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2010年3月に作成された投稿

2010年3月31日

心の琴線に触れる 「お兄ちゃんのえっち」 という言葉

このブログのアクセス数というのは、右のサイドバーの上の方にあるカウンターに表示されていて、普段の平日は、大体 1,000をちょっと超えるぐらいのアクセスになっている。ところが、今日はお昼前に 900を超えているので、一体何があったのかとたじろいでしまった。

アクセス解析をみると、圧倒的なヒットになっているのが昨日の "「お兄ちゃんのえっち…」の「の」の文法的解釈" という記事である。で、どこから飛んできたのかというと、「はてなブックマークの 「人気エントリー ‐ コンピュータ、IT」 というページからのリンクが多い。もう時間が経って消えているが、夜中頃ここに件の記事が取り上げられたようなのだ。

これが発端となって、はてなの個人ブックマークからのリンクもやたらと多くなっている。「人気エントリー」からのアクセスはもう収まっただろうが、個人ブックマークからのリンクで飛んでくるアクセスは、もうしばらく続きそうだ。

それにしても「お兄ちゃんのえっち…」という文言は、はてなユーザーの心の琴線にえらく響いてしまったようなのである。

この記事は、xl1blue さんが Twitter で "「お兄ちゃんのえっち…」の「の」は文法的にはどんな説明が与えられますか" と tweet されたのを受けて、私が物好きにも考察してみたのである。内容的には至極マジメなもので、お兄ちゃんのえっちさ加減がどんなようなもので、あんなことやこんなことまでしてるなんてことにはちっとも触れていない。

つまり、"「お兄ちゃんのえっち…」の「の」の文法的解釈" というタイトルそのものの内容でしかない。あくまで「文法論議」なのである。

しかし、この記事のタイトルが "「お母さんの馬鹿」の「の」の文法的解釈" とか "「夕日の馬鹿野郎」の「の」の文法的解釈" とかだったら、午前中に 900を超すぐらいのアクセスを集められたかどうかといえば、はなはだ疑問である。おそらくそんなには行かなかっただろう。せいぜい 500止まりだったんじゃなかろうか。

こうしてみると、xl1blue さんの tweet は、なかなか絶妙のものだったということがわかる。そもそも私が物好きにもこれに関して考察してみようと思ったのも、「お兄ちゃんのえっち…」だったからであって、「お母さんの馬鹿」だったら、もしかしたら放っといたかもしれないではないか。

 

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2010年3月30日

「お兄ちゃんのえっち…」の「の」の文法的解釈

xl1blue さんが Twitter で "「お兄ちゃんのえっち… 」の「の」は文法的にはどんな説明が与えられますか" と tweet しておられる (参照)。ふぅむ、言われてみればちょっと難しい。「えっち」がお兄ちゃんの所有物というわけでもないから、所有を表す助詞というわけではない。

同じことは、「お母さんのばかぁ!」「夕日の馬鹿野郎ぉ~! 」などにも言える。こんなのは、その辺の自動翻訳サービスにかけたら、"mother's fool!" "Foolish guy of  sunset!" なんて結果になりかねない。日本語ってなかなか難しい。

とりあえず、辞書を引いてみる。Goo辞書というのは、背後で三省堂の『大辞林』が動いているから、無料サービスだからといって馬鹿にしたもんじゃない。この辞書で調べると(いや、別に辞書で調べなくても)、格助詞の「の」であることは明白だ。

そして格助詞の「の」にも、2種類あって、一つは、次のように説明される「の」だ。

(格助)
〔格助詞 「を」 が、撥音 「ん」 の後に来て、連声によって 「の」 の形をとったもの。中世後期から近世へかけての語〕 格助詞「を」に同じ。
「一すぢながながととほりて剣—とぎたてたが如くにてあるそ/中華若木詩抄」

なにやら小難しい説明だが、要するに「ん」の後に「を」が来ると、リエゾンして「の」になることがあるというのである。「因縁 (「いん」+「えん」)」が「いんねん になったようなものだ。

しかし、「お兄ちゃんのえっち…」も、「お兄ちゃん」という「ん」で終わる言葉の後についてはいるものの、「お兄ちゃんをえっち…」と言い換えると意味が通じなくなってしまうから、これじゃないだろう。「夕日の馬鹿野郎ぉ~!」のケースで「の」の直前が 「ん」 じゃないことからも、それは明白である。

で、もう一つの「の」だが、これがなかなかやっかいで、使い方がいろいろあるのである。ここには紹介しきれないので、こちら で直接ご覧いただきたい。

ここに挙げられた中で一番もっともらしいのは、この格助詞の「の」の本来の使い方とされる「連体修飾語を作る」という機能だ。その中のさらにもっともらしく共通するのは、「同格の関係を表す」 という用法だ。以下の用例がある。

(a) 「政治家の山下氏」 「よろしくとのおことば」
(b) 「ビールの冷やしたの」 「ある荒夷 (えびす) の、恐しげなるが/徒然 142」

上記の中でも、とくに (b) で挙げられた用例と 「お兄ちゃんのえっち…」は 、かなり近い。「ビール」と「冷やした状態」 、「ある荒夷」と「恐しげな風貌」とが、「同格の関係」にあるというのと、「お兄ちゃん」と「えっち」が、同格だというのは、共通する用例であると考えられる。

つまり、「お兄ちゃんのえっち…」というのは、「お兄ちゃんであって、そしてなおかつ "えっち" でもある」ということなのだ。「えっち」と書かれた見えないラベルを、お兄ちゃんの顔にぺたりと貼り付ける行為のメタファーである。

そして「夕日の馬鹿野郎ぉ~!」は、「夕日であって、なおかつ馬鹿野郎」なのである。かなり勝手な言いぐさではあるが。

【どうでもいい補足】

試しに 「お母さんのばか」 「夕日の馬鹿野郎」 を Excite の無料翻訳サービスにかけたら、"Mother's fool" (これは思った通りのベタ訳) と、"Idiot in evening sun" という結果になった。後者はちょっと意外で、"Fool on the Hill" のイメージを想起してしまったが、あるいは 「夕日のガンマン」 (古いかな?) に引っ張られた翻訳かもしれない。

【31日 追記】

「お兄ちゃんのえっち」 は、英語で面と向かって言う場合は、"You, pervert, Brother!" になると思う。これだと、「同格の関係」だというのがすごくよくわかる。

 

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2010年3月29日

iPad の母艦屋さんが必要だろうなあ

アキバのヨドバシカメラで、マックのコーナーに行っても、iPad の「ぱ」の字もない。サンプルはなくても、「4月○日、iPad 販売開始!」とかいうような告知ぐらいあってもいいような気がするが、全然見当たらない。本当に日本での販売開始を間近に控えているのかと思えるほどの静けさだ。

この鷹揚さはいったい何なんだ? こんなにゆったり構えていていいのか? そう言いたくなるぐらいだが、アップルはきっと、店頭で事前のセールス・プロモーションなんかしなくても売れると、自信満々なんだろうなあ。

まあ、ことさらな店頭プロモーションなんてしなくても売れるのは確かなんだろうが、アップルとしては爆発的な大ヒット商品になるというような期待は、元々していないんじゃないかという気もする。じわじわ売れればいいと思っているんじゃなかろうか。

そういえば、iPhone にしてもそうだった。最初はアップル製品ならとにかく買うという、コアな消費者が列をなして購入していたが、私みたいなのが「やっぱり iPhone、持っとくべきだよね」という気になって購入したのは、ずいぶん後になってからである。そして、iPhone は今でもじわじわと息長く売れている。

とくに、iPad みたいなニッチな商品は、詳細に見れば、コアなユーザーの視点では疑問符がいくらでもついてしまう。ヘビーユーザーが先を争って買うというような類の品物ではないのだ。

むしろ、「iPad なんて、別になくてもいいんだけど、もしかして、あったら楽しいかな」ぐらいに思っているような、ヌルい消費者にぴったりという商品だから、そんなに大爆発的な売れ方はしないんじゃなあ。

そのかわり、売れ始めたらどんどんまとまって売れるだろう。世の中のライト・ユーザーたちが、小難しくてうっとうしい PC をすっ飛ばし、「なぁんだ、iPad さえあれば、やりたいことなんてほとんどできちゃうじゃん」と言い出すのは、そう遠くないと思う。

ただ、忘れてはならないことがある。iPad は、iPhone と同じで、母艦の PC とセットになって、初めて本当に使いこなされるものなのだ。ライト・ユーザーたちが「なぁんだ、PC なんていらないじゃん」と思うのは勝手だが、やっぱり PC と接続しなければならない場面というのは出てくる。

そうなると、家族や、職場や、仲間内や、親戚などに、「ライトな iPad ユーザーのために母艦機能を提供してあげられる人」というのが必要になるだろう。おふくろさんが嬉々として使っている iPad の OS を時々アップデートしてあげたり、データをバックアップしてあげたり、CD から曲を取り込んであげたりできる人というのが、やっぱり必要なのだ。

そういう「母艦屋さん」がいなくても、ライトな iPad ユーザーは天真爛漫に楽しんで、別段不都合も感じずに、2年も 3年も使い続けるだろうが、やっぱり誰かが母艦の役割をしてサポートしてあげないと、ちょっとあぶなっかしい。

「母艦がなくても取り敢えずは楽しめるけど、やっぱりあった方がいいよね」という、微妙な距離感が、iPad の基本的キャラなんだと思う。iPad で初めてコンピュータのようなものにさわり、そうこうしているうちに、Mac も欲しくなっちゃったりしたら、アップルの思うつぼなのかもしれない。

 

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2010年3月28日

『唯一郎句集』 レビュー #116

このレビューは連番が振ってあるが、たまたま振り間違いが発見されたので、遡って修正した。そのため、昨日までは 「#113」 だったのが、「#115」 に修正され、今日はいきなり 「#116」 となる。

今日は 「楚子夫人の帰省を迎へ三句」 とある句のレビューである。「楚子夫人」 が誰であるのか、今となってはわからない。なにしろ、「楚子」 (そし) という俳号をもつ人の夫人なのか、「楚子」 (たかこ) という名前の女性なのかもわからない。

