『唯一郎句集』 レビュー #115
今日レビューする 3句は、ちょっと難解である。ずっと前から、レビューがこのページにさしかかったら、やっかいだなあと思っていたのだが、ついに辿り着いてしまった。まあ、仕方ないから、できる範囲で解釈してみよう。
はちすの実のかたちみづからにおしえて歩む
はちすとは、蓮の別名。蜂の巣に似ているから、そう呼ぶ。もしかしたら、それが語源なのかもしれない。
唯一郎は浄土真宗の信仰篤い人だったから、蓮といえば極楽に生まれるときの台座を連想させる。ただ、蓮の台(うてな)は、蓮の花のことだから、「はちすの実」 というと、幸せな極楽往生のイメージとも少し違う。
蓮根の形をみずからに教えて歩むとは、一体何のメタファーなのか。
川竹の身のあつかひにうつろな晝の蚊遣
さあて、これが難解なのだ。あちこちからほじくってみよう。川竹とは、川のそばに生える竹で、マダケの別称というが、それではこの句は何だかわからない。
それで、「川竹の身」に注目。「川竹の流れの身」というと、遊女の境涯を示す言葉である。謡曲『班女』に、「憂き節しげき川竹の流れの身こそ悲しけれ」 という一節がある。
遊女の身のあつかいにうつろなまでの感覚の昼の蚊取り線香というと、なんとなくけだるく物憂げながら、エロティックな情景である。
唯一郎は時々、こんな風にものすごくきわどい句をさらりと作る。
馬を賣つた金をかぞへてゐるのか烏瓜の白い花
難解といえば、こっちの方が難解かもしれない。
「馬を賣つた金をかぞへてゐるのか」 は、わかる。「烏瓜の白い花」 もわかる。ただ、それが重なると、わからなくなる。
知り合いの誰かが放蕩して、大事な馬を売って金を作らなければならなくなったものと見える。その金を数えている姿に、烏瓜の白い花が重なる。ただそれだけのことかもしれないが、何かのメタファーのようにも思われる。
浮き世の重苦しさが、白い花で少しだけ和らげられるような気もする。
本日はこれまで。
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コメント
とうとう終りに近づきましたか。
「はちすの実」なのですが、一般的には蓮の種子か蓮の花託を指すのかなあと思います。
でも、蓮の花のつぼみが人間が仏性に開く手前のシンボルであるという(松果体に似ている)という話を導師と呼ばれる方にうかがったこともあります。
仏像の中で稀にみられる、下に垂れた蓮のつぼみがその象徴だとか。
投稿: jersey | 2010年3月29日 23:44
追記:やはり「はちすの実」は、じょうごのような穴ぼこの花託を指していらっしゃるのではないでしょうか。
ハスの種子が2000年後に発芽等の研究成果は唯一郎様の活動時期ではないこともあり、あの独特のハスの花託をイメージしての「みづからにおしえて歩む」ということだと思います。
しかし、「みづからに」はその実が?私が?「おしえて」は?「歩む」は?難しいです。
投稿: jersey | 2010年3月30日 00:03
jersey さん:
>やはり「はちすの実」は、じょうごのような穴ぼこの花託を指していらっしゃるのではないでしょうか。
敢えて 「はちすの実」 というからには、蓮根ではなく花託だと取る方がよさそうですね。確かに。
その形を何らかの自己救済のシンボル的なものと捉えていたのかも知れません。
投稿: tak | 2010年3月30日 08:21