« 「金ジョンウン」 を巡る冒険 | トップページ | 『唯一郎句集』 レビュー #105 »

2010年2月19日

「スポーツとナショナリズム」という魔物

スノボの国母選手の話題をちょっと辿ったら、「きっこのブログ」に行き着いた。「オリンピック選手は国民の代表なのか?」という記事である。それで、本当に久しぶりに彼女のブログを読んだ。

要するに、きっこさんはこの記事で 「オリンピック選手を国民の代表だなんて思っていない」ということをおっしゃっているのである。だから、彼らがどんな格好をしようと別に関知しないと、つまりそういうことだ。

ただ、きっこさんもいろいろな見方があるということは十分に認めておられるようで、次のように書かれている。

オリンピック選手のことを 「国民の代表」 だと思ってる人たちは、オリンピック選手が、オオヤケの場で、乱れた服装や言動、態度をとれば、おんなじニポン人である自分たちに恥をかかせたことになる‥‥って理屈になるワケで、自分たちに迷惑がかかったと感じてるからこそ、批判してるんだと思う。

(中略)

一方、あたしや江川紹子さんのように、オリンピック選手のことを「国民の代表」とは思ってない人たちは、選手たちがどんな服装や言動、態度をとっても、別に自分が恥をかかされたとは思わない。ただ単に、その選手個人に対して「まだ子供なんだな」とか 「良識がない人なんだな」とかって思うだけで、それだけのことだ。

私としてはさらに、きっこさんの「国民の代表」論に加えて、「清く正しいスポーツマン」という体育会的幻想が強いんじゃないかと思う。ここが一番面倒くさいところだ。

国母選手の服装について JOC に抗議の電話を入れた人の多くは、多分、何かの体育会系の指導者だったんじゃないかと、私は思っている。彼らは国母選手の服装を、「清く正しきスポーツマンの面汚し」として、不愉快至極に思ったのだろう。あるいは幻想を壊されたスポーツ・ファンが憤慨したのかもしれないが。

というわけで今回の問題は、いわば「国民の代表」と「体育会系の代表」という二つの意識の合わせ技みたいなものだ。そして、体育会系精神主義とナショナリズムというのはとても相性がいいらしく、合わせ技になると地上最強である。なにしろエモーショナルなものなので、どんなロジックに対しても絶対に負けない。そもそもの土俵が違うから、

そうでなくても、体育会系の人の中には「きちんとした服装」にものすごくこだわる人が多い。精神の乱れは服装の乱れに現れるのだそうで、とにかく、かっちりとした服装をしなければならないということになっている。逆にいえば、さっぱりとしたヘアスタイルでかっちりとした服装をして大声でアイサツさえすれば、実際以上の好印象につながる。

あの読売ジャイアンツなんて、やたらうるさいドレスコードがあるらしく、ひげを生やしてもいけないんだそうで、私はそんな話を聞くとうんざりする。そんな環境で育った選手が大金を手にすると、ヴェルサーチのスーツの悪趣味度を倍増させて着たりしてしまう。余談だが、夏でもスーツにネクタイの小沢一郎氏をみると、私は暑苦しくてたまらない。

ところが、こうした「ナショナリズムと精神主義」の殿堂のような体育会系の中に今、ゆるゆるのカジュアル主義というか、ヤンキーイズムというか、ヒップホップ魂というか、そんな異質の要素がちょこちょこと混在し始めているようなのだ。

このあたりのギャップや摩擦は、今後、少しずつ表面化してくるだろうと思う。私としては、体育会系のこっちんこっちんの石頭連中にはうんざりしているので、何とかしてもらいたいと思っているが、そのアンチ勢力の筆頭が腰パン派というのも、「なんだかなあ」という気がしてしまうのだよね。

そして、これは敢えてちょこっとだけ触れておくが、体育会系の石頭と、ゆるゆるヤンキーとは、あれだけ対極にあるように見えても、実は根っこの部分ではかなり近いのではないかという気がするのだ。あの騒ぎって、実は近親憎悪みたいなものなのだよ、きっと。私が両方とも好きじゃないのは、そういう臭いを感じてしまうからなのだ。

最後に書いておくが、「オリンピック選手が国民の代表」とは、私としてもストレートには思わない。しかし個々の選手が「国民の代表」という意識をもち、国のためにがんばるというなら、それはそれで尊いことだし、うれしいと思う。だが、こちらから強いてそれを要求するのは、「国民としての傲慢不遜」という気がしてしまう。