まあ、さる女性が酒田に帰ってきたことを題材にした俳句であることに間違いはないのだが。

  楚子夫人の帰省を迎へ三句

薄い染付の鉢へことしも枇杷をのせてくるか

読んで字の如しとしか言いようがない。いつも薄い染め付けの鉢に枇杷を載せて訪ねてきていた楚子夫人が、今年もやって来るだろうということなのだろう。

唯一郎は、楚子夫人を好ましく思っているようである。

擴大鏡で熱心に毛虫を覗いてゐる靴屋の父つさん

これもまた、読んで字の如しである。靴屋の親父が、虫眼鏡で毛虫を覗いている。その様が、なかなか絵になるみたいなのだ。

女住居の裏戸からひと山かけて虎杖の風

「虎杖」はイタドリ、別名スカンポともいう。食用になる。この句では、「こじょう」と音読みするのも風情かもしれない。

楚子夫人の閑居する家の裏から、イタドリの生える山が続く。そこに爽やかな風が吹き付ける。さらさらと葉擦れの音が聞こえる。

本日はこれにて。

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2010年3月27日

『唯一郎句集』 レビュー #115

今日レビューする 3句は、ちょっと難解である。ずっと前から、レビューがこのページにさしかかったら、やっかいだなあと思っていたのだが、ついに辿り着いてしまった。まあ、仕方ないから、できる範囲で解釈してみよう。

はちすの実のかたちみづからにおしえて歩む

はちすとは、蓮の別名。蜂の巣に似ているから、そう呼ぶ。もしかしたら、それが語源なのかもしれない。

唯一郎は浄土真宗の信仰篤い人だったから、蓮といえば極楽に生まれるときの台座を連想させる。ただ、蓮の台(うてな)は、蓮の花のことだから、「はちすの実」 というと、幸せな極楽往生のイメージとも少し違う。

蓮根の形をみずからに教えて歩むとは、一体何のメタファーなのか。

川竹の身のあつかひにうつろな晝の蚊遣

さあて、これが難解なのだ。あちこちからほじくってみよう。川竹とは、川のそばに生える竹で、マダケの別称というが、それではこの句は何だかわからない。

それで、「川竹の身」に注目。「川竹の流れの身」というと、遊女の境涯を示す言葉である。謡曲『班女』に、「憂き節しげき川竹の流れの身こそ悲しけれ」 という一節がある。

遊女の身のあつかいにうつろなまでの感覚の昼の蚊取り線香というと、なんとなくけだるく物憂げながら、エロティックな情景である。

唯一郎は時々、こんな風にものすごくきわどい句をさらりと作る。

馬を賣つた金をかぞへてゐるのか烏瓜の白い花

難解といえば、こっちの方が難解かもしれない。

「馬を賣つた金をかぞへてゐるのか」 は、わかる。「烏瓜の白い花」 もわかる。ただ、それが重なると、わからなくなる。

知り合いの誰かが放蕩して、大事な馬を売って金を作らなければならなくなったものと見える。その金を数えている姿に、烏瓜の白い花が重なる。ただそれだけのことかもしれないが、何かのメタファーのようにも思われる。

浮き世の重苦しさが、白い花で少しだけ和らげられるような気もする。

本日はこれまで。

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2010年3月26日

「センス」ということ

Twitter で riahhu さんが 「センスまではディレクションしきれない」 と tweet していらっしゃるのを見て、「まさにその通り」と思ってしまった。それで、「下手は練習で何とかなるけど、センスのないのは時間かけてもダメですね。申し訳ないけど」とレスを付けさせてもらった。

本当に申し訳ないけど、どんなことでも、そっち方面のセンスのない子はいくら一所懸命に練習してもモノにならない。まあ、ある程度は上達するとしても、それでメシを食えるほどにはなれない。こればっかりはどうしようもない。

例えば、「彼は野球センスがある」なんて言い方がある。天性の才能みたいなものだ。その才能が開花するには、そりゃもちろん努力が必要だが、その努力がきちんと報われて、きちんと素晴らしい野球選手になることができるというのは、やっぱりセンスに裏打ちされている。

そして、野球センスがあってもサッカー・センスがあるとは、全然限らない。センスというのはなかなか微妙なもののようなのだ。

プロ・スポーツの一流選手でも、よく「自分は才能がないから、努力だけでやっとここまで来れた」みたいなことをいう人があるが、とんでもない、謙遜にもほどがある。本当に才能がなかったら、いくら努力してもプロになれるほどには報われるものじゃない。努力の結果が開花するというのは、実は才能(センス)がある証拠なのだ。

もし努力だけでなんとでもなるというなら、世の中はいろいろな分野で、一流と言われる人であふれてしまうだろう。そして努力だけで達成した一流ばかりでは、やっぱりちょっとつまらないところがあるだろう。だから世の中というのは、いくら努力してもモノにならないことがあるようにできているのだ。それでうまく行っているのである。

例えば元々の音感に問題のある人は、練習でかなり修正できたとしても、アイドル歌手にならなれるかもしれないが、クラシックの歌手にはなれない。リズム感の悪い人は一流のダンサーにはなれない。

私なんぞみたいな者でも短歌を教えてくれなんて言われることがたまにあるが、鉛筆舐め舐め指折り数えて歌を詠んでも、どういうわけか 五・七・五・七・五 になっちゃう人っている。そして、あれだけ指折り数えていたはずなのに、当人はそれに気付いてないなんていうのも、やっぱり言葉のリズム感がないみたいなのだね。

同様に、俳句は 五・七・五 だよといくら教えても、できあがるのはなぜか 五・七・七 になっちゃう人もいる。そういう人は大抵、自分の句が明らかに字余りだということに、全然無意識である。基本的な部分で日本語センスが不十分みたいなのだ。

ただ、ある方面にセンスがなくても、それで悲しむことはまったくない。人間の価値ということに関しても、そんなことは全然関係ない。その人は別の方面で卓越したセンスをもっているかもしれないし、実際にそういうことも多い。

私なんか理系分野ではお恥ずかしいほどセンス皆無だが、文系でなら、なんとか食っていけるしね。

 

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2010年3月25日

日経電子版の中途半端

iPhone のアプリに N-News というのがあって、日本経済新聞の記事を無料で配信してくれていた。私はこの N-News で、朝の通勤電車の中でニュースをチェックするのが日課になっていたのだが、一昨日からできなくなった。N-News を起動させても、空白ページしか表示されないのだ。

「ああ、そうか、3月 23日から日経のニュースが有料化されるなんて言ってたなあ」と、その時初めて実感をともなって認識してしまったのである。それで、秋葉原の駅を降りたら、目立つ黄色地に「本日解禁、新聞の夜明けぜよっ」というダサダサのタイトルのパンフレットを配っている子がいたが、受け取る人は少なかった。私も受け取らなかった。

そして、昨日(24日)も同じパンフレットが配られていた。きっと思ったほど捌けなかったので、2日連続ということになったのだろう。可愛そうだから受け取ってみたら、「本日解禁」というタイトルがそのままなのに笑ってしまった。「昨日解禁」に差し替えするのもなんだしね。

パンフレットに表記されている基本料金プランというのをみると、電子版は 4,000円/月なのだそうだ。えらく高いなあ。いや、その上に書いてある「日経Wプラン」というのは何だと思ってよくみると、宅配版とのセットで契約すると、プラス 1,000円で済むのだそうだ。

朝・夕刊セット版地域だと、4,383円プラス 1,000円の 5,383円、全日版地域だと、3,568円プラス 1,000円の 4,568円ということになっている。つまり、この電子版というのは、従来の紙で読んでいる契約者を優遇して、デジタルだけで読みたいというニーズに対しては、かなりすげない設定になっているのである。

とくに、全日版地域の人が宅配から電子版に乗り換えたら、あろうことか、432円のコスト増になってしまう。紙も消費しないし、運送費も宅配の人件費もかからなくなるのに値段が高くなるというのは、どう考えても理不尽な設定である。

こうした設定になっていることの、そのココロは「できれば、紙で読み続けて欲しいのよね」「もし電子版が失敗しても、紙媒体の方が全滅になったりすることは避けたいのよね」という 2つの安易な都合の合わせ技の結果なんだろうと想像してしまった。

いずれにしても、かくまで安易なコンセプトの日経電子版が大成功を収めるとは考えにくい。これまでの非購読者が、急に月々 4,000円払って電子版購読者になろうという気になるとは、到底思えないからだ。このご時世で 4,000円は高すぎる。1,000円を切るなら、私もその日のうちに申し込むのだが。

日経に 4,000円払う気のある者なら、既にずっと前から宅配版の日経を購読しているだろう。紙の読者が、「混雑した通勤電車で広げて読むのもなんだから、iPhone でも読みたいなあ」と思ったりしたら、プラス 1,000円払うかもしれないが、それは多数派にはならないだろう。

いずれにしても今回の日経電子版のスタートは、コンセプトが中途半端すぎるなあと思ってしまうのである。マスコミというのは、他人の所行に関してはずいぶん客観的に批評できたりするのだが、いざ自分のやることとなると、急に見えなくなってしまうところがあるのだよね。

ちなみに、パンフレットには 3月 23日から 4月 30日まではキャンペーンのための無料期間となっているので、プロモーションサイト (http://pr.nikkei.com/) にアクセスするように書いてあるが、そこに行ってみると、いきなり「申込み」ボタンのあるページである。

よ~く探して 「日経電子版へ」 というボタンを押すと、結局は http://www.nikkei.com/ に飛ぶ。このあたりも、なんだかなあ。

 

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2010年3月24日

近頃靴の防水性がよくなった

今日は朝から雨降りである。家を出てくるときはほんの小糠雨で、傘を差す必要もないぐらいだったが、東京都内についた 9時半頃からは本降りになった。昼になっても、ちゃんとした大粒の雨が降り続いていて、傘なしでは外を歩けない。

雨が降るたびに思うのだが、近頃、靴の防水性が良くなってとてもありがたい。そんなに高級な靴を履いているわけでもないのだが、かなりの大雨で道路が水溜まりだらけになっても、靴の中まで雨が浸みてくるなんていうことは滅多にない。安心して歩ける。

昔は、まともな雨の中を歩くと、革を通して水が浸みてきて、靴の中がグッポングッポンになってしまったものだ。そこまでいかなくても、靴下がびしょびしょになるのはしょっちゅうだった。近頃、そうしたことが絶えてなくなったのである。

子供の頃は革靴なんか買えなかったから、大抵ズック靴である。あれは単なる分厚い布だから、雨が降ったらびしょびしょになった。だから、雨の時はゴム長を履いたものである。ゴム長でも、ズボンがびしょ濡れになるような大雨だと伝って下に降りてくるから、まさにグッポングッポンの水浸しになった。

時が下って、学生時代になる。革製のカジュアル・シューズやウォーキング・シューズを履けるようになったが、当時の革靴は防水性が全然なってなかった。ちょっとした雨が降るだけで、革の表面にぽつぽつと水のシミができる。

その状態を過ぎると、たっぷりと水を吸い込んで色が変わる。その頃には、中の靴下がびしょびしょだ。撥水スプレーなんかをふりかけても、効き目があるんだかないんだか、さっぱりわからなかったものだ。

今みたいに雨が降っても安心して歩けるようになったのは、一体いつ頃からだったろう。考えてみると、そんなに古いことではないと思う。せいぜいこの 10数年ぐらいのことじゃなかろうか。

一時、「戦後、女と靴下は強くなった」なんて言われたが、「バブル以後、靴の防水性がよくなった」というのは確かなことだと思う。こんなに防水性がよくなっても、足が蒸れるようなこともとくにないし、技術というのは日常的なところで確実に進歩しているのだなあと思ってしまうのである。

 

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2010年3月23日

暑さ寒さも彼岸まで?

