者のほとんどはそんな知識がないから、「3日はいたら毛玉だらけになった」とクレームを付けることになる。ポリウレタン・コーティングの合成皮革は 3~4年しかもたない(参照)というのと同様、消費者知識として定着していないのが問題だ。

売る側としては、そんなネガティブな要素は敢えて大きくは訴求しない。小さな注意書き表示を、最低限のアリバイ作りみたいになるべく目立たないようにぶら下げて責任逃れするだけだから、それを購入する消費者のほとんどは、そんなことに気付かない。

それで、合成皮革の表面劣化とポリエステルのスカートやズボンのピリングは、何十年も同じ繰り返しで、ほとんど進歩がない。

補足だが、セーターなども毛玉ができやすいが、ウール 100% なら、比較的簡単にポロポロ落ちてしまう。ところが、紡毛系(詳しくは長くなるので こちら)は、強度保持のためにアクリルなどを混紡することが多く、合繊は下手に丈夫なので、毛玉が落ちにくくなる。

インターネットで調べると、綿やウールは毛玉ができないなんて書いてあるページがあるが、それは間違いで、できてもすぐ落ちるから目立たないというだけのことだ。落ちてから、部屋の隅で大きなフワフワの毛玉に成長する。合繊だとなまじ丈夫なので、いつまでも頑固にひっついて、服の表面で目立ってしまうのである。

 

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2010年2月22日

長崎県知事選の結果

やばい。仕事に追われているうちに、頭が真っ白になって、今日が終わりそうになっているというのに、ネタが思い浮かばない。

そう思ってネット・ニュースを眺めていると、やはりちょっと意味のありそうなのは、長崎県知事選の結果なのではないかという気がしてきた。民主・社民・国民新党推薦候補が敗れて、自民党推薦の候補が当選したという。そして、かの「注目の」大仁田厚氏が 10万票近くも獲得して 3位に食い込んだ。

そりゃ、「民主・社民・国民新党推薦」なんて文字が並んだら、落っこちるわ。先の総選挙で政権交代を期待して民主党に投票した有権者の多くは、なんだかんだでシラケてしまっているだろうし、そこに「社民」と「国民新党」なんていう文字が並んだら、さらにシラケる。

3つの党が推薦しているというのは、足し算したらそれなりのパワーにはなるのだろうが、かけ算的に考えると、字ヅラとしてこの 3つが並んだら、イメージとしてはマイナス効果の方が大きいだろう。組み合わせの妙とは、なかなか奥深いものである。

とくに「知事」という結構な権力者が、社民党の力を借りて当選したのだというような結果になったら、「ちょっとヤバイかも」という意識を持たせてしまうというマイナス効果があったんじゃなかろうか。民主党のいう「金と政治」問題以上に、この組み合わせはヤバかったと思う。

票数的には、自民党推薦候補と民主党推薦候補の獲得票数は、ざっと 3:2 の割合になるようだが、あの大仁田厚氏がそれに対して 1 となるほどの票数を獲得している。いやはや、恐れ入った。長崎県民、なかなかファンキーである。

 

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2010年2月21日

『唯一郎句集』 レビュー #106

急に時間軸が遡って、大正十五年の六月になる。今日の 3句は酒田の同人、一路風と酉水子との三人で、北陸関西方面を旅行し、俳句を作ったときのものだ。

大正十五年六月北陸関西の俳行脚
(同行一路風、酉水子)

新潟句会にて
牡丹さききって居る素足の踵を見せて

途中で立ち寄った新潟で句会に参加したときの句だろう。

牡丹は美人の形容に用いられる。咲ききった牡丹は粋な年増の女性を連想させる。その女性が素足の踵を見せている。かなり艶っぽい句である。

金澤満花城庵にて
夏山の狭霧なつやまをめぐり消ゆや

満花城とは、金沢の俳人、野村満花城。河東碧梧桐に師事し、地方新聞俳壇の選者をつとめ、絵も描いた。この句は、彼の庵からの光景を題材にしたものだろう。

唯一郎独特の、繰り返しによる不思議な感覚の醸造。夏山ということばが繰り返されるとき、「なつやま」 と平仮名になると、狭霧がいかにもゆったりと山の端を巡る様が目に浮かぶようだ。

京都旅宿川久にて
叡山の灯を仰げばのどぼとけを吹きくる風

インターネットを探すと、今でも京都宮川町に 「川久」 という茶屋がある。鴨川沿いにあり、その辺りからなら、叡山の灯も見えるだろう。

盆地の京都の夏は、風が吹かず蒸し暑いが、鴨川沿いなら少しは風が渡る。叡山の灯を見上げる唯一郎の無防備なのど仏をその風が吹きすぎる。若々しく官能的な句だ。

唯一郎は、同行の 3人の中では一番年下のはずで、その一番の若手がこんなすごい句を作るのだから、そりゃあ注目もされただろう。

本日はこれまで。

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2010年2月20日

『唯一郎句集』 レビュー #105

今回は明らかに前回の続きで、晩秋から冬にかけての句だ。さっそくレビューである。

芒群輝かずなり陽の照れども

「芒群」は「ぼうぐん」と読んでおこう。ススキの群落のことだと思う。

ススキは白くほやけると、秋の日を受けて美しく輝く。しかし、この日の太陽はススキを照らすほどの力がない。

枯れススキがさみしく風に揺れている。秋が深まり、冬はもう近い。

落葉とあそぶ児らといてしばしば日のてり

鉛色の雲が垂れ込める冬にはまだ間があるが、さりとて晴れ渡っているわけではない。雲の量が日に日に多くなる。そして太陽の見える時間がどんどん少なくなる。

落葉を踏んで戯れる子どもたちと過ごす唯一郎。子どもたちは時々落葉を掴んではぱっと放り投げて歓声を上げる。そんな時にちょうど日が射すと、子どもたちの顔が輝く。

氷雨す象潟の海の波頭おもし

象潟は秋田県境を越えてやや北に行ったところにある景勝地。奥の細道を辿って芭蕉が訪れた頃には、松島のような島の点在する海だったらしいが、今は海底が隆起して田んぼの所々に、昔は島だったところが盛り上がっている。

その陸地から、氷雨の降る日本海を眺める。海の様相はだんだんと冬の荒海に近付いてきている。高い波頭がぐんぐんと陸に近づき、白く砕けて、ずぅんと腹に響くような重々しい音を立てる。

冷たい灰色の水の塊の、果てしない重量を感じさせる。こんなにも重々しいものを支える海というものは、一体何なのかと思わせる。

ふゆ谷川のながれあふところ響をかゆる

白い雪が所々に残る初冬の谷あいを辿る。谷川に別の流れが注ぎ込む地点に差し掛かると、急に水音が変わる。

「かゆる」は、「変える」の古語。本来の終止形は「かゆ」だが、通常「かゆる」で用いられることが多い。

音の変化を言葉にしただけで、目に見える光景や肌に感じる空気の質感の変化までを感じさせる。

本日はこれまで。

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2010年2月19日

「スポーツとナショナリズム」という魔物

スノボの国母選手の話題をちょっと辿ったら、「きっこのブログ」に行き着いた。「オリンピック選手は国民の代表なのか?」という記事である。それで、本当に久しぶりに彼女のブログを読んだ。

要するに、きっこさんはこの記事で 「オリンピック選手を国民の代表だなんて思っていない」ということをおっしゃっているのである。だから、彼らがどんな格好をしようと別に関知しないと、つまりそういうことだ。

ただ、きっこさんもいろいろな見方があるということは十分に認めておられるようで、次のように書かれている。

オリンピック選手のことを 「国民の代表」 だと思ってる人たちは、オリンピック選手が、オオヤケの場で、乱れた服装や言動、態度をとれば、おんなじニポン人である自分たちに恥をかかせたことになる‥‥って理屈になるワケで、自分たちに迷惑がかかったと感じてるからこそ、批判してるんだと思う。

(中略)

一方、あたしや江川紹子さんのように、オリンピック選手のことを「国民の代表」とは思ってない人たちは、選手たちがどんな服装や言動、態度をとっても、別に自分が恥をかかされたとは思わない。ただ単に、その選手個人に対して「まだ子供なんだな」とか 「良識がない人なんだな」とかって思うだけで、それだけのことだ。