さらに、これは単に「好みの問題」に過ぎないかもしれないが、野球の WBC の「サムライ・ジャパン」だかなんだかみたいに、個々の選手が「自分たちは日の丸を背負って戦うんだから」とかいうようなことをことさらに言い過ぎるのを聞くと、私はかなり気持ち悪くなってしまう。いただけない。

そうした発言は、監督あたりが決意の表れとして、ちらっと一言だけ言えばいいのであって、個々の選手は心に秘めておく方がかっこいい。あまり言い過ぎると、プレッシャーに負けた時の言い訳を予め用意しているみたいにすら聞こえる。

このあたりはかなりデリケートな感覚で、なかなか一筋縄ではいかない。スポーツとナショナリズムは、組み合わさると魔物なのである。

そして、国母選手は結局メダルを取れなかったが、騒ぎが収まりかけてしまうと、国民の多くは、なんだかんだ言っても彼を暖かく応援していたような空気が見て取れる。結局、マジョリティは「ゆるゆるのナショナリスト」のようで、このあたりに収束するのが一番健康的だと思う。

 

|

« 「金ジョンウン」 を巡る冒険 | トップページ | 『唯一郎句集』 レビュー #105 »

スポーツ」カテゴリの記事

コメント

どこかに、『兵隊さんを送り出す』思想が、残っているのかもしれません。
 その兵隊さんが、だれんとした雰囲気なので、「おいおい…」という気持ちが働いたのだと思います。

 また、普段そこかしこで見ている腰パン世代には特に意見はしないけど、その代表みたいなのがテレビに出てるものだから、ここ一番ということで、わんさかしていたものと推測します。


 まぁアタクシの場合は、記者会見時に(石頭世代に)対応し切れなかった国母選手の中途半端さが、残念に思えて仕方ないところです。
 あと、自分の子どもがあの格好してたら、たぶん、蹴飛ばしていることでしょう。(オレも石頭なのかなぁ…)

投稿: 乙痴庵 | 2010年2月19日 12:45

乙痴庵 さん:

>どこかに、『兵隊さんを送り出す』思想が、残っているのかもしれません。

あるかも。

>また、普段そこかしこで見ている腰パン世代には特に意見はしないけど、その代表みたいなのがテレビに出てるものだから、ここ一番ということで、わんさかしていたものと推測します。

日頃の嫌悪感が、ここぞとばかりに噴出したというのは、ありますね。きっと。

>まぁアタクシの場合は、記者会見時に(石頭世代に)対応し切れなかった国母選手の中途半端さが、残念に思えて仕方ないところです。

国母選手の中には、石頭世代ともうまくやっていくという方程式がないんでしょうね。

そのあたりは、まだ子どもなんでしょう。

>あと、自分の子どもがあの格好してたら、たぶん、蹴飛ばしていることでしょう。(オレも石頭なのかなぁ…)

あはは (^o^)

投稿: tak | 2010年2月19日 13:32

要するにあの着くずしをどう評価するかですよね

私は問題になった空港での出発シーンをビデオで見て、さらに国母君擁護になっています(笑)

何も問題にするような服装では無いじゃないですか
ちゃんとユニフォームを着ている
ただ、着こなしがヒップホップ調に着くずしたものというだけ

むしろ私は、あの着こなしを
今風で、かっこよく着こなしているな
粋でしゃれているじゃないかと思いましたよ
(案外私も許容度が高い)(笑)
腰パンだけはまねできませんが、ネクタイをゆるゆるにしたり、ジャケットをだらしなくしたりは、着こなしの範囲内でしょう

それに、あのファッション感覚は若者の中では、ごく普通なもの
それにファッションというものは、時代と共に変化して行くものだからこそ、ファッション
それを止める事はできません

オリンピックで、年寄りが利権の中で(多分)(笑)決めた、日本人の体型に合わせた(笑)デザインの歴代のユニフォームって、かっこよかったためしがない
またそれを礼服・軍服のように厳粛にまじめにコチコチに着用しろって、押しつけだな~
JOC の老人の自己満足でもある

私自身の服装は、若者の自己顕示的なものとは対極な没個性なものですけれど、人が・・・、特に若者が服装に自己顕示というか、青年の主張というか(笑)そういうものを織り込むのは当たり前だと思います

オリンピックの入賞式の制服って、私、元々好きじゃないんです
それに、オリンピックなんて、なんぼのものなんだ

反抗・プチ反逆は若者の本能
国母君を罵倒した中高年も、若い頃は長髪に汚いジーパンで学生運動をして、器物損壊などをしていたじゃないですか(笑)
それなのに就職となると行いすましてエリートになって、こんどは若者のファッションを押さえつけようとする(笑)