「暑さ寒さも彼岸まで」というが、これはちょっぴりウソである。正岡子規が「毎年よ彼岸の入りが寒いのは」と俳句で指摘しているように、春の彼岸は寒の戻りで寒くなることが多い。今年は彼岸の中日にものすごい南風が吹いて春の嵐になったが、翌日にはまた冬型に戻って寒くなってしまった。

で、今日も日向はぽかぽかするほどだが、日陰を歩くと、冷たい風を受けて肌寒い。彼岸の入りだけでなく、彼岸の中日を越しても寒い。

今年は 2月頃から何度も「初夏の陽気」なんて言われるほどの暖かさを経験して、それが 3日と続かないうちにまた寒の戻りが来るという繰り返しなので、体が陽気に付いていくので精一杯である。

いつもの年なら、「彼岸の入りは寒いよね」で済むのだが、今年は「もう、一体、この寒さはなんなんだよぉ~」なんて感じになってしまう。暖かい日が妙に暖かいので、ちょっと寒くなるとものすごく冷え込んだような気がしてしまうのだ。

今年の桜の開花は平年より早いんだそうだが、何度も初夏になったので、遅いんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。夜桜見物は、体を冷やさないように気を付けなければならないだろう。

 

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2010年3月22日

不調を訴える人は病気であるのか、ないのか

先週の金曜日の "病気は「実在しない」んだって" という記事に、乙痴庵さんから次のようなコメントがついた。

『心的外傷後ストレス障害』も、『性同一性障害』も、初めて聞いたときには「あ、そういう病気にした訳ね。」というのが率直な感想でした。

病名ができたことで、救われた方もいらっしゃるので、良かったなぁ…。

このコメントに私ははっきりとした態度を示さず、乙痴庵さんにはちょっと失礼をしてしまったかもしれないが、のらりくらりと次のようなレスを付けている。

岩田先生も、TBS ラジオに出演されたとき、臨床的には、「どうしても病気ということにしてもらいたがる患者さんには、病名を付けてあげる」とおっしゃってました。

こんなどうとでもとれる他人のふんどし的レスをしたのは、にわかには結論を出せなかったからである。病名ができたことで救われる人もいるのだろうが、それによって明確に病人にされてしまって、逆に救いのなくなってしまう人もいるのではないかと思ったのだ。

例えば「性同一性障害」という病名を付けられた人は、それまでは「男だか女だかわからない変なやつ」と思われていたのが、「そうか、病気だったのか、それじゃ仕方ないな」という評価に切り替わって、少しはストレスがなくなるかもしれない。いわば、オフィシャルに認められた言い訳ができたわけだから。

しかし、もしかしたら当人としては「病気なんかじゃない。ただ、人とちょっと違った感覚があるだけ」と思っているかもしれないのである。それを十把一絡げに病気という扱いにされることは、かなり心外かもしれないではないか。

だって、当人にとっては自分の戸籍上の性別に違和感があるだけで、それ以外には別に「病気」といわれるほどの不具合がないのだもの。周囲が、「ちょっと変わってるだけだよね」と認めて、さりげなく普通に接してくれさえすれば、別段何の支障もなく暮らしていける。

病名を付けられることで救われる人もいれば、逆にかえって救いから遠ざかる人もいると、私は思うのだ。

乙痴庵さんのコメントのレスに、私はこんな小咄のレスを付けた。

病院の待合室で
「○○さん、最近見えませんね」
「えぇ、あの人、最近具合が悪いらしくて……」

私の祖母(血のつながっていない戸籍上の祖母)は、この小咄を地でいった人だった。何しろ、毎日医者に通うのである。自分は毎日医者に行かないと死んでしまうと信じていた。普段は弱々しい振舞なのに、医者に行くときだけはなぜかしゃんとしてしまうのである。毎日のようにほぼ 2km の道を元気に歩いて医者に通える病人がいるはずないのだが。

子どもの頃、私がたまたまどこか具合が悪かったりすると、祖母は 「一緒に医者に行こう」 と言う。こちらとしては医者にかかるほどのことでもないと思っていても、強引に連れて行かれる。

医者に行って診察室に呼ばれると、祖母は私に付き添って入って来て、私のことなどほっといて「今日も具合が悪くて悪くて……」と自分の都合を訴える。

「いつも言ってるけど、あんた、どこも悪いとこなんてないよ」と医者は言う。
「いや、そんなはずはない。苦しくて苦しくてたまらないから、注射を打ってもらうまでは帰らない」と祖母は強弁する。
「仕方ないなあ」と医者は言って、何とかいうカタカナ名前の薬を注射するように看護婦に命じる。

後で医者に聞いたところでは、どうでもいい栄養剤かなんかを打っていたようだ。祖母はそのどうでもいい栄養剤のお陰で自分の命は長らえているのだと信じて、毎日医者に通っていたのである。

いつも具合が悪いと思っている祖母だが、時には、いつも以上に体調がおかしいと思いこむ時がある。そういう時は、医者から帰ってきてすぐに、「どうやら風邪を引いたみたいだ」 と言って寝込む。医者に行くまでは寝込むわけに行かないから。決まって帰ってきた後だ。

布団の中で熱を計ると、あに図らんや、36度ぐらいしかない。普通の人ならここで安心するケースだが、祖母の場合は逆である。がっかりするのだ。自分は風邪を引いて高熱にうなされていなければならないのに、平熱では収まりがつかないのだ。

そこで、祖母は言う。「この体温計は壊れているから、隣に行って、壊れてないのを借りてきておくれ」

ここまでくると、さすがに家人はみな呆れてしまって、その頼みを聞く者は誰もいなかったが、ことほど左様に、人間の中には、自分が何かの病気でないと気が済まない人というのがいるのである。下手に健康では、不安でしょうがないのだ。

病院を訪れる人の中には、もっともらしい病名をつけてもらわないと納得しない人がいる。「ちょっと疲れが溜まっているだけだから、早めに寝れば明日には元気になってますよ」では、「そんなはずはない。何かの病気に違いない」 ということになるのである。

だから、岩田先生はそんなことでは争わず、病名を付けて病気扱いしてくれることを望む人には適当な病名をつけて、安心させてあげるというのである。逆に、「単に疲れがたまってるだけ」 と告げる方が安心するタイプの人 (圧倒的にこちらの方が多いんだろうが) には、別に悪いところはないと言ってあげるのだそうだ。

病気って、その程度のもののようなのだ。ガンだのなんだのといっても、どうせ死亡率 100%の人間という存在が、さっさと死んだり一時的に助かったりする要因になるというぐらいの「ちょっとした不具合」に過ぎないと思えば、人間のストレスも小さい。

 

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2010年3月21日

『唯一郎句集』 レビュー #114

今日は瓜の登場する晩夏の 2句。若い頃の作風なのではないかと思うが、なにしろこの句集は年代順ということに関してはかなり飛び飛びだから、よくわからない。

瓜をくふさみしい大雅堂の男の顔

「大雅堂」 というのだから、池大雅と何らかの関係がありそうな気もするが、よくわからない。

インターネットで調べたら、京都の「雙林寺大雅堂」 というのが見つかったが、別に京都まで行って作った俳句とも思われない。それに、これは明治頃に取り壊されてしまっているらしい。というわけで、一体どこの大雅堂なのかわからない。

もしかしたら、大雅堂という名の何かの店のガラス戸に、自分が瓜を食う姿が映ったのかもしれないという気もする。

瓜畑の風見える腹ばふてこの夏のをはり

瓜畑を渡ってくる風に吹かれながら、腹這いになっている。そして、この夏も終わりに近いと感じている。

夏の終わりというのは、いつでも決まってもの悲しい。

本日はこれぎり。

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2010年3月20日

『唯一郎句集』 レビュー #113

今回レビューするのは「後槻師へ三句」と題されている。「後槻師」というのは唯一郎の同郷の俳句同人、伊藤後槻氏のことで、「蛇を紙に包む生き物のだまつている重さ」「鱚の身の三つ四つ結めばあるじが云ふこと」といった句が残されている。

そして、この『唯一郎句集』の巻末にも「唯一郎を憶ふ」 とい追悼文を寄せてくれている。唯一郎よりは年上だが、その十七回忌を期して 『唯一郎句集』 が発行されたことを喜んでくれているのだから、長生きされた方のようだ。

さて、レビューである。

   後槻師へ三句

鍛冶橋の停留所でお別れしてからのむなしき春

伊藤後槻氏はある時から酒田を離れたようで、この句は氏を見送った時のことを思い出して作られたもののようだ。

鍛冶橋というのは、酒田市内を流れる新井田川 (にいだがわ) にかかる橋。そこの停留所で氏を見送ってから、何か大切な存在を失ったような気がする心持ちを句にしたもののようだ。

多分、文学を語り合える身近な存在がいなくなって、生活に追われるだけの境涯になったことの空しさを訴えているのだろう。

居まさねばうつたへられず春夜の樹々とありき

「居まさねば」というのは、「貴兄がいらっしゃらないと」ということ。後槻氏が身近にいないと、俳句作りや人生の悩みを訴えることもできないと言っている。

そしてただ、春の夜のごつごつし樹々のみが目に入る。「後槻」という俳号の「槻」というのはケヤキのことだから、「今や身近には、あなたのようなすっきりとした方がおらず、ごつごつした存在ばかりです」と訴えているようにも読める。