私としてはさらに、きっこさんの「国民の代表」論に加えて、「清く正しいスポーツマン」という体育会的幻想が強いんじゃないかと思う。ここが一番面倒くさいところだ。

国母選手の服装について JOC に抗議の電話を入れた人の多くは、多分、何かの体育会系の指導者だったんじゃないかと、私は思っている。彼らは国母選手の服装を、「清く正しきスポーツマンの面汚し」として、不愉快至極に思ったのだろう。あるいは幻想を壊されたスポーツ・ファンが憤慨したのかもしれないが。

というわけで今回の問題は、いわば「国民の代表」と「体育会系の代表」という二つの意識の合わせ技みたいなものだ。そして、体育会系精神主義とナショナリズムというのはとても相性がいいらしく、合わせ技になると地上最強である。なにしろエモーショナルなものなので、どんなロジックに対しても絶対に負けない。そもそもの土俵が違うから、

そうでなくても、体育会系の人の中には「きちんとした服装」にものすごくこだわる人が多い。精神の乱れは服装の乱れに現れるのだそうで、とにかく、かっちりとした服装をしなければならないということになっている。逆にいえば、さっぱりとしたヘアスタイルでかっちりとした服装をして大声でアイサツさえすれば、実際以上の好印象につながる。

あの読売ジャイアンツなんて、やたらうるさいドレスコードがあるらしく、ひげを生やしてもいけないんだそうで、私はそんな話を聞くとうんざりする。そんな環境で育った選手が大金を手にすると、ヴェルサーチのスーツの悪趣味度を倍増させて着たりしてしまう。余談だが、夏でもスーツにネクタイの小沢一郎氏をみると、私は暑苦しくてたまらない。

ところが、こうした「ナショナリズムと精神主義」の殿堂のような体育会系の中に今、ゆるゆるのカジュアル主義というか、ヤンキーイズムというか、ヒップホップ魂というか、そんな異質の要素がちょこちょこと混在し始めているようなのだ。

このあたりのギャップや摩擦は、今後、少しずつ表面化してくるだろうと思う。私としては、体育会系のこっちんこっちんの石頭連中にはうんざりしているので、何とかしてもらいたいと思っているが、そのアンチ勢力の筆頭が腰パン派というのも、「なんだかなあ」という気がしてしまうのだよね。

そして、これは敢えてちょこっとだけ触れておくが、体育会系の石頭と、ゆるゆるヤンキーとは、あれだけ対極にあるように見えても、実は根っこの部分ではかなり近いのではないかという気がするのだ。あの騒ぎって、実は近親憎悪みたいなものなのだよ、きっと。私が両方とも好きじゃないのは、そういう臭いを感じてしまうからなのだ。

最後に書いておくが、「オリンピック選手が国民の代表」とは、私としてもストレートには思わない。しかし個々の選手が「国民の代表」という意識をもち、国のためにがんばるというなら、それはそれで尊いことだし、うれしいと思う。だが、こちらから強いてそれを要求するのは、「国民としての傲慢不遜」という気がしてしまう。

さらに、これは単に「好みの問題」に過ぎないかもしれないが、野球の WBC の「サムライ・ジャパン」だかなんだかみたいに、個々の選手が「自分たちは日の丸を背負って戦うんだから」とかいうようなことをことさらに言い過ぎるのを聞くと、私はかなり気持ち悪くなってしまう。いただけない。

そうした発言は、監督あたりが決意の表れとして、ちらっと一言だけ言えばいいのであって、個々の選手は心に秘めておく方がかっこいい。あまり言い過ぎると、プレッシャーに負けた時の言い訳を予め用意しているみたいにすら聞こえる。

このあたりはかなりデリケートな感覚で、なかなか一筋縄ではいかない。スポーツとナショナリズムは、組み合わさると魔物なのである。

そして、国母選手は結局メダルを取れなかったが、騒ぎが収まりかけてしまうと、国民の多くは、なんだかんだ言っても彼を暖かく応援していたような空気が見て取れる。結局、マジョリティは「ゆるゆるのナショナリスト」のようで、このあたりに収束するのが一番健康的だと思う。

 

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2010年2月18日

「金ジョンウン」 を巡る冒険

北朝鮮に戻れない金正男氏」という記事に、北朝鮮の金正日総書記の後継者は三男の金ジョンウン氏に事実上決定している気配で、この後継者争いから外れてしまった金正男氏は、国際的放浪者になってしまう可能性があるなんてことが書かれていた。またこっそりディズニーランドに遊びに来たら、見逃してあげよう。

で、このニュースで気になったのは、三男の「金ジョンウン氏」という表記である。あれ、三男って、「金正雲」っていう漢字で紹介されていたんじゃなかったっけ?

調べてみると、どうやら三男の名前の漢字表記が「金正雲」というのは間違いだったということになっているらしい。ハングル表記だと、「雲」 とは別の漢字の読みに相当する字になるという。日本語だと「ウン」にしかならないが、ハングルでは微妙に違うんだそうだ。発音が違う以上、漢字も違うんだろう。

そもそも「金正雲」という表記は、金正日のおかかえ料理人をしていた藤本健二氏の著書から広まったという説が有力だが、その前からあちこちで「金正雲という表記はされていたという説もある。いずれにしても、確固たる根拠に乏しいお話なのだ。

じゃあ、本当の漢字表記はどうなってるんだというと、これが 「わからない」 んだそうである。ずいぶんいい加減なことである。しかし、北朝鮮では漢字が廃止されて文章はほとんどすべてハングルで表記するらしいので(人名もハングルで書かれているらしい)、漢字はほとんど意味がないという人もある。

というわけで、今では日本の多くの新聞で「金ジョンウン」と表記されているようなのである。これに関しては Asahi.com に詳しく出ている(参照)。昨年の 10月から「金ジョンウン」になっているようなのだ。迂闊ながら、今頃になって初めて知った。

正しい漢字表記に関しては諸説ある中で、どうやら「金正銀」が有力らしく、毎日新聞はこれを採用している。しかし、何しろああいう国のことだから、確認するのが困難を極めるようで、正確なところは誰にもわからないのだという。日本にも昔、「忌名(諱)」なんていうのがあったわけだが、今どき浮世離れした話である。

それにしても、「調べようなない」なんてことはなかろうと思うのである。韓国、朝鮮内ではハングルで表記されるからどうしようもないとはいえ、中国ではハングルもカタカナもないから、きっと漢字で書かれているだろう。

そう思って、中国の百度で検索してみた。初めに「金正雲」で検索すると、自動的に「金正云」(「云」は「雲」の簡体字表記)に変換されて、約 38万件がヒットする。次に「金正銀」で検索すると、またしても自動的に「金正银 (これも簡体字表記)に変換されて、約 31万 7千件がヒットする。

というわけで、中国では今のところ、「金正云」という表記の方がわずかに多いようなのだ。ただし、"「金正云」は、本当は「金正银」らしい" という内容のページも多いみたいで、実際には 「金正银」 が優勢になりつつあるような感じでもある。

百度百科というサイトの「金正云」のページをみると、ページのタイトルはあくまでも 「金正云」なのだが、「基本資料」という項目をみると、「金正银(云)(김정은(운)」とある。中国でもやはり 「金正云」は間違いだったということになってきつつある感じが見て取られる。

ただ、「金正银」という見出し語で百度百科を引き直しても、「金正云」というタイトルの同じページに行ってしまうというのが、中国の中国らしいところなのかもしれない。

ともあれ、「金ジョンウン」はどうやら「金正銀」らしいのだが、公式に確認が取れないので、日本ではしばらくは 「金ジョンウン」という表記が主流となるみたいだということで、今日のところはけりをつけておこう。

 

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2010年2月17日

国母選手の 「腰パン」 について

冬季オリンピックに行ったスノーボード、国母選手の「腰パン」~「反省してま~す」事件が、思いの外に大きな話題となっていて、びっくりした。敬愛する先輩 alex さんも久しぶりにブログを復活させ、この問題に関する持論を述べておられるぐらいだ(参照)。

ブリティッシュ・トラッドを旨とする alex さんが国母擁護論を展開しておられるのは、ちょっと意外かも知れないが、実際のところは、JOC の役員に代表されるこっちんこっちんの石頭連中に対する反感の方が優先した論の展開のようで、納得した。

私個人としては、alex さんのブログに「どっちも如何なものか」とコメントして、「中途半端すぎる」というレスをもらっているように、まさにどっちつかずのスタンスである。体育会系の石頭は嫌いだが、だからといって、国母選手を擁護するほどの義理もないので、どっちにもつきたくないというのが本音だ。

