「いいモノがわかる」 ということ
自動車関係の仕事をしておられる hirose 525 さんという方が、Twitter で「なんかの本に書いてありました。いい車の良さは乗ったことのある人じゃないと分からない。その通りだと思います。スポーツカーの良さはスポーツカーに乗ったこと無いと...」と tweet されている。(参照)
この tweet を知ったのは、私がフォローしている人が同感の意を込めて retweet されているからで、なるほど、確かにおっしゃられる意味はよくわかる。私も同感したい。しかしへそ曲がりな私は、"だが、わからない人はわからないと思う。「それがどうした感覚」ってあるから" なんて、余計な返信をしてしまった。
で、その後にさらに、"わかろうとして、乗ろうと思った時点で、実はもう半分以上わかってるんじゃないかと思ったりして" と tweet した時点で、「いいモノがわかる」って、どういうことだろうと、いろいろ思いを巡らせてしまった。
「いいモノを知るには、ちゃんとそれに接していなければならない」というのは、経験則から言って本当である。いい絵をわかるには、普段からいい絵に接しなければならない。おいしいモノがわかるには、おいしいモノを食べなければならない。いい音楽がわかるには、いい音楽を聴かなければならない。
しかし、いい絵を見れば、おいしいモノを食べれば、いい音楽を聴けば、全員がいい絵がわかり、おいしいモノがわかり、いい音楽がわかるかといえば、そういうわけではない。多くの人は、「それがどうした」で済んでしまったりする。だから、いい車に乗りさえすれば車の良さがわかるというわけでもない。
私の余計な tweet に対して、hirohashy さんは、「理解したいなという前提は必要ですね」と返信してくれた。さらにご本人の hirose 525 さんが、「価値観の違いはあるけど努力すれば好きになることもあるかも」と返信してくれている。まあ、私としては「好きなことなら努力するけど、好きになるために努力するのはちょっとなあ」という気もするが。
いいモノがわかるためには、いいモノをわかろうとしなければならない。心の準備が大切だ。その心の準備は、やっぱり「好きずき」という要素にかなり左右されるだろう。そして、いいモノをわかろうとしてきちんと接しようとした時点で、そのよさの半分以上はわかってしまっているというのは、言えている気がする。あとは、確認作業が残るだけだ。
そもそも、いいモノがわかるには、ある意味、元々わかっていなければならないのである。例えば審美眼というのは、自分の中にある「美のイメージの投影」だ。美のイメージの貧困な人は審美眼も貧しいのである。
だから、「スポーツカーのよさ」というものにシンパシーのない人は、いくらスポーツカーを乗り回しても、単に「運転しにくい車」で終わってしまいかねない。
変な喩えだが、イタリア製の最高級のウール地を使った、最高級の仕立てのスーツを着るとする。確かに体に自然に沿って、体を動かしても心地よい。なるほど「いいモノはいい」と思われる瞬間である。
しかし、私なんかそれでも「ああ、こんな服を着てたら、汚したり、何かにひっかけて鉤裂きにしたりしないように、気が休まらないなあ」なんて思ってしまうのである。それなら、ゴワゴワのチノパンに、どうでもいいカジュアルなジャケットを着ている方がずっと気が楽だ。
これが、私のいう「それがどうした感覚」である。「確かにいいモノなんだろうけど、別に ……」という思いだ。同じ経験をしても、シンパシーがないと感動しないのだ。シンパシーを醸造するには、それなりのプロセスが必要なのだろう。
だが時には、何の心の準備もなしに、たまたま触れたモノに、まるで天啓のように「がぁん!」と感動してしまうこともある。そして、その後の人生が決定づけられたりしてしまうなんていうこともある。
そういうことがあるから、人生はおもしろいのである。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「忍者屋敷のような旅館の客室」って、ちょっとなあ(2023.01.10)
- ドアの不具合でトイレに閉じ込められてしまう悲劇(2023.01.09)
- 「バンジージャンプ」と「二十歳」へのこだわり(2023.01.08)
- ネット検索、SNS における「Z世代」と「オトナ世代」(2023.01.04)
- 年寄りの自転車運転の危うさ(2022.12.26)
コメント
これは、センサーとモノサシと感情の度合いかと。
人の五感は産まれつき上限がある、なのでどれほど努力してもセンサーの感度と範囲は才能で決まる。むろん年齢とともに衰える。
モノサシは経験の積み重ね、教育で疑似体験はできるが、実際に接しなければ磨かれない。
あとは接することでの快/不快、どちらでも原動力となる。無関心だと接する回数(経験)が減る。
この兼ね合いでプロになったり、下手の横好きになったり。
ただ五感は共通なので1つ極めると案外流用できる。
またモノサシが無い状態でセンサーの限界値をいきなり叩き込まれるとそこに神様を見るのかも。
投稿: vagari | 2010年4月22日 23:40
vagari さん:
>ただ五感は共通なので1つ極めると案外流用できる。
なるほど、確かに。
>またモノサシが無い状態でセンサーの限界値をいきなり叩き込まれるとそこに神様を見るのかも。
おぉ! これは、言えてると思います。
なるほど、そういう解説の仕方もあったかと、目からウロコです。
投稿: tak | 2010年4月23日 10:09
私が「同意」のReTweetをしたのは、自分にそのような経験があったからで、takさまが書いていらっしゃるような深いことは全く考えていませんでした(笑)。
大学生になって、周囲の男友達で車を持つ人が増え始め、いろいろな車に乗せてもらう機会ができて初めて、私は「こんなステキな車もあるんだ~」と感じることが出来たのです。
父親の日産びいきのため、ファミリータイプの日産車以外乗ったことがありませんでしたが、ソアラに乗ったときのワクワク感、NSXが加速するときのクーンという音、ポルシェに乗ったときの、視界の低さからくるスピード感、クラウンのシートの座り心地良さ…等々、乗ってみて初めて知ったものでした。
その時まで、車なんて単なる移動手段だと(田舎に住んでいましたし)思っていたのですが、良いクルマに乗って、良いクルマの良さを知りました。
モノサシは無かったけれど、センサーはあった、ということなのでしょうか。
投稿: hemp | 2010年4月23日 22:53
hemp さん:
いろいろな車に乗られての感動、よくわかるような気がしますけど、私なら、すぐに忘れてしまうかも。
(ごめんなさい ^^;)
>モノサシは無かったけれど、センサーはあった、ということなのでしょうか。
なるほど。
このあたりは、いろいろおもしろそうなテーマですね。
投稿: tak | 2010年4月24日 10:55