「思惑」を巡る冒険
Twitter で kunishiro さんが "思惑という字を見ると、つい「しわく」と読んでしまう。正しくは「おもわく」? 広辞苑には「しわく」という読みも載っているけど、これは仏教用語でしょうか" と tweet しておられる(参照)のに、つい反応してしまった。
「思惑」を「しわく」 と読みたくなる気持ちはよくわかる。私だってついそう読みたくなってしまう。ただし、フツーは「おもわく」である。そしてややこしいことに、辞書を引くと大抵、「しわく」と読む「思惑」も載っている。一体どうなってるんだと思うところである。
かなり昔の学生時代、同じ「思惑」でも、「おもわく」と読むのと「しわく」と読むのとでは、言葉の成り立ちが違うのだと教わった。「おもわく」は漢字の熟語じゃなく大和言葉起源で、「しわく」の方は仏教用語だというのである。「ふぅん」と思っただけで、それっきりになっていたのだが、今回改めて確認してみた。
Goo 辞書をみると、確かに "「おもう」のク語法から。「惑」は当て字" とある(参照)。元々は「思はく」と表記して、「思うことには」とか「思うに」とかいう意味から来ている。論語の「子曰はく(しのたまはく)」と同じようなものと思えばいい。確かに漢語ではなく大和言葉である。
いつの間にか「思はく」に音の同じ「惑」という字が当てられて、「思惑」という熟語みたいな言葉ができてしまった。ところがこれでは重箱読みなので、つい「しわく」と読みたくなってしまう。しかし「しわく」と読んでしまうと意味が違うというのである。なんともややこしいことである。
じゃあ「しわく」と読む仏教用語の方の「思惑」 は一体何なんだといえば、読んで字の如く「思い惑う」ことで、つまり「煩悩」と同じことだというのだ。うぅむ、こっちの方がわかりやすいといえばわかりやすいではないか。
で、改めて「しわく」と読む「思惑」を引いてみると、ずいぶん素っ気なく
〔仏〕 「修惑 (しゆわく)」 に同じ。
という説明しかない(参照)。おぉ、実は「修惑」というよりエライ言い方があったのか、知らなかった。それならばと「修惑」を引くと、次のようにある (参照)。
〔仏〕 修行によって打ち消すべき煩悩。また、人が生まれながらにもっている煩悩。思惑 (しわく)。
なるほど、「修行によって打ち消すべき」という意味合いがあるので、頭が「修」の字になるわけね。そんなの、説明されないとわからないけど。まあ「しわく」だろうが「しゅわく」だろうが、江戸っ子が言ったら同じに聞こえるだろうから、こだわらないでおこう。
というところまで来て、ふと思わく、人間の「おもわく」なんて大抵は「煩悩」にすぎないんだから、「おもわく」だろうが「しわく」だろうが、突き詰めてしまえば大した違いはないんじゃかろうかという気がしてきた。
株なんかの「思惑買い」も、きっと「煩悩買い」に違いないのである。
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コメント
なるほど。
「思惑通り…」と言われたら、とりあえず裏っ側を想定しておきますね!
投稿: 乙痴庵 | 2010年4月27日 12:45
乙痴庵 さん:
>「思惑通り…」と言われたら、とりあえず裏っ側を想定しておきますね!
… という思惑も。
投稿: tak | 2010年4月28日 10:01