人間のかなしさが春の樹皮へむけられてゆく

後槻氏という人は、唯一郎にとってかなり大きな存在だったようだ。

人生の悲しさをすっきりと受け止めてくれる存在を失い、自分のなかでますます悲しみの淵に沈んでいくような気持ちになることがあったのだろう。

本日はこれにて。

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2010年3月19日

病気は 「実在しない」 んだって

岩田健太郎というお医者さん (神戸大学医学研究科教授) の書かれた 『感染症は実在しない ― 構造構成的感染症学』(北大路書房・刊) という本を読んだ。きっかけは、2月 21日の TBS ラジオ「サイエンスサイトーク」に岩田氏が出演され、「病気とは、現象に恣意的に名前を付けたものであって、実在ではない」とおっしゃるのを聞いたことである。

「医者のくせに、ずいぶんおもしろいことを言う人だなあ」と思い、さっそく Amazon で注文して、届いてから 2~3日で読み終えた。大変興味深く、また読みやすい本だった。そして、そのうちこのブログで触れてみたいと思ったまま、年度末の綱渡り的大忙しに突入して、3週間ぐらい放ったらかしになってしまっていた。

で、一山越えた今、ようやくこの本を読んで感じたことについて書こうとしている。とにかく、岩田氏がこの本で力説しておられるのは、徹頭徹尾、「感染症だけではなく、ほとんどすべての病気(うつ病とかに至るまで)は、モノとして実在するのではなく、恣意的に病名を付けられた現象にすぎない」ということのようなのだ。

なるほど、「医者の仕事の 8割は病名を特定すること」と聞いたことがあるが、それを裏から言うとそういうことになるのだろうな。

それで思い出したことがある。25~6年前ぐらいのある日、私は朝から少し腹痛がしていたが、大したことはないだろうと思って家を出た。しかし常磐線快速電車の中でその痛みがどんどんひどくなり、ついにうずくまって悶絶してしまった。前に座っていた人が見かねて席を譲ってくれたほどである。

這々の体で会社に着き、そのまま近くの内科医に行った。「腹が痛くてどうしようもないから、何とかしてください」と息も絶え絶えに言うと、「それは、おそらく尿管結石でしょう」という。腎臓と膀胱をつなぐ尿管に、石が詰まっているのだという。

それで、何とかいう超音波(?)機器を使って、体の中をモニター画面に映してして見るのだが、医者はしきりに「おかしいなあ」とつぶやく。

「その痛みは、典型的な尿管結石の症状なんですが、どう探しても石らしきものが見つからないんです」

こちらとしては、「そんな石なんか見つからなくてもいいから、とにかくこの痛みをなんとかしてください」と訴えるのだが、医者は「いや、痛みの原因が見つからない以上、病名が特定できないから、治療もしようがない」という。私はその時、何という冷たい藪医者だろうと思ったね。とりあえず鎮痛剤ぐらいくれたっていいじゃないか。

しかたなくその日は、そのまま帰宅することにし、たまたま途中にあった漢方薬局によってみると、「モニターに映らないくらいの小さな石かもしれないですから、取り敢えずこれをお飲みなさい」と、何とかいう名前の、小便のたくさん出る効果のあるお茶の葉を出してくれた。

家に帰って、そのお茶を煎じてがぶ飲みしているうちに、本当に小便がどんどん出て、なんだか知らないが、その日のうちに痛みはすっかり収まり、翌日はピンピンして仕事ができた。あれから全然再発していない。

この時の経験から私は、「病気なんて、えらく曖昧なものなんだなあ」と思うようになった。医者にとっては、病名さえ特定できてしまえばそれは「治療すべき病気」であり、特定できなければ、それはもう「病気じゃない」から「治療するに及ばない」もののようなのである。受診者があんなに痛がっていても。

逆に、当人が元気でピンピンしていても、何らかの検査の結果が出て、医者が病名を付けてしまえば、その人は「病人」なのである。そのことについては、岩田氏の本にとても詳しくわかりやすく書いてある。病気というのは、医者が病名を特定した瞬間に「病気」になるのだ。特定されないうちは、「病気じゃない」のである。

そして、「病気」ということになって、治療する段になっても、薬が効くかどうかなんていうのは、実はちょっとした違いなのだそうだ。あの「劇的に効く」といわれるタミフルにしたところで、実際のところはほとんどの場合、「安静にして寝ていれば 5日で治るインフルエンザを、4日で治せる」という程度のものなんだそうだ。

ちなみに、全世界のタミフルの 7割は、日本で消費されるというのである。日本の医者はインフルエンザを「実在するモノ」のように扱い、それを消すためにほぼ自動的にタミフルを処方するから、そんなことになるというのだ。知らなかったなあ。

この本は、「構造構成主義」という方法論によって病気を論じている。これは各人の主義主張、見方によって、異なって捉えられがちの「理論体系」とか「構造」とかいう面倒くさいものはちょっと脇においといて、まあまあ客観的に見えなくもない「現象」の方を重視していきましょうという思想のようなのだ。

感染症が「実在しない」とはいえ、「現象」としては現れないこともないみたいだから、まあ、時にはお医者さんも必要になるみたいなのである。でも、あんまりこだわることもないみたいなのだ。「病は気から」というから。

 

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2010年3月18日

自動で 「ついで買い」 促す券売機

ululun さんが Twitter で「フツーに駄目だろう」と tweet している(参照)のが、"自動で 「ついで買い」 促す券売機" のお話だ。ふ~む、Amazon で本を買うときに、「よく一緒に購入されている商品」「この商品を買った人はこんな商品も買っています」のオススメにぐっと心を動かされがちな人が、こんなことを考えたのかなあ。

紹介されているのは、寺岡精工という会社が開発した「次世代タッチパネル券売機」というもので、名前を「Saleup (セラップ)」というんだそうだ。うぅむ、このスペルで「セラップ」というのは、私としてはちょっと抵抗あるなあ。どうして「セーラップ」じゃ駄目なんだろう。もしかして、既に登録されていたとか。

紹介記事によると、人手や手間をかけずに、お客に "一声" かけられるんだそうで、お客の来店を関知して、「おはようございます」といった挨拶や「新商品の○○はいかがですか?」なんてことを自動的に声掛けしてくれるという。私としては、機械に挨拶されてもちょっとなあ。

実は「セラップ」は 2008年 8月から発売されていて、150台の販売実績があるんだそうだ。約 1年半で 150台というのだから、ならすと年間 100台の販売か。この台数が多いのか少ないのか、よくわからないが、少なくとも私はそれに出くわしたことがない。

挨拶から後の機能は、以下のように紹介されている。

例えば、ラーメン店なら 「ミソラーメン」 のようにメインの商品を選ぶと、そのメニューに合ったトッピングやサイドメニューを自動的に表示し、“ついで買い”を促せる。

サイドメニューばかりでなく、麺の大盛り、普通盛り、茹で加減などを表示し、選択してもらうことも可能だ。選ぶべき選択肢だけ表示できるので、お客が迷うことがない。ボタンがずらりと並ぶ従来の券売機との大きな違いだ。

うぅむ、これもまた微妙だ。普通、客というのは、サイドメニューやトッピングは、席に着いてからじっくり選びたいものなんじゃないかなあ。とくに券売機の前に何人か列に並んでしまったら、画面でいろいろ聞かれるとうざったいんじゃなかろうか。

これについては、次のように書かれている。

寺岡精工ホスピタリティソリューション事業部の鹿野浩二次長は、「10人中 7〜8人は券売機に  1000円札を入れる。600円のラーメンを注文したなら、お釣りとなる300〜400円をどう取り込むかが売り上げアップの勝負」と話し、この自販機がその有効な手段になるとアピールする。

確かに、人によっては千円札を入れたらお釣りを受け取るより、あれこれ余計なものまで注文したいという人もいるだろうから、そういう人にはありがたいかもしれない。しかし初めから「ミソラーメン」と「焼き餃子」だけ食うと決めている人には、単に面倒なだけだろう。その辺をどう解決しているのか。

記事には、この券売機を導入した店の成功事例というのが紹介されていない。150台も売っちゃったんなら、少しぐらいは紹介したい事例があるだろうになあ。600円のミソラーメンに焼き餃子 300円を 「ついで買い」 する人が 5人に 1人いれば、それだけで単純計算では 10%の売上アップになるのだが、それほどの効果があるのかどうか。

私なら、1,100円投入して 500円玉のお釣りをもらうだけだから、何をオススメされても初志貫徹なのだが。

 

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2010年3月17日

たくらんけ

いやはや、年度末の忙しさが続いていて、まともな更新ができない。えらいことである。

というわけで、今日は軽い話題。「馬鹿者」のことを庄内でなんというかというお話である。東日本を中心に、全国的に通じるのが「馬鹿」で、関西では「阿呆」という言い方の方が勢力があるかもしれない。

このほかでは、「間抜け」も一般的だ。「あほ、ばか、まぬけ、おまえのかあちゃんで~べそ」なんていうのが、子供の頃の悪口の定番だった。さらに、名古屋を中心に東海地方では「たわけ」が俄然目立つ。

馬鹿、阿呆、間抜け、たわけというのが、日本の悪口の四天王といっていいかもしれない。そしてこのほかに、わが故郷の庄内拓明地方では「たくらんけ」というのがある。これは実際の使用場面ではもちろん訛るので「たぐらんけ」ということになるが、ニュアンスとしては、愛嬌のある馬鹿者という感じだ。

試しにネットで調べてみたら、北海道でも「たくらんけ」という言葉は使われるらしく、「たくらんけどっとこむ」というサイトがある。北海道の方のサイトで、北海道弁として紹介されている。北海道には東北から移住した人が多いから、庄内弁もけっこう移植されているようなのだ。

ちなみに、「たくらんけ」の語源は、さっぱりわからない。本当に想像もつかない。わかる方がいたら、教えて頂きたいぐらいのものだ。

 

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2010年3月16日

「いつかはクラウン」 なんて言われてたなあ

そう言えば昔、「いつかはクラウン」 というキャッチコピーがあって、山村聡と吉永小百合が CM に登場していた。「真面目に努力して、それなりの地位について、それなりの家に住んで、それなりの暮らしをして、そうなったら乗る車はクラウンに行き着くでしょう」というメッセージである。

あの CM は本当に大ヒットだった。大抵の日本人の心の底に焼き付いた。私なんか、「多少お金ができたとしても、クラウンなんて乗ろうと思わないね」と反発していたが、キャッチコピーとしては本当によくできていたと思う。日本の経済発展が順調にいつまでも続くという幻想の上に、ものすごくよく乗っかっていた。

