« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月に作成された投稿

2010年6月30日

岡田ジャパン終戦で、今夜はぐっすり寝るぞ

近頃土曜も日曜もなく、仕事が続いている。最近オフが取れたのはいつだったのかと、ダイヤリーを調べたら、今月の 6日 (日) に半日だけ休めたと確認された。しかしこの日は、午後にちょっとだけ横になったら気絶のごとき爆睡に落ちてしまって、「休日をとった」という気があまりしない。そろそろ、しっかり一日中休めるオフを取りたいなあ。

このジメジメした梅雨時に仕事続きで、ただでさえ疲れ気味なのに、ご多分に漏れず FIFA ワールドカップである。夕べも 10時過ぎからテレビの前に陣取って、しっかり見てしまった。11時に試合開始だから、1時には眠れると思っていたが、延長戦に突入してしまい、さらに PK 戦にまでなってしまったので、結局寝たのは 2時過ぎである。ますます寝不足だ。

こうまで疲労が溜まって寝不足だと、頭がまともに働かない。というか、そもそもインプット機能がまともな状態じゃない。五感を通じて入ってくる情報が、脳に達しないうちにどこかでフェイドアウトしてしまっているような感じだ。

幸か不幸か、これから先はワールドカップでも、どうしてもリアルタイムで試合を見たいというようなのはないから(決勝戦はわからないが)、夜中は眠れそうだ。少し体力を回復しないとさすがにしんどいので、今夜は早めに寝るとしよう。

それにしても、岡田ジャパンはワールドカップが始まるまでは、どうにも勝てそうなイメージが浮かんでこなかったが、南ア入り後は戦術を現実路線に転換したようで、チームとして俄然機能し始めた。まるで理想ばかりの鳩山首相から少しは現実的な菅首相に代わった民主党政権みたいなものである。

民主党は小沢グループがゴチャゴチャ言ってるので、まだまだきな臭いが、日本チームはかなりまとまっていた。おかげで、私なんぞはグループ・リーグではよくて 0勝 2分 1敗だと思っていたのが、勝ち点 6なんていう夢のような結果になった。

今大会で課題も明確になったので、まだまだ強くなるだろう。敗退しても、4年前みたいな虚しさはない。いい夢を見せてもらったことに感謝である。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年6月29日

相撲と博打

相撲の世界が野球賭博騒動でガタガタになっている。よくまあ、そんなに大勢の関取や親方が賭博に入れ込んでいたものだと思うが、元々お相撲さんは博打が大好きな人たちらしい。

先日ラジオを聞いていたら、ある放送記者がおもしろいことを言っていた。相撲を担当することになったとき、先輩から「くれぐれも、麻雀ができるとだけは公言するな」と言われたそうだ。これは代々の相撲担当記者の申し送り事項だったらしい。

相撲取りの前で「私、麻雀できます」と一度言ってしまうと、大変なことになるのだそうだ。強引に賭け麻雀に引きずり込まれ、しかもその金額が半端じゃないらしい。だから相撲の世界に関わりを持ったら、失っても惜しくない金がいくらでもあるとか、そもそもご祝儀を出すつもりとかでない限り、「麻雀ができる」なんて口にしてはいけないというのだ。

とまあ、こういうわけだから、マスコミの担当記者は、相撲の世界がギャンブルまみれということぐらい、ずっと前から知っていたはずなのである。ちょっと周りを見渡せば、怪しげな、いかにもそれとわかる人物が我が物顔に出入りしていることにも気付いたはずなのである。なにしろ本場所の向こう正面にしょっちゅう座ってるぐらいなのだから。

それでも、まあ、言えなかったんだね。相撲の世界はよきにつけ悪しきにつけ、「伝統」とやらでぐるぐる巻きに縛り付けられていたのだ。

相撲取りというのは、基本的に相撲の稽古とひいき筋のご機嫌伺いしかすることがないから、暇である。あんなちょんまげして着物姿で街に出かけても、あまり居心地よくないだろうから、部屋でゴロゴロしている時間も長かろう。そうなると博打ぐらいしかやることがないということにもなるのだろう。

つつましい麻雀や仲間内の甲子園野球優勝校当てぐらいで済ませておけば、それほどの大問題にはならないのだろうが、なにしろ怪しげな人物がしょっちゅう出入りしている世界である。大がかりな野球賭博に関わりを持たずに済ませられるわけがない。でまあ、こんな騒ぎである。

文科省管轄の財団法人として、よくまあ今までこんな状態を見逃してもらえていたものだと感心するが、この辺りにも、政権交代の影響というのが垣間見えたりする。政権交代というのは、やはり時々はした方がいいのである。

 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年6月28日

色あせつつある Microsoft の時代

先週末、外で持ち歩く PC は、別に iPad でなくても、安~いネットブックでいいじゃないかというアイデアがふとわき起こり、それならばと、金曜日の夕方、アキバのヨドバシカメラでちょっと物色してみた。

ところが、安いネットブックのどれをみても、全然ピンとこないのである。それらはたいてい、OS が Windows XP で、メモリが 1GB 程度だったりする。「立ち上がるのに手間がかかりそうだな」とか、「メモリが足りなそうだな」とか、嫌な感じがしてしまう。さらに、とにもかくにもモニター画面が小さい。

HD 容量も小さいので、MS Office なんてものはインストールしたくないから、せいぜい軽い互換スイートで代用することになるだろう。そうなると、そもそも Windows XP なんていう今では中途半端な存在になってしまった OS のマシンを使う必然性というのが感じられない。

出先のスタバかなんかで、小さなネットブックを開き、しょぼい画面でちまちました作業をする自分を想像すると、なんとなくうらさびしい気持ちになってしまう。何が悲しくて、こんなもの買わなきゃいけないんだという気がする。

こうしてみると、Windows というのは今後、ビジネス用に特化した無粋な OS という位置づけになるんじゃないかという気がする。フツーのコンシューマー用としては、iPad、あるいは iPad 的なデバイスで十分だ。その方がずっと楽だし、楽しいし。

私個人としては、オフィスで相変わらず Windows マシンを使い続けるだろう。しかしバッグに入れて持ち歩き、外でちょっとした仕事やプレゼンテーションをするぐらいのことに、Windows マシンを持ち歩くのは、もう勘弁してもらいたいという気がする。もう少し経ったら、多分 iPad を買ってしまうだろう。

そして iPad を買ったら、Windows マシンを起動させている時間は確実に短くなるだろうと思う。iPhone を買ったあとでも、PC を起動させる回数が劇的に減ったのだから。

Microsoft の時代は終わったとまでは言わないが、確実に色あせてきていると思う。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年6月27日

論理思考の限界 その 2

もう、仕事が続きすぎて、さすがに疲労を感じる。今日は短めにて失礼。

昨日の「論理思考の限界」という記事で書き落としていたことを書きたい。論理思考は西洋医学的で、つまり即効的だ。「論理」という閉じた構造の中で、単純化したモデルによって分析検討するので、当然そうなる。

しかし、その効果によって改善されたポイントが、その外部との軋轢を生じたりする。西洋医学の方が副作用が現れやすいのと似ている。

部分の中の正解が、外部との軋轢の原因になるというのは、日常生活においてはくさるほど見聞きされる、というか、世の中の現象は、ほとんどそんなことばかりである。「あちら立てればこちらが立たず」なのである。

「部分最適より全体最適を求めよ」なんて言う人が多いが、「そんなことよく言うよ」と思う。全体最適というものがそんなに簡単に実現されるはずがないではないか。そういう彼らのイメージにしても、せいぜい「そのサークル全体」における最適であって、それ以上の外部までは視野に入っていない。

「部分という全体」なら、話は楽だが、その中での最適が果たされたとしても、その次には必ず、その外部との矛盾が問題になる。そうなると、やっぱり「あれか、これか」の二者択一、二項対立が蒸し返されて、うまく着地点が見いだせないと面倒な話が延々と続くことになる。

そうなると、部分最適すらテキトーなところで納めておく方が利口じゃないかということになったりする。この論理は、先月書いた「ある状況に最適化しすぎると」という話と共通してしまうかもしれない。

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2010年6月26日

論理思考の限界

「人間の脳はデュアルタスクまでが限界」ということに、私はまだこだわっている。「論理思考」が、実はあまり当てにならないということを、人間はきちんと認識すべきだと、ますます強く思うようになった。

参照: 人間の脳はデュアルタスクが限度なので
    人間の脳は三等分すら苦手なので

たとえば経済学者のいう「経済活性化策」が、そのままうまくいった試しがあまりないのは、論理思考の限界によるものと私は思う。経済活性化のためのいろいろな方策が、「あれか、これか」の二元論の繰り返しによる論理思考の末に生まれたものだとすれば、その過程で複雑系の中の諸要素はどんどん切り捨てられている。

いろいろな要素が切り捨てられて、とことん単純化されたモデルの二者択一の繰り返しで生産された方策が、実際には複雑系のままとぐろを巻きながら進展している実社会において、うまく機能するはずがない。

単純化したモデルを構築しないと、明確な処方箋は作れない。しかし、単純化したモデルを構築した時点で、それは実社会の重要な要素の多くを切り捨ててしまっている。かといって、モデルを単純化せずにできるだけいろいろな要素を内包したままにすると、論点がアバウトになりすぎて、分析的検討の対象にすらならない。

論理というのは元々、こうした重要な矛盾を内包している。

実社会は複雑系で、いろいろな要素が嫌になるほど入り交じり、絡まり合っているので、デュアルタスクが限界という幼稚な人間的理性は、ひたすら途方に暮れる。2つの問題までならきちんと冷静に比較検討できる人間の前頭葉は、3つ以上のことになると、とたんにアバウトなってしまう。ましてや複雑系を精緻のまま明確に認識するなんて無理だ。

だから、論理は綿密に掘り下げれば掘り下げるほど、現実の結果によって裏切られる。「あれか、これか」で悩むより、「なんでもあり」と丸ごと受け入れて世の中と和解する方が、ずっと生産的なのではないかとさえ思う。

 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年6月25日

英語を社内公用語にすることについて

ユニクロが、じゃない、社名としてはファーストリテイリングが、社内の公用語を英語にすることにしたんだそうで、それについて、あちこちで賛否両論取り交わされている。内田樹先生などは懐疑派の代表格で、ご自身のブログに次のように書かれている。(参照

英語が公用語という環境では、「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」という人間が高い格付けを得ることになる。

(前略)決して「言語運用能力」と「知的能力」を同一視してはならない、ということをルール化しなければ「植民地主義的」なマインドと「買弁資本的おべんちゃら野郎」を再生産するリスクが高い(後略)