実は、この問題に関しては、私はニュースが流れてから間もない 13日に tweet している。こんなふうなものだ。

スノボの何とかいう選手のユニフォーム腰パンが問題になったというニュースをみた。スノボってフツーの体育会系と全然違う風土があるのね。もしかしたら、モーグルもかなあ。 (

検索したら、国母って選手らしい。あのニュースのおかげで、こんなにも名前が売れたんだとしたら、パブリシティ効果抜群。(

とまあ、最初に tweet したときからこんな具合に徹底的に無責任な傍観者で、旗幟鮮明な姿勢なんて全然見せていない。

むしろちょっとだけ関心があるのは、スノボとモーグルって、他の体育会系競技と文化が全然違うみたいだなあということの方である。ウェアだって、他のアルペン競技やスピードスケートなどは機能追求でパッツンパッツンなのに対し、スノボとモーグルって、ダボダボで、競技スポーツのくせに機能よりファッション優先にみえるし。

国母選手としては、あんなことになったものだから、開会式に参加できなかった上に、あちこちから非難されてしまって大変だなあと思っていたが、今度は alex さんばかりでなく、自民党の河野太郎氏まで擁護し始めたりして(参照)、ちょっと風向きが変わってきているような気もする。

この辺で問題を整理してみよう。ことの起こりは、国母選手の成田空港におけるチャラチャラした腰パン姿がニュースで流れ、それに対して、一般視聴者から抗議の電話がガンガンかかったということのようだ。

ということは、成田空港の段階では少なくとも「おとがめなし」だったということだ。同行した指導者たちは、全然気にせず見過ごしていたか、「しょうがねぇなあ」と苦々しく思いながらも、なんとなく言い出せないでいたというところだろう。

ところが、テレビでそれをみた視聴者からガンガンと非難のコールが来た。視聴者って、体育会系役員よりもこっちんこっちんなのかと驚いたが、多分、電話した人のかなり多くは日本全国のスポーツ関係者だろうと思う。少年野球の指導者とか。あの手の人たちって、細かいことにものすごくうるさいところがあるから。

で、例の「反省会見」でますます反感を買い、朝青龍問題までリンクされて、「そもそも指導が悪い」なんて言う論調まで出てきた。二十歳を過ぎた一流のアスリートに「服装の指導」ってのも、なんだかなあと思うが。まあ、彼は高校の制服もずっとあんな感じで着てたんだろう。

というわけで今度は、擁護発言もちらほら出てきたというところである。ただ、擁護発言の多くも、あの「腰パン」に諸手をあげて賛成ってわけではなく、「自分もあの格好は好きじゃないけど、そんなに寄ってたかって叩くほどのことか」という論調が多い。

私はこの問題に関しては、初めに述べたとおり「どっちつかず」なのだが、問題の根っこにあるのは、「腰パンがいいか悪いか」ではなく、体育会系の主流を占める「こっちんこっちん派」と、スノボ、モーグルの世界の「ゆるゆる派」との間のギャップというのが大きいんだと思う。

選手を見ていても、競技風景を見ていても、同じスポーツと思われないほどに「空気」が違うのだもの。このことに関しては、私は結構関心がある。いや、スノボに関心があるってわけじゃなく、スノボの世界の「空気」にだ。

そして、スノボ、モーグルの「ゆるゆる派」が、スポーツの世界ではまだまだ少数派なので、風当たりが大きいのだ。この世界にも上村愛子 (彼女のブログが、ネットの世界でやたら評判がいい)のような優等生がいないわけじゃないみたいなのだが、やはり全体としては「異質な連中」と見られがちなんだろうなあと思う。

異質な要素を過度に排除したがる心的傾向というのは、私も嫌いである。ただ、いくらなんでも TPO をわきまえろよなということぐらいは、私も言いたいという気はする。だから、alex さんのブログに、 「どっちも如何なものか」と書いてしまったわけなのだ。

ちなみに、東スポにビートたけしが 「国母は『そんなこと言うんなら、もう帰る』って帰ってくればかっこよかったのに」と書いていた。なるほど、とても魅力的な選択肢だ。

 

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2010年2月16日

日本語文の中の英単語をスペースで区切るか

これはもう、好みの問題なのかもしれず、あまり声高に言ってもしょうがないことなのだが、私は横書きの日本語の文章の中に英単語が登場するとき、半角スペースで区切るかどうかというのが、ものすごく気になっている。

ウェブをざっと眺めると、英単語を日本語同様に扱って、スペースで区切らない表記の人がほとんどのような気がする。例えば、「私はmixiとtwitterをやってます」 とか 「この問題に関するJOCの見解は」とか「マイケルジャクソンのTHIS IS ITをみてきた」とかいう表記が、圧倒的に多いようだ。

私は上記の例でいえば、「私は mixi と twitter をやってます」とか「この問題に関する JOC の見解は」というように、英単語は半角スペースでくくって表記しないと何となく気持ち悪いので、そのようにしている。とくに 3番目の例なんかは、「マイケル・ジャクソンの "THIS IS IT" をみてきた」 と表記しないとかなり気持ち悪い。

"THIS IS IT" と分かち書きにするのだから、その前後だって分かち書きにしておかないと理屈が通らないだろうというのが、私の感覚である。そしてクオーテーションマークも、半角の 「"..."」 で 「“...”」 ではないところに、またちょっとしたこだわりみたいなものがある。私は個人的には 「“...”」 は好きじゃないのだよね。

2番目の「JOC」というのは、略称として日本語化されているからいいじゃないかという見方もあるだろうが、半角英文字で表記する以上は、やはりスペースでくくりたい。私は横書き文書の場合は大抵半角英文字にするし、縦書きの場合は全角で表記するように区別している。そうでないと、やはり気持ち悪い。

まあ、この気持ち悪さは個人的な感覚なので、他人に対して「お前もちゃんと気持ち悪がれよ」なんていう気もないし、他人の表記の仕方については別にどうでもいいのだけれど、私自身としてはちょっと譲れないというところがあるのだ。

このあたりの表記は、ある程度の共通理解のもとに決まったルールなんてものがあるわけじゃないようで、要するに、日本語表記は横書きが一般化してからそれほど時間が経っておらず、ましてや、日本語文の中に英単語が混在するなんてことは、昔は想定されていなかったのだと思う。

だから、こんなふうに混乱した状態なのであり、これをルール化しようなんてことになったら、議論百出でまとまらないんじゃないかとも思う。当分はローカルルールより細かい個人ルールで進んでいくんだろうなあ。

ちなみに、MS の Word では、英文字フォントを century などの英文字用に指定しておけば、自動的に英単語の両端にある程度の余裕ができるので、スペースでくくるかどうかなんてことは気にしなくていい。ただ、英文字も明朝とかに指定してしまうと、この限りではない。明朝体の英文字は美しくもないから、個人的にはおすすめしない。

 

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2010年2月15日

わけのわからない季節感

立春が過ぎてから本格的な冬になってしまったようで、こういうパターンはアパレル業界にとっては最悪である。ただでさえ服の売れない時代なのに、冬物バーゲンを終えて、「さあ、これから春物を売ろう」と思っている矢先に、一番冬らしい天候になってしまったのだ。誰も春物なんか買う気になれない。

バブル崩壊直後のアパレル業界では「服はファッション性で売るものだから、売上の取れないのを景気と天候のせいにしてはいけない」なんて論調がもてはやされたことがあった。怪しげな自称ファッション・マーケッターとか、ファッション勃興期に業界に入ったので服の売れない時代を知らない経営者とかが、そんなことを言っていたものである。

しかしなんだかんだ言っても、服というのは天候要因で売れるという側面が大きいのだ。冬が寒ければ放っといてもコートと保温肌着は売れるし、逆に残暑がいつまでも長引くと、秋物が全然動かなくなる。

最近は暖冬だと思っていると、立春過ぎに寒の戻りが激しかったり、いつまで経っても残暑が続いたりというパターンが多すぎる。これはもう、日本の季節感というものが変わってしまったのだと思う方がいいのかもしれない。

私は近頃、1年のうちで 5月から 9月までの 5ヶ月が夏で、12月から 3月までの 4ヶ月が冬、そして、春と秋は、4月と 10、11月の、それぞれ 1ヶ月と 2ヶ月しかないと思えばいいと感じている。東京では下手すると、10月だって最高気温 25度以上の夏日がちょこちょこあるので、秋らしくないかもしれない。

つまり、1年 12ヶ月のうち、夏と冬が合わせて 9ヶ月で、春と秋は合わせても 3ヶ月しかないというのが実感だ。しかも半年近くが夏なのである。温暖化はここまで進んでいる。