そのトヨタが今、大きな曲がり角にさしかかっている。

今や多くの日本人は、「別にクラウンなんか乗らなくっても」と思うようになった。着るものはユニクロなんだし、乗る車もコンパクト・カーで十分だ。クラウンに乗るより、むしろエコだ、ハイブリッドだということになった。

こんな世の中になって、フルラインの自動車メーカーであるトヨタとしては、さすがに陣容を整えざるを得なかった。ます、クラウンのさらに上のクラスとして、「レクサス」 ブランドを作った。そして、カローラより下のクラスのコンパクト・カーのラインも増強し、とっておきのアピールポイントとして、ハイブリッド・カーの「プリウス」 を出した。

こうしたマーケティング戦略というのは、多分相当前から練っていたのだろう。ところが、練りに練ってようやくスタートしたら、世の中は変わってしまっていた。日本はバブル崩壊後の泥沼からなかなかはい上がれず、「レクサス」は期待通りには売れなかった。プリウスは大ヒットしたが、米国でミソがついた。

日本人独特の「丁寧なモノ作り」で仕上げた「信頼品質」のイメージも、これでちょっとおかしくなった。「高品質なのにリーズナブル価格」というのが売り物だったのに、さらに安い車が登場しつつある。日の出の勢いの中国やインド市場では、トヨタの車でもやはりちょっと高いのだ。

「悪貨は良貨を駆逐する」というが、消費市場では、「廉価品は中級品を駆逐する」のである。高級品になってしまうと安物に食われないが、中級品はたやすく食われる。

トヨタの車って、私の専門分野の洋服にたとえれば「百貨店の平場商品」なのだ。シャネルやアルマーニじゃないが、安物っていうわけじゃない。それなりの価格と信頼品質が最大の売り物である。ところが今、百貨店の洋服が売れなくなっているじゃないか。こうしたトレンドは、トヨタの苦境と無関係じゃない。

今、「若者の車離れ」なんてことが言われているが、それは都会に限った話で、地方都市に行ったら、車がないと人間の暮らしができない。やっぱり車は必需品なのだ。ただ日常的な必需品にすぎないので、消費者は今、「車のユニクロ」が欲しいのだよ。

私なんか昔から、車なんて「ちゃんと動いて曲がって停まってくれればそれでいい」と思っていた。そして、「いつかはクラウン」の時代はとっくに過ぎ去ってしまった。

 

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2010年3月15日

サッカー、野球、そして教育

昨日の昼頃、仕事をしながら例によって TBS ラジオを聞いていたら、「生島淳のアクティブスタイル」という番組に、元サッカー選手(ブラジルでのプレー経験あり)の前田和昭さんが出演してとても興味深いことをおっしゃっていた。ちなみに生島淳という人は、あのアナウンサーの生島ヒロシ氏の弟らしい。

前田和昭さんという方は、スポーツのみならず教育、投資分野でも活躍されているようで、こんなウェブサイト ももっている。で、前田さんという方の話を聞いていて、私がなぜ野球よりサッカーの方がおもしろいと感じるのか、わかったような気がした。

前田さんのおっしゃるには、野球は「マニュアル化可能」だが、サッカーは「瞬間瞬間での個人の判断が重要」というのである。

野球においては、まったく同じというわけではないが、似たような局面(ツーアウト満塁で、ピッチャーが左投げの本格派でバッターが四番打者とか)が何度も出てくる。その局面は概ね静的であり、その局面ごとにどうすれば成功する確率が最も高いかというデータが揃っている。だから、ベンチはそのデータをもとにサインを出して、プレーヤーはその通りに動くことができる。

ところがサッカーの場合はそのような静的状態というのはほとんどなくて、常に流動的である。しかもその流動性は、かなりのスピードを伴っている。だから、マニュアル通りのプレーなんて不可能なのだ。「瞬間瞬間での個人の判断が重要」というのは、そういう意味である。

ところが、日本の教育というのは、「瞬間瞬間での個人の判断」をかなり排除した形で続けられてきた。明治以後ずっと「真面目で、全体のために決まったことをそつなくこなす」人間を理想像として育ててきたのである。これは工業化の要請に必要なことだった。

そして「真面目で、全体のために決まったことをそつなくこなす」というのは、野球、とくにいわゆる「スモール・べースボール」を行うにあたっては理想的な条件なのである。だから日本の野球は、国際的にもかなりのレベルに位置していられる。

ところがサッカーは「真面目で、全体のために決まったことをそつなくこなす」だけでは強くなれない。一瞬の個人の判断が重要なのだ。「上司と相談してみます」では追いつかないのである。それが日本人は苦手だ。

「一瞬の判断」が誤っていたら、後々までいろいろネチネチ言われる。だから、日本人は個人ベースの判断をしたがらない。判断はすべて、上に上にと委ねられて現場のよくわかっていない上司に責任が行き、結局はあいまいになったりする。

ところが、とくに欧米では責任の所在と権限委譲がしっかりしていて、現場責任者による意志決定ができる範囲が大きい。そして現場の「一瞬の判断」が誤っていたとしても、それがポジティブなものだったら、「次に挽回しよう」ということになることが多い。だから躊躇なく個人ベースでの判断をする土壌がある。

欧米のビジネスマンはよく 「日本人と商談をすると、最後には決まって『社にもちかえって、上司の判断を仰ぎます』ということになる。これじゃ、話が全然先に進まない。何のために高い航空料金を払って出張してきてるんだ」と不満を漏らす。これもむべなるかなということなのだ。

前田さんは「そもそも教育を変えないと、日本のサッカーは強くなれない」とおっしゃるのである。もしかしたら、ビジネスもそうかもしれない。私自身はビジネス社会の競合に勝ち抜くことが教育の主たる目的と思っているわけでは、決してないが。

で、私が野球よりサッカーが好きということに戻るが、私は学校教育の中ではずっとアウトサイダー的な存在だった。成績は悪くなかった(むしろ良かった)が、決して「優等生」じゃなく、「はみ出し者」だった。

こんな人間には、とくに日本の野球って、とても「つまらない」ものに感じるのである。チマチマした点取りゲームにすぎないという印象なのだ。とくに高校野球はつまらない。そこへ行くと、サッカーはダイナミックである。見ていておもしろい。まあ、日本の J リーグはちょっとスピード感なさすぎで退屈だったりするが。

近頃、子どもたちの間では野球よりサッカーの方が人気があったりすることがあるそうだが、日本人の気質も少し変わって来つつあるのだろうか。

 

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2010年3月14日

『唯一郎句集』 レビュー #112

昨日に晩秋の 3句をレビューしたと思ったら、今日はもう初夏である。もっとも初夏の句とはっきりわかるのは前の 2句で、今日の 3句めは、ページが変わって、1ページに 1句だけがどぉんと掲載されていて、季節はわからない。なんとなく夏っぽい気はするが。

とりあえず、レビューである。

おもだかの浅い水をかへそこまで出歩く

「おもだか」は沼地や田んぼに生える野草で、三角に伸びた葉と白い花が特徴。私は「おもだか」と聞くと、市川猿之助の屋号 「沢瀉屋」(おもだかや)を思い出すが、ここでは関係ない。

「おもだかの浅い水をかへ」とあるが、水盤かなにかに活けてあったのだろうか。その辺はよくわからない。あるいは、庭の池の端で育てていたのかもしれない。

とにかく、おもだかの水を替えたら、ちょっとそこまで散歩したくなったということのようだ。とてもさりげない作品。

青梅を落とし朝の草の青きの中の父子

唯一郎が梅の木になった実を、朝露のまだ乾かない草の上に落とす。それを子どもたちが見ている。

ぽとりぽとりと落ちた実は、青くて堅そうなので、子どもたちは手を出すこともない。ただだまって見ている。

絵本の中のような光景。

晝寢ざめのかなしきは歩み行く馬の摩羅かな

この句は前述の如く 1ページに 1句のみという形で所蔵されている。ということは、当時話題になった作品なのだろう。

昼寝から覚めたばかりの悲しさは、「歩み行く馬の摩羅」だというのである(念のため添えておくが、「摩羅」 とは男性器のこと)。

昔は馬車と牛車が主たる陸上交通機関だったから、酒田の街も馬車が頻繁に行き来していた。かといって、昼寝から覚めたら目の前に馬の男性器が迫っていたというわけでもないのだろうが、その所在なさがわかるような気がする。

本日はこれにて。

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2010年3月13日

『唯一郎句集』 レビュー #111

『唯一郎句集』もそろそろ残りページが少なくなってきた。今数えてみたら、どうやら今回を入れて 12回のレビューで終わりそうである。ということは、4月中旬だ。それを思うと、それ以後の週末は、一体何を書いたらいいのだろうと呆然とした。しかし、考えてみれば、普通のウィークデイと同様に書き続ければいいだけの話なので、ちょっとホッとした。

とりあえず、レビューである。今回の 4句は、ちょっと不思議な感覚だ。新感覚派と通じる唯一郎独特の感性だと思う。

花嫁の馬車の行き刈田ありありかげり

昔は花嫁行列というものがあった。仲人が「嫁だぁ、嫁だぁ」と触れながら、町内を行きすぎたものである。

この句に出てくるのは馬車で行っているというのだから、離れた村まで嫁入り道具とともに移動しているのだろう。沿道には近在の人たちが佇んで見送る。

花嫁の馬車が行きすぎると、残された刈田の風景はありありと陰ってくる。日が雲に隠れたばかりでなく、花嫁行列の華やかな雰囲気がすぅっと離れていったためでもあるだろう。

しきりに落葉する南瓜を切り包丁をもち

晩秋。庭を眺めていると常に落葉がひらひらと舞っている。よくまあこんなにたくさんの葉があるものだと思うほどだ。

 

その葉を窓の外に眺めながら、カボチャを切る。固いカボチャを切るには、相当な力が必要だから、妻に頼まれたのかもしれない。

普通なら 「包丁をもち南瓜を切る」 というところだが、この句では順序が逆だ。多分慣れない包丁仕事なので、「この固い南瓜を切るには、包丁をしっかりと握り……」 と心の中で確認しているのかもしれない。そのぎこちない感覚が感じ取れる。

