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2010年5月に作成された投稿

2010年5月31日

「いい人」は地滑りの起点になっちゃう

今日の午前 10時過ぎに、"「いい人」というのは、泥をかぶるのを嫌う結果、自分が地滑りの起点になっちゃったりするからコワイ" と tweet してみた(参照)のだが、これ、鳩山首相のことを指してるんだと気付いてくれた人は、何人いるかなあ。

Twtter では私のフォロワーは今、107人しかいないので、いっそのこと、一日に何百人もみてくれるこっちの方に同じことをかいているわけだ。

私は、鳩山さんは多分「いい人」なんだと思っている。もしかしたら「すごくいい人」 なのかもしれない。一緒にお酒を飲んでもあまりおもしろくはないかもしれないが、一緒にお食事する程度なら、とくにそばに奥さんがいてくれたりしたら、案外楽しいかもしれない。もしかしたら、変てこなハトの真似なんかしてくれるかもしれないし。

ただ「いい人」 というのは、政治家に向かないんだろうと思う。今回の普天間の問題にしても、結局は前から決まっていたところにしか落としどころは見いだせないと、素人でもわかっていたのに、沖縄の人たちのことを思うあまり(彼自身としては、本当に心の底から思ったんだと思う)、いろんなことを言ってしまった。

そしていろんなことを言ってしまったために、あちこちに決して叶えられない期待を振りまいて、その後にどっと失望を醸造してしまった。結論自体は、自民党政権時代とほとんど変わらないんだから、いろんなことを言わなかったら、こんなに深い失望だって生じなかったのに。

私はずっと前から、「普天間の問題は、前政権からの引き継ぎ事項として、相手もあることだし、あまりいじらないで、粛々と進めるほかありません」と言っておきさえすれば、それが政治的には正しい判断になると思っていた。このブログでは、はっきりそう書いたことはないが、alex さんのブログに、こっそりそうコメントしたことがある(私も案外ずるい)。

上記のコメントに関しては、遅まきながらその記事にリンクしようと思ったのだけれど、探しても見つからなかったので、ここでこうして「書いたことがある」とだけ言っておくことにする。あとで見つかったら、ちゃんとリンクしようと思うのでよろしく。

で、alex さんご自身の鳩山評価はかなり低いようで、私は「多分いい人」(皮肉も交えて)と言っているのだが、alex さんはその程度にも評価していないようだ。まあ、それは人それぞれだからいいんだけど。

「いい人」というのはアブないということは、これはもう私は、何十年も前から言っている。「いい人」というのは常に「気持ちのいい側」 にいたがる。「気持ちのいい側」というのは、正しいとか正しくないとか、善いとか悪いとか、そういう価値判断からは離れている。要するに、「いい人がいい気持ちでいられる側」である。

「いい人」は、自分では決して泥をかぶらない。そんなこと、するわけがない。「いい人」なんだから、泥をかぶる理由がない。泥なんかかぶったら「いい人」じゃなくなるから、自身の存在理由がなくなる。

泥をかぶりたくなかったら、かぶらずに済むポジションにいればいい。つまり、あまり大きな影響力のない、ちまちまとまじめにこなしさえすればいいという仕事をするべきなのだ。そうすれば、死ぬまで「まじめないい人」でいられる。

ところが、ちょっと間違って大きな責任のあるポジションについちゃったりしたら大変だ。今回のように大規模な地滑りの起点になっちゃったりする。

私が「いい人」が苦手というのは、こんなことによる。多少は「悪人」の要素を持っていてくれないと、付き合いにくくて仕方がない。親鸞上人だってそんなふうなことを言ってくれているんだから、間違いない。自分は悪人でいいやと思えばこそ、平気で泥をかぶって、世のため、人のためになることだってできるのだ。

 

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2010年5月30日

ネット選挙の 「部分的解禁」 について考える

今国会で提出される公職選挙法改正案を成立させることで、与野党が合意したので、いわゆるネット選挙が、この夏の参院選から解禁されるのが確実になった。まったく、今頃まで何をしてたんだと言いたいほどだが、5月 20日の記事に書いたとおり、遅きに失してはいても、前進するだけマシと、評価することにしよう。

あれからいろいろな報道を読むにつけ、選挙期間中には「政党と候補者に限って、ホームページ(この言い方、何とかならんかなあと思うが)と、ブログの更新を認めるなんて書いてあったから、「じゃあ、政党と候補者以外は、ウェブページとブログの更新ができないのか!」なんて、腰を抜かしそうになったが、それは誤解だった。

選挙運動以外では、ほかのサイトの更新を制限するものではないみたいなのだ。当たり前だが。

しかし「政党と候補者以外は、選挙に関したことをサイトに書いちゃいけないのか?」という疑問も残るが、実際には、投票を依頼するという行為がなければ、選挙に関することはいくら書いても大丈夫なようだ。それは、これまでと同様である。

しかし、これもちょっと不満が残る。政党と候補者以外の、ごくフツーの人間が、自分が是非当選させたいと思う候補者に投票するように依頼するってことがあってもいいじゃないかと、私は思うのだが、誰に頼まれたわけでもないが、自主的に勝手に行う選挙運動というのは、ネット上ではしてはいけないもののようなのだ。

でもまあ、「投票を依頼する」ってことがいけないのであれば、表現のアヤで、なんとでもいけそうな気がするから、当面はあまり気にしないでおこう。将来的には「勝手連的ネット選挙運動」ってのも解禁されなければならないと思うが。

まあ、とりあえず今回の部分的解禁は評価しておいて、それにつづく全面解禁と、公選法の改正は、プッシュしていかなければならないと思う。なにしろ、日本の公選法はばかばかしいにもほどがあると言いたくなるほどの代物だから。

 

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2010年5月29日

親父の思い込みを捨てさせる iPad 狂想曲

Twitter を眺めていると、「予約していた iPad が届いた」と大喜びの人がかなりいる。それ以外にも「うらやましい」「自分も欲しい」という書き込みも多く、さらに iPad を散々クサしながらも、「でも、やっぱり買ってしまいそう」というのまである。

これで 4日続きの iPad ネタになるが、ご容赦いただきたい。この間の iPad のお祭り騒ぎをみていると、やっぱりマイクロソフトの時代は終わりかけているのだとわかる。みんな iPad が欲しいみたいなのだ。アップルの株式時価総額も MS を越えたみたいだし。

考えてみれば、これも歴史の必然みたいなものだ。パーソナル・コンピュータというものが世に登場した頃は、それはマニアのおもちゃだった。それがビジネスに使われるようになり、インターネットの普及を機に、やっと本当に「パーソナル」なものになった。

ところが、ひとたび「パーソナル」なものになってしまうと、これまでの PC というのは、その名にふさわしいものではないということに、みんな気づき始めたのである。なにしろ、こんなにも無駄にオーバースベックで、使い辛くて、重くて、取っ付きにくくて、面倒で、こんなにもカワイクないのだ。

iPad が発表された時、「機能的にはみるべきものがない」とか「こんなのオモチャだ」とかいう批判があったが、私にいわせれば、たいした機能じゃなくて、オモチャだからこそ、誰でも気軽に使いこなせるのである。PC というのは、十分普及したようにみえて実はまだまだハードルが高すぎるのだ。

かの池田信夫センセイも、「日本人は豪華なスペックが好きというのは親父の思い込み」と tweet しておいでだ。そんなこと、10年以上も前からわかっていて、私は昨年の今頃も "「その程度でいいの?」 という疑問" という記事を書いているのだが、世間はようやく気付いたのだろうか。

私は本当に 10年前から「オモチャでなければ、広く使いこなせない」と言い続けている。たとえば、国の IT プログラム開発への補助金交付の姿勢というのも、ずっと批判し続けてきた。

私が実際に経験したことなのだが、確実にニーズがあって、市場に出せばあっという間に普及することが確実なプログラム開発でも、国家に補助金申請を出すと、役所からは「とくに画期的な技術というわけではないので、補助金は出せない」と言ってきた。

それならばどうすればいいかというと、「この原案に、もう少し斬新なプログラムを付け加えて申請してくれれば、補助金を出せる」と言うのである。まさに「親父の思い込み」にとらわれた馬鹿な話である。

仕方がないから、全然ニーズがなくて市場に出しても誰も使いこなせそうにないが、役所の期待だけには十分に応えられそうな「斬新なプログラム」を適当にでっち上げて付け加えると、「親父の思い込み」に満ちた審査段階では非常に高く評価されて、補助金がもらえることになった。

元々の原案なら 500万円で済む補助金が、余計なものを付け加えたおかげで 1000万円以上になってしまい、半分は税金の無駄遣いだが、仕方がない。自分たちには、500万円の金もなくてプログラム開発できないのだから。

プログラムは、その余計な部分をオプションのモジュールにして切り離した形にし、実際の市場ではオプションなしで、元々構想していたシンプルな部分のみをメインにして展開する。そのようにして業界に貢献して、税金の無駄遣い分は穴埋めさせてもらう。

この戦術のおかげで、そのプログラムは、今では日本の業界標準となっている。同時期に補助金をもらって開発したほかの 20以上の一連のプロジェクトで、今でも生き残っているものはほとんどない。もしかしたら、数社で細々と使われているのがあるかもしれないが。

iPad 狂想曲を聞きながら、お役人とその諮問会議のお歴々には、この際すっぱりと 「親父の思い込み」 を捨ててもらいたいと思うのである。

 

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2010年5月28日

iPad と、取らぬ狸の皮算用

今日は iPad の国内発売日で、あちこちに行列ができているらしい。朝、アキバのヨドバシの前を通りかったら、『電撃アスキー』 という無料誌の iPad 特集版を配っていた。普段はその類のものはあまり受け取らないんだが、今回は思わずもらってしまったよ。やっぱり iPad 発売開始は「お祭り」と化しているんだなあ。