確かに内田先生の指摘されるとおりの弊害は出てくるだろう。昔は多少英語ができることを売り物にして(他のことはほとんど何もできないのに)、外資系企業を渡り歩く「英語ゴロ」というのがいた。外国人の役員は、どうしても英語をすらすらしゃべれる奴を重用したがる傾向が強くあったし、今でも多分その傾向は残っているだろう。

私も三十代後半からしばらく、英語を公用語とする団体に勤務していたことがあって、外国から出張してきた職員との会話はおろか、社内文書の多くも英語でやりとりするという環境に身を置いていた。だから、日本の組織で英語を公用語とするとどうなるかというのは、かなり身をもって経験している。

内田先生は、大学などの教育機関において英語をベースにすると、"その学部では「ネイティヴスピーカー」が知的序列の最上位に来て、次に「帰国子女」が来て、最後に「日本育ちで、学校で英語を勉強した人間」が来る" とおっしゃっているが、それは教育機関にとくに顕著な形で現れることだろう。

しかしいくらなんでも、営利を目指す企業や組織で、英語さえできれば最上位にランクされるということはおこりにくいので、極端な心配はいらない。確かに英語が上手な方が重用される可能性が高いが、それだけで無条件に出世するなんていうことはない。

私の外資系団体勤務経験においても、上層部に行くほど人に誇れるほど英語が上手なんてことは、まったくなかった。むしろ「あれ、この団体って、みんな英語がすごく上手だという触れ込みだったのに、これだったら、俺の方がずっと上手じゃん」と思ったものである。

なんだかんだ言っても、出世の条件は英語よりも処世術である (「英語よりも仕事能力」と言えないところが、ちょっと苦しいが)。 英語さえ上手なら出世街道驀進なんてことは、ないと思っていい。

とはいいながら、英語を公用語として採用することにはいくつかのディスアドバンテージがある。その筆頭は、コミュニケーションに時間がかかることだ。

本来なら、日本語のコンテクストでぐだぐだと義理人情論から説き明かすより、英語でドライに論理を展開する方が話が早いはずなのだが、そこは何しろ、ネイティブ・スピーカーじゃない人間の集まりである。「えぇと、うぅんと、あーうー、あーうー」とか、"Let me see..." とかが多くなって、物理的に時間がかかる。

それに、そのものズバリの的確な表現ができないと、本題の周囲をうろうろするような表現ばかりになって、「要するに、何が言いたいの?」という状態になりやすい。「いいから、日本語で言えよ。俺が通訳してやるから」ってなことになったりする。

会議の席で、日本人が 「えぇと、うぅんと、あーうー、あーうー」状態になって、ネイティブ・スピーカーがじれったさのあまりぶち切れたりすると、本当に「英語ができなくて出世できない」ということになってしまったりする。だから、いくら英語のうまさと仕事能力は別だといっても、人を納得させるぐらいの英語力は必須だ。

しかし、英語公用語は悪いことばかりではない。アドバンテージもたくさんある。

上記で述べたことだが、英語でコミュニケーションすると、うまく行けば、日本語コミュニケーションでは必要以上に重視しがちな余計な義理人情ファクターを適当に切り捨て、論理思考ベースでいくことができる。すると話が単純に早くなって、意志決定が促進される。不思議なもので、言語というのは人間の思考の方向性をかなり規定してしまうのだ。

ユニクロみたいな企業風土のところで英語を使うと、社内の意志決定がどんどん合理化されて、海外ビジネスがやりやすくなる可能性がある。その結果、ユニクロの利益の大部分は海外で上がるってことに、本当になるかもしれない。

ただ、それも 「上手にやれば」 の話である。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年6月24日

「公示」と「告示」を巡る冒険

参院選が今日告示されたが、こういうタイミングになると、私の本宅サイトの "「公示」と「告示」と「総選挙」" というページへのアクセスが急増する。試しに 「公示 告示」 の 2語でググって見たら、297,000件のうちの上から 3番目にランクされていた。なるほど、これなら増えるのも道理だわ。

このページでは、選挙関連用語としての「公示」と「告示」の違いについて述べている。簡単に言うと、総選挙の場合は、天皇の国事行為として憲法第 7条第 4号で規定されているので、「公示」と言い、それ以外は「告示」なんだそうだ。文言は以下の通り。

第7条国事行為
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
(1,2略)
3衆議院を解散すること。
国会議員の総選挙の施行を公示すること。

この条文を読むと、フツーなら 「あれ、おかしいんじゃないの?」 と思うはずだ。参院選は「総選挙」じゃないのに、どうして「告示」じゃなくて、「公示」 なのかと。

公選法で明確に 「総選挙」 と規定されているのは、衆議院議員の選挙(補欠選挙を除く)のことで、一方、参議院選挙の場合は、「通常選挙」 と呼ばれる。公選法の第 31条と 32条の規定で明確に区別されていて(参照)、いずれにしても、参院選のことを「総選挙」と呼ばないというのは、日本の常識となっている。

ところが、総選挙じゃないはずの参院選が、天皇の国事行為として長年にわたって「公示」されている。この辺のご都合主義的解釈に関しては、Wikipedia に次のように記されている。(参照

ただし国会議員の選挙の公示について定めた日本国憲法第7条4号の「総選挙」については同条が「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、衆参問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を天皇の国事行為として定めた趣旨であると解されることから憲法7条4号の「総選挙」には参議院議員通常選挙が含まれると解するのが通説である。

つまり、辻褄合わせの解釈運用である。文字通りに解釈すれば公選法が憲法違反をしているのに、なあなあの解釈で 「天皇の国事行為として定めた趣旨であると解される」 などと、苦しくもテキトーなことを言って済ませている。単に文言上のことなので、きちんと整備しさえすればなんの問題もなくなるのに。

かくのごとく公選法というのは制度疲労の極みにあるのに、今回のネット選挙解禁見送りにも見られるように、ものすごく頑固なものであるようなのだ。その背景には、この制度疲労の隙間をうまく突いた選挙運動の指南をする選挙プロみたいな連中がいて、そいつらが権力の中枢と癒着しているからだと、私は思っている。

こんなだから、この国の選挙はかくもばかばかしくてつまらなく、若い連中の選挙に行く意欲を削ぐようなものなのだ。そして、選ばれる方もジイサンばっかりなので、若い連中が投票しないのはむしろ好都合ぐらいに思っているのだ。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月23日

ビニール傘を巡る冒険

昼前から雨脚が強くなってきて、昼過ぎには大粒の雨が横殴り状態になった。昼食で外に出ると街を歩くと、半分ぐらいはビニール傘をさしている。もはやビニール傘は日本の定番である。

今朝のラジオを聞いていて初めて知ったのだが、このビニール傘を日本で最初に作ったのは、東京都台東区のホワイトローズという会社なんだそうだ。そしてこの会社は今、選挙用の傘、「カテール」という商品で注目を浴びている。

「カテール」というキーワードでググってみたら、「もしかして: カテーテル」 なんて聞かれてあせってしまったが、それでもすぐに、楽天市場のサイトで「選挙用ハイグレード雨傘 カテール」というのが見つかった。自民党、民主党御用達」なんだそうだ。(参照

元々ビニール傘というのは、選挙運動用に開発されたのが発端であるらしい。雨の日に黒い雨傘をさして演説すると、顔が暗くなって印象が悪くなる。そこで、ビニール製で光を通す傘というのを開発したのだという。

そして今、この「カテール」というのは、数々の工夫を折り込んで、1本 5000円近い値段で販売されているが、選挙の時期になると売れまくるんだそうだ。まあ、世の中いろいろあるものである。

 

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2010年6月22日

iPhone、OS4 にアップグレード

iPhone のOS アップグレードが今日から始まったので、さっそくやってみた。やり方は超カンタン。iTunes を起動させた PC に接続し、OS の更新ボタンをクリックするだけ。時間がかかるかと思ったがそれほどでもなく、15分ぐらい放っといたら、勝手に終了していた。

再起動された画面をみると、壁紙が常時表示されるようになっている。これまでは起動させたときに表示されるだけで、パスコードを打ち込んだらもう消えてしまうのであまり甲斐がなかったが、これからはいいかも。

それから話題のマルチタスク機能だが、ホームボタンをダブルクリックすると、起動中のアプリが画面の最下段に表示されるようになっていて、アイコンをタッチするだけで、そのアプリが前面に表示される。

おもしろいのは、表示されたアプリを個別に終了させることはできないみたいなのだ。これ、一見不便なようだが、全然気にすることはないらしい。アプリは iPhone の方で勝手に判断して表示してくれるので、ユーザーは余計なことを考えなくていいようなのだ。(注: 下の追記を参照)

このマルチタスク機能はまだ本格的に使いこんでおらず、あまり慣れていないのでよくわからないのだが、慣れればかなり便利かもしれない。例えば次のような活用が考えられる。

  • メールとメモの間を行ったり来たりしながらコピペを繰り返す。
  • ブログと Twitter を行ったり来たりしながら投稿する。
  • 画像に複数のテキストを貼り付けるときに、気軽に行ったり来たりできる。

iPad の方はまだ依然としてシングルタスクらしいのだが、そのうちアップグレードされるという。マルチタスクの使い勝手としては、iPad の方がありがたいだろう。世の中、iPad、あるいは iPad 的なものの方に大きく傾斜していくんだろうなあ。

【8月 6日 追記】

上記 「表示されたアプリを個別に終了させることはできない」 は誤りとわかった。いくら iPhone でも、野放図にいろいろなアプリを立ち上げすぎると、メモリ不足の警告が出る。

そんな時、個別に終了させるには、ホームボタンをダブルクリックして起動中のアプリを画面の最下段に表示させ、アイコンを長押しするとプルプル震え始めるので、左上のマイナス印をタップすると終了される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月21日

フツーの既製服とユニフォーム

既製服のメーカー、いわゆるアパレル・メーカーには、時々お門違いの問い合わせが入ってくることがある。まあ、お門違いの問い合わせはどこの業界にもあることで、そんなに珍しいことではないのだろうが、アパレル業界でちょくちょくあるのは、自分の経営するお店のユニフォームに、フツーの既製服を採用しちゃってることによるお門違いだ。

そんなケースが多いのは、飲食店、美容院といった業態の小さなお店である。ある時、街のスーパーかどこかで、経営者がちょっといい感じの服を見つける。「おぉ、これ、ウチの店の従業員にお揃いで着せたら、いい感じかも!」と思い、人数分買っちゃう。多くてもせいぜい 7~8着程度なので、量販店の売場でなら買えちゃうのだ。