山脈を風わたる夜皿小鉢重ねてゐるよ

秋が深まると、東北の山には冷たい風が渡るようになる。その風の音を聞きながら、台所で夕食に使った皿や小鉢を重ねてしまう。

当時の台所は大抵薄暗い。その薄暗い中で、手元の小さな食器と雄大な山脈を渡る風の音が出会う。

不空絹索おろかしや落葉二三枚

「不空絹索」は、不空絹索観音のことだろう。普通「ふくうけんさく」と読まれることが多いが、正しくは「ふくうけんじゃく」のようだ。

「絹索」 とは鳥獣を捕らえる絹目の網で、「不空」とは「もらすことがない」という意味。つまり、大悲の心でもらさず衆生をすくい取る観音様ということだ。酒田周辺で不空絹索観音像があるのがどこの寺か、知らない。多分真言宗の寺だと思うが。

不空絹索の次にいきなり「おろかしや」と続くのはかなりインパクトがある。熱心な浄土真宗信徒である唯一郎には、不空絹索観音の前に佇む自分がおろかしい衆生の一人に過ぎないと感じられたのかもしれない。

観音像の足許に落葉が二三枚、張り付いたように動かない。

本日はこれまで。

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2010年3月12日

「ビクーニャ」 を巡る冒険

今日もめちゃくちゃ忙しい。何しろ私は数字が苦手ときているのに、毎日数字と格闘だ。どえらいストレスである。3月半ばまではこのストレスが続きそうだ。ああ、プライベートの確定申告もまだ済ませてないのに、うんざりだなあ。

今日はボールペンの話でお茶を濁させてもらう。近頃、ぺんてるの「ビクーニャ」という油性インクのボールペンが大好評なんだそうだ。なにしろ、その書き味は世界一のなめらかさで、油性インクとは信じられないくらいという触れ込みなのである。

それまでは、三菱鉛筆の「ジェットストリーム」が圧倒的ななめらかさを誇っていたが、ビクーニャはそれを凌駕する書き味なんだそうだ。このなめらかな書き味は、油性インクの粘度を極限まで下げた結果なのだという。

詳しいことは知らないが、ボールペンの油性インクというのはある程度の粘度があるおかげで、ペン先の軸の回転にインクが出てくる。しかし、粘度があるとなめらかさは犠牲になる。さりとて粘度を単純に下げてしまうと、ボタ落ちが生じてしまうので、なかなか難しい問題なんだそうだ。

で、今度のビクーニャというのは、この問題を高度な次元でクリアしたものというのである。

そういえば思い出した。昔、ぺんてるの水性ボールペン、「ボールペンテル」が発売されたとき、油性ボールペンではありえないほどのなめらかさが評判になった。検索してみたら、今でも販売されているようである。(参照

この水性ボールペンンなめらかすぎて、ちょっとヒドイ目にあったことがある。胸の内ポケットに入れていたら、ポケットの中でキャップが外れてしまい、インクがジャケットの表地までしみ出してしまったのである。油性インクだったら、いくらなんでもあんなにはしみ出さない。なめらかすぎるのも考え物だ。

今度のビクーニャは、同じぺんてるの製品なので、私はちょっとおっかなびっくりなのである。

ところで、ビクーニャというのは、ラクダ科の動物で、毛は高級毛織物の原料になる。多分、ぺんてるは、ビクーニャ織物のようになめらかで艶やかなイメージを訴求しようとして、この名前にしたんだろう。

ただ、繊維業界に身を置く者としては、普通は「ビキューナ」というんじゃないかなあと思っている。「ビキューナ」は bicuna の英語読みで、「ビクーニャ」の方はスペイン語読みのようだ。私の繊維畑のキャリアはだいぶ英語よりになっているから、もしかしたら、「ビキューナ」の方が一般的というのは私の思いこみなのかもしれないが。

 

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2010年3月11日

めちゃくちゃ忙しい

今日はめちゃくちゃ忙しい。年度末の仕事が一挙に襲いかかってきてしまった。

ロック名盤ッター」 というのがあって、Twitter のTweeting から「あなたをロックの名盤に例えます」というのである。で、やってみたら、

@takshonaiさんををロックの名盤に例えると『ジミ・ヘン/エレクトリック・レディランド』です。

とでた。「お、すげ!」と思ったが、@yamabe さんが 『トム・ウェイツ/クロージング・タイム』にたとえられていたのが、ものすごくうらやましい。

今日は頭の中が飽和状態なので、これにて失礼。

 

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2010年3月10日

1時間半の昼寝 vs 20分の爆睡

眠い。春だからだかなんだか知らないが、とにかく眠い。世の中には「眠れない」なんていう、私には幸せに見えかねない悩みを抱えている人もいるが、私はとにかく眠くて仕方がない。

「いくら寝ても眠い」なんていう、ますます幸せな人もいる。私の場合は単純に「寝足りない」のである。睡眠時間が慢性的に不足しているのだ。しかし暇がたっぷりあって寝たいだけ寝ても、この眠さが解消するかどうかわからない。そうなったら私も、「いくら寝ても眠い」なんて言い出すかもしれない。でも、そう言ってみたい気もする。

私は春先と秋の深まった頃に 「眠いネタ」 を書きたくなるようだ。やはり季節の変わり目は眠くなるのだろう。まあ、こんな具合である。

春はとにかく眠い (2006/03/16)
季節の変わり目は眠い (2009/11/09)

で、今年の春もやっぱり例年通り眠いのである。帰りの電車の中で爆睡してしまう。私は常磐線快速電車の端から端まで、つまり上野~取手間を乗りっぱなしなので、大抵座れるというのが、いいんだか悪いんだかわからないところである。

上野駅で電車に乗り込み、座席に座っておもむろに iPhone を取り出して Twitter なんかを確認したりしているうちに、北千住に着く前から猛烈に瞼が重くなり、気を失うように眠ってしまう。そしてふと気が付くと、取手駅の直前の、利根川の鉄橋を渡っていたりする。

この鉄橋あたりで目が覚めればまだいいが、ふと気付くと取手駅のホームに入っていて、周りは全員下車してしまっていたりする。私だったら、終点についても爆睡している人がいたら起こしてあげるんだが、まったく人情紙の如しである。

取手が終着の快速電車ならまだいい。取手より先の土浦・水戸方面に行く中距離電車に乗って眠ってしまうと、えらいことである。私はまだそんなに先まで乗り越したことはないが、いずれにしても取手の先は列車の本数が極端に減るので、戻ってくるのが大変だ。

中距離電車に乗って眠ってしまい、ふと気付くと我孫子駅を出たばかりである。「おっと、あと 2駅で取手じゃないか。よし、次の天王台駅を出たら、また眠って乗り過ごさないように、立っちゃおう」なんて思う。そして、そう思っているそばからすぅっと眠りに落ちて、次に気付いたときには取手を過ぎたばかりだったりする。恐ろしいものである。

最近、&quot「1時間半の昼寝は1晩分の効果」、睡眠の新発見続々と 米国" という記事を読んだ。「昼寝と夜間の睡眠効果を視覚学習効果などを比較して調べたところ、1時間半の昼寝は、1晩分の睡眠に等しい効果を示した」とある。これを読んだら、昼寝がしたくてたまらなくなった。しかし平日の仕事中には、さすがに昼寝するわけにいかない。

しかし、がっかりしなくてもいい。「濃いダブルエスプレッソを飲んでも、20分の昼寝の効果にはかなわない」とも書いてある。考えてみると、常磐線の電車に乗って、北千住から取手に着く前の鉄橋あたりまで、大体 30分弱である。この間に爆睡してしまえば、睡眠不足がずいぶん補えるみたいなのだ。

確かに電車でこのくらい眠ってしまうと、取手駅に着いたときにはすっきりしている。あんなに眠くてたまらなかったのが、嘘のようだ。この「20分の昼寝」というのは、かなり使いでがありそうなワザのようである。

ああ、でもたまには本格的に「1時間半の昼寝」というのをしてみたい。これって、ものすごい贅沢のような気がしてきた。年とって隠居したら、昼寝をして暮らそうと思う。

 

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2010年3月 9日

やっぱり 「暖冬」 だったのかなあ

思えば、一昨年の二月頃はかなり寒くて、関東でも何度か雪が積もった。私のもう一つのサイトである和歌ログの一昨年の今日の日記をみると、水戸の偕楽園の梅は、三分から五分咲きだと書いてある(参照)。そしてあの年の今頃は寒さに震えながら、寄るとさわると「春はまだか」 とつぶやいていた。

それで今年である。既に偕楽園の梅は満開だというが、今日も結構寒い。震えるほど寒い。だがなぜか、一昨年の今頃のような「春はまだか」というつぶやきがもれないのである。

どうして「春はまだか」という言葉が出ないのかというと、今年は既に、何度も「春の陽気」どころか「初夏の暖かさ」まで経験してしまったからだ。既に春どころか初夏の領域にまで足を踏み入れてしまったので、「春はまだか」と言ってしまうのも違和感なのである。

既に春になってしまってはいるのである。なのに、何度も何度も「寒の戻り」のすごいのがやってくるのだ。先週の木曜日に「結局、暖冬だった?」という記事の中で、"平均気温が平年より高かったからといって、「結局暖冬だった」なんて言われても、全然しっくりこないなあ" なんて書いたが、もしかしたら本当に「暖冬」 だったのかもしれない。

この冬の天気の様子が極端だった要因については、上記の記事で書いたからくどくどとは繰り返さないが、要するに、エルニーニョ・ベースの暖冬の中に、時々「北極震動」とやらの寒気が侵入してきていたということなのかもしれない。

今夜はますます冷え込んで、明日の午後に雨が止んだら暖かくなるという予報だ。これにはもう、「ふ~ん」 というしかない。

 

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2010年3月 8日

転ばぬ先の杖

最近、永六輔さんのしゃべり方がずいぶん年寄りじみてきて、呂律が回らなくなっていると、あちこちで心配されている。実際、TBS ラジオの 「土曜ワイド」を聞いていると、ふがふがになってしまって、何を言っているのかわからないことがあり、アシスタントの外山恵理さんが健気にフォローしているのがわかる。

当人は「入れ歯が合わない」とか「年だから」とかおっしゃっているようだが、私の印象では、一昨年頃に転倒して肋骨を折ったあたりから、あの立て板に水のしゃべりができなくなってきたように感じている。肋骨を折ると呼吸が苦しいし、横隔膜に力を入れた発声ができなくなるようだ。