日本は平均的に観ると、ちょっと前までは春夏秋冬がそれぞれ 1年の 4分の 1ずつあって、気候的にはメリハリとモデレートさを併せ持つ素敵な国だったのだが、今や、メリハリだけになってしまったような気がするのである。言い換えれば極端な方向に振れているということだ。

とくに、この冬の天気はくせ者だ。初夏のような暖かさになったかと思うと、翌日には急に真冬の寒さに逆戻りしたりする。昨年秋の段階では、エルニーニョが発生しているので、暖冬になるだろうとの予報が出ていたが、どう評価していいのかわからない結果になっている。少なくとも「当たった」とは言いにくい。

これは、ヨーロッパと北米東側に大雪をもたらした北極の強い寒気と、エルニーニョがせめぎ合っている結果なのだそうだ。北極の寒気というのは、普通はヨーロッパと北米東側に流れ出す時には、同時にアジア大陸東側にも流れてくるものらしい。だから、この三地域は同時に厳冬になりやすい。

ところがこの冬は、太平洋にエルニーニョというとびきりの暖冬要因ががんばっているので、日本だけは寒波を易々と受け入れるという状態にないのだそうである。いわば寒波とエルニーニョの異種格闘技戦だ。

時々、北極からの寒気が連打を繰り出して攻め込んで来るが、それがちょっと打ち疲れを見せるとすぐに、エルニーニョが下からタックルを繰り出して押し戻す。日本付近でそんな状況が続いているらしい。それで、この冬はこんなにもわけがわからない冬なのだ。

自然界というのも、なかなか大変なのである。

 

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2010年2月14日

『唯一郎句集』 レビュー #104

今回の 『唯一郎句集』 レビューは、たったの 3句だが、ページは 2ページにまたがっている。見開きの右側、P132 に、春の季節の 2句、そして右側の P133 に、晩秋(多分)の 1句しか載せられていない。

P134 から P137 までも、1句ずつしか載っていない。どうしてこのようなスタイルになったのか、何の説明もない。もしかしたら、このあたりは唯一郎がとても寡作な時期だったのかもしれない。

とりあえず、レビューである。

雉子が啼いてたらの芽のとぼしきかたち

たらの芽は 「山菜の王」 と呼ばれるほどおいしい。桜の咲く頃、山にはたらの芽が出て、それを天ぷらなどにして食べる。

里山にたらの芽採りに分け入ると、雉の鳴き声が聞こえる。たらの芽はかなり採られてしまっていて、もう貧弱なものしか残っていない。唯一郎はやはり街場育ちである。たらの芽採りは上手ではないようだ。

藪の中たらの木の芽を吹き立てり

藪の中の道を上り、ようやく見つけたたらの芽は、顔のあたりの高さにある。ふうふうと荒い息をつくと、たらの芽を吹いているような気がする。

この句はなんと、五七五の定型になっている。意識して定型の俳句を作ろうとしたわけではなく、「たらの芽を吹き立てり」 だと、木の枝の先に出ているたらの芽というのが伝わらないので、「たらの木の芽を吹き立てり」にした結果が、たまたま定型だったのだろうと思う。

ここでページが代わり、つぎはもう初冬の句だ。

るしゃな佛おんひざの初霜のして

毘盧遮那仏の仏像が、霜の降りるような屋外に安置されているというのは、いったいどこの寺なのか、調べがつかない。

大仏の膝の上に初霜が降りる。凛とした寒さの中に、それを和らげるような仏像眼差し。不思議な光景である。

次回のレビューは、とりあえず P134 から P137 を一気にレビューすることにしよう。一度に 4ページとはいえ、たったの 4句だ。

 

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2010年2月13日

『唯一郎句集』 レビュー #103

レビュー 100回目は秋の句が 3句だったが、次のページはいきなり梅雨の季節に飛ぶ。このあたりは、唯一郎の句が散逸している時期なのだろう。

さっそくレビュー。

神々六月の空青く若竹水をふく朝

「神々」は何と読んだらいいのだろう。形容詞だったら「こうごうしき」にならなければいけないから、やはり「かみがみ」だろうか。

六月の空が高く青く、あまりにも神々しいので、いきなり「神々」と始めたのだろうか。このあたり、すごい感覚である。竹林の若竹にびっしりと朝露がついている。これを「水をふく」と言ってしまっているのもすごい感覚だ。

この世の中にこの世ならぬ神々しさをみる感覚。

梅雨の鶏爐べりに來る手持米なくなる話

昔のことだから、台所は土間にあり、地飼いの鶏が炉べりまで入ってきたりする。そんな中で、手持ちの米が底をつくという話になる。

まあ、鶏を飼っているというのだから、唯一郎の家の話ではないだろう。もしかしたら、妻の実家にでも来ている時の話か。

そんな生臭い話なので、この鶏が食われてしまうのではないかという心配までしたくなる。

神々の空の後に、こんな句がくるというのも、またすごい。

たびびとは鞄をさげ六月の山裾まはりゆけり

この「たびびと」とは、富山の薬売りではないかという気がする。昔は大きな鞄を両肩に提げて、薬を売りにきたものだ。

田舎の隅々にまで薬を商う薬売りが、梅雨時の山裾を廻り、その後ろ姿がだんだん小さくなる。

これも、妻の実家に来ている時の情景かもしれない。

花卯垣散りこの接木のならぶ間隔

卯の花の生け垣で、卯の花が散ってしまった。白い花が見えなくなったので、あとは接木の並ぶ規則正しい間隔が残るのみ。

何も動くものが見えないので、こんなものしか目に入らない田舎の情景。

本日はこれにて。

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2010年2月12日

「マウスエルボー」 という症状

Twitter で、Strollers さんが 「一月程前から右肘が痺れたり痛んだりしてたのだが、どうやらこれがマウスエルボーらしい」 と嘆いておられた(参照)。実は私も昨年末から右肘が痛い。指先でちょっとしたものをつまんで持ち上げるのが苦痛だったりする。

あまりにも痛みが長引くので、最近、医者嫌いの私が整形外科に通っているほどだ。さすがに医者の処方してくれる湿布薬は効き目がよくて、かなり楽になりつつある。

この痛みは、PC の操作のしすぎからくるのだろうとは思っていた。私の通っている整形外科も秋葉原の近くにあるだけあって、先生が 「ウチに来る 8割は、パソコンのやりすぎだよ。肩が痛い、首が痛い、腰が痛い、肘が痛いって、みんなそうだね。中にはかかとが痛くて歩けないって人もいるよ」 と言っていた。

何でまた PC のやりすぎでかかとなんか痛くなるのかというと、椅子に座りっぱなしで、下半身の血流が悪くなったせいなんだそうだ。

ただ、この症状が「マウスエルボー」というなんてことは、Strollers さんの tweet で初めて知った。ググってみると、こんなページに行き当たった。以下のように説明されている。

米国ではRSI (反復性ストレス障害) という呼び名で、パソコン業務増大にともない,年間25万件以上のペースで発生し,職業病の65%を占め,経済損失は2兆~6兆円と言われてる。

「職業病の 65%を占め」 るというのは、どんな統計だかしらないが、まあ、かなり広まってしまった症状のようだ。これを治すためには、PC 操作をしないようにすればいいらしいが、そんなことだと商売にならないから、だましだましやっていくしかないみたいなのである。

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2010年2月11日

渋谷のハチ公と、名古屋のナナちゃん人形

車を走らせながらカーラジオを聞いていると、TBS ラジオの「小島慶子キラ☆キラ」(公式表記通り)で、「ああ、待ち合わせ」という特集をしていて、待ち合わせに関する悲喜こもごもの話がリスナーから寄せられていた。

私は待ち合わせに関する特段の体験はないのだが、私の二人の友人(F男とK子)がある日、渋谷で待ち合わせをした時の話を思い出した。1970年代後半のこと。何やら、初デートかなにかの待ち合わせだったらしい。

渋谷の待ち合わせといえば、そりゃもう、ハチ公前である。K子は渋谷駅北口を出て、いそいそとハチ公像に向うと、既に着いている F男の姿が、遠くからもはっきりと見えた。しかし K子はその瞬間、きびすを返して帰ってきてしまった。そして F男は延々と待ちぼうけをくらった。

後日、K子はこう述懐した。「だって、F男君ったら、あのハチ公像にまたがって、辺りをきょろきょろ見回してるんだよ。ぼさぼさ頭で、雪駄はいて、ズタ袋ぶら下げて。怪しすぎだよ。そんなところに近付いていって、下から『ごめんね、待った?』なんて、声かけられるわけないじゃない」

