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2010年2月 8日

「共食」と朝青龍を巡る冒険

私は「一人でメシを食えない人」が苦手である。それについては、「赤信号は、本当に皆で渡れば恐くないか?」というコラムでも書いてある。

そりゃ、一人でメシを食うのは、とりたてて楽しいってわけじゃない。しかしだからといって、たまらなくわびしいというほどのことでもない。だが、世の中には一人でメシを食うのがたまらないほど淋しいと思ってしまう人もいるようなのだ。で、私はそういう人が苦手なのである。

誤解してもらっては困るが、私は人と一緒に食事をするのが嫌いというわけじゃない。どちらかといえば好きな方だと思う。だが、一人で食うのもちっとも苦にならないというだけの話なのだ。人と一緒の食事を避けて、一人でひっそりと食いたがる、暗い人間だなんて思わないでもらいたい。

一人で淡々とメシを食えればこそ、人と一緒に賑やかに食事する楽しさも引き立とうというものではないか。

ところで、最近「共食(きょうしょく)」という言葉を知った。下手すると「共食い」のことかと思われそうなので、要注意の言葉だ。ATOK 16 では「きょうしょく」は「教職」にしか変換されないので、ついさっき、新たに単語登録したばかりである。ところが、Goo 辞書 (大辞林 第二版)にはちゃんとあって、次のように書かれている。

神に供えたものを皆で食べあうこと。同じ火で煮炊きした同じ食物を食べあうことにより、神と人々との、また神をまつった者どうしの精神的・肉体的連帯を強めようとするもの。日本では直会 (なおらい) がこれに相当する。

元々は神事にまつわる人類学的なコンセプトのようなのだが、最近言われている「共食」は、信心からはちょっと離れて、マーケティング的視点でも用いられるようだ。新しいコンセプトは、「共食」の反対語が「孤食」と言われていることからも想像できる。(ちなみに「孤食」は ATOK ですんなり変換できた)

マーケティング分野の新語は、大抵広告代理店が提唱することで広まる。多くは一時の流行語として廃れてしまうが、中には長続きして一般に用いられる言葉として広まることもある。さて「共食」 はどちらの運命を辿るだろう。

「共食」でググルと、電通が一昨年のプロジェクトの資料として出したらしい「共食縁」という PDF ファイルがトップにランクされているので、取り敢えずそれを開いてみると、初っぱなのページに次のようにある。

孤食・飽食など食の崩壊が取り沙汰される今・・・
共食縁が求められている

食を共にする、共に楽しく食する行為を指す「共食」によって生まれる人と人とのネットワーク(縁)

家族内における個食・孤食化の進展と、それに伴う人間関係コミュニティの希薄化…
家族や個人の生活において食にまつわる問題は山積している。
今こそ、共食縁によって食の楽しさや人とのつながりの楽しさを再確認するべきじゃないのか?

共食縁が、日本の食を元気にする!

いかにも広告代理店の作りそうなコピーである。で、要するに、一緒に食事をすることによって、新しいコミュニケーションを創造し、そのプロセスで「食のマーケットの活性化」が実現されるということを提唱しているわけなのだ。

しかし、別にそんなことを改めて言われなくても、「こんど一緒にメシでも食おうよ」ってな挨拶は日常茶飯事で、そんなことはしょっちゅうやっている。ただ、昔はそこから延々と飲み会になだれ込むこともあったが、最近はメシ会だけで終わりになることが多い。きっと景気のせいだろう。

で、最初の話題に戻るが、「共食」というコンセプトが「一人でメシを食えないボス猿のおもちゃ」に堕落してしまうと、かなり問題が多いということなのだ。

私は今回の朝青龍の引退問題も、結局は「一人でメシを食えない男の招いた悲劇」だと思っている。彼は周りにもてはやされて、だはだは言いながら賑やかにメシを食い、酒を飲みたかった。

ところがさすがに場所中なので、まともな力士や関係者はそんな席に付き合わない。付き合うのは別の世界の人間だ。マスコミに登場するのを注意深く避けながらも、一説には 1500万円もの示談金をもらうというのは、一体どんな人なんだろうと、私は思ってしまう。