放送では「呂律が回らない」などと言っておいでだが、あれは「呂律」の問題ではなく、基本的な体力の問題だと思う。永さんの転倒による骨折は、1度だけではなく 2度あったようで、さすがにしゃべるのが苦しそうな時期が続いていた。そしてしゃべるときも弱々しい呼吸だった。

そして多分、この頃の「楽なしゃべり方」(あるいは、弱い呼吸でのしゃべり方)が身に付いてしまって、あの力強いしゃべり方ができなくなってしまったんじゃなかろうか。人間、歳を取ってから楽を覚えてしまうと、体力を使う仕事ができなくなってしまう。

永さんの場合は、頭が呆けてしまったというわけではないのが幸いだが、転倒して肋骨を折ったために呼吸と口腔内の筋肉がうまく制御できず、そのために一音一拍のしゃべり方がつらくなり、適当にはしょった発声と発音しかできなくなってしまっているという印象だ。

かくのごとく、歳を取ってしまってからの転倒というのは、かなり危ない。とくに腰や脚をやられてしまって寝込んでしまうと、それっきり起きられなくなることが多い。足腰の衰え方というのは急速度で、それを取り戻すのはなかなかできない。

こうして「寝たきり」になってしまうと、頭の方も急速に呆けてしまう。人間、歩かないと頭の血の巡りも悪くなってしまうもののようなのだ。一昨年死んだ私の母も、よく転ぶようになってしまってから、認知症が急速に進んだという印象がある。

何しろ年を取ると脚の筋肉が弱くなって、当人はちゃんと脚を上げて歩いているつもりでも、実際にはすり足になってしまっている。だから「年寄りは座布団にでもつまづいて転ぶ」なんて言われる。

かくいう私も、まだ還暦は先なのに、若い頃に比べると体のバランスが悪くなっているのに気付く。さらに疲れた時に階段を上ると、つま先の裏側が微妙にステップにかするのを感じることがある。あれがよほどひどくなると、階段でつまづいて転ぶことになるんだろう。

私の場合はまだまだ大丈夫だと思うが、いずれにしても転ばないように気を付けたいものなのである。

 

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2010年3月 6日

『唯一郎句集』 レビュー #109

「唯一郎句集』 もだんだん押し詰まってくると、もう、いつ頃の句なんだかわからない。今回の 3句は、家業の跡を継ぎ、家庭人として生きようとしている頃の句のような気がする。前にレビューしたその頃の句と共通の雰囲気がある。

妻よいとまなくくらしつつ南瓜の花

唯一郎の句に「妻」が出てくると、とたんに視点が日常そのものになる。彼は自分の妻に、文芸とは対極にあるものを見ているようなのだ。

そして、いとまのない生活と、カボチャの花が、妻の代名詞のようなのである。

花火あほぐ人々よ人々のくらしよ

酒田は夏に「港祭」が行なわれ、盛大に花火が打ち上げられる。二階の窓や物干し場に集まってその花火を無心に見上げる人々の、その横顔を唯一郎はみる。

市井の人々の暮らしを、唯一郎は大切にしたいと思いつつ、自分との微妙な距離を感じてしまっている。

児を抱きて海に入る秋近き西日の中

旧盆になると、酒田の夏は急に涼しくなり、海水浴場もだんだんと人影まばらになる。

子どもを連れて海水浴に来た唯一郎。夏の名残りの中で、海に入る。少し冷えて、海水の温度と変わらない体温の子どもが、同じぐらいの体温の自分にしがみついてくる。

海水と自分と子どもの境目がわからない中で、日は次第に傾いていく。夏の終わりは、いつも少しだけもの悲しい。

本日はこれにて。

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2010年3月 5日

連休分散案と道州制

日本を 5分割して春秋の 5連休を分散させるという政府案が、にわかに注目されている。5分割案は、北から順に「北海道・東北・北関東」「南関東」「中部・北陸・信越」「近畿」「中国・四国・九州・沖縄」という、かなり大ざっぱなブロック分けだ。

連休分散の基本コンセプトは、季節の進行に合わせるというもので、春は「中国・四国・九州・沖縄」ブロックからスタートし、秋は逆に「北海道・東北・北関東」から始まるということのようだ。なるほどね。

私はこの話を聞いた時から、「それって、将来の道州制に向けた第一歩なんじゃないの?」と思っていた。ところが、発表されたブロック案は、必ずしも道州制に直結するものでもなさそうなのである。

何しろ、北海道・東北・北関東が一つにまとめられて、南関東は別になってしまっている。私の居住地である茨城県は北関東だから、北海道・東北と一緒だが、私の仕事の基盤は東京都内にある。だから、この制度がそのまま通ったとしたら、連休は南関東に合わせることになるのだろう。それって、ちょっとやりにくい。

例えば茨城県南部に住んでいる一家があって、父親が東京の会社に通勤し、子どもたちは地元の学校に通っているとする。実際、そんな例はいくらでもある。すると、春と秋の連休が親子でずれてしまって、一家でどこかに出かけるというのが難しくなる。

それだけでなく、北関東の会社の主要取引先が東京にあると、連休のズレによって春と秋の 2週間ずつは、連絡が取りにくくなるだろう。注文した品物が納品されるのが、ちょっと遅れがちになるかもしれない。

北関東と南関東はかなり密接な関係があるから、この分割案をそのまま将来の道州制にスライドさせたら、かなりやりにくいことになってしまうのが確実だ。どうも、この分割案は連休を春と秋のそれぞれ約 1ヶ月間に分散させることが主眼で、道州制はまた別の問題と考えるほかないようだ。

政府によると、フランスとドイツでも国内の地域ごとに連休をずらして実施しているというが、この 2国は元々、道州制(のようなもの)と連邦制というシステムで地方分権を実施してきている。というか、中世の昔から地方分権が当たり前で、身に付いている。

一方日本人は明治の御一新からこのかたずっと、強力な中央集権システムでやってきてしまったから、このあたりの感覚がまだ成熟していない。だから、関東を北と南で分けてしまうなんていうことを平気でやってしまう。

この制度を実施するにしても、政府案は単なる叩き台として、各方面からの意見を取り入れなければならないだろう。ただ、あまり取り入れすぎるとまとまりがつかなくなるので、ある程度のところで、「えいや!」で進めなければ、何事も前に行けなくなってしまう。

最後に念のために言っておくと、私は基本的に地方分権には賛成なので、連休分散にも決して反対というわけではない。地方分権に関する私の基本的な考え方は、以下の過去記事をご覧いただけばわかる。

日本の改革が進まないわけ
「道州制」 と 「連邦制」

 

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2010年3月 4日

結局、暖冬だった?

この冬は、わけのわからない季節だった。気象庁の季節予報では、ほぼ暖冬になるだろうと言われていたのだが、びっくりするほど暖かくなったかと思うと、急に凍えるほど寒くなったりして、大変な振幅の激しさだった。

あまりにもわけがわからないので、私は昨年の 11月以来、この冬の天気について 4回も記事を書いてしまっている。(以下、参照)

暖冬傾向という予報なのだが (11月 24日)
「暖冬」 というのは、いよいよ怪しい (1月 5日)
暖冬なんだか、そうじゃないんだか (1月 13日)
わけのわからない季節感 (2月 15日)

というわけで、暖冬という予報はあったものの、よくわからないうちに冬は過ぎてしまったようだ。そして、過ぎてしまってみると、12月から 2月までの 3ヶ月間の平均気温だけをとってみると、平年より高めだったんだそうだ。(参照

西日本(近畿-九州)では平年を 1.0度、東日本(関東甲信、北陸、東海)で 0.9度、北日本 (北海道、東北) と沖縄・奄美で 0.6度、平年を上回ったのだそうだ。それで、この記事の見出しは "結局 「暖冬」 … でも 「大雪」 気象庁が今冬の天候まとめ" という、わけのわからないものになってしまっっている。

要するに、この冬はものすごく極端で、ブレが大きかったということになる。この国の首相発言のようなものだ。このブレの大きさの要因は、上記の 4番目の記事で書いたように、エルニーニョと北極の寒気(「北極震動」 というらしい)のせめぎ合いのせいだったようなのである。

でも、平均気温が平年より高かったからといって、「結局暖冬だった」 なんて言われても、全然しっくりこないなあ。

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2010年3月 3日

認識メソッドの違い

最近、近所にちょっと変わったケーキ屋ができた。店構えとしては、いわゆるこじゃれた洋菓子屋というイメージではなく、どちらかといえばレトロな「よろずや」っぽい雰囲気を漂わせた造作で、ちょっと不思議空間的に洋菓子が並べられている。

この店が開店する前から、「○○○○かしや」という看板が取り付けられていた。妻はそれを見ながら、「おもしろそうなお店だなあ、一体、何屋さんが開店するんだろう」と楽しみにしていたそうだ。そして、「開店してみたら洋菓子屋さんだったんで、びっくりしちゃった」という。

ところが私は、妻がびっくりしたと聞いて、そっちの方にびっくりしてしまった。

「○○○○かしや」 という看板が出ているのだから、洋菓子か和菓子かはわからないが、とにかく「菓子屋」が開店するんだろうと思うのが、私にとっての「自然な認識」である。「ちょっと変わった店構えのお菓子屋ができるんだな」ぐらいには思うが。

ところが、妻にとっての「自然な認識」というのは、私と逆だった。彼女は看板に記された「言葉」よりも、視覚的「イメー」ジを重視して、「変わった名前の、何かおもしろいお店ができるみたい」と期待していたのである。それでケーキ屋ができてしまったものだから、「なんだ、名前的には単なる『まんま』じゃん!」と思ってしまった。

人間の「認識のメソッド」というのは、かくも個人差がある。

妻は昔から視覚重視派である。何しろ美術系で、絵ばかり描いて育ってきた。だからモノを認識するのに目で見た感じから入るのが、最も自然なのだ。プライオリティは 「見た目」 の方にあるから、看板に書かれた「かしや」は「単なる名前」で、そこに特段の意味を見いださない。だから「変わった名前の、何かおもしろいお店」と思ってしまった。

ところが私ときたら、かなりの言葉派である。「かしや」と書いてあるんだから、菓子屋だろうと思うのが、私にとっての自然な認識である。だから「変わった造りの菓子屋とは思っても、レンタルショップ(貸し屋?)になるかもしれないとは思わない。

ところが妻は、「看板に 『かしや』 と書いてあるんだから、菓子屋に決まってるじゃん」という私の言葉に、改めてびっくりである。「だって、どう見てもお菓子屋さんぽくないんだもの」と言い張る。「意味」と「イメージ」がそぐわなかったら、迷うことなくイメージの方を信じるタイプなのだ。