F男は応えた。「あまり人が多いから、目立った方が探し出してもらいやすいかと思って……」

F男は 30分以上ハチ公像にまたがったまま待ち続けたが、北口交番の拡声器の「そこから降りなさい!」という警告で退散した。そして、この二人の恋は実らなかった。

教訓。「ハチ公前」で待ち合わせたら、「ハチ公上」で待ってはいけない。

ちなみにこの放送では、名駅(名古屋人は名古屋駅のことを「めいえき」と呼ぶ)近くの「ナナちゃん人形」前の待ち合わせというのが、やたらと印象に残った。なんでも名古屋では渋谷のハチ公前に劣らぬ待ち合わせの名所らしい。名古屋出身の番組スタッフも、「その通り」と太鼓判を押したというのだから、本当なのだろう。

ナナちゃん人形というのは、身長 6メートル以上のマネキン人形で、しょっちゅうコスプレするのだという。あまり巨大すぎて、待ち合わせをしている間にふと気付くと、ナナちゃん人形の股の下にはいってしまっていたりすることもあるらしい。(小島慶子さんの 「パンツ、はいてるんでしょうかね?」という発言は、聞かなかったことにする)

スタジオではさっさとインターネットで検索したらしく、「すごい!」なんて言って盛り上がっている。一度気になってしまうと、知りたくてしょうがなくなる性分の私としては、自分もそのナナちゃん人形とやらを見たくてたまらない。そこで、信号待ちの間に iPhone で検索してみると、ものすごくあっけなく見つかった。

こんな のである。

このナナちゃん人形の紹介記事を読んで、私はナナちゃん人形の偉容そのものよりも、インターネット時代の便利さに痛く感動してしまったのだった。

インターネットがなかったら、「ナナちゃん人形」なんてものの話をラジオで小耳に挟んだとしても、それがどんなものかは調べようがない。百科事典なんかに載ってるわけないし、名古屋の観光案内の本を買っても、乗ってるかどうか怪しいものだ。名古屋の知人に、「ナナちゃん人形って知ってる?」なんてわざわざ電話するのも考え物だ。

ところが、今の時代、「ナナちゃん人形」でググれば即座に検索できる。あまつさえ、画像だって「もういい」と言いたくなるほど見つかるのである。たかだか手の平サイズの iPhone という小型端末で。

新聞以外ではみかん箱ぐらいの大きさの真空管ラジオの雑音だらけの放送でしか、まともな情報を得られなかったラジオ少年が、今、オッサンとなって、カーラジオで聞いた気がかりな待ち合わせスポットに関して、信号待ちの僅かな時間のうちに、どんなものか、おおよそのところがわかってしまうのだ。

これって、よく考えると、すごいことである。当たり前みたいにやっちゃってるけど。

思えば、F男と K子が待ち合わせをしたあの頃、ケータイなんて影も形もなかったのである。だからこそ、F男はハチ公にまたがったのだ。そして、K子は「今すぐそこから降りなきゃ、帰っちゃうよ」なんてメールすることもできなかったのだ。

 

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2010年2月10日

トヨタの「健康のためなら命も惜しくない」症候群

私は時々「健康のためなら命も惜しくない」というナンセンスなパラドックスを引用することがあるが、この度のトヨタ・プリウスのリコールは、このパラドックスと一脈通じてしまうんじゃないかという気がして、なんだか嫌な気分になっている。

要するにトヨタは、世界最高峰の燃費実現と引き替えに、ユーザーに「ヒヤリ・ハット」どころか、「ヒヤリ・ゾット」とか「ヒヤリ・ガチャン」なんて体験を提供してしまったんじゃないかと思うのだ。

極限まで追求したがりの、トヨタの「カイゼン」意識が、「健康のためなら命も惜しくない症候群」を呼び寄せてしまったんじゃないかという気がしてしまうのだよね。まあ、トヨタの場合は「燃費とエコのためなら信頼も惜しくない」症候群というべきか。

詳しいところはわからないけれど、プリウスのブレーキ・システムはかなり複雑なプログラムによって成り立っていて、ギリギリまでの燃費改善を追求した結果のものらしい。それが、0.05秒だかなんだかの 「ブレーキ効いてないんじゃない? 感覚」とか、「制御不能感覚」とかをもたらしているというのである。

うぅむ、これって、やっぱりトヨタの体質というか、社風というか、そんなところから来てるんじゃあるまいか。ある一つのことをギリギリまで追求しすぎるという。

世界に冠たるトヨタのマネジメント・コンセプトや生産システムが、雑巾を絞るだけ絞るような「カイゼン」意識によるものである以上、いつかこれ以上絞れない限界が来ると思っていた。まあ、技術的進歩によってその臨界点は常に少しずつ先に延びているとはいえ、カイゼン意識がそれを上回ったら、かえって危ない。

その先触れが、このような象徴的な形で現れようとは思っていなかったが、世界のトヨタも方向を少し変えなければならない踊り場に来ているというのは、確かなのだと思う。

 

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2010年2月 9日

シンプルとエンプティネス

原研哉というグラフィック・デザイナーがいて、無印良品のアドバイザリーボードのメンバーにもなっている。私はとくに注目するというほどじゃなかったが、ほんの少しだけ意識はしていた。ただ、意識するにしても「ほんの少しだけ」だから、あまりよく知っていたわけじゃない。

だがしかし、これからはこの人に注目することにしよう。なかなかの卓見だ。そう思ったのは、無印良品のトークイベント採録というウェブページ(参照)を読んで、「ふむふむ、なるほど」と膝を打ったからだ。

そのトークのタイトルは「無印良品はシンプルではなくエンプティネス。"空っぽ" の中には何でも入れられます」というものだ。一見するとなんだか、昨日ちょっとだけクサした広告代理店のつくりそうなコピーのように思えたが、どうしてどうして、なかなか読み応え(本当は「聞き応え」だったんだろうが)のあるものだった。

原氏はこのトークイベントの中で、「シンプル」というのは 150年ぐらい前にできたのだとおっしゃっている。「シンプル」が進化して 「複雑」になったのではなく、世界は元々「複雑」から始まったのだという。

その複雑さを理性で乗り越えてシンプルにたどり着いたのが、約 150年前に「近代社会」と言われるようになった頃なのだそうだ。美術史をながめてみれば、確かにその通りで、薄々わかってはいたけれど、改めて言われると「なぁるほど!」と納得する。

ところが、その「シンプル」より早く誕生していたのが、日本の「簡素」というものなのだそうだ。原氏に言わせると、それは応仁の乱で都が焼け野原になってしまったことによる「革命的リセット」なんだそうだ。戦乱と絢爛に倦んだ時代感覚の極まったミニマリズムである。

そのミニマリズムの中に「見立て」というコンセプトによって、全てを観る。枯山水の中に山河を観る。一輪挿しの中に宇宙を観る。それは、「空っぽ」だからだ。「空っぽ」だからこそ、何でもかんでも放り込める。

「無一物中無尽蔵」 という禅語があるが、それを実際の美学の中に生かしているという点においては、日本が世界最高だろう。それは、原氏がこのトークイベントの最初の方で述べておられる「神社」のコンセプトからきていると思われる。

日本の神道というのは、原初的なアニミズムを洗練させたものとみることができる。人類の原初的な直観はかなりすごいものだが、それだけでは「文化」として洗練されにくい。ところが日本人は、それをやってしまった稀有な民族である。

神の依り代を作るにはどうすればいいか。神が依ってくるためには、空っぽでなければならない。その「空っぽ」を文化として昇華させたのが、「侘びさび」と言えるかも知れない。

日本という国は、プリミティブでフォークロアリスティックなコンセプトが、かなりセレブなレベルにまで昇華されているという点で、ちょっと特殊な文化をもっている。ヨーロッパの国々の美術館巡りをして、日本との差に驚くのは、ただただこのことに依るのではないかと思う。

日本人が意識的にインターナショナルであるためには、このことをきちんと知って、自分なりに咀嚼しておく方がいい。そうでないと、単に薄っぺらなコスモポリタンもどきになってしまう。

 

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2010年2月 8日

「共食」と朝青龍を巡る冒険

私は「一人でメシを食えない人」が苦手である。それについては、「赤信号は、本当に皆で渡れば恐くないか?」というコラムでも書いてある。

そりゃ、一人でメシを食うのは、とりたてて楽しいってわけじゃない。しかしだからといって、たまらなくわびしいというほどのことでもない。だが、世の中には一人でメシを食うのがたまらないほど淋しいと思ってしまう人もいるようなのだ。で、私はそういう人が苦手なのである。