3日連続の iPad 関連ネタになるが、これが「お祭り」である以上、こちらとしても乗らないとつまらない。今は気分で乗ってるだけだが、多分、私も近い将来、iPad を買うことになるだろうと思う。供給が追いついて、店頭でひょいと買えるようになった時か、あるいは 1年ちょっと経って、バージョンアップしてからになるのか、それはまだわからないけど。

とりあえず、iPad を買うという前提で、今後の自分のデバイス所有の体制を考えてみた。

これまでの私の体制は、こんなものである。

デスクトップ (自宅用 Dell Windows XP)
ノート PC (Let's note Windows Vista)
iPhone (3GS)

ノート PC は、私が緊密に係わって、平均すると週に 3.5日ぐらいは通っているアキバの某オフィスをはじめ、その他あちこちでの業務に使うため、常に持ち歩きである。ところが、ちょっと前にも書いたように、このノート PC はハードディスクが埋まりかけてるので、つい最近、新しいの(Windows 7)を買ったばかりだ。

こうなると、これまでの Vista マシンの方はアキバのオフィスに置きっぱなしにできる。このオフィスでの業務専用にしてしまえば、ハードディスクにもかなりの空きを作れるので、まだしばらくはもつだろう。新しく買った方は、それ以外の業務に使えばいい。

ところが、PC 3台を使い分けるのは、同期をとるだけでもうっとうしい。だったら、古いデスクトップは家族に払い下げて、自分はノート PC 2台体制でやって行くというのが現実的だ。

そして、取り敢えずは新しい方のノート PC を自宅と普段の持ち歩きの兼用にするわけだが、できれば、普段はこれも自宅に置きっぱなしにして、代わりに外出時の作業用として、iPad を持ち歩きたいと思い始めたわけだ。ああ、物欲には限りがない。

自宅とオフィスにノート PC を置いて、その中間を iPad で埋めることができたらありがたい。iPhone でできれば一番軽く済むのだが、いくら何でもちょっと荷が重いので、やはり iPad の出番になるだろう。

で、ここからが頭の痛いところなのだが、iPad は Wi-Fi 版にすべきか、3G 対応版にすべきか、まだ結論が出ていない。3G 対応にしてしまうと、E-mobile、iPhone、iPad と、3つのデバイスのパケット定額料金を払わなければならなくなる。いくら何でも、それは避けたい。

その有力な解決策は、E-mobile の "Pocket Wifi" に乗り換えるということだ。E-mobile の回線を、最大 5台のデバイスに振り分けることができるというもので、これを買ってしまえば、外出時のインターネット接続は、ノート PC だろうが iPad だろうが、これ一つでこと足りる。出張の多い私には、かなり魅力的な選択肢だ。

そうなったら、iPhone も要らなくなって、iPod Touch でいいじゃないかということになる。なるほど、これもまた魅力的な選択肢だ。ただそうなると、普通のケータイが別途必要になる。パケット定額なしの W ホワイトプランにすれば、結構安上がりになるだろうからコスト的にはいいのだが、いろいろゴチャゴチャ持ち歩くのがうっとうしいかもしれない。

でも、カメラ機能の充実したケータイを買えば、デジカメを持ち歩かなくてもよくなるかもしれないじゃないかなんて、またいろいろ考えてしまう。ああ、取らぬ狸の皮算用ばかりで、まだまだ最終結論は出せない。

一体どうしたらいいんだろう?

 

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2010年5月27日

Flash を使わないという選択

Apple は「時代に合わない」として、iPhone と iPad から Flash 技術を排除すると宣言している。あちこちから少なからぬ不満が出てはいるものの、その姿勢を変えようとは全然していない。

私も個人的には「Flash がみられないのはちょっとつらいかも」 という気はしているが、とはいえ、それが見られないことが致命的な欠陥というわけでもないとも思っている。大体、Flash なんていうのは、ほとんど「カッコ付け」に使われているだけだし。

このまま iPhone と iPad が普及していったら、ウェブ開発者が Flash を使ったデザインをするインセンティブがどんどん減っていくだろうと思う。これまでは、ファッショナブルを売り物にするサイトほど、意味もなく Flash を使いたがった。Flash で絵を動かして見せさえすれば、なんとなくそれなりの雰囲気を醸し出せたような気になっていた。

しかし今後はそういうわけにいかなくなるだろう。何が何でも Flash で絵を動かして見せてくれといっていたクライアントも、「iPhone や iPad で見られないんですよ」と言えば、「そりゃ、ヤバイね」と納得するだろう。

これまでも 「Flash なんて、重くなるだけで大して意味ないですよ」と、まっとうな ウェブ・デザイナーは言っていたのだが、それがようやく受け入れられるようになるという気がする。

私としても、これまでは時間を見ながら Flash 技術をモノにしたいなんて思っていたが、最近はそんな気が全然しなくなった。「もう Flash を勉強する意味ないもんね」と思っている。まあ、半分はさぼりたいということなのだが。

iPhone と iPad の普及は、ウェブの世界のスタンダードも少しずつ変えてしまうような気がしている。

 

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2010年5月26日

iPad はじいさんばあさんの強い味方

私の関係している某社が、 iPad を 10台ほどまとめ買いすることを検討し始めた。何に使うのかというと、会議に使うのだという。役員会議に出席するじいさん連中にもたせるというのだ。

この会社では今、紙に印刷した資料(会社の月次決算、懸案事項、その他諸々)を、役員会議に出席する全員に配っている。ところがこの資料の作成が結構大変なのだ。いや、資料そのものは、日頃の業務でできているから、クリック一発で印刷される。大変なのは、その印刷された紙をソートしてまとめることだ。

データというのは、デジタルの形で存在する間は取り扱いが楽だが、一旦「モノ」の形になってしまうと、いきなりうっとうしいものになる。「印刷された紙」に姿を変えたデータは、ハンドリングだけでいやになる。

役員会議の前日は、担当者が必死になってコピーし、ソートし、ステープラーで留めている。ただでさえ人員不足なのに、こんな機械的な単純作業に人手と時間と紙とコピーのパフォーマンスチャージが浪費されるのだ。さすがに、これではたまらんというわけだ。

そこで一時は、資料をプロジェクターでスクリーンに映してみせるという方式にしたことがある。ところが、これが不評なのだ。なにしろ出席者の取締役たちは結構なじいさん連中だから、目が頼りにならない。スクリーンに映し出された資料の字が読めないのである。それに、スクリーンに映すのに部屋の灯りを暗くされると、手許を見るのもおぼつかなくなる。

それでは、各自 PC を配布するから、手許の PC 画面で資料を見てくれというと、じいさん連中は「そんな PC なんか渡されても、操作ができん」「字がますます小さい」 と、拒否反応を示す。ところが近、「iPad なら、PC と違って人差し指でチョンチョンすれば資料が見られますよ」という話に、じいさん連中もようやくダマされたのだという。

いやはや、大したものである。iPad のプロモーションビデオを見せたら、さしものじいさん連中も「これなら、使えるかもしれん」と、その気になったというのだ。これは要するに、Apple のプレゼンテーションの勝利なのだと思う。

iPad は、じいさんばあさんの強い味方になると思う。バカにしちゃいけない。日本の人口ピラミッドの中で一番分厚いのは、今や還暦を過ぎた団塊の世代なのだから、これまで PC を敬遠してきた彼らが iPad に慣れてしまったら、世の中かなり変わっちゃうだろう。

 

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2010年5月25日

事業仕分けを免れた? 「正しい和食」

事業仕分け第二弾が終了したようだが、私が前にさんざんクサした「正しい和食認証制度」を目指すという 「日本食レストラン海外普及推進機構 (JRO)」という公益法人は、どうやらぎりぎりセーフで設立に成功し、仕分けの網をかいくぐったようである。

この「正しい和食認証制度」というのは、話題になった当時、ブログの世界の一部では、誰とは言わないが、大いに賛意を示す方が多かったと記憶している。当然ながら、私みたいにさんざんクサすブロガーだって多かったわけだが。

まあ、私だって ”Japanese Restaurant" という看板でわけのわからないギトギトした料理を食わせる海外のレストランが多いのは、困ったものだと思っている。しかしその問題が国の施策一つで解決できるなんて、夢にも思わない。大いに賛同した方は、この点にどんな期待というか、幻想を抱かれたのだろうか。

私はこの問題に関しては結構しつこくウォッチし続けていて、平成 19年 12月 30日には "「正しい和食」 その後" という記事を書いている。この記事で、「正しい和食認証制度」という大上段に振りかぶった意気込みがどこかに消え去って、ただ、農水省官僚の天下り先を確保するという目的だけが、しっかり達成されているのを確認している。

そもそも「正しい和食認証制度(あるいは推奨制度)」というものが実効しないであろうことは、この記事の中で述べているが、改めて、以下に再録する。

本当にどこに出しても恥ずかしくない日本食レストランなら、わざわざこんな 「推奨マーク」 なんてもらわなくても、既に十分な 「のれんの力」 を持っている(船場吉兆のことは、ちょっと忘れていただきたい)。他の二流店と同じマークなんて付けたら、その他大勢と同列視されかねないから、「そんなものいらない」ということになる。

オートクチュールのブランドが、「ウールマーク」なんて付けないのと同じことだ。

実際には、このマークを欲しがるのは基準すれすれの二流店だろう。そうなると、マーク自体の「ブランド力」 が、それほど大したものじゃないということになるのは目に見えている。要するに、「あんまり意味ないよね」 ということだ。

ということで、その後の経緯をみるとまさにそんな感じのようで、「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」のサイトの事業報告をみても、「渡航先で安心してまともな日本食を食べたい」と期待した人たちが満足するような活動なんて、ほとんどなされていない。設立されて、もう 2年過ぎたのに。

そもそも当初謳われていた「認証制度」というのが「推奨制度」にトーンダウンしていて、しかもあれから 2年経ったのに、どの国でどんなレストランを「推奨」することになったのか、まったく報告されていない。個人的には、まともな申請がなくて推奨するにもしようがないんじゃないかと想像する。

結果として私が元々主張していたように、「まともな日本食を食べたかったら、まともなガイドブックを参考にすればいいだけ」ということになっているのである。で、こんな法人に、まあ、全体からみたらたいした額じゃないのだが、ちゃんと国の予算がつけられているのだよね。

 

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2010年5月24日

「両立する」が "juggle" というのは、ちょっとアブナい

毎日ウィークリーの英語クイズとやらに、「両立させるを英語で言うと "juggle"」だなんてことが、一見もっともらしく書いてある(参照)。こんなこと書いて、日本人の多くが真っ正直に信じてしまったら、毎日さん、どう責任取ってくれるというんだろう。

クイズの問題は、"谷亮子氏が参院選に出馬表明し、政治活動と柔道を両立させると語った。「両立させる」を英語で?" というもので、その答えが "juggle" だというのである。全体はこんな風に訳されている。

Tani Ryoko, who has announced her intention to run in the Upper House election, plans to juggle her political and sports career.