その服を 2~3年従業員に着させる。そのうちに、当然ながらあちこちすり切れてくる。同じ時期に買っても、なぜか消耗は一様ではない。着方の問題なのだろうが、そのうちの 2~3着がとくに早くすり切れる。

そこで経営者は、早くすり切れた 2~3着を入れ替えようとして、その服を買った店に行って、「3年前に買ったのと同じ服、ちょうだい」 と言う。ところが、洋服の店で 3年前と同じ品物の在庫があるわけがない。在庫になりそうなものは、シーズンが終わらないうちに 5割引ぐらいのセールで処分してしまうのが常識だ。

人間というのは勝手なもので、一消費者としてならばそれを納得しても、経営者としては、3年前と同じ品物が今でも店で売られていると、思い込んでしまうのである。そして店の在庫がないとわかると、メーカーにならあるのではないかと思って、電話してくるのだ。

ところが、店に出さない品物をメーカーが在庫しているわけもない。「それは 3年前に完売して、もう在庫はありません」と断ると、「せっかく買おうとしているのに、それは不親切ではないか、サービスが悪すぎる」と文句を言う。

最初に言ったように、これはお門違いなのである。シーズンごとに流行に乗った商品を流通させるのが役割のフツーのアパレル・メーカーの品物を、ずっと何年も着続けるユニフォームとして採用するというのが、そもそもの間違いなのだ。

いや、フツーの既製服をお店のユニフォームにしてはいけないというわけではない。しかしその場合は、すり切れたら丸ごとモデルチェンジするつもりで採用するつもりでないといけない。そうでなかったら、「少なくとも 200~300着ぐらい一度に購入するから、リピート生産してもらいたい」と交渉することだ。そのくらいの量でないと、メーカーは受けない。

ずっと同じデザインでいきたいというなら、ユニフォーム専業のメーカーの品物を採用することだ。世の中には企業のユニフォーム需要専門に対応するメーカーもある。そうしたメーカーは、その型の服を採用する企業がある限り、同じデザインの服をずっと作り続けてくれる。

その代わり、少量でもずっと作り続けるリスクを負担しなければならないので、1着あたりの値段は、その辺のスーパーで買うよりずっと高く付く。「ユニフォームって、どうしてこんなに高いんだ?」 とこぼす経営者が多いが、それは構造上、仕方のないことなのだ。

ただ、私も憤慨しているのは、高校の制服に使われるなんの変哲もない Vネックのセーターみたいなものだ。アクリル 100%のペナペナで、6,800円とかする。あんなのユニクロに行ったら、ウール 100%のずっと見栄えのいいやつで 3,000円ぐらいで売ってたりするぞ。

それに高校の制服なんて、ベーシックなデザインで何年も大量に作り続けるんだろうから、生産リスクだって高くない。あれは排他的な流通ルートで暴利を貪っている典型である。その暴利の一部は、学校の先生にリベートとして流れてるんじゃないかと、私は疑っている。

 

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2010年6月20日

「もみじマーク」 のメッセージ性

ちょっと旧聞になってしまうが、先週警察庁が、高齢運転者標識 「もみじマーク」 の新たなデザイン 4案を公表した。なんでわざわざデザイン変更するのかというと、現行のデザインは 「枯れ葉のようだ」 などと、はなはだ評判が悪いからだという。

Cr100620_3

新たに公表されたデザイン案は上のように、これまでの 「もみじマーク」 と比べれば、少しはフレッシュでかっこよく見えるかもしれないというようなものだ。まあ、少なくとも 「枯れ葉っぽい哀れさ」 からは離れようとした意図が見て取られる。

しかし、私は 「ちょっと違うんじゃないか?」 という気がしてしまっている。元々、もみじマークを付ける目的というのは、周囲のドライバーに、「この車は高齢者が運転しているので、気を遣ってね」 というメッセージを発することではなかったのか。だったら、多少の哀れっぽさを感じさせる方が、その目的に合致しているんじゃなかろうか。

もみじマークに求められるメッセージ性って、本来はそうしたものだったんじゃなかろうか。もみじマークにそれ以外の 「かっこよさ」 みたいなものを求めてしまうのは、本末転倒なんじゃなかろうか。

スマートでかっこいいデザインにしてしまったら、そうしたメッセージがなくなって、単に 「高齢者が運転する車」 になってしまう。「危なっかしさ」 とか 「哀れっぽさ」 とかいうイメージが希薄になる分、周囲の車のドライバーの脳みそに注ぎ込まれる 「ちょっと気を遣ってやらんと危ないかも」 というメッセージも希薄になる。

私は自分がもし 70歳以上の高齢ドライバーだったら、なるべく哀れっぽくて、周囲に気を遣ってもらえそうな、現行のデザインを選択するだろう。その方が、少しでもリスクを減らすことになると思うからだ。自転車が夜道でライトを点けるのは、周囲に弱々しい自転車の存在を認識してもらうためというのと、少し共通している。

暗い夜道に無灯火で突然横道から飛び出してくる自転車には、「そんなに命を失いたいか!」 と言いたくなるが、「スマートなもみじマーク」 なんて要求する人には、「そんなにリスクを軽視してるのか?」 と聞いてみたい気もする。

そりゃ、いくつになっても少しでもスマートさを求めたい気持ちはわかる。しかし、それよりもリスクが少しでも低くなる方を、私は求めたい。ただ、そうでない人もいるので、少しは選択の幅をもたしてあげるのもいいかもしれない。

 

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2010年6月19日

サッカーの複雑系

FIFA ワールドカップ E 組、オランダ戦は、0-1 で敗戦となった。前半は 0-0 で折り返したが、後半、スナイダーのミドルシュートを弾ききれず、最小得点差の負け。まあ、実力差があったんだから、仕方がない。

前半終了時点でのテレビ中継解説陣は「プラン通りの展開」と言い、試合終了後は「前半引きすぎて守備的すぎたので、相手に動かされて松井などは後半足にきた」と語っていた。まあ、その通りといえばその通りなのだが、じゃあ、前半から積極的に仕掛けたらどうなったかは語られない。実際にそうしたら、多分、0-2 で負けていただろう。

サッカーのおもしろさは、そのように、展開によって状況ががらりと変化することにある。複雑系なのだ。だからこの後のカメルーン対デンマーク戦の結果によって、日本のグループ・リーグ突破の可能性も変化する。

さらにオランダが勝ち点 6 を取ったことで、カメルーン戦をどう戦うかによっても変わってくる。カメルーン戦で負けてもグループ・リーグ 1位突破が決定していたら、オランダは主力を温存してくるだろう。

そのような状況変化で、日本は残るデンマーク戦で、引き分けでいいのか、勝たなければならないのかが、変わってくる。サッカーというゲームには、こうした複雑系も加わってくる。そうしてみると、野球というのはルールはやたら複雑だが、構造的にはむしろシンプルなものだとわかる。

私は 1つのゲームでもシリーズでも、展開に複雑性のからむ要素の大きいサッカーというスポーツに魅力を感じてしまう。

私の田舎では、酒田米菓が主力商品 「オランダせんべい」 の半額セールを行い、「オランダ食っちゃうぞ」 というキャンペーンをはったそうだが、及ばなかった。いや、このおかげで、最小得点差の敗戦ですんだのかな?

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月18日

ガソリンスタンドの旗振り客引き

私がずっと疑問に思っていることがある。それは、国道沿いのガソリンスタンドでちょくちょく見られる「旗を振っての客引き」だ。昨日の和歌ログに私は、 「炎天のガソリンスタンドの旗振りの絶望の淵を我は行き過ぐ」というちょっと皮肉な歌を写真入りで掲載している。

あんなことをして、何のメリットがあるのだろう? 車で走っていて、そろそろ給油が必要な頃合いになったら、旗なんか振られなくても、こちらの方でガソリンスタンドの看板を探して給油する。給油が必要でなかったら、いくら旗を振られても無視する。それだけのことだ。つまり、あの旗振りが客数の増加に貢献するとは到底思えない。

むしろ私なんかは、旗振りをしているガソリンスタンドは避けるようにしている。国道を走っていてガソリンスタンドの看板を発見しても、近づいてみると入り口付近で旗なんか振りまわしてるお兄ちゃんがいたら、つい邪魔くさくて「もう少し先のガソリンスタンドにしよう」と思う。

これって別にへそ曲がりじゃなく、案外自然な反応ではないかと思う。炎天下であんな無益な労働を強いられている従業員が不憫といえば不憫だが、仕方がない。私が経営者なら、手が空いていたら休憩させるかもう少しマシな仕事をするようにし向けるのだが。

ちょっと深読みすると、あんなばかばかしい労働を従業員に強いるような経営者は、相当あこぎなヤツに違いないと思ってしまう。うっかりそんなところで給油したら、やれ水抜き剤を入れろとか、オイル交換しろとか、ワイパーを換えろとか、余計なことを言われそうな気がする。やっぱり避けておきたいと思う。

ところで、給油すると「ガソリンタンクにかなり水が溜まってますので、水抜き剤を入れた方がいいですよ」なんて言われることがある。うっかり口車に乗って 「じゃあ、入れといて」なんて言うと、ガソリン代に 1000円以上の上乗せになったりする。ホームセンターでは 200~300円の水抜き剤が、そんな値段に化けるのだ。

ちなみに、前にガソリンスタンドで「かなり水が溜まってる」と言われたときに、「そんなこと、どうしてわかるの?」と聞いたら、「え、まあ、給油の時の音とか、カンですね!」なんて言われて、こちらも吹き出してしまったことがある。そんなもんでわかるわけないだろうが。

つまり、従業員に炎天下での旗振りなんていう無駄な労働を強いるような経営者は、給油する車にのべつ「水抜き剤を」というように言いつけているだろうと、私は思ってしまうのである。入るときに邪魔くさくて、給油後には余計なことを言われそうなので、私はよほどのことがない限り、旗振りのいるガソリンスタンドは避ける。

ネットで調べてみると、旗振りをするのは新規開店の店が存在を知ってもらうためにすることが多いので、ティッシュペーパーなどの景品がつくことが多く、それを目当てに入ってくる客が増えるということがあるらしい。

しかし新規開店というわけでもないのに、兄ちゃんが一人で疲れた顔して旗を振っている店も多い。景品を期待して入ったのに、いきなり「水抜き剤入れた方がいいですよ」なんて言われたら、がっくりだろうなあ。

それから、旗振りで「誠意を示す」なんて言う経営者がいるようだが、私は旗振りで示される程度の「誠意」なんてものは、「勘違い」の度合いの方が大きいと思うので、信じないことにしている。