誤解してもらっては困るが、私は人と一緒に食事をするのが嫌いというわけじゃない。どちらかといえば好きな方だと思う。だが、一人で食うのもちっとも苦にならないというだけの話なのだ。人と一緒の食事を避けて、一人でひっそりと食いたがる、暗い人間だなんて思わないでもらいたい。

一人で淡々とメシを食えればこそ、人と一緒に賑やかに食事する楽しさも引き立とうというものではないか。

ところで、最近「共食(きょうしょく)」という言葉を知った。下手すると「共食い」のことかと思われそうなので、要注意の言葉だ。ATOK 16 では「きょうしょく」は「教職」にしか変換されないので、ついさっき、新たに単語登録したばかりである。ところが、Goo 辞書 (大辞林 第二版)にはちゃんとあって、次のように書かれている。

神に供えたものを皆で食べあうこと。同じ火で煮炊きした同じ食物を食べあうことにより、神と人々との、また神をまつった者どうしの精神的・肉体的連帯を強めようとするもの。日本では直会 (なおらい) がこれに相当する。

元々は神事にまつわる人類学的なコンセプトのようなのだが、最近言われている「共食」は、信心からはちょっと離れて、マーケティング的視点でも用いられるようだ。新しいコンセプトは、「共食」の反対語が「孤食」と言われていることからも想像できる。(ちなみに「孤食」は ATOK ですんなり変換できた)

マーケティング分野の新語は、大抵広告代理店が提唱することで広まる。多くは一時の流行語として廃れてしまうが、中には長続きして一般に用いられる言葉として広まることもある。さて「共食」 はどちらの運命を辿るだろう。

「共食」でググルと、電通が一昨年のプロジェクトの資料として出したらしい「共食縁」という PDF ファイルがトップにランクされているので、取り敢えずそれを開いてみると、初っぱなのページに次のようにある。

孤食・飽食など食の崩壊が取り沙汰される今・・・
共食縁が求められている

食を共にする、共に楽しく食する行為を指す「共食」によって生まれる人と人とのネットワーク(縁)

家族内における個食・孤食化の進展と、それに伴う人間関係コミュニティの希薄化…
家族や個人の生活において食にまつわる問題は山積している。
今こそ、共食縁によって食の楽しさや人とのつながりの楽しさを再確認するべきじゃないのか?

共食縁が、日本の食を元気にする!

いかにも広告代理店の作りそうなコピーである。で、要するに、一緒に食事をすることによって、新しいコミュニケーションを創造し、そのプロセスで「食のマーケットの活性化」が実現されるということを提唱しているわけなのだ。

しかし、別にそんなことを改めて言われなくても、「こんど一緒にメシでも食おうよ」ってな挨拶は日常茶飯事で、そんなことはしょっちゅうやっている。ただ、昔はそこから延々と飲み会になだれ込むこともあったが、最近はメシ会だけで終わりになることが多い。きっと景気のせいだろう。

で、最初の話題に戻るが、「共食」というコンセプトが「一人でメシを食えないボス猿のおもちゃ」に堕落してしまうと、かなり問題が多いということなのだ。

私は今回の朝青龍の引退問題も、結局は「一人でメシを食えない男の招いた悲劇」だと思っている。彼は周りにもてはやされて、だはだは言いながら賑やかにメシを食い、酒を飲みたかった。

ところがさすがに場所中なので、まともな力士や関係者はそんな席に付き合わない。付き合うのは別の世界の人間だ。マスコミに登場するのを注意深く避けながらも、一説には 1500万円もの示談金をもらうというのは、一体どんな人なんだろうと、私は思ってしまう。

それで、今回もなあなあで済まそうとしていたと思われる理事会が、警察上がりの外部理事の率直な警告を聞いた途端に、あわてふためいて急に解雇するという方向に向く。解雇じゃたまらないから、本人はよく考える間もなく、「引退」を決めたと、まあ、こういうことなんだろう。

そこにどういう背景があったんだか知ったことじゃないが、朝青龍がおとなしく淡々と一人メシを食うのを厭わないキャラだったら、今回の悲劇は避けられたと思うのだ。

共食は、平和に楽しみたいものである。

 

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2010年2月 7日

『唯一郎句集』 レビュー #102

『唯一郎句集』 のレビューも、ついに 100回目なった。始めたときに、「100回以上のシリーズになるかも」とは思っていたが、実際にそうなってみると、ちょっとした感慨がある。そして 100回どころではなく、まだもう少し続く。

さて、さっそく 100回目のレビューだ。

(注: 連番の振り間違いがあり、修正したので、実はこれは 102回目である)

馬をあつめて牧場を下るめをとの馬喰

唯一郎の若い頃は自動車というものが一般にはなかったから、陸上輸送は馬車か牛車が主流だった。私が子どもの頃でさえ、酒田の街の通りのあちこちに馬糞や牛糞が落ちていた。

農家では農作業に牛を使うから、運搬にもその牛を使い、運送業者は馬を使っていたのではないかという印象がある。だから、馬喰という仕事はかなり重要な仕事だったようである。

馬喰の夫婦が、夕暮れに牧場で草を食ませていた馬を集め、厩舎に戻る。夕陽は日本海に沈む。

風の音、馬の息遣いなどは、遠くから見つめていると聞こえない。夢のような風景である。

時雨のあとほそぼそと照りそむる草むら

夕方近くにざっと降った時雨が通り過ぎ、沈みかけた陽がかなり低い角度で細々と照る。風に揺れる草の影がまたたく。

そしてどんどん暗くなっていく。馬たちの去った牧場は静かに闇に呑まれていく。

秋のひざし桶屋が桶をこしらへている

酒田の街に戻れば、職人町で物作りの音が聞こえる。

柔らかい日射しを店先に入れながら、桶屋が桶を作っている。桶作りというのは、なかなか細かい技術の要る仕事だ。その見事さにふと見入る唯一郎。

文芸好きは、自分ではなかなかできない 「もの作り」 の職人芸に、ある種の畏敬のような感慨をもつ。

100回目はこれまで。

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2010年2月 6日

『唯一郎句集』 レビュー #101

前回が春から初夏の句だと思ったら、次のページは晩秋から冬にかけての句である。このあたりは、散逸する句を集めて編纂するのにかなり苦労したのかもしれない。時系列もあまり信用しないで、のんびりと読み進めるのがいいようだ。

さて、さっそくレビューである。

山深く栗の落毬も氷雨をあびてあらむ

「落毬」は何と読んだらいいのだろう。「いが」は普通「毬」と書くが、「落毬」だと 「おちいが」になるのだろうか。歳時記には「青毬」というのがあり、これは熟す前に青いうちに落ちた毬のことをいうらしい。

もしかしたら、唯一郎はこの「青毬」をイメージしてこの句を作ったのだろうか。熟すのを前に、青いうちに地に落ちて氷雨を浴びている毬。若いうちに父を失い、中央に出て俳句の道を進むことをあきらめ、家業を継いだ自分と重ね合わせたとみたら、穿ちすぎだろうか。

花もなくなりぬ菊を移し植えて父

晩秋を過ぎると庭に花の彩りがなくなり、急に淋しくなる。そこで、片隅に菊を移植してこの秋最後の花を楽しもうとする。

するとふいに、父が庭の手入れをしている後ろ姿を思い出す。

多分、生きている父が庭で菊の移植をしている姿をリアルタイムで句にしたものではない。

照りかげりする冬の山花嫁ゆけり

空一面が低く垂れ込めた黒雲に覆われる真冬を前に、分厚い雲のかたまりがどんどん風に流される。上空は強い風が吹いているのだろうと感じさせる。

そんな中を、花嫁行列が行く。昔、私も花嫁行列をよく見た。仲人が先頭に立ち、「嫁だあ、嫁だあ」 と触れ歩く後ろに、角隠しに白塗りの顔をかくした花嫁が続く。

雲の動きに伴って、山襞が時に照り、時にかげる。それを背景に、一時の不思議な光景が行きすぎる。

あるはかげりあるは明るう冬山の重なり

上述のように、庄内の初秋は雲の動きが激しい。山襞に雲の影が映る。上の方が白く雪に覆われた山の、照りかげりする姿が、間近に迫った本格的な寒さと地吹雪を予感させる。

本日はこれにて。

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2010年2月 5日

またしても立春卵

昨日帰宅したら、知人から立春の挨拶の葉書が届いていた。昨年の立春に立てた卵の背景とした葉書をくれたのと同一人物である(参照)。それをみたら、またしても無性に卵を立ててみたくてたまらなくなり、冷蔵庫から 1個取り出してトライした。