投稿: alex99 | 2010年2月19日 15:41

>体育会系の石頭と、ゆるゆるヤンキーとは、あれだけ対極にあるように見えても、実は根っこの部分ではかなり近いのではないかという気がするのだ。

これはtak見……いや卓見ですね。双方とも「一つの(自分の)ルール」のもとでしか動けないところが共通しているのかな。国母選手の「着崩し」を見ると、なんだか懐石料理を先割れスプーン(古いですね)で食べているような「みっともなさ」を感じます。まぁ子どもだからしょうがないんでしょうけど……。

>そうした発言は、監督あたりが決意の表れとして、ちらっと一言だけ言えばいいのであって、個々の選手は心に秘めておく方がかっこいい。あまり言い過ぎると、プレッシャーに負けた時の言い訳を予め用意しているみたいにすら聞こえる。

「国民の期待」というのは、前提ではなく、「負けそうになったとき、苦しくなったときに思い出す最後の心の支え」として機能すればいいんじゃないかと思うんですよね。応援ってそういうものではないでしょうか。

投稿: 山辺響 | 2010年2月19日 15:56

alex さん:

私は体育会系石頭とヒップホップ系スノーボーダーが、「実は近い」 と直感したんですが、メンクラとボーダーの方がより近いとまでは気付きませんでした ^^;)

世の中、なかなか底が深いと思いました。

投稿: tak | 2010年2月19日 22:53

山辺響 さん:

>双方とも「一つの(自分の)ルール」のもとでしか動けないところが共通しているのかな。

そして、ゆるゆるが社会の荒波にもまれて更生 (?) すると、妙にかちかちになったりするんです ^^;)

>なんだか懐石料理を先割れスプーン(古いですね)で食べているような「みっともなさ」を感じます。

言い得て妙 (^o^)

>「国民の期待」というのは、前提ではなく、「負けそうになったとき、苦しくなったときに思い出す最後の心の支え」として機能すればいいんじゃないかと思うんですよね。応援ってそういうものではないでしょうか。

これ、素晴らしいと思います。
前提と思うからプレッシャーになるんですね。

投稿: tak | 2010年2月19日 22:59

今回の件、海外の反応を見ると、過度な服装批判の方が日本の印象を悪くしてるように思えます。
アメリカなどは意外にユニホームや国旗には厳格なのであの服装を問題とする向きあるようですが、それでも開会式や入村式の辞退などやり過ぎと思われてるようです。
(それ以外では単に日本のジェネレーションギャップと切り捨てられてたりしますが)

字義的にみれば、巷の意見であれなんであれ、国民一人一人に代わって表に出てしまえば、すべからくそれが国の代表になるのでは、とか思ったりしました。

投稿: clark0226 | 2010年2月20日 05:19

clark0226 さん:

>今回の件、海外の反応を見ると、過度な服装批判の方が日本の印象を悪くしてるように思えます。
>アメリカなどは意外にユニホームや国旗には厳格なのであの服装を問題とする向きあるようですが、それでも開会式や入村式の辞退などやり過ぎと思われてるようです。

競技への出場辞退なんていうことになっていたら、それこそクレイジーと思われたでしょうね。

スキー連盟が出場辞退を申し入れていたと聞いて、私も唖然としましたから。

いくら殺到する抗議電話への応対でぶち切れていたとしても、権威主義的というか何というか……

>字義的にみれば、巷の意見であれなんであれ、国民一人一人に代わって表に出てしまえば、すべからくそれが国の代表になるのでは、とか思ったりしました。

まあ、極端に言えば、昔の海外ツアーでヒンシュクを買いまくった 「ノーキョー」 とか、最近はそれに代わってヒンシュクの代表になってしまった中国のツアー客とか、すべてそうなってしまいますけどね。

それから、バルセロナでマラソンを走った有森裕子選手が、あれだけ明確に 「自分のために走った」 とコメントしているにもかかわらず、国民としてはやっぱり日本の代表として持ち上げましたね。

メダルを取って、国旗が掲揚されてしまうと、もうそれは雰囲気として動かし難いですね。
マイナーな競技で全然目立たずに予選落ちしてしまえば、国の代表なんて思われずに済むんでしょうけど。

投稿: tak | 2010年2月20日 06:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「スポーツとナショナリズム」という魔物:

« 「金ジョンウン」 を巡る冒険 | トップページ | 『唯一郎句集』 レビュー #105 »