 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2010年6月17日

とにかく眠いのだ

いやはや、今日は滅茶苦茶忙しかった。帰宅したのは 10時過ぎ頃だが、ずっと密度の濃い仕事が続いていて、今はもう、とにかく眠い。心は覚醒してるんだが、目が眠い。目が開いてられないのだ。

近頃、どういうわけかこういうことが多い。精神的には何かを欲しているのだが、体がついて行かない。いや、体の中でも、やっぱり目がついて行かないのだ。疲れているのは目だけなのだが、その目がお休みになってしまうと、気付いたときには PC の前で寝落ちしている。

人間の得る情報量の 80%は目から入っていると、どこかで聞いたことがある。もちろんこれは平均値なんだろうが、それにしても、五感の中で視覚というのは圧倒的な重要性をもっているというほかない。なにしろ、目だけが疲れているといっても、その目が閉じてしまうと、すっかり寝ちゃってるんだからしょうがない。

戦前、一高だの二高だのを目指す受験生は、竹ひごで「目突っ張り」して受験勉強したという伝説がある。しかしいくら目突っ張りしても、寝るときは白目をむいてでも寝る。むしろドライアイになってしまって、大変なことになるだろう。

会議中に猛烈に眠くなることもある。ふと気絶するように眠りに落ちることがある。多分、長くても 5秒と続いていないと思うが、白目むいて気を失っていることもある。私は会議中に人に気付かれないように寝る名人なのだが、中には辺り構わずすっかり眠っちゃっている人もいる。あれだけ堂々と寝てしまうと、もう天下無敵だ。

世の中には、眠れないといって悩む人もいる。なんと贅沢な悩みだろうと思う。眠れなかったら、これ幸いとばかりに、いろいろなことをしてしまえばいいじゃないか。そうするうちに、きっと我慢できなくなって眠るに決まっているのだから。

しかし、眠れないという人に限って必死に眠ろうとしているのである。眠ろうとして眠れずに、布団の中でただ悶々としているのである。眠くてたまらない人が、必死におきて仕事をしようとして、それでもばったりと寝落ちしてしまうのと対照的だ。人生というのはなんとパラドックスに満ちているものなのだろうか。

とにかく眠いのである。それでも、このブログと和歌ログは自分に課した使命だから、あとは歌を一つ詠んで、風呂に入って寝るのである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月16日

Ring a Ding Dong の発音

私の英語の恩師、上野伊栄太先生が、中学の最初の授業で教えてくれたのは、"look" "listen" "repeat" という 3つの単語だった。そしてそれから 3年間、"Look at my mouth." "Listen to me carefully." "Repeat one more time." を嫌というほど繰り返すことで、"L" と "R" の発音の違いを明確に印象づけてくれた。(ついでに "th" も)

おかげで、私は耳が若いうちに、この 2つの発音が全く別のものだということを体で知ることができた。「どうしたら区別がつくの?」なんて聞かれることがあるが、「全然違うんだから、区別する、しない以前の問題」としか言いようがない。

強いていえば、"R" の方は日本人の耳には、最初に小さな「ゥ」が入っているように聞こえないこともないというのは、広く認知されている。"Light" はストレートに「ライト」に聞こえるが、"right" だと「ゥライト」みたいに聞こえる。

で、本当は英語を知らないジョッキーの中には、そうすれば英語っぽく聞こえると思っているらしくて、"L" で始まる単語でもことさらに小さな 「ゥ」 を入れて粘っこくしゃべる奴がいたりして、お笑いになってしまうことがある。

ここまでは前置きなのだが、本題は、最近あちこちで聞く "Ring a Ding Dong" という曲についてである。木村カエラが歌っている。Docomo かなんかの CM にも使われているのを見たことがある。

この曲を聞く度にちょっとだけ気になってしまうんだけど、木村カエラって歌手は、これを歌うとき、 "Ling a Ding Dong" と発音してるよねってことなのだ。"R" じゃなくて "L" になっちゃってるのである(試聴)。 最近の若い歌手は、英語の発音がすごくよくなってるんで、「へぇ、まだこういうのっていたんだ」と、ちょっと驚いた。

日本人が歌ってるんだから、細かいこと言わなくていいじゃないかという向きもあるかもしれないが、だったらタイトルも素直に「リンガディンドン」とカタカナにしてもらいたかったところである。可愛いけりゃいいってもんじゃないのである。

 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年6月15日

修理と修繕の違い

ふと気になった疑問が解決しないうちは、なんとなく気持ち悪くて眠れなくなるところがあって、若い頃は図書館に入り浸ったり、かなりの手間をかけていろんな調べものをした。最近はインターネットに当たればたいていのことは案外簡単に調べがつくのでありがたい。

今日、群馬県に自分の車を運転して出張した帰り、ふと「修理」と「修繕」の違いって何だろうかという疑問がわいた。運転中でなかったら、iPhone でインターネットにアクセスするところだが、交通量の多い国道 17号線を運転しながらそんな離れ業はできない。

しかたなく、帰宅したら調べるのを忘れないように iPhone の「ボイスメモ」に、「修理、修繕、違い」と録音して帰ってきた。警察に見られたら、運転中にケータイで話しているように思われて、切符を切られたかもしれない。

そうこうしているうちに、「そういえば、『整理』と『整頓』にも 微妙な違いがあるんだよなあ」と思い出した。それについては、昨年の 4月 10日の記事で書いてある。これは、もっとずっと前に書いたような気がしていたが、そんな最近だったのか。

「整理」と「整頓」の違いは要するに、並べ替えたりしてきれいに整えるのが「整頓」で、それに加えて、不要なものを捨てたりすることも含むのが「整理」ということになっている。「整理/整頓」 でそれだけの違いがあるのだから、「修理/修繕」だってちゃんとした区別があるだろうという気がしてきた。

帰宅してさっそく Goo 辞書を引くと、次のようになっている。

修理: こわれた所をつくろって直すこと。修繕。

修繕: (建物や品物の) 悪くなったり破損した箇所を直すこと。修理。

なんだ、これじゃあ、ほとんど同じじゃないか。もう少し心に響くような違いがあるかと期待していたのに、がっかりである。

あまりがっかりしてしまったので、もう少ししつこく 「修理 修繕 違い」 の 3語でググって見ると、Yahoo 知恵袋におもしろい回答が見つかった (参照)。トヨタのカンバン方式の用語としては、「修理」と「修繕」をきちんと区別しているというのである。

「修繕」 は繕うだけ。機械が故障した説き(ママ)は、応急措置だけ施してすぐに動かしてしまう。真因 (故障の真の原因) を潰していないから、故障はすぐに再発する。モグラがいったんは引っ込んだとしても、すぐに出てくる。「修理」 とは、真因を取り除いて、二度と同じ故障が起こらないようにすることをいう。だから、不具合が出たら、その機械を徹底的に「修理」してくださいと指導している。

要するに、昔の消臭剤の CM にあった「臭いにおいは元から絶たなきゃダメ!」という思想でやるのが 「修理」。ただ応急的に繕うのが 「修繕」というコンセプトで区別しているようなのである。なるほど。これはわかりやすい。

ただ、最近のトヨタ車のリコール問題で注目されているような、電子部品のプログラミングというような領域になると、このような単純でわかりやすい「修理/修繕」コンセプトだけでは手に負えなくなっているような気もする。世の中、どんどん複雑になっている。

 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010年6月14日

関東甲信、梅雨入り

今日、関東甲信と東北南部が梅雨入りしたと発表された。北海道は梅雨がないということになっているので、残るは東北北部だけだ。今月初めまでは梅雨前線がなかなか北上しなかったので、梅雨入りが月末頃になるんじゃないかなんていう観測もあったが、平年より 6日遅れ(関東の場合)ぐらいで収まってよかった。

梅雨に入ったとたんに、また気温が下がった。先週末はアンダーシャツなしで、開襟シャツ 1枚でも暑いぐらいだったが、今日はアンダーシャツとジャケットをプラスして、3枚着てちょうどいいぐらいである。今年は本当に気温の変動が激しい。

で、ちょっと心配なのが、このところ毎年、梅雨入り宣言をしたとたんにカンカン照りが続くという傾向があることだ。私のもう一つのブログ、Walalog をたどってみると、こんな具合である。

昨年 (梅雨入り宣言後 翌日に中休み)
一昨年 (同、三日目に中休み)
3年前 (同、翌日に中休み)
4年前 (同、翌日に中休み)
5年前 (同、二日後に中休み)

というわけでこの 5年ぐらいは、梅雨入り宣言されてもすぐに中休みに入ってしまっていたのだ。

ところが、今年は週間天気予報をみる限りでは、そんなことはなさそうだ。17日の木曜日だけは曇り時々晴れということになっているが、そのほかは大体傘マークが付いている。来週の月曜日は傘マークがないが、降水確率は 40%だから許そう。

梅雨入り前までは散々イレギュラーだった天気だが、梅雨入り後は少しはそれらしい推移になりそうなのだ。こんなところで帳尻合わせをしようとしているのだろうか。あとはせいぜい順調な梅雨明けを待つばかりである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月13日

「既に書いちまったシンドローム」

いやはや、今日は朝からたまった仕事を次々に片付けている間に、ふと気付いてみたら日が暮れていて、さらにまたふと気付いたら、日付が変わるまで 1時間を切っている。なんだか、ものすごく短い一日を過ごしたような気がする。実感としては、今日は 24時間じゃなく 15~6時間だったんじゃないかと思うほどだ。

今日は頭を使いまくって、じ~んとしびれるほどになっているので、あまりヘビーなことを書こうとしても到底無理だ。だから、最近ちょっと思っていることを軽く書き流そう。

一体どんなことかというと、つまり、要するに、ネタ切れなのだよ。6年以上も毎日更新なんてことを続けてくると、もう本当に、書くことがなくなるのだ。いや、書くことがないというより、ちょっとしたネタを思いついても、「それについては、前に書いたな」ということになってしまうのだ。

「既に書いちまったシンドローム」とでも呼んでしまおうか。本当にもう、6年以上毎日更新したということは、もう 2,200以上ものネタをこなしたということなのだ。2,200以上だよ。これだけのことを既に書いてしまうと、なかなかそれを超えるものなんて書けない。

それどころか、自分が既に書いたものを改めて読み返すと、「おぉ、俺も昔は冴えてたなあ!」なんて思ってしまうようなものさえあって、なかなか大変なのだ。下手すると「昔はよかった」なんて繰り言ばかり言うジジイになりかねない。それだけは避けたい。心から勘弁してくれと言いたい。