うぅん、確かに、このケースでは「あぶなっかしい」という感じが伝わってくるという意味で、ニュアンスとしてはなかなか言えてる翻訳だと思う。しかし「両立する」を英語で  "juggle" というんだなんて言われると、「おいおい、ちょっと待ってくれよ」と言いたくもなるではないか。

言うまでもなく、  "juggle" は、あの曲芸の「ジャグリング」の「ジャグル」である。たった二つの手で、三つも四つものものをひょいひょいとやりくりするあれだ。谷亮子さんの 「国会議員をしながらロンドン・オリンピックで金メダルを目指す」なんていう発言の雰囲気を表現するには、いい翻訳だと思う。

念のため、"juggle" を Wisdom 英和辞書を引いてみると「曲芸をする」とか「ごまかす」とか「やりくりする」とかいう訳語が出てくる。まあ、そんなようなニュアンスだ。

しかし、「立派に余裕で両立しちゃった」というような場合に "juggle" なんて動詞を使ったら、そりゃ失礼というものだろう。だから、単純和英辞書的に「両立する = juggle」なんて覚えないでもらいたい。

じゃあ、フツーに両立するようなケースでは、英語でどう言えばいいのかというと、こればかりは、「その場その場で一番ふさわしい言い回しで言うしかない」としか言えないと思う。「両立」 という日本語には、「犬 = dog」みたいに、即物的にぴったりと当てはまる英語って、ないんじゃないかと思うのだ。

例しに Wisdom 和英辞書を引いてみたら、まず "be consistent with" という言い方が出てきた。これは「矛盾しないで併存する」というような意味だから、また別の意味合いである。似たような意味合いで "be compatible with" というのもある。

「A と B の仕事を両立させる」 という日本語に一番近いのは、"manage to do A and B at the same time." とか "manage to balance A and B." とかだろうと思う。面白みはないけどね。

 

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2010年5月23日

中原に鹿を逐いたくなんかない

「内田樹の研究室」の「豊臣秀吉の幻想」というエントリーを読んだ。ものすごく手短にまとめてしまうと、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、国家主義的なコンセプトによる朝鮮侵略などではなく、朝鮮半島を経て中国大陸に統一王朝を打ち立てる(中原に鹿を逐う)という、当時の東アジアでは当然の欲望によるものだということである。

そして西郷隆盛の征韓論もその流れにあるが、それは当時受け入れられず、後の韓国併合は、別のコンセプトで実行された。「華夷秩序コスモロジー」から「帝国主義コスモロジー」への移行が、明治期の日本で行われたというのである。なるほど、そのようにみると納得いくものがかなりある。

そして内田先生は、"ある社会集団の「狂気じみた」ふるまいの意味を理解したり、次の行動を予測したりする上では、その集団の「狂気じみたふるまい」を主観的には合理化していた幻想の文脈を見出す必要がある" とおっしゃる。それはまったくその通りだと思う。

さらにそれは、そのふるまいを「今の時点」で合理化するためではなく、「私たちもまた今の時点で固有に歴史的なしかたで『狂っている』ことを知るため」だと指摘されている。これもまた、全面的に同意する。

内田先生のおっしゃるごとく、我々はまさに、歴史的に固有な仕方で「狂っている」のである。それを自覚しないで、歴史など語れるわけがない。

で、ここから突然自分に都合のいいこじつけに走ってしまう私であるが、"「勝間和代 VS ひろゆき」を、「読んだ」" という記事で私が表明している勝間和代氏への違和感の源は、この辺にあるのだと気付いた。

勝間さん、自分が「歴史的に固有な仕方で『狂っている』こと」 を自覚していらっしゃらないのである。逆にエターナルな価値観において、自分こそが唯一正常であると思っているようにさえ見えてしまうのだ。これが、私が彼女に抱く違和感の実体である。

それからまた別の話だけれど、中国は今「華夷秩序コスモロジー」と「帝国主義コスモロジー」とのどちらの領域に属しているのだろうかと考えてしまうのだが、実はもしかしたら、その過渡期にあるのじゃないかと思うのだ。長い長い過渡期になるかもしれないが。

中国は、下手すると日本が今でも「中原に鹿を逐う」ことを狙っているんじゃないかと思いこんでいるのかもしれない。だからこそ、あれだけ日本を敵視するのだ。他の西欧諸国にいくら侵略されようとも、日本に対するほどには露骨な態度に出ない。さらにチベットだって、属国的に従えておきたい。

日本やチベットが中原の辺境にあるからこそ、「こいつらに鹿を逐われちゃたまらん」という、前近代的意識を反映させてしまうのかもしれない。それならば、中原に出てこられる前に叩いておけという意識になるのも理解できる。

共産党という「現代の中原」の内部で勢力争いをしている彼らの感性には、油断するとあいつらまで鹿を逐いに来るという危機感があるのかもしれない。今やほとんどの日本人は、あんなややこしい大陸で鹿を逐おうなんて、これっぱかりも思っていないのだが。

 

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2010年5月22日

PC の引っ越し中

実は今月の 11日に新しいノート PC を購入した。これまでは Panasonic の Let's note CF-W7 を使用してきたのだが、近頃何となく動作が不安定になってきて、時々チェックディスクをかましてあげないといけなくなった。さらに、ドライブの 8割近くまで埋まってきて、余裕がなくなってきた。

これまでは、使用中の PC がいかれてしまってから大あわてで新しい PC を購入してきたが、今回は、今使っているのが大丈夫なうちに、徐々に新たな PC に移行していこうという魂胆である。

というわけで、11日に同じ Let's note の CF-S9 を購入した。この機種は発売当初はアキバのヨドバシカメラの店頭で 20万円以上したのだが、3月以後は 17万円台にまで値下がりしていたので、内心ずっとねらっていたのである。CF-W7 は確か 22万円ぐらいで買ってしまったのだから、それを考えればお買い得だ。

ところが、いよいよ「買ってもいいな」と思ってヨドバシカメラに寄った 10日、 CF-S9 が売り切れていたのである。MS-Office のパーソナル版がプリインストールされた 19万円台のタイプはまだ残っていたのだが、私はデータベース・ソフトの Access が入ったバージョンが必要なので、どうせ後で買うことになるから、プリインストールは必要ないのだ。

店員に「オフィスの入ってないのは、売り切れたの?」と聞くと、「はい、申し訳ありません。多分、5月末か 6月に新モデルが発売になりますので、そちらをお買い求めください」なんてことを言う。

それで、この日は諦めてしまったのだ。新モデルが出てから、またしても 20数万円の買い物をしてしまうことになるのだろう。2~3日早く買う決断をしておけば 17万円台で買えたのにと、かなり悔しい思いがこみ上げてはいたのだが、まあ、仕方がない。ほかの店を当たるのも面倒だし。

ところがその翌日、念のためもう一度ヨドバシカメラに寄って、別の店員に在庫を尋ねてみたら、「確認してみます」と姿を消し、戻ってくると、「ブラック・タイプでよかったら、1台だけ在庫がありました」と言うではないか。そして、値段が 16万円台まで下がっている。

おいおい、じゃあ、昨日の店員の言い草は、ありゃ、いったい何だったのだ? これだから、私はヨドバシカメラの店員の言うことは今イチ信用できないと思っているのである。まあ、それはそうとして、16万円台で、しかもそれが最後の 1台というなら、買っておくに越したことはないと、即決して買ってしまったのだ。

ところが、新しく買った PC を使い始めるというのは、なかなか時間がかかる。なにしろ、それまで築き上げた環境をまるごと新機種に引っ越しさせなければならないのだから、大変だ。私は一応ヘビー・ユーザーだから、その引っ越し作業が、気が遠くなるほど面倒なことになるのである。

しかも、11日に買ってから、その翌日に岡山に出張し、帰ってくるとすぐに帰郷したので、PC の引っ越しなんてしている暇がない。今日になってようやく時間ができたので、夕方過ぎから少しずつソフトのインストールをしたり、ATOK の登録辞書の移行をさせたりしているが、なかなか 半日では終わらない。

まあ、今回はこれまで使ってきた PC もちゃんと生きているので、のんびりと環境を設定して、梅雨入り前ぐらいには新しい PC に完全移行しようと思っている。ちなみに、このエントリーは、新しい PC で書いている。なんだか、キータッチが少しだけ安っぽくなったような気がするのだが、まあ、これも慣れの問題でなんとかなるだろう。

 

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2010年5月21日

「赤松口蹄疫」 で考えてみる

今や 「赤松口蹄疫」 という名称すら付いてしまった宮崎県の口蹄疫騒ぎ。赤松農水相の初動の遅れや 「呑気な」外遊が、これだけのパンデミックをもたらしたということに、世間ではなってしまっているようだ。