それで、今回もなあなあで済まそうとしていたと思われる理事会が、警察上がりの外部理事の率直な警告を聞いた途端に、あわてふためいて急に解雇するという方向に向く。解雇じゃたまらないから、本人はよく考える間もなく、「引退」を決めたと、まあ、こういうことなんだろう。

そこにどういう背景があったんだか知ったことじゃないが、朝青龍がおとなしく淡々と一人メシを食うのを厭わないキャラだったら、今回の悲劇は避けられたと思うのだ。

共食は、平和に楽しみたいものである。

 

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コメント

スンマセン…。相変わらず酔ってます…。シナプスの代わりにアルコールが巡り…、巡っています。(あぁ〜…、まいど…。へへへ。)


まず、“共食”の定義からして、アタクシには解りかねます。

『家族で共に食事をする』ことがテーマであれば、現在日本の家族構成に対して“大家族たれ!”という提言ですし、無理矢理家族団欒を“せよ”とのことです。(アタクシの解釈は言い過ぎだと思いません)

だって“みんなで食べる”に対する言葉が、“家族”に繋がらないんですもの!


“孤食”の対象は「家族内の子ども」、“共食”の対象は(いわば)「だれそれ構わず…」という構図です。

対象、違いませんか。(かなりプンスカ!)

投稿: 乙痴庵 | 2010年2月 8日 22:32

乙痴庵 さん:

>まず、“共食”の定義からして、アタクシには解りかねます。

電通流の 「共食」 は、いつものようにご都合主義マーケティング・コンセプトですからね。「共食」 と 「孤食」 の関係からして、かなり曖昧ですね。


>“孤食”の対象は「家族内の子ども」、“共食”の対象は(いわば)「だれそれ構わず…」という構図です。

その辺をクリアするために、一応 「個食」 という言葉も入れてるんでしょうね。電通は。

ぶっちゃけて言えば、ことさらに 「共食」 なんて言わなくても、「一緒にメシでも食おうや」 でいいんだと、私としては思ってまして、そんなことはちょっちゅうしてることですよね。

投稿: tak | 2010年2月 9日 10:16

takさん

こちらでは短めに。(笑)

>ネットワーク (縁)

【縁】を【ネットワーク】に置き換えているのなら、もの凄く違和感を覚えるのですが。

※阿呆代○店!と叫びたいのを堪えまして。(苦笑)

縁は一般的には運命論に結び付けられるようですが、偶発性の側面が強いと小生は感じておりますのでdestiny、fate、karmaのどれにも直結しないような気がします。
bond(s)もピンと来なくて。

takさんとしては如何でしょうか?

投稿: 貿易風 | 2010年2月11日 03:11

貿易風 さん:

>【縁】を【ネットワーク】に置き換えているのなら、もの凄く違和感を覚えるのですが。

広告代理店の用いる言葉というのは、そこに 「明確な定義」 を求めると、たいていの場合、コンテクストが成立しなくなります。

文脈の中で微妙に意味をずらして行くことで、彼らにとっての予定調和的な結論が導かれるという仕掛けになっています。

つまり、たいていの場合、結論が先にあって、そこに一見もっともらしい小理屈を付けるという手法です。

今回の 「共食縁」 も、そんなようなものだと思えばいいと思います。

>縁は一般的には運命論に結び付けられるようですが、偶発性の側面が強いと小生は感じておりますのでdestiny、fate、karmaのどれにも直結しないような気がします。
bond(s)もピンと来なくて。

仏教的な解釈では、運命論というよりは、因果律の一環のなかにあります。

「因・縁・果」 のうち、「因」 は原因、「果」 は結果。つまり、原因があって結果があるという、ごく当然の因果律です。

そして、その中間にある 「縁」 は、原因と結果の間に介在する媒介です。触媒みたいなものともいえるかもしれません。

ですから、私は 「縁」 は "catalyst" あるいは "medium" だと思っています。

和英辞書的に軽く言ってしまうと、"relation" なんでしょうけど、本来は、リレーションの背後にあって、それを形成する助因となったものなんでしょうね。

それで、仏教用語としての 「縁」 は、英語では "contributing cause" とも言われるようです。

投稿: tak | 2010年2月11日 16:48

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