ということは、同じようなことでもさらに新しい視点でものを書けるように、アンテナを研ぎ澄まさなければならないだろう。でも、それって案外疲れるのだよ。もうそれほど若くないし。疲れない新しい視点の作り方ってものを編み出すように心がけてみようか。それとも、それは虫がよすぎるかな。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月12日

オルセー美術館展での長女の反応

六本木国立心美術館で開かれている「オルセー美術館展」はやたらと前評判が高かったので、初めのうちは行っても人の頭しか見えないだろうから、もう少しほとぼりが冷めてから行こうと思っていた。ところが昨日、ひょんなことから行ってしまった。それなりに混んではいたが、まあ、ゆったりと観ることができた。

なんでまた急に行くことになったのかというと、いきさつを説明するとちょっとややこしいのだが、こんなことだった。

今週に入ってから、東京で一人暮らしをしている長女と連絡が取れなくなっていた。ケータイに電話してもつながらないし、メールしても反応がない。どうしたのかと心配していると、木曜日になって連絡が入った。なんと、オランダ旅行から帰ってきたばかりだという。そんなところに行くなんて、一言も言ってなかったじゃないか。まったくもう。

ウチの長女は風来坊だからそこまでは考えなかったが、フツーの親なら捜索願を出すところである。まあ、そんなこんなで、オランダの土産話でも聞かせておくれとメールしといたら、昨日夕方に待ち合わせて会うことになった。向こうが私の仕事先の秋葉原まで来てくれるという。

ところが、約束の 5時半になっても長女は現れない。ケータイに電話してみると、「ゴメン、寝てた!」 なんてことを言う。時差ぼけで寝落ちしちゃったらしい。仕方がないので、こちらが向こうのアパート寄りの方まで移動して、中間点の六本木で会おうということになった。

予定より 30分遅れで六本木で会い、そこで急に思い出したのが、例のオルセー美術館展である。ということで、急遽見に行こうということになったというわけだ。

「私が寝落ちしたおかげで、オルセー展が観られることになって、よかったね」などと、長女は気楽なことを言う。まあ、こんなだから捜索願も出さないのである。

今回のオルセー展は、印象派以後の代表作を集めたものだ。元々オルセー美術館といえば、ルーブル本館では手薄な印象派以後のコレクションで知られている。

で、長女と 2人で入場したところ、彼女はあまり感激した風情がない。「ふぅん」なんて、やたら冷静に眺めている。こっちがかなり感動しながら観ているというのに。

聞いてみて初めて知ったのだが、ウチの長女は、美術では古典と現代美術の人で、その中間の印象派には全然ピンと来ないんだそうだ。コローダリが好きなんだという。そんな極端な趣味とはちっとも知らなかった。

「日本人は 10人のうち 8人は印象派が好きだと思うけどねえ」と言うと、「だって、印象派って、あまりにも "絵っぽい" じゃん」なんてことを言う。絵なんだもの、絵っぽくて当たり前だろうが、彼女は基本的には、古典的で写実っぽい現代離れした感覚の絵が好みなんだそうだ。へぇ。

それで、今回のオランダ旅行でも、レンブラントだのフェルメールだので感激して帰ってきたというのだが、どうも印象派とその近辺は「ふぅん」という程度なのだね。モネなら「きれい!」と言うが、ゴッホでもゴーギャンでも、あまり心の琴線に響かないようなのだ。いやはや、身内にこんな人間がいるとは知らなかった。

私も妻も、美術では基本的には印象派以後の趣味の人である。だから、ニューヨークに行っても、印象派以前のやたらともったいぶったコレクションを誇る メトロポリタン美術館 (The Met) よりは、印象派以後のコレクションが豊富な 近代美術館(MoMA)の方に行きたいタイプなのだ。

ちなみにマンハッタンの MoMA はずっと工事中の期間が続いていたので、私がちょくちょく ニューヨークに出張していた頃はクィーンズに移転していて、時間がなくて行けなかった。そして工事が終わり、マンハッタンに戻ったとたんにニューヨークに行く用事がなくなってしまったのが残念である。

それにしても、印象派以後の親から 16世紀頃の趣味の娘が生まれるとは、人間の趣味とはなかなかわからないものである。

最後に、これはあまり教えたくないのだが、オルセー展は土日はやたらと混むので、ウィークデイに仕事のある人は、金曜日の夕方過ぎに行くといい。金曜日は 8時まで開館しているので、ねらい目なのだ。とくに雨が降ったり台風が近づいたりしているときは、ゆったりと観られると思う。

 

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2010年6月11日

ネット選挙、間に合わず

先月 20日に、せっかく 「ネット選挙が解禁されそうなのだが」 という記事を書いたのだが、どうやら国会審議の時間切れで、来月の参院選には間に合わない公算が強くなったらしい。せっかく与野党の合意があるんだから、ほんの 5分ぐらい時間を割いて、ちょいちょいっと法案成立させてくれたらよさそうなものだが、そういうわけにいかないようなのだ。

西日本新聞は 5月 28日付で、"ネット選挙解禁 「べからず法」から脱皮を" という社説を掲げているが、この中に次のようなくだりがある。

「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)は先月、公選法が「制度疲労の極限」にあるとして、「ネット選挙の早期解禁」のほか、「文書図画の利用の自由化」「戸別訪問の解禁」「公開討論会の自由化」などを提言している。

そうなのだよ。今の公選法では、文書図画(いわゆる「ビラ」ね)の頒布枚数まで細かく制限されているのだ。その根拠は、選挙にあまり金がかからなくするということらしいのだが、文書の印刷コストにかかる紙の枚数のなんてあまり関係ないというのは、今どき素人でも知っていることだ。ばかばかしい。

さらに、戸別訪問もしちゃいけないし、公開討論会も自由にできないのだ。戸別訪問の禁止は買収などの不正行為をしにくくするためという。

私が今のつくばの地に引っ越してきた 30年前は、まだまだ買収がフツーに行われていたようなのだ。ある選挙の告示直前に某村会議員が訪ねてきて、今にも懐から現ナマを出しそうになったので、頭にきて追い返したことがあったが、後で聞いたら、周り中で当然のごとくもらってる人が多くて驚いた。

中身は 5000円札だったというが、今のご時世にそんなことをしたら、すぐにバレバレになって、かえって逆効果だろうよ。逆に、戸別訪問してきた候補を支持したかったら、1,000円寄付するぐらいの気持ちを持っている人は、案外多いんじゃなかろうか。

公開討論会ができないというのも、要するにそんなことしたら、候補の無能がばれてしまうからということのような気がする。

ネット選挙解禁をきっかけに、公選法をばりばり改正してくれないことには、この国の選挙はこんなにもばかばかしくて、投票に行かない若者の気持ちが、私なんかわかってわかってしょうがないんだけど。

鳩山さんが普天間の問題で余計な時間を食わずにサクサクとやってくれていさえすれば、7月の選挙キャンペーンは、とりあえずネットを活用できたのに、まったくもう、この 8ヶ月は一体何だったんだろう。まあ、小沢さんを引きずりおろすための必要な準備期間だったと思えば、少しはあきらめがつくというものだが。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年6月10日

酒田の中心街にカモシカが出現

私が高校 3年まで過ごした山形県は庄内の酒田という街は、そりゃ大都会というにはほど遠いが、少なくとも中心部はそれほどひなびた様子というわけでもなく、私自身にしてもどちらかといえば、カントリーボーイというよりは、シティボーイとして育ったという認識がある。

自転車でちょっと走ればすぐに田園地帯を通り過ぎて、自然の中にとけ込めるが、私の日常の暮らしにおいては、そうした自然というのは「外部」なのだと思っていた。ところが 21世紀のこの世の中で、酒田の市街地に「外部」が進入してきたのだった。

酒田の街を「カモシカが徘徊中」というニュースをみたのは、先週の 4日、金曜日だった。まだ毎日新聞の記事が残っているので、ご覧いただきたい(参照)。カモシカが現れたのは、3日、次のように書かれている。

午後3時前には酒田港近くの同市船場町1の商店の庭に迷い込み、県や市職員、酒田署員ら約20人がネットやさすまたを使って大捕物を演じたが、同4時25分、カモシカは塀のすき間から逃走。近くの日和山公園付近で目撃されたが、同5時過ぎに見失った。

船場町といえば、私が幼い頃に暮らしていた街とつい目と鼻の先。江戸時代から明治にかけては、湊町酒田の中心として栄えたところである。そんなところでカモシカが見られるなんて、想像もしなかった。当日は小学校は早々と授業を切り上げ、集団下校したなんて情報もある。クマが現れたわけでもあるまいし、それは過剰反応という気もするが。

このカモシカがどうなったのか、ずっとその身を案じていたのだが、改めてニュースを検索してみたら、翌日にはあっけなく捕獲され、自然の中に戻されたというニュースがみつかった(参照)。なんだ、知らなかった。もっと早く知ってたら、余計な心配しないで済んだのに。

捕獲された本楯地区は、酒田の北部にある田園地帯。カモシカもやはり、気の休まらない中心街より郊外の方に惹かれて移動したのだろう。

それにしても、私は若い頃には結構山登りもしたのだが、カモシカとクマだけは出会ったことがない。山形県の秘境、朝日連邦を縦走したときだって、オコジョには出会ったが、カモシカは見なかった。大変な希少動物というほどではないが、そんなに気軽に遭遇できるわけでもない。そのカモシカが、酒田の中心街に現れたというのだから、やはり驚く。

ところが、上記の 4日の記事によると、最近、カモシカの市街地での目撃例が増えているのだという。知らなかった。山の中が住みにくくなって、市街地に降りてくるんだろうか。なんとなく、自然の中に異変が起きているんじゃないかと思わせられるニュースだった。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年6月 9日

Twitter からのスパムメール?