この世のありようというのは、一様ではない。人はそれぞれ、ちょっとずつギャップのある世界に住んでいるのである。

そして、だからおもしろいのである。

今日の結論は、とりあえず、この店でケーキを買って、試食してみなければならないだろうということだ。

 

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2010年3月 2日

「号泣」という言葉がインフレを起こしてる

私は時々「言葉」というものをテーマにした記事を書くので、「正しい日本語」とやらにこだわる保守派だなんて思われているフシがあるが、実はそうでもない。「ら抜き言葉」にはとても寛容だし、若者言葉だって案外取り入れたりしている。このブログでも「チョー」という形容詞(?)は度々使ってるし。

言葉というのは生き物のようなもので、時代とともに変化する。だから、決まった言い方にこだわりすぎるのは考え物である。人間というのはちゃんとそれを理解しているから、結果的に我々は、江戸時代の日本語をしゃべらずに済んでいる。江戸時代の日本語で今の情報化社会を語ったら、さぞかったるいだろう。

とはいいながら、最近、「これはちょっと、いくらなんでもないんじゃないの?」と思ってしまうことがある。例えば「号泣」という言葉のインフレ現象である。とくにスポーツ新聞や週刊誌の見出しに多くみられる。

先週、インターネットでオリンピック関連の記事の見出しを追っていたら、フィギュア・スケートの浅田真央選手が銀メダルに終わり、インタビューで「号泣」したというのが何件か見つかった。(念のため再度調べたら、以下の 2件が残っていた)

真央 自己ベストも悔しい号泣“銀”

浅田真央一歩及ばず銀メダル、キム・ヨナが金、安藤美姫はメダル届かず5位/フィギュアスケート女子
(記事中に 「浅田真央はインタビューで 『長かったというかあっという間でした』 と話した後、こらえきれず号泣した」 とある)

金メダルを狙っていただけに、よほど悔しかったんだろうなあと思ったが、「号泣」に関しては敢えて眉唾にしておいた。近頃、「号泣した」 という触れ込みのインタビューを、たまたまテレビなどで見ることがあっても、ほとんどの場合、ちっとも「号泣」なんてしてないのだ。大抵は、ちょっとすすり泣いている程度である。

で、今回の浅田真央選手のインタビューも、たまたまニュースで見たのだが、やっぱり「号泣」なんてしてなかった。しきりに鼻をすすり上げ、目の周りの化粧がちょっと滲んでしまった程度である。むしろ健気な印象で、あれを「号泣」なんて言ったら、当人に失礼なお話だと思う。

ちなみに、Goo 辞書で「号泣」を調べると、以下のようになる。

(名)スル
大声をあげて泣き叫ぶこと。

すすり泣いたぐらいのことで「号泣」と表現してしまうのは、「言葉のインフレーション」である。近頃デフレ気味で貨幣価値は下がらないが、「号泣」という言葉の価値は目に見えて下がっているようなのだ。というわけで、浅田真央さんは、ちょっと気の毒っぽい記事を書かれてしまったわけだ。

こんな程度のことで 「号泣」 と書く理由としては、次の 2つが考えられる。

  • 大げさに表現する方がインパクトがあって売れる
  • 近頃の若い記者は「号泣」の本当の意味を知らない

「大げさな表現」 ということに関しては、確かにスポーツ新聞や週刊誌は、なんでもかんでも過剰に表現したがる。さらに近頃は「号泣インフレ」で、「すすり泣いた」程度の表現ではインパクトがないので、なんでもかんでも「号泣」にしてしまうのかもしれない。

さらに私は、若い記者たちが「号泣」の意味を知らないのではないかと、秘かに疑っている。「感極まって、こらえきれずに涙があふれた」という場合、この「感極まった」ということの方を大きく捉えすぎて、つい「号泣」と言ってしまいたがるのではなかろうか。

そう思って調べたら、NHK 放送文化研究所のデータが見つかった(参照)。このページには、"「映画を見ていて号泣してしまった」といったような言い方が、最近増えています" とある。映画を見ながらオイオイ泣き叫ぶ人はあまりいないんじゃないかというわけで、アンケートを実施したもののようだ。

「号泣」 の意味について、アンケートをしてみました。「大声で泣くこと」と「声を押し殺し大量の涙を流して泣くこと」のどちらを指すかを尋ねたものですが、若い人ほど 「声を押し殺し~」という回答と「どちらも正しい」が多くなっていました。つまり、「泣き声を伴わない『号泣』」は若い人に特によく受け入れているのです。

やっぱりね。若い人の中には、「号泣」の本当の意味を知らない人がかなりいるようなのだ。「声を押し殺し~」が正しいという回答と、「どちらも正しい」 という回答はそれぞれ、10代で 22%、24%、20代で 8%、17%、30代で 9% 18% となっている。そして 40代以上になるとこの数字が急減する。

それにしても、20代と 30代では、4人に 1人が誤解している程度だが、10代のほとんど半分が「号泣」の意味を誤解しているのだとすると、この言葉の行く末もかなり怪しいものになってしまう。

ちなみに、この調査結果は 2010年 3月(つまり、昨日か今日)にアップされている。真央ちゃんの「号泣」報道に違和感をもってしまって、緊急アンケートしたんだろうか。そうだとしたら、NHK のアクション、ものすごく迅速だ。でもまあ、たまたま、ちょうどいいタイミングになっただけなんだろうな。

【3月 4日 追記】

私としては、このくらいでないと 「号泣」 の名に値しないと思ってしまうのだが。

http://www.youtube.com/watch?v=iZdJ5wg38-8

http://www.youtube.com/watch?v=HCItp3pvh-Y

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2010年3月 1日

「流ちょうな発音」 と 「正確な発音」

先週末の「トヨタの豊田章男社長の英語」関連の続きだが、alex さんはブログのコメントで、「流ちょうではなくても、ゆっくりであっても、『正確な発音』でしゃべればよかったのに」と書いておられる (参照)。これは私も賛成だ。

豊田社長の英語は、あれはあれで、日本の経営トップの英語力としては平均を遙かに上回るものだと思う。なまじ米国の大学で MBA を取得したなんて紹介されているから、その反動で失望されるだけだ。ただ、原稿棒読みでも、単語の発音をテキトーに丸めてしまって、何を言っているのかわからないところがある。

これは小泉前首相の英語も同様だったと思う。あの人もジョージ・ブッシュとサシで英語で会話している映像が流れ、それはそれで立派なものだったが、英国に留学していたにしては、ずいぶんお粗末な英語だなあと思ったものだ。

このあたりをさして、alex さんは「流ちょうではなくても正確な発音で」とおっしゃっているのだろう。ただ、ここで問題になるのは「流ちょうな発音」と「正確な発音」って、違うのかどうかと言うことだ。

結論から言えば「違う」というか、うぅむ、「同じじゃない」と言えばいいのかな。とにかく、ちょっとずれるのである。例えていえば、漢字の楷書、行書、草書のようなものだ。

「流ちょうな発音」というのは、はっきり言って、かなりくずした発音の場合が多い。例えば、"What time is it now?" を「流ちょう」に言うと、日本人の耳には「ワッツァイミズィナウ」 みたいに聞こえる。

そして、英語に慣れない日本人としてはそこまで流ちょうにリエゾンしなくていいから、「ホワッタイム・イズ・イット・ナウ」ぐらいに(当然、「タイム」と「イット」の語尾は子音だから飲み込むように)言えば、十分に通じる。

つまり、英語圏のネイティブ・スピーカーたちは、普段は行書か草書でしゃべっているのである。で、その行書や草書のしゃべりを真似するのが難しいなら、楷書できちんとしゃべればいいということだ。

ところが中途半端に英語をしゃべれる日本人の中には、行書でも草書でもない、妙に自分勝手なくずし方をしてしゃべる人がいる。とくに、単語の中でアクセントのある音節をモニャモニャっと(子音をあいまいにして)丸めてしゃべるという間違いをおかす人が多い。

英語というのはアクセントと子音の要素がとても重要だ。よく「日本語は母音の言葉、英語は子音の言葉」と言われる。日本語では、「なんだよ、お前」を「あんだよ、おうぇ」と、酔っぱらいみたいに発音しても通じる。

そして「そら」も「ほら」も大差ない。「ああ、そうか」を「ああ、ほうか」と発音する年寄りは多いが、それでもちゃんと通じる。「阿呆か」なんて聞き違えられる心配は、あまりない。

だが、英語で S音を H音に置き換えたら、まず通じない。"Sit back"(ゆったり座る)と"hit back"(やり返す)は全然違う。だから、英語のアクセントと子音を曖昧に発音してしまうと、何を言ってるのかわからないことがある。何とか通じても、ずいぶん自信のないしゃべり方に聞こえて、相手の信頼を得にくい。

これは、悪筆な人が漢字のくずし方の法則を無視して、自分勝手なくずし方をすると、当人以外には誰も読めない字になるか、読むのにものすごく苦労する字になってしまうようなものだ。悪筆は悪筆なりに、くずさずにきちんと楷書で書けばいい。それがalex さんのおっしゃる「ゆっくりであっても『正確な発音』で」ということなのだろうと思う。

言葉というのは、くずすにもくずす法則というものがある。「それは、違いない」を「そりゃ、ちげぇねぇ」とくずすのは十分に「あり」だが、「そりゃ、ちげぇない」は、むっちゃ違和感になる。「そりゃ、ちげぇにゃあ」なんて言ったら、「お前、どこの生まれだ?」 突っ込まれる。

東日本で「大根漬け」を「でぇこづけ」とくずしても十分に通じるが、「でこんづけ」だと、急に通じにくくなる。さらに、妙に考えすぎて「でこんづかい」なんてことになったら、そりゃもう宇宙人だ。

日本人の中には、これに類したことを英語でひょいひょいやってしまう人が結構多い。中途半端な英語だったら、楷書でしゃべるに越したことはないのだが、もしかしたら変なくずし方をしてしまう人は、自分のしゃべり方に無意識すぎるのかもしれない。

しゃべり方、とくに発音とかアクセントとかいうのは、身体感覚に類したものだから、頭でわかっていてもなかなか表現しにくい。ましてや、身に付いた母国語以外の言語の発音の違いを、頭でもはっきりとわかっていなかったら、その時次第のでたらめになるのも当然だ。

 

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