しかし恐縮だが、農水相が赤松氏でなかったとしたら、あるいは、赤松氏が外遊しなかったら、果たして被害拡大は防がれたんだろうかという、素朴な疑問を私は抱いている。

いや、誤解しないで頂きたい。私は赤松農水相が精一杯やっていると弁護しているわけではない。むしろ「凡庸にすぎるんじゃないか」という疑いをもっている。しかし、彼以外の人材が農水相を務めていたら、今回のパンデミックは防がれたかどうかというのは、誰にもわからない。

つまり、今回の問題は赤松農水相の個人的な資質云々とは分けて考える必要があるのではないかということだ。

今回、宮崎県で口蹄疫に感染した牛が発見されたのは、今からほぼ 1か月前の 4月 21日。当初のニュースは、「今回も前回の流行時のように、きちんと感染地を隔離して、感染牛の処分をすれば、拡大は防がれるだろう」と、案外楽観的な見方に立脚した報道だったことを覚えている。

ところが、あれよあれよという間に感染は拡大し、こんな事態になった。初動が遅れたのが問題と言うが、感染牛発見当初は、大方はそれほど緊迫してはいなかったと思う。赤松さんが家畜の伝染病の専門家というわけじゃあるまいし、周りが緊迫しなかったら、大臣だって緊迫しない。

赤松さんじゃなくて、あのバンソーコーの赤城さんだったら、拡大が防がれたかなんてことは、誰もわからない。もしかしたら、もっとヒドイことになっていたかもしれない。

それに、赤松さんが外遊しないで国内に止まっていれば、もっとちゃんとした対応ができたはずという理屈も、私にはやっぱりわからない。この国の大臣は、そんなに先頭切ってあれこれ指示しまくるほどに、アグレッシブな有能さを発揮してきたわけじゃない。これまでだって、大体役人任せでやってきたのだ。

問題は、今の政権が「政治家主導」と言って役人を遠ざけている感があることだ。政治家は役人を頼りにせず、役人は政治家にまともな報告を上げないなんてことになっているとしたら、それはちょっと問題だ。

総論的に進めば大丈夫という事態なら、政治家主導もいいだろうが、今回のように具体的情報に立脚した各論ベースで進まなければならないという緊急事態においては、政治家なんて大抵は個々の問題には素人なんだから、現場からのきちんとした情報がなければ対処できるわけがない。

今回の本当の問題は、政府がその情報をまともに得ようとしていたのかどうかということだ。その努力さえしていれば、農水相がメキシコにいようがボリビアにいようが、現場に的確な指示を出すことができただろう。実際に動くのは農水相じゃなくて現場に近い担当者なのだから。

私は今回の問題を見ていて、役人と政治家の間のすきま風がやばいんじゃないかという気がしてきている。役人というのは、あまりのさばらせるのも問題だが、やはり少しは気持ちよく働いてもらわないといけないんじゃないかと思うのだ。

 

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2010年5月20日

ネット選挙が解禁されそうなのだが

インターネットを使った選挙運動が公式に解禁になりそうだ。与野党の実務者協議会が、今夏の参院選から「候補者と政党のホームページ(HP)とブログの更新を認める」 という方向で合意しているというのだから、多分、大丈夫だろう。

選挙に web を使わせろ! 公式キャンペーンサイト」なんていうサイトを、ユルユルながらしつこく継続してきた私としては、一応うれしい。ただ、これでこのキャンペーンサイトの歴史的指名を終えたので、さっさと閉じちゃうかというと、そういうわけにもいかない。

今回の与野党合意案は、まだまだ笑っちゃうほど不十分なもので、メールは禁止で、許されるのは、政党と候補者個人のいわゆるウェブサイトとブログの更新だけのようだ。「なんで Twitter はいけないんだ」 という声があるが、もっともな話である。多分、自分でウェブ上の書き込みができないオッサン議員にいらぬ配慮をしたんだろう。

さらに私としては、このサイトを継続する中で、本当に問題とすべきなのは選挙運動でのインターネット使用を認めるか否かということよりも、日本の公職選挙法そのもののくだらなさだという認識が深まった。

だから、たとえ選挙運動でのインターネット完全自由化が果たされたとしても、「公選法をなんとかしろ!」というキャンペーンを、ゆる~く続けたいと思っている。「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」(公選法 第141条の3)という日本一シュールな条文があるうちは、気持ち悪くてしょうがないから。

とはいえ、今回の与野党合意案は不十分ではあるが、一定の前進と、私は評価したいと思っている。あまりにも馬鹿馬鹿しいほど遅すぎる前進ではあるが、前進には違いない。これ以上ぐずぐずして何も変わらないよりは、ずっといい。不十分な部分は今後どんどん改めていけばいい。

 

Twitter の使用に関しては、そりゃ、禁止されるより認められる方がいいが、現状をみると元々 Twitter を使っている議員が、自分の選挙運動を有利に進めたいために(もっと言えば、使えないオッサン議員を不利にするために)、こだわっているだけのようで、問題が矮小化しているような気がする。

本筋から言えば、自分の主義主張、活動報告などを、あらゆる手段を使って発信してこそ政治家ではないか。自分で自分の発信機会を狭めてどうするというのだ。現行の制度は、発信するほどの中身を持たないオッサンが、ただただ名前を連呼だけして当選するためのものなのである。

 

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2010年5月19日

無煙煙草が発売されたらしい

今朝、車を運転しながら例によって TBS ラジオを聞いていると、JT が首都圏限定で発売した無煙煙草「ゼロスタイル・ミント」が紹介されていた。黒い本体に煙草の葉が詰まったカートリッジをセットして吸い、味と香りを楽しむのだという。煙は出ないので、周囲に迷惑はかからないらしい。

TBS ラジオでは、キャスターの森本毅郎さんが、この無煙煙草本体の黒い色にイチャモンをつけていた。「煙草は白くなくちゃ」というのである。しかし、黒い色にしたことにはそれなり理由があるのだろう。白い色ではいかにもフツーの煙草っぽいので、煙草嫌いの神経を逆なでするだろうから。

黒い色なら、「フツーの煙草じゃありませんよ。煙出しませんから」という無言のアピールになる。しかし、ここまで涙ぐましいアピールをしても、ANA は 「無煙とはいえたばこなので、機内で吸うことはできない」としている。JAL は容認する方向らしいが、ANA はさすがに強気だ。

煙草嫌いな私としては、周囲の喫煙者がすべてこの無煙煙草に鞍替えしてくれたら、かなりストレスが減ると思うので「禁煙できない人は是非どうぞ」とおすすめしたい。

しかし、飛行機や新幹線のすぐ隣の席で、こんなもの取り出してプハーッなんてやられたら、やっぱりちょっと嫌な感じがしそうだなあ。煙も臭いも出ないという謳い文句だが、「口の中に煙草の香りが広がる」という以上、それが吐く息に混じって出てこないわけがないじゃないか。

やっぱり、JAL は敬遠して ANA に乗ることにしようと思う。

本日はものすごく眠いので、このぐらいで失礼。

 

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2010年5月18日

死ぬほどくだらなくて、死ぬほど素晴らしい日本文化

既に Twttter で tweet してしまったことなのだが、私が案外真面目に英語をモノにしようと思ったのは、日本文化を外国人に英語で説明したかったからってのがある。そりゃ、英語を習い始めた中学生の頃はそんなことまで考えなかったが、高校生の頃にはそんな考えがモチベーションの一部になっていた。

そんな考えがあったので、私は日本文化を半分はエイリアンの目でみるという癖がついてしまったと思う。目の前にリアルタイムで展開しているとても日本的な現象を、日本語で解釈してからそれを英語に翻訳するというのではなく、初めから英語の文脈で解釈して説明を試みている自分がいるのだ。

日本文化を初めからエイリアンの目で見ると、それは死ぬほど素晴らしかったり、死ぬほどくだらなかったりする。

こんなことを言うと、フランス人が能楽を観た時のエピソードというのを思い出す。

昭和 34年に来日したフランス文化使節が能の『熊野』 を観た時、メンバーのほとんどが「死ぬほど退屈した」と公言してはばからなかった。しかしその翌年来日して観世寿夫の『半蔀』を観たジャン・ルイ・バローは「死ぬほど感動した」と絶賛した。

同じ能をみて、死ぬほど退屈したり死ぬほど感動したりするのである。日本文化ってそんなところがある。死ぬほどの素晴らしさの要素として、死ぬほどのくだらなさがあり、逆に、死ぬほどの素晴らしさが死ぬほどのくだらなさの一部だったりする。

「素晴らしさ/くだらなさ」 の二元論に陥ると、日本文化はわからない。素晴らしくてくだらなく、くだらなさが素晴らしいのである。聖は俗に支えられ、俗の極みに聖がある。

 

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2010年5月17日

政権交代の亡霊

先週の金曜日、実家のある酒田に向かって、山形道を寒河江インターチェンジで降り、国道 112号線を走っていたら、昨年の総選挙の時に使われたと思われる民主党のポスターが、まだ道端に貼られていた。

鳩山現首相の大きな顔写真がフィーチャーされ、大きな文字で高らかに「政権交代」と書いてある。これには笑ってしまったね。「おぉ、自分から言い出すとは、そりゃありがたい。また政権交代してくれ!」と言いたくもなろうというものだ。

与党になってしまった後も、同じポスターを掲げ続けていたらまずいと思うがなあ。それとも、もう政権を放り出したくなったのだろうか。

次の選挙は参院選だから、政権交代には直接結びつかないが、一時、小沢さんは衆参同日選を狙っているのではないかという憶測が流れたりした。世の中、一寸先は闇だから、何があっても不思議じゃないが、民主党が今の衆議院の議席数をあっさり放り出すとは思われないがなあ。