何でまた立春に卵なんて立ててみたくなるのかは、私の 4年前のエントリーを見て頂ければわかる(参照)。4年前に「立春卵」の伝説を知り、それから毎年立てているのだが、もしかして、これってちょっとはまりすぎかもしれない。

中国に立春には卵が立つという言い伝えがあるらしいのだが、それは立春に限ったことではなく、その気になればいつだって立てることができるということなのだ。ただ私は縁起物として、立春になると、つい卵を立ててみたくなったりするというだけのことである。

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ちなみに、今年の卵はとても立てやすくて、ほんの 5秒ほどですっくと立った。どんな卵が立ちやすいかは、これまで試しているうちにようやくわかってきた。要するに、イキが良くて表面にざらさらが目立つぐらいのものがいい。あのざらざらが、立つときの「足」の役割を果たすみたいなのだ。つるつるでは、いくら何でも立ちにくい。

立春を過ぎたが、きょうもまだ寒い。暖冬予想はうやむやである。

ただ、立春というのは大寒が深まって寒さの極致に達し、もうこれ以上寒くなるということはないということで、即ち 「春への道しるべが立った」と解釈すればいいのだそうだ。「暦の上ではもう春」なんて、ステロタイプなことを言っていると、風邪を引いてしまう。

 

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2010年2月 4日

「ポータブル字幕システム」を巡る冒険

ポータブル字幕システムで舞台のバリアフリー」という記事に、つい反応してしまった。「耳が不自由な人も演劇が楽しめるよう、携帯端末に字幕を表示するシステム」なんだそうだ。

歌舞伎の同時解説や、オペラなど外国語公演の電光字幕などで知られるイヤホンガイド社という会社が、希望者に iPod Touch を貸し出し、画面上に台詞や効果音を表示するというサービスを、試験的に開始したという。

劇場の客席のあちこちで、ぼうっと光る端末画面がちらちら動くんじゃ気が散るなあと思ったが、記事の写真をみると、黒い背景に白い字が表示されるという仕様で、ご丁寧にもプライバシーフィルターを張るなどの配慮もしてあるので、その心配は無用のようだ。

イヤホンガイド社の久門隆社長は「聴覚障害者だけでなく、外国人などマイノリティー向けの個別サービスになりうる」と語っているそうだが、確かにその通りだろう。どこの国の言葉の演劇でも、その気になればマルチ言語対応ができる。

さらに、将来的には利用者個人の iPod Touch や iPhone への有料配信も検討しているという。それができれば、劇場側でのハードの準備は最低限で済むだろうし、現物の受信機器を貸し出して公演終了後に回収するという面倒な手間が省けるのが何よりだと思う。ああいうのは、回収してからの消毒とかメンテとかが案外大変なのだ。

そして、これができるなら、映画館での吹き替え音声配信というのも可能だろう。私は外国映画は字幕スーパーで見るのが当たり前と思っているのだが、最近は字幕を読み切れないという人間が増えているらしい。

それについては「字幕読めない若者急増」という記事に詳しく書いてあり、『ハリー・ポッター』のシリーズでは公開版でも吹き替え版の方が 6割になっているという。

私としては、演じている俳優自身の声と台詞廻しを聞きたいと思っていて、あのわざとらしいステロタイプの吹き替え言葉は勘弁してもらいたいと思っている。唯一許せるのは、『刑事コロンボ』の、今は亡き小池朝男さんの声だけだ。

だが、字幕が読み切れないから吹き替え版の方がいいという要望が強くなるなら、将来的には対応せざるを得ないだろう。とはいえ、全ての洋画を吹き替え版で見せられるのはたまらないから、どうしても吹き替え版で見たい人にだけ、吹き替え版を館内配信し、イヤフォンで聞いてもらうようにすればいい。

こんな音声サービスだけなら、別に iPod touch やiPhone でなくても、単純な FM 配信でいける。映画館で吹き替え音声で見たかったら、小型の FM ラジオを持参するというのを、日本の常識にしてしまえばいい。あるいはケータイで受信できるようにする手もある。ワンセグが受信できるのだから、FM 受信だってできるだろう。

ただ、それをそのまま録音しちゃうという輩がいないとも限らないから、著作権問題も含め、そのあたりのシステム整備が必要だ。そういうことになると、日本のシステムは複雑怪奇だから、合意が成立するまでにはずいぶん手間がかかるんだろうなあ。ああ、うっとうしい。

はたまた最近では、「読み」だけでなく、中学生レベルの歴史的事実や常識すら知らないというケースも増えていて、スパイ系作品の試写会後の感想で、「ソ連って何ですか?」「ナチスって何ですか?」なんていう質問が寄せられたりするそうだ。嘆かわしいことだが。

こんな常識知らずのお客のためにも、吹き替え音声配信と平行して、「これがわからなきゃ、映画そのものが理解できない」というような基礎知識を、文字情報で配信すればいいだろう。こればかりは、FM ラジオでは無理だが。

ただ、こんな非常識なお客だと、マナーモードにしなかったり、暗い中で明るい画面を光らせたり、スクリーンを動画撮影しちゃったりしないか、ちょっと心配になってしまう。法律やシステム整備ばかりでなく、マナー向上も必要になるだろうが、それを心配しすぎると、一歩も先に進めなくなるのが歯がゆい。

 

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2010年2月 3日

詐欺女の教訓

私はこの手のニュースにはあまり興味がなくて、テレビのニュースショーなんかを食い入るように見たりはしないので、恥ずかしながら、最近のよく似た 2つの事件の区別がつかなかった。区別が付かないというよりは、1人の女の起こした事件だと思っていた。

2つの事件というのは、あまり魅力的とも見えないような女が、男を手玉にとって詐欺を働き、さらに複数の殺人を犯したのかもしれないという、例のアレである。一つは埼玉の木嶋佳苗容疑者の件、もう一つは、鳥取の上田美由紀容疑者の件だ。

最近、鳥取だか島根だかの山の中の川で電気店主を殺した疑いがあるなんてニュースを聞いて、「へぇ、容疑者は埼玉だか、東京の下町だかに住んでいたような話だったけど、ずいぶん遠いところまで出張して悪事を重ねてたんだなあ」なんて思っていた。しかし、よく聞いてみると別人のお話だったのである。迂闊なことである。

前から思っていることなのだが、世の中では似たような事件が同じ時期に連続して起きやすい。通り魔とか、連続殺人とか、飛行機墜落事故とか、大規模な詐欺事件とか、そんなのは、一つ報道されると似たような事件が連続してニュースになりがちだ。

こういうのを「シンクロニシティ」というらしい。私は前にこれについて次のように書いている。(参照

「シンクロニシティ」というのはユングの造語なんだろうが、アカデミックな世界では一般に疑似科学扱いされているコンセプトである。 "Synchronic" (共時的な) という形容詞から派生した名詞で、「共時性」なんて訳されており、「因果律」とは区別されている。

わかりやすく言うと(わかりやすいかなあ?)、「朱に交われば赤くなる」というのは因果律(law of causality)で、「類は友を呼ぶ」というのが共時性(synchronicity) である。朱に交わって赤く染まるのは合理的に説明できるが、本当に類が友を呼んだのかどうかは、単なる偶然と区別がつかない。

それでも、我々の実体験の中には、シンクロニシティといえば言えるという現象がいくらでもある。単なる偶然というには、確率論から言っても多すぎるような気がする。ただ、あくまでも、「気がする」のである。類が友を呼ばないケースは、印象に残らないだけで、呼んだケースよりずっと多いのかもしれない。

というわけで、似たような事件が同時期に発生しやすいというのは、単なる印象に過ぎないのかも知れないし、あるいは未だ知られざる合理的な理由が存在するのかも知れない。それはよくわからない。

いずれにしても、私が興味を覚えたのは、こう言っちゃなんだが、報道された写真をみる限りではちっとも魅力的に見えない 2人の太ったオバチャンが、男を手玉に取り、少なくない額の金をだまし取ったりしているということである。

先日車を運転しながらカーラジオを聞いていたら、敢えて名を秘すが、ゲストで登場した昔は美人女優で鳴らした結構ご高齢の独身のお方が、「あんなんで、あれだけ多くの男を騙せるんだったら、私だって、結構やれたはずなのに……」と嘆息しておられた。最後の 「のに……」 というところに、妙なリアリティを感じてしまった。

でも、多分、美人過ぎる女性は結婚詐欺なんかやりにくいのかもしれない。ある程度の不細工さがキーポイントなのだ。きっと。

男は美人に弱いが、いざとなると警戒する。しかしある程度不細工な女には警戒心が弱まる。もしかしたら、自分がこの女を援助してやるんだという優越感を持たされてしまうのかもしれない。優越感と警戒心を両立させるのは、至難の業である。

そう考えると、人を騙そうと思ったら、下手に出て相手に優越感を持たせるに限る。逆に、どんなに正しいことでも、「まだわからないみたいだから、俺がわからせてやる」とばかりに、偉そうに説明して相手を萎縮させると、それだけで相手は警戒して信じてくれない。

世の中の多くは、客観的にみて正しいか正しくないかで動くのではなく、気分とか雰囲気とかで動くのである。

 

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2010年2月 2日

「ハイチに千羽鶴」 という公案

ハイチ大地震の被災者を元気づけるため千羽鶴を贈ろう」 とネット上で呼びかけた人がいて、実際に続々と折り鶴が集まっていたが、「被災地に迷惑だ」という批判に晒され、議論の的になっているらしい(参照)。

「飲み水や食料が足りなくて苦しんでいる人たちに、紙くずを送ってどうする」という、とても現実的な意見の一方で、「何かをしてあげたい、喜んで貰いたいと思う気持ちは尊い」という声もあり、複雑な様相を呈している。

実はこのトピックは今に始まったことじゃない。30年ぐらい前にも似たような話題が持ち上がったことがある。食糧危機に瀕したアフリカのどこだかの国に、千羽鶴を送った日本人がいたらしく「馬鹿じゃないか」 と批判されたというニュースがあったのだ。

「同じ手間と金をかけるなら、食料を送るべきだろう」と私が言うと、友人の F君は、「しかし、千羽鶴を送って元気づけてあげたいという優しい心まで、愚かしいの一言で批判したくはない」と言った。

私は「その優しい心があるなら、相手に本当に喜んでもらうためにはどういう行為を選択すべきかまで考えるべきだろう」と主張した。F君は、「僕も実際に何かしようと思ったら、千羽鶴よりは食料を送る。しかし、千羽鶴を送った人を批判するのは忍びない」と、複雑な胸中を打ち明けた。

私は今でも、飢えに苦しむ地域に千羽鶴を送りつけるという行為は、「愛に溢れてはいるが、知恵には欠けた行為」と思っている。愛という視点からは尊いが、知恵という視点からは愚かというしかない。机上の天秤にかけたらニュートラルになってしまうかもしれないが、知恵に裏付けられない愛は、現実には迷惑でしかないことがある。

こんな話を聞いたことがある。

ある途上国で開催された経済発展を目指すセミナーに、日本の協力団体から講師が派遣された。そのセミナーには、国中から熱心な若い参加者が集まったが、宿泊施設がないため、参加者達はセミナー会場に敷かれた粗末なマットレスの上で、折り重なるように雑魚寝しなければならなかった。

日本から派遣された講師は、その参加者達の純粋な姿勢に心から感動した。自分は市内にある外国人向けホテルに泊まることになっていたが、それはとても傲慢なことのように思われた。そこで、主催者に「私も参加者達と一緒に、ここに寝させてください」と申し出た。

主催者は「いえ、それは困ります」と言った。「あなたのためには、ホテルがリザーブしてある」

「私は自分だけが贅沢なベッドで寝る気になれない。今夜は、彼らと同じ環境をシェアしたいのです」

しかし、主催者の返事はこうだった。

「あなたがここで寝ると、参加者たちの寝るスペースがそれだけ狭くなってしまうのです」

食糧難に貧した地域に千羽鶴を送る(敢えて「贈る」ではなく即物的に「送る」と表記する)のは、それはそれで、ひとつの愛の表現ではあるだろう。送られた先の人たちが「こりゃ一体何じゃ?」としか思わない可能性が大きいとはいえ、送った側は「自分は愛を贈ったのだ」という気分になることはできる。

しかしその千羽鶴は、自動的に空間移動して瞬時に向こうに届くわけじゃない。届けるためには、ある一定の労力とコストとスペースと時間が使われる。その労力とコストとスペースと時間を使ったために、後回しにされてしまう食料と水とが発生するとしたら、それは申し訳ないことである。

何事にも優先順位というものがある。集まった千羽鶴はせっかくだから、現地の復興がある程度進んでから、日本人の伝統的な愛の表現なのだということをよくよく理解してもらえるような形で送るのがいいだろう。今、無理矢理に送りつけたとしても、現地では扱いようがわからなくて、ほどなくグチャグチャになってしまうのがオチだ。

震災後の混乱の中で、日本から届いたわけのわからない贈り物をそれなりの場所にディスプレイするために人員を配置しなければならないとしたら、現地にとってありがた迷惑になるのは、言うまでもないことである。

 

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2010年2月 1日

葬儀ビジネスとブライダルビジネス

茨城県に引っ越してきて驚いたことのひとつに、葬式のことを「じゃんぼ」と言うってことがある。「明日はじゃんぼに行かなきゃ」なんて言うから、何か楽しいことでもあるのかと思ったら、親戚の葬式だったなんてことがあって、びっくりこいた。

語源は葬式の時に打ち鳴らす銅鑼の音だなんていうが、私は葬式で銅鑼をじゃんじゃん打ち鳴らすなんてみたことがないので、「所変われば品変わる」と、ただただ感心するばかりである。

ところで、明日はまた葬式に出なければならない。思えばこの 10年で結婚式に出たのはたった 1度だけだが、葬式には少なくとも 30回以上出ていると思う。20代では、年に 2回以上結婚式に出ていたような気がするが、この年になると、葬式出席回数が格段に高まる。

で、明日も葬式である。今年初めてのお葬式出席だ。

葬式といえば、イオングループが葬儀ビジネスに参入するというニュースを最近ラジオで聞いたが、実は昨年秋から開始しているようだ (参照)。とかく不透明な丼勘定になりがちな葬儀の費用を透明・明確化し、きちんと納得できる葬儀を行う業者を紹介するらしい。

そのラジオでは、最近葬儀関連の市場規模がブライダル関連の規模を上回っているなんていう話をしていたので、本当かなあと、ちょっと調べてみた。

インターネットで調べた限りでは、経済産業省の特定サービス産業実態調査報告というのが見つかった。孫引きで恐縮だが、葬儀ビジネスの規模は、2005年で 7976億4500千万円で、2010年、つまり今年は 9161億円に拡大し、さらに 2020年には 1兆985.9億円になる見込みなのだそうだ。(参照

それに対して、ブライダル関連の市場規模を調べようと思ったが、はっきりした数字がなかなか見つからない。とりあえず、DELTAS というデータ会社のサイトにある「2008年の市場規模は、1兆4,875億円(当社予想値)となり、対前年比99.4%となった」(参照) という記述を一応の目安にしてみようと思う。

同社のサイトの記述によると、「2006年以降、結婚式・披露宴の平均単価は上昇傾向にあり、婚姻件数の減少をカバーしている」ということのようだ。ただ、この単価上昇傾向がリーマンショック以後も続いているとは考えにくい。とりあえず、ブライダルビジネスの市場規模は微減傾向とみていいいだろう。

まあ、葬儀やライダルのビジネスの範囲をどこまで取るかの問題もあるので、一概には言えないが、「葬儀ビジネスの市場規模がブライダルビジネスを上回っている」と軽々しく言うのは、問題ありということのようだ。

ただもしかしたら、坊さんへのお布施や戒名料なんかを入れると、軽く上回るのかもしれない。お寺の財務関連は経済産業省の統計には入っていないはずだ。管轄外だから。檀家をたくさん抱えた寺は、坊主がよっぽど酒池肉林の贅沢をしない限り、潰れることはないだろう。

いずれにしても、ブライダルビジネスが微減傾向で、葬儀ビジネスが拡大傾向というのは確かなことのようだ。若年層の人口は減ってきているし、結婚式は 2人で 1度だが、葬式は 1人で 1度だ。また、結婚しない人はいても、死なない人はいない。

ブライダルビジネスが盛り返すためには、結婚と離婚を繰り返して、何度も結婚式をする人を増やすしかないかもしれない。

 

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