Twitter からのメールを装ったスパムメールが、やたらと出回っているらしい(参照)。私のところにもメチャクチャたくさん来る。あんまり来すぎるので、どんなにぼんやりしていても、スパムメールだと気付かないわけがない。どんなにたくさん来るかは、私のメーラーの迷惑メールフォルダのハードコピーの写真を見ればわかる。

Cr100609

ごらんの通り、約 40分の間に 10本以上来ている。これはみな、賢い Thunderbird さんがスパムと判断して、自動的に迷惑メールフォルダに隔離してくれている(右側の赤い炎のようなのが、スパムの印)ので、私自身は全然無視しているのだが、試しに初めて内容を読んでみた。

内容は、Twitter Japan の tweet の通りすべて英語で、未読のメールがあるから、リンクをクリックして確認しろなんてことが書いてある。もちろんその手には乗りたくないから、クリックなんかしていないが、どうやらフィッシングサイトに誘導されてしまうらしい。

どんなフィッシングサイトに誘導されるのか、興味があったのでいろいろググってみたが、なかなか見つからない。どうやら、その手には誰も乗っていないみたいで、「こんなフィッシングサイトだったよ」なんて書いてくれる人もいないみたいなのだ。これじゃあ、だまそうとしてる方もやりにくいだろうなあ。

近頃、ウェブやメールを利用している人たちもずいぶんすれっからしになってきて、なまじのことではだまされなくなってきたようなのである。でも、初めて iPad にさわってみてインターネットのおもしろさに目覚めたウブなご老人たちが多く出現するだろうから、これからのことが、なんだか心配だなあ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月 8日

人間の脳は三等分すら苦手なので

私の中身というのは、7割が近代以前のフォークロア的日本人で、3割が外人みたいなところがある。その微妙なバランスによって、表面上はいかにも現代日本人みたいな顔をしているが、実際には、今の日本の状況には違和感ありありなのである。日本伝来のフォークロア的感覚にも、西欧的合理主義のどちらにも、全然しっくりこないんだもの。

で、フォークロア的日本人の部分は当然ながらかなり古風なところがあって、私は毎朝仏壇に線香を上げたりする人なのである。我が家の宗旨は浄土真宗で、この宗旨では、お線香を上げるとき普段は 1本を 三等分に折って火を付け、横に寝かせて上げるのが習慣である。線香立てに立てないのだ。

ところが、この 1本の線香を三等分するという作業はなかなか難しい。毎朝やっているのに、まあまあ無視できる程度の誤差で 三等分できるというのは、1週間に 1~2度しかない。あとは大体、3本のうちの 1本が長すぎるか短すぎるかということになる。

人間の感覚というのは、1本を 二等分するのは上手にできるように設計されているが、目分量で 三等分するというのは、能力の限界を微妙に超えているようなのだ。

三等分するという作業の順序としては、まず端から 3分の 1(と思われる長さ)を折り取って、その上で、残りを二等分する。そして、最後に 3本を合わせてみると、たいてい長さが揃わないのだ。

前述の如く「3本のうちの 1本が長すぎるか短すぎる」ということになりやすい。長すぎるか短すぎるかする 1本というのは、当然ながら最初に折り取った部分である。その後に二等分した方は、ちゃんと長さが合っている。もう何十年もやっている作業なのに、なかなか上手にならない。

ここで思い出して頂きたいのは、3日前に書いた 「人間の脳はデュアルタスクが限度なので」という記事である。人間の脳は、二択は得意だが、三択はこなしきれないというのだ。前頭葉による論理的タスクというのは、厳密には 2つの要素の比較検討までしかできないみたいなのだ。

だから、ギリシャの昔から、論理的思考というのは基本的に弁証法的メソッドによって、A か B かの二項対立に還元してから行うことになっている。そうでないと、厳密には考えられないからだ。

これは論理的タスクだけかと思ったのだが、実は、線香の 2等分はできても 3等分は難しいというように、基本的な感覚的認識の部分からして、きっちりした比較は 2つまでしかできないようなのである。3つになると、とたんにアバウトになる。

切り取った後のものの長さを厳密に比較するのは簡単にできる。並べてみればいいのだ。だから、多数の要素を比較検討する場合には、数値化して表やグラフにするといい。そうしないと、人間の脳は客観的な判断ができない。

ところが、例えばノート PC を買う場合に、多くの機種を比較検討するとする。CPU の性能、HD 容量、バッテリー駆動時間、重量などは、明確に数値化できる。しかし、キーボードのタッチやデザインなんていう要素は、かなり主観的なものだから、数値比較できない。

そんなこんなで、多数の要素を比較検討すると、全ての点で、「これが一番!」なんていう機種はないという結論になる。どうしても「あちら立てればこちらが立たず」ということになるからだ。人間の脳はただでさえ三択が苦手なのに、候補が 5つも 6つもあるのでは、完全に手に余るのだ。

だから多数の中から 1つを選択しなければならない場合は、「どれを選ぶか」という視点で考えてはいけない。混乱するばかりだからだ。逆に「どれを捨てるか」から入るといい。自分なりに設定した優先基準に達しない候補をどんどん捨てていって、最後に残った二者択一にもちこむと、案外楽に決められる。

ところがこうした論理的判断ではなく、最初から「これしかない!」という直感的判断とか、「これが好き!」という判断とかが存在する。理由はどうでもいいが、とにかく惚れ込んだというようなことなのだ。マーケティングにおいては、このレベルに持って行ければ勝利間違いなしである。iPad なんかは、これに近い。

私が常々「本当に強いのは、論理よりも直観とか感情とかだよ」というのは、こういう意味である。私の場合は、感情的判断はできるだけ避けていて直観の方を信じるのだが、世の中は、得てして「好き嫌い」という感情で動くという部分が多い。

それもみな、「論理的判断」というのは、聞こえはいいが、はなはだ不完全なものだということを、多くの人は知っているからである。

論理的判断なんて、実際には面倒で時間がかかって、いちいち二元論に還元して考えるというテクニックが必要で、しかも二元論への還元のプロセスで、複雑系の中の多くの重要な要素が抜け落ちてしまい、現実から遊離した結論になりやすいのである。

だから、「完全無欠の論理」なんていうのは、今に至るまで発見されていないのだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月 7日

鳩山さんと小沢さんのせいにしといたるわ

菅直人新首相が決定して以後、民主党の支持率は急回復なんだそうだ。そうなることは目に見えていた。民主党がダメダメだからといって、今さら自民党に戻るのもなんだかばかばかしい。だったら、看板を変えてもらえば目先も変わるというものだ。

鳩山さんが宇宙人過ぎたのと、小沢さんが金に汚過ぎたのが、この空白の 8ヶ月の体たらくの原因ということに、取り敢えずしといてあげないと、せっかくの歴史的政権交代が虚しすぎる。だったら、今回だけはそういうことにしてやるよというのが、有権者のとっても悲しい反応だ。

本当は、この間の政治的迷走は個人的資質の問題もあるけれど、本当はもっと構造的な問題だ。そんなことは言うまでもなくわかっている。しかし、今回だけは、個人的資質の問題に帰すという無茶を認めてあげようと、有権者は思い始めている。ああ、悲しいんだけど。

菅さんは、小沢一郎の影響力を極力排除しようとしている。そうする方が有権者にアピールするし、7月の参院選でも戦いやすいんだから、当たり前だ。で、問題は本当に小沢一郎を排除できるかどうかなのだが、できる可能性は高いのである。

高支持率を取ってしまえばいいのだ。菅さんが看板でいる限り、選挙で勝てるという空気を作ってしまえば、党内は菅さんになびく。あの体育会系の小沢一郎に本心からひれ伏したいやつなんて、いやしないのだ。だから、小沢グループはよちよち歩きの新人と一部の体育会系だけで、まともな幹部がいない。昔から、人がいつかないのだ。

菅さんは、「わかりやすい言葉」 で、しかも情熱を込めてビジョンを語ればいい。有権者はそういうのに弱いのだね。必ず支持される。あの小泉さんがあれだけ高い支持率を誇った要因は、あの塩爺に言わせると、「モノはっきり言うちゅうこってすわ」ということに尽きたのである。

とにかく、毎年、というか、1年持たずに首相が変わる国にいるのは、もうたまらんのである。菅さんには、モノはっきり言うて、ちゃんとした政権を築き上げてもらいたいものなのである。

とりあえず小沢一郎が要職から離れたので、私は次の選挙も、仕方ないから民主党に投票してみることにしようかなと思っている。とても悲しい選択に近いんだけれど。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月 6日

宮沢賢治のイメージ

前にも書いたことだが、ウチのブログは、週末の土曜、日曜になると、急にアクセスが減ってしまう。どうやら、勤め人が会社の PC で朝イチとか昼イチにアクセスしてみるというパターンが多いようなのだ。

で、土曜、日曜にはヘビーなネタを書いてもあまり読んでもらえないというようなことがある。今年の連休前までの 1年ちょっとの間は、どうせアクセスが少ないなら、ちょっとマニアックなネタで行こうと思い、「唯一郎句集レビュー」のシリーズで埋めたのだが、それも終了してしまった。

それ以前は土日は軽いネタという習慣があったのだが、1年以上もマニアックなシリーズでやっているうちに、その感覚を忘れてしまい、昨日はつい、「人間の脳はデュアルタスクが限度なので」なんていうヘビーなネタを書いてしまった。「しまった、月曜まで寝かせとくんだった」なんて、ちょっと後悔したが、後の祭りである。

「脳の限界はデュアルタスク」 というネタは、Twitter でちょこちょこっと 5~6回 tweet したとたんに、フォロワーが 3~4人増えたというほどの、ちょっとした注目ネタである。もうちょっと出し惜しみすればよかった。

それにしても、Twitter というところは、ちょっと哲学的なネタを書くだけで確実にフォロワーが増える。その代わり、先日は 幽体離脱ネタ をちょっと書いたら、とたんにフォロワーが 2人いなくなった。

で、今日もまだ週末なので、土曜日とのバランスをとるために意識して軽いネタにする。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』ネタである。いや、この詩が軽いというわけではない。この詩に関する私の思い出が、軽いのだ。それは小学校の 2年か 3年の頃、ラジオの朗読で、初めてこの詩の朗読を聞いたのだ。

このとき、「慾ハナク」の次に「決シテ瞋ラズ」と続くことに、子供ながらにものすごい衝撃を受けた。耳で聞く限りでは、てっきり「善くはなく」~「悪くもなく」という対句表現になると、瞬間的に思ってしまったので、その予定調和が粉砕されたように思った。

その衝撃があまりにも大きかったために、私の中では「善人ってわけじゃないが、決して怒らない宮沢賢治」というイメージが構築されてしまったのである。子供の頃の思い込みによる誤解というのは、恐ろしいものである。

という軽いネタで、日曜日はおしまい。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月 5日

人間の脳はデュアルタスクが限度なので

今日から Twitter でフォローすることになった hideya さんの tweet のおかげで、おもしろい記事を見つけた。IT Media News に 4月 20日付で載ったものだが、hideya さんが取り上げてくれなかったら、ずっと気付かずにいるところだった。近頃、Twitter の有用性にようやく気付いてきた。

おもしろい記事というのは、「人間の脳はデュアルタスクが限界――仏研究者が発表」というものだ。念のため最初に書いておくが、「デュアルタスク」とは、「2つの仕事、二重の仕事、二元的な作業」といったような意味だ。つまり、「人間の前頭葉機能は、2つの目標を同時に遂行するのが限界」ということのようだ。

