「ハイチに千羽鶴」 という公案
「ハイチ大地震の被災者を元気づけるため千羽鶴を贈ろう」 とネット上で呼びかけた人がいて、実際に続々と折り鶴が集まっていたが、「被災地に迷惑だ」という批判に晒され、議論の的になっているらしい(参照)。
「飲み水や食料が足りなくて苦しんでいる人たちに、紙くずを送ってどうする」という、とても現実的な意見の一方で、「何かをしてあげたい、喜んで貰いたいと思う気持ちは尊い」という声もあり、複雑な様相を呈している。
実はこのトピックは今に始まったことじゃない。30年ぐらい前にも似たような話題が持ち上がったことがある。食糧危機に瀕したアフリカのどこだかの国に、千羽鶴を送った日本人がいたらしく「馬鹿じゃないか」 と批判されたというニュースがあったのだ。
「同じ手間と金をかけるなら、食料を送るべきだろう」と私が言うと、友人の F君は、「しかし、千羽鶴を送って元気づけてあげたいという優しい心まで、愚かしいの一言で批判したくはない」と言った。
私は「その優しい心があるなら、相手に本当に喜んでもらうためにはどういう行為を選択すべきかまで考えるべきだろう」と主張した。F君は、「僕も実際に何かしようと思ったら、千羽鶴よりは食料を送る。しかし、千羽鶴を送った人を批判するのは忍びない」と、複雑な胸中を打ち明けた。
私は今でも、飢えに苦しむ地域に千羽鶴を送りつけるという行為は、「愛に溢れてはいるが、知恵には欠けた行為」と思っている。愛という視点からは尊いが、知恵という視点からは愚かというしかない。机上の天秤にかけたらニュートラルになってしまうかもしれないが、知恵に裏付けられない愛は、現実には迷惑でしかないことがある。
こんな話を聞いたことがある。
ある途上国で開催された経済発展を目指すセミナーに、日本の協力団体から講師が派遣された。そのセミナーには、国中から熱心な若い参加者が集まったが、宿泊施設がないため、参加者達はセミナー会場に敷かれた粗末なマットレスの上で、折り重なるように雑魚寝しなければならなかった。
日本から派遣された講師は、その参加者達の純粋な姿勢に心から感動した。自分は市内にある外国人向けホテルに泊まることになっていたが、それはとても傲慢なことのように思われた。そこで、主催者に「私も参加者達と一緒に、ここに寝させてください」と申し出た。
主催者は「いえ、それは困ります」と言った。「あなたのためには、ホテルがリザーブしてある」
「私は自分だけが贅沢なベッドで寝る気になれない。今夜は、彼らと同じ環境をシェアしたいのです」
しかし、主催者の返事はこうだった。
「あなたがここで寝ると、参加者たちの寝るスペースがそれだけ狭くなってしまうのです」
食糧難に貧した地域に千羽鶴を送る(敢えて「贈る」ではなく即物的に「送る」と表記する)のは、それはそれで、ひとつの愛の表現ではあるだろう。送られた先の人たちが「こりゃ一体何じゃ?」としか思わない可能性が大きいとはいえ、送った側は「自分は愛を贈ったのだ」という気分になることはできる。
しかしその千羽鶴は、自動的に空間移動して瞬時に向こうに届くわけじゃない。届けるためには、ある一定の労力とコストとスペースと時間が使われる。その労力とコストとスペースと時間を使ったために、後回しにされてしまう食料と水とが発生するとしたら、それは申し訳ないことである。
何事にも優先順位というものがある。集まった千羽鶴はせっかくだから、現地の復興がある程度進んでから、日本人の伝統的な愛の表現なのだということをよくよく理解してもらえるような形で送るのがいいだろう。今、無理矢理に送りつけたとしても、現地では扱いようがわからなくて、ほどなくグチャグチャになってしまうのがオチだ。
震災後の混乱の中で、日本から届いたわけのわからない贈り物をそれなりの場所にディスプレイするために人員を配置しなければならないとしたら、現地にとってありがた迷惑になるのは、言うまでもないことである。
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コメント
こんにちは、久しぶりにコメントします。≪ハイチに千羽鶴を送る≫を読んで、長崎の原爆資料館に行った時のことを思い出しました。原爆が落ちた時の時計や、その後に書かれた日記の残酷さを見た後に、千羽鶴の束が山と飾られているのを。平和を祈る気持ちを折りヅルに願いを込めていたのではありますが、残酷さの中に急に赤や黄や緑の鶴を見た時に、私の感覚とは違うものを感じました。感覚の問題かもしれませんが、地震の起きた土地ハイチに折りヅルを送るのは今ではないと思います。今送るのは国際的感覚が少しずれていると思われます。せっかく作った千羽鶴があるのなら、日本国内に飾って、寄付活動の一助にすべきでしょうか。コメントにしては重いかしら?
投稿: keicoco | 2010年2月 3日 10:11
keicoco さん:
>平和を祈る気持ちを折りヅルに願いを込めていたのではありますが、残酷さの中に急に赤や黄や緑の鶴を見た時に、私の感覚とは違うものを感じました。
千羽鶴というものが、願いを込めて贈るというものであるという共通理解がある日本においてすら、少々の違和感があるのですから、そうした理解がない異国に送りつけるというのは、考え物ですね。
混乱の中に千羽鶴を送っても、現地では 「なんじゃ、こりゃ?」 になってしまうでしょうね。
「なんじゃ、こりゃ?」 で済めばまだいいですが、「馬鹿にしとんのか、おんどりゃ!」 になることもあるかもしれません。
>せっかく作った千羽鶴があるのなら、日本国内に飾って、寄付活動の一助にすべきでしょうか。
名案ですね。
寄付金を送り、ある程度の復興が達成されてから、「あの寄付金の一部は、このシンボルの元に集められたんですよ」 という説明付きで寄贈すれば、両国の友好のシンボルになるかもしれません。
投稿: tak | 2010年2月 3日 10:56