ということは、「いつか来た道」で、あと 2年後ぐらいに、あの麻生政権の末期のように、獲得してしまった議席数にしがみつきつつ、一日も早い解散を迫る世間の声にさらされて、ボロボロになっていく民主党政権の姿が目に見えるような気がしてしまう。その頃の首相は、果たして誰になっているのだろうか。

ところが、現実問題として考えると、政権交代するとして、民主党に代る党があるのかというと、甚だ心許ない。自民党はなんだかガタガタの様相で、今さら票を投じたくなるような魅力がない。かといって、続々と誕生している新党が政権交代の受け皿になれるかというと、これもまた心許ない。

今の選挙制度は小選挙区制がベースになっているから、結局は民主党と自民党が拮抗して、他の小さな政党がキャスティングボートを握ることになるのだろう。自民から別れた小政党は結局「親・自民」を標榜しているから、小差で自民党が第一党になったりしたら続々と復党して、元の木阿弥になりかねない。それもまた、つまらない。

とはいいながら、参院選で民主党が安定多数を確保したら、またしても小沢さんが調子に乗ってしまうから、それも嫌だなあなんて思ってしまう今日この頃である。閉塞感いっぱいだ。

 

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2010年5月16日

庄内の旬の味覚

金曜日から酒田の実家に行っていて、2泊 3日滞在し、さっき自宅に戻ってきたばかりである。初日は雨模様で肌寒かったが、2日目からは天気も回復し、今日は鳥海山がきれいに見えた。やはり帰郷した限りは鳥海山を一目拝まないともの足りない。

酒田では旬の味を食べまくった。庄内には日本一おいしい筍である湯田川孟宗がある。湯田川温泉の理大夫旅館で、日帰り温泉と湯田川孟宗のお料理のパックを楽しもうと思ったのだが、父が風邪気味だったので、今回はあきらめた。

代わりに、スーパーで「田川孟宗」(「湯田川孟宗」ではないが、まあ、他の地方の孟宗筍よりはずっとおいしい)を買ってきて、妻に孟宗汁を作ってもらって食べた。仙台生まれ妻は孟宗料理になれていないので、インターネットでレシピをダウンロードして渡したら、そこそこおいしく作ってくれた。

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さらに、近所の人から月山筍をどっさりともらった。これは湯田川孟宗よりずっと小振りの細い筍で、ちょっと茹でたり天ぷらにしたり、あるいは味噌汁に入れたりして食べる。茹でたのにマヨネーズを付けると、お酒のつまみとして絶品だ。

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その上に、たらの芽の天ぷら、コゴミなどの山菜など、ちょっと苦みのある春から初夏にかけての自然の味覚を堪能させてもらった。今の季節の庄内は、食の殿堂である。

 

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2010年5月15日

山形県の難読地名

酒田に帰ってきているが、仕事がたまっているので、今日は短めで失礼。

山形県には難読地名というのがある。まあ、山形県に限った話ではないが、山形県にも結構多いということだ。

有名なところでは「余目」で、「あまるめ」と読む。昔、読み方を知らなかったよそ者の男が「ヨメには、どうしたら行けますか?」と聞いて、「そりゃ、無理だ」と言われたという笑い話がある。

それから「遊佐」で「ゆざ」、「左沢」で「あてらざわ」 というのがある。もっともこれらはそれはど無茶苦茶な読み方というわけではなく、言われてみれば「なるほど」と納得できるものだ。「左沢」にしても、古語で左を「あてら」、右を「こてら」と言ったという説もあるので、あながち荒唐無稽というわけではない。

それから、サクランボの産地で有名な「寒河江」は「さがえ」と読む。さらにちょっとこじつけかなというのに、「土生田」がある。「とちうだ」と読む。驚いたことに、Atok だと、一発で変換できる。それほど重要な地名ってわけじゃないのに。

それ以上に無茶苦茶なのに、「文下」「無音」 というのがある。前者は「ほおだし」で、後者は「よばらず」と読む。こんなのはちょっと勘弁してもらいたいものだ。この 2つは、Atok でもさすがに変換できなかった。

 

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2010年5月14日

半年ぶりの帰郷

妻と一緒に、酒田に帰ってきている。母が死んでからずっと一人暮らしの父のご機嫌伺いだ。一日中ちゃんとした人間の言葉で会話し、ちゃんとした料理を食う機会をもってもらわなければいけない。

先日電話したときに、30数年ぶりで風邪を引いたというので、心配していたが、来てみるとまだ少し鼻声ではあるが、元気が回復しているようなので安心した。何しろ、父は予科練で特攻隊に選ばれて、敵に突っ込む前に終戦になったおかげで今でも生きながらえているという人なので、ちょっとやそっとではめげない。

それに、81歳になってタバコを止めたというので、「もう 20~30年生きるつもりでしょ」と言うと、「そればっかりは勘弁してくれ」と笑っていた。いや、こんなに丈夫なら、100歳ぐらいはクリアしてしまうかもしれない。冗談じゃなく。

来てみると、酒田は寒い。明日は少しは持ち直すというのだが、こんなに冷え込んでいるとは思わなかった。今年の天気は、本当に油断がならない。

庄内は今、湯田川孟宗の季節である。おそらく日本一おいしい孟宗竹の子だ。我々も、明日買ってきて孟宗汁にして食べようと思っている。湯田川孟宗だけでなく、庄内には自然の恵みの美味に溢れている。今夜も、クチボソガレイ、山菜、野菜たっぷりのちゃんこ鍋、いくらなどをしっかりと食べた。

こんなおいしいものを関東で食べたら材料代だけで大変なことになるが、庄内ではそれほどの贅沢というわけではない。私は食材の宝庫の庄内で育ったので、とくにグルメ三昧などしなくても、自然に舌は肥えてしまった。

日曜まで酒田にいて、月曜からまた日常の暮らしに戻る。今日はこのくらいで失礼。

 

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2010年5月13日

ビジネスホテル品定め

出張などでビジネスホテルによく泊まる。これだけあちこちのビジネスホテルに泊まると、お気に入りでリピートするホテルもあれば、「あそこだけは二度と泊まらない」 という、個人的ブラックリストもできる。

期待以上にいいサービスを受けたら、私はチェックアウトの時、フロントに大変満足した旨を伝えて感謝の気持ちを述べ、従業員をエンカレッジするように心がけている。そうでもないときは、単に「お世話様~」で済ませてしまうが。

ビジネスホテルに泊まるとき、基本的には多少のデスクワークをして、後はシャワーを浴びて寝るだけだから、シティホテルのような、これでもかといったアメニティは必要ない。かなり古びた造りだったりしても、インターネット接続が問題なくできれば、「まあ、値段が値段だからね」 と諦めがつく。

ただいくらなんでも、壁紙はがれ放題で、床の安っぽいニードルパンチ・カーペットがじめじめと湿っぽくて、部屋中がタバコ臭くて息が詰まるというのは、やはりごめん被りたい。今までに何度かそういうホテルに行き当たってしまって、しっかりとブラックリストに入れてある。

それから、今ではインターネット接続無料というのはほとんどのビジネスホテルで対応してくれているが、デスクの上を古色蒼然としたブラウン管のテレビと、電熱盤方式の湯沸かしポットが占領していて、PC とちょっとした資料をを広げるスペースもないという部屋もある。そんな時は、えいやっとテレビを外して部屋の隅に置いてしまう。

それから、欲を言わせてもらえば、デスクチェアに背もたれがあるといい。疲れてチェックインしてからデスクワークをするので、背もたれがないとしんどいのだ。ところが、椅子に背もたれのないホテルというのが、日本中にかなりある。昨夜泊まった岡山市のホテルもそうだった。

とはいえ、造作やハードウェアが多少不満でも、まあ、我慢できる。こちらだって、安い値段のホテルを選んでいるのだから、そんなに贅沢は言わない。ただ、サービス面のソフトウェアがまずいと、満足度は下がりまくりになる。いや、下にも置かぬおもてなしをしろというわけではない。従業員があんまりトロくなければいいだけの話なのだ。

昨夜泊まったその岡山のホテルは、この面で「ちょっとね」という感じだった。

夜の 9時頃、PC に向って作業していると、突然隣の部屋からけたたましいアラーム音が聞こえてきた。隣の客が仮眠でもしていて、夜のお付き合いに遅れないように目覚ましをかけているのかと思ったが、なかなか鳴りやまない。10分以上鳴り続けている。

堪りかねてフロントに電話をする。「多分、隣の 608号室だと思うんだけど・・・」と言うと、向こうは皆まで聞かずに、「あぁ、アラーム音ですね。今、止めに行ってます」という。なんだ、空き部屋だったのか。そして、私より先にぶち切れてフロントに電話した人がいるようなのだ。

ところが、「今、止めに行ってます」という割には、それから 10分以上経っても鳴りやまない。頭にきてもう一度フロントに電話しようとしたところで、隣からバタンというドアの音が聞こえ、まもなくアラーム音は鳴りやんだ。やれやれ。

ところが、それからしばらくして 10時頃になると、またしてもけたたましいアラーム音が響き始めたのである。おいおい、さっきは一体どんな止め方をしたんだ。単に設定を 1時間先に合わせちゃっただけじゃないのか。

さすがにぶち切れてフロントに電話すると「ああ、またですか。申し訳ありません。今行きます」という返事があって、それからまたしても 10分ぐらい待たされて、ようやく鳴りやんだ。11時になってまた鳴りだしたら、フロントに殴り込みをかけようかと思ったが、さすがにそれはなかったので安心した。

まあ、これでこのホテルは私のブラックリストに入ってしまったわけだ。床のカーペットもなんとなくジメジメと湿っぽかったし。

クサすだけではこちらも寝覚めが悪いので、これまでに泊まったビジネスホテルの中でオススメというのを 2つご紹介しよう。

ベスト 1 は、宮崎の 「リッチモンドホテル 宮崎駅前」 というホテル。ここは、1泊 9,000~15,000円未満部門で、ホテル宿泊客満足度 4年連続 1位らしいのだが、それより安い値段で泊まっても(楽天で予約すると安い)十分満足である。とにかく気持ちのいいサービスである。

それから、京都の 「スーパーホテル」。日本全国にチェーン展開していて、京都にもいくつかあるが、私は四条河原町のスーパーホテルよりも、烏丸五条の方がオススメだ。駅から近いし、雰囲気も落ち着いている。

【2022年 3月 8日追記】

この記事を書いてから 干支が一回りするほど経ってしまったので、情報がずいぶん古くなってしまっている。より新しい情報は、2017年 11月 4日付の 「ビジネスホテル品定め 2」でご覧戴きたい。

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2010年5月12日

ある状況に最適化しすぎると

昨日の 「勝間和代 vs ひろゆき」 関係のコメントへのレスに書いたことも関係するのだが、人間、ある状況に最適化しすぎると、その状況が変わってしまった時に大変なことになる。例えばバブルの頃の経済状況に最適化したビジネスモデルを組んだベンチャー企業の多くは、今は潰れてしまったか、潰れないまでも、見る影もなく落ちぶれている。

これは昔から知られた世の中の法則のようなもので、「諸行無常」とか「盛者必衰」とか、「塞翁が馬」とか言い習わされている。

勝間さん、「成功哲学がありがたがられる状況」、あるいは「頑張ってる女性へのシンパシー幻想が生きている状況」(まわりくどい言い方でゴメン、不毛なツッコミを警戒するあまり、ついこんなになった)には、かなりなレベルで自己最適化することに成功したようにみえる。

しかし、状況への最適化が仇になる時がくる。状況というのは必ず変わってしまうものだからだ。変わらない状況というものがあった例しは、これまで一度もない。変わるからこそ「状況」として認識されるのだ。

そして状況変化に対応する方法は二つ。「不断の自己変革」と、「状況に最適化しすぎないこと」という、対照的なコンセプトだ。勝間さんは既に最適化してしまったように見えるから、生き残るには、それまでの自分を裏切ったように見えるまでの「ドラスティックな自己変革」が必要になるだろう。

フツーの人間は、「不断の自己変革」なんていう疲れることはしたくない。そういう疲れることをしたくない人は、「状況への自己最適化」なんてことも、当然したくない。だから「状況に最適化しすぎないこと」を選ぶ。なぜなら、その方が楽だからだ。そして、このほとんど無意識的な選択が、図らずも状況変化後にもサバイバルできる可能性を保証する。

勝間さんに好意的でない人間の多くは、この「状況への過度の最適化志向」に、本能的なまでのリスク(それを 「生理的嫌悪感」と呼んでも、それほど間違いじゃない)を感じるからだと、私は思っている。

「もうちょっと、楽な生き方しようよ。その方が、生き残れるよ」と言いたいのだが、それは人生の努力をサボっているようで、甚だ聞こえが悪いから、大きな声で言わないだけなのである。

 

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2010年5月11日

「勝間和代 VS ひろゆき」を、「読んだ」

ネット上で「勝間和代 VS ひろゆき」の対談がずいぶん話題になっている。それは YouTube にも載っけられて、誰でも見ることができたようだが、さっき確認したら TV Tokyo からの要請で削除されてしまっていた。

まあ、リアルタイムあるいは YouTube で見た人の多くは「勝間惨敗」という印象を抱いたようなんだけど、私としてはご両人ともとりたてて好みのタイプってわけじゃないので、「見なくていいや、そんなもん」と思っていた。

ところが、当ブログのコメント欄でもお馴染みの kinnme さんが、この対談をテキストに起こしてくれた人のサイト(参照)を見つけて、Twitter で知らせてくれた(参照)ので、「だったら、サクサク読んじゃえば時間もかからないし」と思い、読んでみた。

kinnme さんもやっぱり、動画の方は「面倒で見る気力がなかった」が、テキストならばと読んでみたようなのだ。で、私も読んでみての第一印象だが、「ふ~~~ん」というだけである。

知らなかったんだけど、この対談は BS Japan の「デキビジ」という番組企画の一環で行われたもので、勝間さんはこの対談のホステス役、ひろゆき氏はゲストとして登場したもののようだ。ふ~ん、だとしたら、ゲストの選定段階でのミステイクである。

元々は「インターネットにおける匿名性なんちゃら」というあたりがテーマだったらしいのだが、話はどんどんずれて行って、というか、空回りして、なんだかわけがわからないうちに、勝間さんが匙を投げてしまったような観があるということのようなのだ。

勝間さんとしては、規制でがんじがらめの日本社会批判を展開して、ひろゆき氏に「それは確かに、そうですよね」ぐらいは言わせてみたかったというような意図がちらちら窺えるのだが、あいにくなことに実際の展開はそうはならず、なんだか最後までかみ合った話にできないまま、最後はちょっとぶち切れ気味になったんじゃないかという印象である。

この際だから言わせてもらうけど、勝間さんの論調は、実はもう古いのだ。アウト・オブ・トレンドなのである。トレンドというのはコワイもので、リアルタイムの潮流から圧倒的に外れまくってしまうと、それはそれなりに新鮮に見えてしまうが、「最近外れかけている」というものほど、陳腐に見えてしまうのである。

勝間さんの論調は、まさにそれなんだよね。歴史はちょっと別の方向に舵を切りかけていることに、気付かなければならない。気付いた上で、これからもずっと「アントレプレナーおばさん」として生きていくつもりなら、それはそれで構わないけど。

 

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2010年5月10日

脳を使うと腹が減る

脳ってかなりエネルギーを消費する器官なんだそうだ。しかも、ブドウ糖しか消費しないらしい。私はケーキを食べるときに「砂糖の糖分って、ブドウ糖に分解されやすいから、脳にいいのよね」と、決まり文句のように言う女性を知っている。彼女にとってこの言葉は、免罪符のようなものなのだろう。

科学者とくに化学とか物理学とかの権威といわれる人に聞くと、ものごとをとことん突き詰めて考えている時というのは、かなり腹が減るそうだ。そんな時は、脳が相当にエネルギーを使っているらしい。

試しにググってみると、脳というのは、安静にしていても 1日に 120g、1時間に 5g ものブドウ糖を消費するという。臓器の中ではずば抜けて大食いなんだそうだ。だから、フィジカルな運動をしないでダイエットしたかったら、ものごとを理詰めでとことん考えるといい。ただ、いくら考えても考えて消費した以上のエネルギーをケーキで補ったら、元の木阿弥だ。

そして、脳はブドウ糖しか消費しないから、いくらとことん考えても、下腹にたまった脂肪は消費してくれない。脳って贅沢である。

脳のエネルギー消費が最大限に高まるのは、集中してものを考えている時で、そんな時は普段の 150%ぐらいのエネルギーを使うという。PC の CPU がガンガン熱を発するぐらいに、エネルギーを消費しているのだ。なんとなくわかる。必死に頭を使った時って、運動をした後ぐらいに疲れるし、冷却ファンが欲しくなるほど熱っぽくなるもの。

ただ、一度学んで身に付けてしまったことに関するタスクというのは、案外エネルギーを消費しないんだそうだ。手慣れた仕事というのは、なるほど、疲れないし、熱っぽくもならない。私なんか、何をテーマにしても結局同じようなことを語ってしまうタイプの物書きだから、うぅむ、ダイエットには役に立たないみたいなのだ。

新しいことにチャレンジしないと、エネルギーは脳で消費されずに、脂肪に姿を変えて下腹に蓄積されてしまう。なるほど、亀の甲より年の功とか言って、いつもの手慣れたタスクを楽にこなすようになると、下腹が出っ張るのは道理である。私ももう少しチャレンジングなことをしないといけないかなあ。

 

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2010年5月 9日

高野山参り

せっかく近くまで出張したのだから、高野山にお参りしなければもったいないと思い、今日半日、駆け足で廻ってきた。

南海電車橋本駅から極楽口といういかにもわくわくする名前の駅まで行き、そこからケーブルカーに乗って高野山という名前の駅まで、急な山の斜面を一気に登る。着いたところは iPhone の表示が「圏外」となるほどの山の中。そこからさらにバスに乗る。一体どんな秘境に連れて行かれるかと思ったが、着いたところは役場や郵便局まである「町」である。

標高 800メートル以上の山の中に、奇跡みたいに平らな土地が広がっていて、そこが高野山の町であり、金剛峰寺を初めとする大小様々の堂塔伽藍が並んでいる。とりあえず時間もないので、金剛峰寺と根本大塔、奥の院を周り、最後に美術品を所蔵した霊宝館を見て戻ってきた。とりあえず要所要所はしっかりと見られたと思う。

さすがに、あの御大師様の開かれた真言密教の総本山だけあって、すごいものである。根本大塔だけは昭和になってから落雷で焼失したものを再建しただけあって、色も鮮やかだが、他の堂塔伽藍はすべて何百年もの歴史を感じさせる。何しろ、金剛峰寺って、屋根が瓦葺きじゃないのだ。茅葺きなのである。

弘法大師は、高野山の山の中に久遠を見いだしたのだろうなあ。如来の久遠を。さらにいえば、京の都から熊野に至る道筋の中に、こんな素晴らしいロケーションを設定したというのは、さすがに素晴らしい直観としかいいようがない。

高野山というところは、素晴らしい仏像や襖絵、霊宝館などはほとんど撮影禁止というのがちょっと癪なのだが、六角経藏を撮ったら、ごく普通に撮影しただけなのに、なんだか屋根が二重に映り込んで、重塔のようになってしまった。これって、御大師様のサービスだろうか。

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金剛峰寺ではしっかりとお茶までいただいたが、お寺さんで座ってしまうといつまでもまったりしていたくなるのを必死になってガマンし、早足でさっさと拝観して、ようやく夕方までに降りてきた。ああ、今度は同じ紀伊半島でも、熊野詣でをしてみたいなあ。

 

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2010年5月 8日

iPad もやっぱり SB か

iPad は日本では結局、ソフトバンクモバイルが独占販売することになってしまったようだ。私は元々 iPhone を利用しているぐらいだから個人的には別にいいんだけど、日本市場での今後の可能性ということになると、どうなんだろう。SIM ロックをかけない展開が本道なんだろうになあ。

価格的には、価格はメモリー 16ギガバイトの場合で、Wi-Fi のみのタイプが 48,960円から、3G 接続可能のタイプが、58,320円からというので、まあ、リーズナブルだろう。ネットブックと比較して決して安いわけではなく、機能的にはネットブックの方が豊富なのだが、それらとは別物と思えばいい。

これまで PC の扱いが苦手で、インターネット接続ぐらいにしか使っていなかった層にとっては、下手に機能豊富なネットブックなんかよりずっと使いやすいだろう。私は PC に抵抗があって、今イチ気軽に使いこなせていないというオジサン、オバサンたちにおすすめしたい。

もしかしたら、個人的にも購入してしまうかもしれないが、それは多分、1~2年経ってバージョンアップした頃になるだろうと思う。

今日は出張中で立て込んでいるので、これにて失礼。

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カタカナ言葉のフィーリング

商品紹介パンフレットとか写真入りメニューなどで 「(※ 写真はイメージです)」 という但し書きをみることがよくある (なぜか「コメジルシ」付きの場合が多い)。しかし、そもそもの話をさせてもらえば、言うまでもなくすべての写真はイメージなのである。つまり、イメージでない写真なんてこの世にありえない。

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この言い方を初めて見た時は、目が点になった。「サンプル写真は実物とは少し違う場合がある」という意味で言ってるんだろうと見当はつけたものの、やっぱり「なんじゃそりゃ? 感」は否めない。というようなことを tweet したら、すぐに 3つも RT がついた。

まず、hempvermilion さん。「違和感ありまくりです。以前チラシを証拠資料として英訳した時この文面に出会って非常に困りました」とおっしゃる(参照)。確かにこれ、英訳しようがない。"Image" という単語には元々 「画像、映像」 という意味がある。そのまま訳したら、「写真は画像です」 というような意味のナンセンスな文になってしまう。

ちゃんとした意味を伝えようとしたら、前述のように「サンプル写真は実物とは少し違う場合がある」と、ずいぶん親切な意訳をしなければならない。

さらに、yukiokb さん。「日本語の『イメージ』と英語の image の違いですね。日本語にはバーチャルというニュアンスが含まれているように思います」と、クールな指摘(参照)。まさにその通りである。だからといって、「写真はイメージです」というのは無茶苦茶な言い方に違いないとは思うが。

おもしろいのは brandinglab さん。「この場合『写真は本質を意図したものです』この本質とはコンセプトのこと」とおっしゃる。なるほど、モノそのものではなくて、「こんなような感じ」ということを表現したので、「実物とは違っていることがあっても当たり前」と言いたいというわけだ。

つまりこの場合、「イメージ = 本質 = コンセプト」ということになり、「イメージ」という単語を 「かなりいい加減だけど、言いたいことわかるね! わかるよね!」といった感じで使っていることになる。まあ、ずいぶん乱暴なことではある。

この「写真はイメージです」という言い方でわかるのは、日本人はカタカナ言葉を、かなり乱暴というか、恣意的というか、はたまたテキトーというか、まさに「イメージだよ、イメージ!」という感じで使う場合が多いということだ。

一昔前に流行った言い方をすると、「フィーリングだよ、フィーリング!」ってな感じになる。このあたりが、「カナカナ言葉の濫用」を批判される所以なのだろうね。

実は私自身もカタカナ言葉は結構よく使う方で、「どこがいけないっていうんだ」と開き直ってもいる。というのは私としては、論理的思考の道具として、敢えてカタカナ言葉を使うことが多いのだ。物事を論理的に考えようと思ったら、英語由来のカタカナ言葉が便利なのである。

ところが、この「写真はイメージです」とか、何だか知らないが 「ハイパーメディアクリエーター」とかいう言い方をみると、なるほど、カタカナを毛嫌いする人の気持ちも少しはわかるような気がするのである。

「イメージだよ、イメージ!」 と言ってしまうと、論理もへったくれもなくなってしまうのだよね。

 

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2010年5月 7日

3D 映像を巡る冒険

今朝、アキバのヨドバシカメラの前を通りかかったら、3D テレビの大プロモーションが行われていた。パナソニックが 4月下旬に発売してから、やたらと注目が高まっているらしい。ただ、注目は高まっているらしいが、「買った」 という人は身近に一人もいない。

映画では『アバター』だの『アリス・イン・ワンダーランド』だの、3D 映画が大ヒットして、09年の世界の映画興行収入のアップに貢献したらしい。今や、映画でヒット作を作りたかったら 3D にすればいいみたいな勢いである。

ただ、私としては、3D ならなんでも OK と言わんばかりの風潮には疑問を呈したい。昨年、たまたま 3D 映画が連続してヒットしたからといって、猫も杓子も 3D というのはアブナい。当たり前の話だけど。

というのは、『アバター』にしろ『アリス・イン・ワンダーランド』にしろ、「3D 映画ってどんなものなのか、話のタネに一度見てみよう」という観客が多かったという、プラス α の要素が大きかったと思うのだ。つまり物珍しさというファクターである。

物珍しさで一度見てみて、「やっぱり、3D 映画ってすげぇわ、また見よう」と思う人もいれば、「ふーん、3D 映画って、確かにすごいけど、まあ、どんなもんだかわかったから、もういいわ」と思う人もいるだろう。その比率がどうなるかわからないが、「3D 映画ならなんでもいいから、片っ端から見よう」なんて思う人は少数派だろうと思うのだ。

映画の出来がよくて、しかも 3D との相乗効果が素晴らしいという作品なら、今後も当然ながらヒットするだろうが、「話のタネに見てみよう」 というファクターは徐々に比重が軽くなる。そのうち多くの映画ファンが「3D 慣れ」してしまったら、もう、普通の映画と同じ土俵で勝負するしかなくなる。

かなり先の話になるだろうが、「3D なんて、コストばかりかかって儲けが少ないよね」ということになるかもしれないし、あるいは、3D があまりにも当たり前になった結果 「二次元だと全然インパクトがなくて、誰も振り向かなくなっちゃったよね」ということになるかもしれない。

ただ、3D が当たり前になるためには、面倒な眼鏡なんかかけなくてもよくて、どんな角度から見ても自然な立体画像として見えるレベルまで進化しなければならない。3D 映像は、技術的には発展途上段階にあるというほかない。

家庭用テレビに関しては、わざわざ正面に座ってかしこまって見るようなヘビーなプログラムでないと、3D  の意味はなかろう。どうでもいいお笑いやバラエティを、眼鏡かけてかしこまって見てもしょうがない。近頃ただでさえ、番組制作費が低く抑えられているし。

3D テレビが一般化するまでには、ハード的にもソフト的にも、まだまだかなりの時間がかかるだろう。

 

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2010年5月 6日

今月は体力勝負だ

5月は体力勝負になりそうだ。忙しさと冬から夏への急転直下(参照)で頭がぼうっとしていて、まだ現実感が伴わない。

世間がゴールデンウィークと言って浮かれている間も、私のオフは 5月 4日のたった一日しかなかった。他は仕事で飛び回っていた。とくに、4月 28日から 5月 1日は、北海道で氷雨に震えていた。連休中、日本で唯一悪天候だった北海道にいたのである。そのうえ、2泊目のホテルのエアコン不調で風邪気味になったようで、貴重なオフの一日も、半日寝込んでしまった。

今週末の 8日も一泊で出張。全然休めない。もっとも、出張先が高尾山の近くなので、神社仏閣好きの私としては嬉しい。せっかくだから、2日目にはぜひ参拝してこよう。

帰ってきて、12日には、今度は岡山に出張だ。そして翌日に帰宅して、その翌日、14日の金曜日は早出で帰郷する。6~7時間の運転になるだろう。そして、日曜日の多分夜中に帰宅。

22、23日の土日も、仕事が入っていて休めず、翌週 29日の土曜日は同級会で飲み。翌 30日は、日曜とはいえ会議が入っている。要するに、今月は一昨日しかまともなオフはないということだ。ああ、このたった一日のオフの半日を寝込んでしまったのだ。

いや、今改めて iPhone のカレンダーを確認してみたら、今年に入って正月の三が日以外でオフが取れたのは、その 5月 4日だけじゃないか。5か月でたった一日のオフの半日を無駄にしてしまったのか。なんという取り返しの付かないことをしてしまったのだろう。

それにしても、半日寝込んだだけで元気になってしまうのだから、我ながら健康な体がありがたい。この健康な体のおかげで、6年以上、毎日 2つのブログを連続更新できているのである。

とにかく、今月はぶっ倒れないように、気を入れて踏ん張る。

 

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2010年5月 5日

極端から極端に振れる天候

ゴールデンウィーク中に東京に 1ミリの雨も降らなかった、つまり、ずっと天気が良かったというのは、気象庁の観測によると 25年ぶりなんだそうだ。つまり、平成の御代になる前の、昭和60年よりこっち、今年までなかったというのである。

1985年のゴールデンウィークというと、私は多分、日本にいなかったので、晴天続きの連休というのは私の記憶にない。いや、外国にいたといっても観光じゃない。仕事である。フランクフルトのメッセ会場でかけずり回っていたと思うのだ。外国ではゴールデンウィークなんて関係ないからね。

というわけで、私の個人的経験則からして、ゴールデンウィーク中、ずっと晴れるというのはあり得ないことだと思っていた。前半晴れたら、後半に必ず降る。前半ぐずついたら、後半に晴れる。そんなもんだと思っていた。ところが、こんな年もあるのだね。100年に 4回ぐらいの割なのかどうか、知らないけど。

それに、今回の連休にしても、私は 5月 1日まで氷雨の降る北海道にいたのである。屋外での撮影をするときには必ずぴたりと降り止んで、辛うじて晴れ男の面目を保つことができたけど。

つまり、私は晴れ男だけど、ゴールデンウィークに限っては、晴天続きというのに縁がないみたいなのだ。どいういうわけか知らないけど。そもそも私は、カレンダー通りの仕事じゃないから、今年だって 1日しか休めなかったし。

ところで、天候というのはどこかで帳尻合わせをすると言われる。暖冬だったら春先にいつまでも暖かくならないとか、夏の初めにぐずついても、お盆前から急に猛暑になったりとかいうのは、それほど珍しいことじゃない。振り子が振れすぎると、必ず揺り戻しが来る。

その視点からすると、この連休に晴天が続いたというのは、日本人の行いが良かったからというわけじゃなく、それまでぐずつきすぎていたから、今頃になって帳尻合わせで晴天が続いただけなんじゃなかろうかという気がする。

この春は、晴れて妙に暖かい日と、寒い雨の日が 1~2日周期で繰り返された。このように、2~3日の短期的スパンでみても極端から極端に振れていたのだが、中期的スパンでみても、不安定な天気と安定した晴天が極端に繰り返されるということになるのかもしれない。

つまり、近頃の天気は短期的にも中長期的にも、極端から極端に振れて、そのことによって極端なバランスを取るというようなトレンドにあるようだ。マイルドな陽気、春らしい春とか、秋らしい秋というのは、とてもレアな現象になりつつあると思う。

 

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2010年5月 4日

「虫コナーズ」 の教訓

いやはや、さすがに疲れが溜まっていたようで、ホームセンターで庭用の培養土などの買い物を済ませたら、急に目が開いていられなくなって、気絶のような眠りにおちいった。ふと目覚めると、時計は 7時を廻っていて、世界は暗くなっている。ああ、せっかく人並みのオフが取れたのに。ゴールデンウィーク中でたった 1日のオフだったのに。

ところで、知らなかったんだが、今日は国民の祝日だったようなのである。「みどりの日」というのだそうだ。それまで4月 29日がみどりの日だったが、この日が「昭和の日」になったことを機に、5月 4日に変わったという。それまでは、祝日の間の日はお休みというちょっとイレギュラーな扱いだったが、今は晴れて国民の祝日ということになっているようなのだ。

ああ、それでわかった。買い物の行き帰りにカーラジオで聞いていた TBS ラジオ「小島慶子のキラ☆キラ」の今日のテーマが、「ちょっと植物の話」だったのはそういうことだったのね。なるほど、なるほど。

その「ちょっと植物の話」で紹介されてた聴取者の体験談に、「ベランダ栽培していたキュウリが、花は咲いたのに実が成らなかった」というのがあって、妙に印象に残ってしまった。受粉がうまくいかなかったようなのである。

その地域は虫が飛んでいないわけではないのに、どうして受粉できなかったかというと、なんとベランダに「虫コナーズ」が吊してあったためとわかったという。

このエピソードは、2つの教訓を含んでいる。1つは、金鳥の虫コナーズは、本当に効くらしいということ。2つ目は、虫が寄ってこないということが、必ずしも幸福につながるものでもないということだ。

 

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2010年5月 3日

フェティッシュな欲望の器としての書籍

"電子書籍:「元年」出版界に危機感 「紙の本」はなくなるのか" という毎日新聞の記事を読んで、先月 11日に Twitter 上で行なわれた まこりんさんとのやり取りを思い出した。ことの発端は、まこりんさんが次のような tweet をしたことである。

多すぎる本を処分したいけれども、処分できる本がない。布団圧縮パックみたいなのが、本にもあればいいのに。 (参照

本というのは元々、隙間なくびっしりと圧縮されているので、物体としてはあれ以上は縮まらないのが悲しい。縮めるとしたら、本という物体の形から離れるほかない。そこで、次のように返信した。

綴じられた紙という形で本をもってた頃は、随分な場所ふさぎだったよね - なんていう時代がもうすぐ来そう。便利なような、味気ないような。(参照

そこからどんどん話が膨らんで、私は相次いで次のように tweet する。

紙の本って、本棚の飾りと、紙の質感を伴って初めて完成するという類いの分野でしか生き残らないんじゃなかろうか。(参照

壁一面を覆い尽くす本棚にびっしりと並ぶ本を眺めて、「これがハードディスク 1個で済んだら」 とか、「書籍リーダー1台で済んだら」 とか、時々夢想する。だって、昔の LP 100枚が小さな iPod に入っちゃう時代でしょ。(参照

それに対して、まこりんさんがとてもいい感じの反応を示した。こんなようなものだ。

好きな小説・漫画とかは紙でもっていたいと私なんかは思っちゃいます。情報を扱っただけという類のもの――雑誌なんかはダメだろうけれども、作家性の強い書籍――小説とかは、フェティッシュな欲望の器としてこれからも生きていくんじゃないかなと私は思います。(参照

どんなに書籍が電子化されようとも、紙の形のままで持ち続けたいという本があるというのは、私もとても理解できる。それを 「フェティッシュな欲望の器」 と表現されているのがまた、とてもよくわかる。

それで、私は自分の本棚を眺めて、「これは電子化 OK」「これはフェティッシュな欲望の器」と、分類してみた。その結果、電子化 OK の書籍はほとんど 9割ぐらいになるという結論に達した。残り 1割が、「フェティッシュな欲望の器」 である。

それが実現したら、私の部屋の本棚は一つで十分ということになる。そうすれば私の部屋もかなりすっきりするだろう。元々私は、「形」あるものとしての「モノ」へのこだわりが、かなり薄いんだろうと思う。

ところで、「フェティッシュな欲望の器」 ってなかなかいい表現なんだけど、いまググってみたら、まこりんさんがオリジンみたいだから、いっそ商標登録しちゃったらどうかとオススメしたくなってしまった。

 

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2010年5月 2日

今年の衣替え

今日は暖かい。というか、ちょっと暑い。それは日が暮れてからも同様で、窓を閉め切っているとむんむんするので、網戸にして風を入れている。服は Tシャツ一枚でちょうどいい。これはもう、夏の感覚だ。

昨日の札幌はまだそんなに寒くはなかったが、一昨日までは道の両側に除雪した雪の山の残る地域で、冷たい風に震えていた。私が北海道にいた 4日間のうちに、関東の地はすっかり初夏になってしまったようである。

ただでさえ天気の変わり具合が極端といっていたのに、よりによって私が寒い北海道に行っている間に、藪から棒的に夏になってしまうとは、まさに極端の上にも極端という演出である。今年の天気は本当に油断がならない。

ところで、今日は妙に暑いと思っていたら、何と、昨日まで来ていた冬用のジャケットをそのまま着て外出していたのだった。道理で暑いわけである。明日は今年初めて、春用のジャケットで外出する。

今年の衣替えは、例年の半月遅れになってしまった。

ところで、北海道に行っている間に、先月 29日の記事で紹介した 『共感の時代へ』 という本が、Amazon から届いていた。

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連休だというのになかなか忙しくて、まとまった時間が取れないが、少しずつ読んでいくことにしよう。

 

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2010年5月 1日

自由律俳句のようなもの

先週まで週末は、『唯一郎句集』 のレビューをしていたので、それが終わってから初めての土曜日、一体何を書いたらいいのかわからなくなってしまった。で、ふと気付いてみると、Twitter に酔狂で書き込んできた妙な tweet がたまっている。

これ、もしかしたら、唯一郎には到底及ばないものの、自由律の俳句みたいなものかもしれないと思い、出張先で時間もないので、ここにこれまでの分を挙げてみたいと思う。もしかしたら、唯一郎が降りてきたのかもしれないし。

取手の氷雨止まざり 息白し

駐車場の桜凍ゆるに散るを拒むか

氷雨の駐車場の土の白きは車去りてほどなきを語る

空晴れ渡れど秋葉原駅に降りても風冷たし

風冷たき日陰の路地を歩きても灌仏会

時の経つぞ遅きは久し振りに晴れたる日

ビルの上階の窓に映るは蒼き空のみにて

誰が声ぞと聞けば一昨日の我が声の留守電

タンクローリー白き灯りともして国道を下り行く

しんしんと冷ゆれば県道のトラックの音近付き来て遠ざかる

花のあまりに長く咲き続くは桜らしからずとふ人もあり

何処より舞ひ来たりしや週明けの駐車場の花筵 (はなむしろ)

利根川に逆波立てて丑寅の風吹けばいまだコートの襟立てる通勤の人

通勤電車の床雫に濡れ乾くまで暫く

通勤電車の窓結露して行き過ぐる世のすべて幻

葉桜のまま久しく散り残る花ぞかなしき

雨の宵の電車の風切る音いつになくひゆるひゆると甲高くせつなし

向かひでメールする娘の携帯よりテディベアぶら下がり揺れ揺れて我を見る

微かなる冷たさ頬に浴びて雨未だ止まざるを知る宵の帰路

久方のてふ枕詞嬉しき青空にいかにも春らしき綿雲の止まりゐるにもあらず

原野の雑木林に白樺の幹ことさらに白く僅かに曲がり伸ぶ

何故か心引かる恵庭てふ地名

目路の限り広がる石狩の空は等しく灰色にて墨絵の木々

曇りたる北の車窓を手の甲にて拭う人あれば遠眼鏡の原野

最後の作は、ちょっと字余りの三十一文字にして、4月 28日の和歌ログの歌にした。

 

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