この研究成果を発表したのは、Institut National de la Sante のシルバン・シャロン氏とEcole Normale Superieure のエティエン・ケクラン氏。ケクラン氏は、Business Week 誌のインタビューに応え、次のように語っている。

人間の高度な認識能力は基本的に二重構造となっている。人々が2択を好み、3択以上になると難しいと感じる(2つの選択肢の間では簡単に思考を切り替えて判断を下すことができるが、3つの選択肢の間ではそれができない)という事実もこれで説明がつく。

もう少し詳しいことを知りたかったら、前述の元記事を当たっていただきたいし、さらに詳細を知りたい場合は、お二人のリポートをを読むのがいいだろう。Science 誌の最新号に載っているようだから。

私としては、お二人の研究を子細に紹介したいというわけではなく、あくまでも門外漢の野次馬記事として、この 「人間の脳はデュアルタスクが限界」 という記事から思い浮かんだことを適当に書いちゃうだけなので、あまり深くつっこまれても、応える準備なんてもとよりないということは、初めからお断りしておく。

この記事を読んだのは、たまたま Twitter 上のある tweet につい脊髄反射して、「善悪二元論」 について論じていた時だった。まあ、ある意味、ちょうどいいタイミングだったのである。

人間の脳が二択思考は容易にできても三択思考は難しいということから、「人間が単純二元論に陥りやすいことの説明もつくかも」 と、私は考えた。単純な善悪二元論の陥りやすい罠について考えていた時なので、まあ、自然な論理的発展である。さらに、次のように tweet した。

単純二元論に陥らないためには、片方で単純二元論、もう片方でそれ以外の可能性を考えるというレベルのデュアルタスクができるまで、論理性を成長させないといけない。そうでないと、人間なんて、つい「好き嫌い」だけで物事を判断しちゃう。(参照

そこで、ふと気付いた。「ありゃ、これって、要するに弁証法の思考プロセスそのものじゃないか」 。なるほど、弁証法というメソッドが有効なのは、人間の脳がデュアルタスクしかできないからだったのか。

ここでは、ヘーゲルのメソッドを単純化して述べてしまうが、弁証法においては、「ある命題 (テーゼ)」 と 「それを否定する命題 (アンチテーゼ)」 について考える。つまり、基本は二元論、二項対立である。そして思考プロセスのうちにそれらを 「止揚 (アウフヘーベン)」 して、次のステージに移行する。

次のステージでは、前のステージで止揚されて獲得された命題が新たなテーゼになり、それに対するアンチテーゼとの関連性において思考がスタートする。つまり、一度に処理されるのは、常にテーゼとアンチテーゼの 2つの命題であり、それ以上にはならないように設計されている。なるほど、人間の脳にカスタマイズされて、よくできている。

しかし、このメソッドこそが、人間の脳の前頭葉による 「論理思考」 の限界を見事に表しているといえる。デュアルタスクが限界で、それ以上のマルチタスクができないというんでは、レスポンスが遅くてかなわないではないか。

実際の世界は、二項対立の弁証法で進んでいるわけではなく、いろいろな要素がうんざりするほどからまり合ってとぐろを巻いている複雑系なのだ。デュアルタスクごときで処理できるほど単純じゃないのだ。コンピュータを使えば処理は劇的に速くはなるが、常に処理しきれない部分を残すことに変わりはない。

だから、二元論で考えた論理的帰結というのは、いつでも実際の現象からは遊離していて、「そんなのはインテリの考えた机上の空論に過ぎない」 と言われてしまう要素をもっている。どうしてもそうなってしまう。当たり前なのだ。

私は基本的には論理思考を重視する人間だが、時として、論理というもののレスポンスの悪さに閉口して、付き合いきれないと思うことがある。論理って、煉瓦を一個ずつ積み重ねていくような作業が必要なので、すごく面倒くさいのだ。というわけで私は、一見論理的だが、頃合いを見てそれを放り出し、直感の方を信じてしまう人間である。

瞑想による直感が、論理の鈍足を容易に越え、すばらしいひらめきで千里の彼方に飛翔することができるのも道理である。論理はデュアルでしか働かないが、直感は 「すべて丸ごと」 で把握してしまえるのだ。

論理的すぎる人と話をすると、時々 「あんた、まだそんなことでぐずぐず言ってるの?」 と、うんざりしてしまうことがある。直感型の人間は、前提レベルのつまらないステージはさっさと飛び越えてしまうのだ。まあ、それがあまりにも独断的になると、単に 「エキセントリックな人」 になってしまうので、バランスは大切だが。

そうえいば、似たような話を既に昨年の 4月に 「分析的手法とホーリズム」 というタイトルで書いてあるじゃないか。今回の記事は、それに対する論理的裏付けになったかもしれない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月 4日

猫が冬毛を脱ぎ捨てたがらない

我が家には猫が 2匹いて、両方ともメス猫である。卵巣除去手術をしているので、子を産んだことは一度もない。年上の方は真っ白で、年下の方が真っ黒。年は 大体 17~18歳と 12~13歳で、両方ともバアサン猫だ。とくに上の方は、人間でいえば 80歳以上に相当するらしい。

2匹の猫は、色だけでなく性格も正反対だ。年上の白猫は、やたらと気位が高く好戦的。よその人間がかまおうとすると、すぐにひっかいたりかみついたりして血を見るので、要注意である。年下の黒猫は対照的に甘えん坊で平和主義者だ。やたらと人の膝の上でまったりしたがる。

猫が 2匹いる家というのは、ニートなたたずまいなんて望むべくもない。壁紙は爪痕だらけになり、ふすま紙は破られ、カーテンの裾はずたずたになり、網戸はばりばりに破られる。そして初夏になると、抜け毛がひどくて、廊下の隅は白と黒のケサランパサランだらけになる。

例年大体 5月半ば頃に抜け毛の季節になるので、がんがんブラシをかけてやって、できるだけケサランパサランになる前に処理してしまうことにしているが、それでもやはりどんどん抜ける。

とくに気位の高い白猫は、なれなれしくブラッシングされるのをよしとしない。1~2分は気持ちよさそうにブラッシングされているのだが、それ以上はうっとうしくなるらしく、突然がぶりとかみついてきたりするからヤバイ。だから、廊下の隅のケサランパサランも、圧倒的に白毛が多い。

その量たるやたいしたもので、1匹の猫から発生する抜け毛で、手袋ぐらいはちゃんとペアで編めるんじゃないかと思うほどだ。

いつもの年は、5月半ばにブラシして身軽にしてやると、2~3日ぐらいは寒そうにしているが、すぐに季節が進んでまた暑苦しそうな顔をし始める。その頃にもう一度ブラシをかけてやると、またまた大量の毛が抜ける。よく丸裸にならないものだ。

ところが、今年は様子が違う。5月中は何度か暑い日もあったが、すぐにまた肌寒さが戻るので、下手に冬毛を除去しすぎたら風邪を引いてしまうと思い、一度もブラッシングしてやらなかった。それでも、廊下の隅のケサランパサランはあまり目立たない。つまり、あまり冬毛が抜けていないようなのだ。

6月の声を聞き、この一両日になって、ようやく少し抜け毛が廊下でフワフワし始めたが、これは例年より半月ぐらい遅い。いくらバアサン猫になって新陳代謝が衰えたとはいえ、遅すぎる。

今年の天気の異変は、猫の抜け毛にも現れているとしか思われない。

さすがに沖縄奄美地方は先月初めに梅雨入りしたが、梅雨前線はそれっきり北上せず、例年ならそろそろ九州に迫ろうとしているはずなのに、台湾あたりまで戻ってうろうろしているらしい。

この分でいくと、本州の梅雨入りは例年より大幅に遅れて、今月末になるのではないかなんて言われている。梅雨が明けるまでには大体 1ヶ月ちょっとぐらいはかかるから、梅雨明けは 7月末とか、8月初めなんてことなりそうだ。下手したら、去年の東北地方のように、「いつ梅雨が明けたんだかわからない」なんてことになりかねない。

もしかしたら、夏の日照不足で米が不作、野菜も不足なんてことになるかもしれない。それよりも、子どもたちが夏の絵日記に書くような景気のいい材料が不足するだろう。不憫なことである。

猫はそのあたりの季節の進行具合をきちんとわかっていて、まだまだ冬毛を全部脱ぎ捨てるのに躊躇しているようなのだ。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月 3日

小沢さんを道連れにした鳩山さん

私は今年の 1月 15日に、例の西松建設からの献金疑惑云々の問題に関連して、「小沢さんが幹事長辞任に追い込まれるのは必至なのに、まだぐずぐずしている」と書いている(参照)。その後、いろいろ紆余曲折があったが、今回やっぱり辞任ということになったので、ほっとしている。

あれだけはっきりと言い切ったことが、半年近くも実現しなかったので、「おかしいなあ、私も嗅覚が鈍ったのかなあ」と思っていたのだが、まあ、一応はずれなくてよかった。辞任の仕方がものすごく変則的で裏の事情ありありなのが、ちょっとお恥ずかしいけど。

で、世の中は鳩山さんの政治家としての失格ぶりがいろいろと語られているけれど、私としては、ここまできたら「ああいう政治家でも、半年以上首相が務まったんだ」ということを肯定的にとらえてみたいという気になってきた。

今回の鳩山さんの問題でも、悪いことばかりではなかったと、私はとらえている。

まず、政治的に考えれば落としどころは明らかなのに、あえて 「沖縄の人の気持ち」 というものを取り上げて、それに応えようというようなポーズだけでも見せてくれたこと。これに関しては、「そんな余計なことをするから、かえって面倒なことになった」という指摘ももっともだが、今まで誰もしなかったことをして見せたという意味はあったと思う。

「初めに結論ありき」ではなく、まずリセットして考え直すということが、政治家としても 「アリ」 なんだということを示してくれた。とはいえ、それが明らかな否定的教訓となってしまったので、貢献ポイントには全然ならないんだけど、まあ「こんなことしちゃダメ」ということは示してくれた(苦しいなあ)。

それからもう一つは、昨日の記事に関するきっしーさんのコメントとも関係するのだが、日本は今までのように、米国の「ものすごく気が利く召使い」というわけじゃなくなってしまったのだということを示したことになると思う。

米国が何か一言いえば、日本側が先回りしてすべて都合よく取りはからってあげるというわけじゃないということが、今回の騒ぎでアメリカにもわかったのは、ある意味ではおもしろいことかもしれない。

これは裏を返せば、よく言われるように「日米関係の危機」ということになるのかもしれないが、まあ、時々はわけのわからないやつが、素直には言うこと聞かなくなることもあるという既成事実を見せてあげただけで、向こうも少しはこちらに気を遣うことを学ぶかもしれない。もちろん、程度によりけりだけど。

で、この記事の書き出しに戻るのだが、鳩山さんの最大の功績は、小沢さんを道連れにしたことだと思う。もっとも、小沢さんとしては今後も裏から影響力を発揮することになるのだろうが、とりあえず、しばらくは検察とのやりとりに忙殺されてもらえばいい。

私はずっと前から、小沢さんはたいした政治家じゃないと言っている。私の小沢観は、おおむねこんなところだ。

2006/04/09 の記事

(小沢氏は)実は「大物」なんかじゃなく、田中派から竹下派に続く歴史の中で、じいさんたちに可愛がられて、楽屋裏の重要ポストをあてがわれ、背後のじいさんたち (とくに金丸さん) の威光で、強引に物事を進めた経験があるというだけのことなんじゃあるまいか。

あの頃の世の中は、政治の世界に限らず、実力者といわれるじいさんのお気に入りになれば、大抵のことはできたのである。「お前の好きなようにやってみな。何かあったら、わしが出てって口きいてやるから」ってなもんだ。

こうした構造があって、周囲としても、下手に逆らうとややこしいじいさんが出てきてやっかいなことになるとわかっているから、逆らわなかったのである。

2007/11/05 の記事

この人、影で隠然たる力をふるうタイプで、昔から表舞台に立たせてしまうとろくなことがない。ちょっと権力欲をくすぐって揺さぶりをかけるだけで、すぐに自爆する。すぐに自爆するとわかっている人を自爆させるために揺さぶりをかけるのは、案外簡単なことなのだ。

で、近頃はさすがに簡単には自爆しなくなってきたが、何しろ、小沢さん自身が「ややこしいじいさん」になっちゃっているのが問題なのだ。おかげで、民主党内の若手の間では、率直にものを言える雰囲気がなくなってしまっているというではないか。みんな、「ややこしいじいさん」に出てこられたくないのだ。

幹事長を退いて奥の院に隠れてしまったら、ますますややこしくなってしまうかもしれないが、できれば隠れっぱなしに追い込んでもらいたいものである。

 

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2010年6月 2日

鳩山さんが Twitter をチョー重にして

「鳩山首相辞任表明、小沢幹事長を含む執行部全員辞任」のニュースを聞いて、「またしても、小沢さんの『ガラガラポン癖』が炸裂したのか」と思った。ちょうどお昼休みの混雑タイムだったこともあって、Twitter にアクセスしようとしたら、もう重い重い。みなさん、何かかんか書き込もうとしてるんだけど、全然動かない。

変な話だが、この現象をみても、Twitter って政治キャンペーンの道具としてかなり使い物になる可能性があるんだなと実感した。ただその前に、何かあると重くて動かなくなるというサーバ環境だけは、なんとかしてもらいたいが。

せっかくネット選挙が解禁になったのに、Twiter を「自粛」なんてしてしまうんでは、本当にもったいないと思わないのかなあ。「なりすまし」が問題だなんて言っているが、自分のなりすましが登場したら、それだけでパブリシティになって、宣伝効果抜群だという発想はできないんだろうか。かわいそうに。

話を元に戻すが、鳩山さんの辞任はもう避けられない状況だったと思う。これだけの大混乱を招いて、直後に参院選が予定されてるんだから、改選組はのっけから 「落ちろ」 と言われたようなもので、そのまま総理でいろという方が無理というものだ。だから、タイムリミットぎりぎりに首相辞任になるのは当然の流れだった。

ただ、小沢さんまで幹事長を辞めて、執行部全員が一蓮托生になるとまでは、さすがに思わなかった。ここで 「いっそのこと、全員辞めちまえ!」とばかりに、小沢さんのデストロイヤーぶりがほんの少しだけ顔をのぞかせたんだろうか。ただ、このデストロイヤーぶりは、鳩山さんだけが辞めるより、少しだけ効果があると思う。怪我の功名みたいだが。

それよりは、「あんたも辞めるんでなければ、こっちも辞めない」とばかりに、鳩山さんが最後の意地を見せたのというのが本当のところなのかもしれない。もしそうだったら、それだけは政界のオタッキーとして最大の功績と評価したいと思う。

それにしても、鳩山さんの最後のコメントは、またしても非難の的になるだろう。「国民が次第に聞く耳を持たなくなってきたことが残念でならない」とは、最後まで言ってはならない言葉である。最後に「私の不徳の致すところだ」と付け加えてはいるみたいで、言わんとすることはわからんでもないが、やっぱりアウトだ。

この人、本当に言語能力に欠けるなあ。イメージは正反対だが、もしかしたら、小沢さんとどっこいどっこいかもしれない。初めのうちは英語が下手なだけかと思っていたが、日本語はもっと下手みたいなのだ。

流れとしては、内閣も総辞職になってしまうんだろう。衆院解散してしまったら、せっかくの議席数が激減することは目に見えているから避けたいところで、やっぱり総辞職しかないと思う。

最近、しみじみわかったことなんだけれど、日本の政治という舞台では、やれ指導力だのリーダーシップだのを期待したところで、どうしようもない。そんなレベルにはほど遠い。実務をこなすにはまだまだ官僚の力が必要なところで、官僚の出番をふさいでしまったので、ますますまともな流れにならないでいる。

この不安定さは、まだしばらく続くんだろうなあ。次の参院選で漁夫の利を得るのは、「みんなの党」だという気がする。

 

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2010年6月 1日

alex さんからのバトンを受け取る

大先輩、alex さんから、大変なバトンが回ってきた。今どき、まだこういうバトンというものがあったんだと、少しうれしくなった。alex さんほど身を入れて長文の回答はできないけれど、受け取ってみたいと思う。うぅん、それにしても長いなあ。答えきれるかなあ。

 

  • お名前は?
    ハンドルは、庄内 拓明。ウェブサイトを始める前から、ペンネームとして使ってる。
    生まれ故郷の山形県庄内にちなみ、祖父の得明和尚から一文字いただいて、勝手に衣鉢を継いだ気になっている。(怒られるだろうけれど)
     
  • おいくつですか?
    昭和 27年生まれだから、まだ還暦には達していない。見かけはもっとずっと若く見えるらしい。
     
  • ご職業は?
    一応、会社の社長をしている (ワンマン・カンパニーだけど)。 アパレルと IT の狭間を埋めるような仕事をしている。
     
  • 今、悩みはありますか?
    トラブルはいつもあるけど、悩みは別にない。のんきに悩んでる暇があったら、トラブル解決のために動く。
     
  • あなたの性格を一言で言うと?
    ちょっと哀しみの色合いもないことはない楽天家。
     
  • 誰に似てるって言われたことがある?
    うぅん、とくに誰に似てると言われるような風貌じゃないみたいなのだね。ただ、だいぶ前に、タレントの誰だかに似てると言われた覚えがあるけど、それが誰だか忘れた。
     
  • 社交的? 人見知りしちゃう?
    人付き合いは嫌いじゃないけど、とくに社交的というほどマメじゃない。人見知りはあまりしない。
     
  • 人の話にはしっかり耳を傾ける?
    人の話を聞くのが仕事だった(記者をしていたことがある)から、聞くのは上手だと思う。基本的に、聞き好き。ただし、聞いてもしょうがないことは聞かない。
     
  • ギャンブルは好き? 嫌い?
    自分でやるほど好きじゃないが、撲滅せよと叫ぶほど極端に嫌いでもない。前に、ラスベガスに 2泊 3日したことがあるが、一度もギャンブルしなかったほどだから、個人的にはあまり縁がない。

    競馬には少しだけ興味があって、一時、馬券を買っていたこともあるが、ギャンブルとして競馬を見ることに違和感を覚えて、買わないことにした。
     
  • 好きな食べ物、嫌いな食べ物は?
    好きな食べ物は、まず蕎麦。麺類は大体好き。魚介類も好きだが、トロだけは、あまりピンとこない。嫌いな食べ物は、とくにない。
     
  • 好きな飲み物は?
    コーヒー、日本茶。最近、お酒はあまり飲まなくなった。
     
  • 嫌いな飲み物は?
    缶コーヒーだけは、できれば飲みたくない。
     
  • 恋人はいる?
    昔の恋人が、ここ 30年以上は妻となって側にいる。
     
  • 彼氏、彼女にするならこんな人が理想:(5つ)
    押しつけがましくない
    細かいことを言わない
    芸術がわかる
    信心がある
    バランスがとれてる
    (妻は、この 5項目に当てはまっているので、文句ない)
     
  • 彼氏、彼女と喧嘩をした時、自分から謝れますか?
    喧嘩はめったにしない。30年以上一緒に暮らして、2度か 3度しかない。謝るも謝らぬもないうちに、普通の暮らしに戻ってる。
     
  • 親友と呼べるお友達は何人いる?
    2人かな。いや、3人かな。
     
  • バトンを回してきたあの人......正直この人のことは○○である
    alex さん、マジに尊敬してます。人生経験が豊富で、引き出しがたくさんあるし。
     
  • 今までの自分の経歴で面白いことや自慢できることは?
    仕事をずいぶん変わっている。決して一つのことが長続きしなかったというわけじゃなく、職場の方が長続きしなかったので、移らざるを得なかった。自慢できることと言えば、その中で全然めげずに、結構のほほんとやってきたこと。
     
  • これのためなら一食抜ける!
    抜かない。ちゃんと食う。腹が減っては戦ができぬ。
     
  • 趣味・特技(いくつでもOK!)
    文芸、音楽。この分野なら、案外いろいろこなす。それから、関節技。履歴書に書けるようなことなら、40代の頃、英語は準一級クラスの実力と認定されていた。今はだいぶ衰えたと思うけど。
     
  • 今、行きたい場所は?
    国内では、出雲、熊野、石垣島。国外では、トランシルバニア、インド。
     
  • もし自由に使える10万円があったら何に使う?
    うぅん、中途半端な金額だなあ。出雲と熊野に旅行するしかないなあ。石垣島まで行ったら、アシが出るだろうなあ。
     
  • 将来の夢を語ってください。
    晩年は、庄内の地で悠々自適したい。(できるかなあ)
     
  • バトンを回す人の紹介を盛大にお願いします♪(印象付き)
    うぅん、バトンは適当にその辺に転がしとくので、どなたか、気が向いたら拾ってください。
  •  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »