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2010年6月27日

論理思考の限界 その 2

もう、仕事が続きすぎて、さすがに疲労を感じる。今日は短めにて失礼。

昨日の「論理思考の限界」という記事で書き落としていたことを書きたい。論理思考は西洋医学的で、つまり即効的だ。「論理」という閉じた構造の中で、単純化したモデルによって分析検討するので、当然そうなる。

しかし、その効果によって改善されたポイントが、その外部との軋轢を生じたりする。西洋医学の方が副作用が現れやすいのと似ている。

部分の中の正解が、外部との軋轢の原因になるというのは、日常生活においてはくさるほど見聞きされる、というか、世の中の現象は、ほとんどそんなことばかりである。「あちら立てればこちらが立たず」なのである。

「部分最適より全体最適を求めよ」なんて言う人が多いが、「そんなことよく言うよ」と思う。全体最適というものがそんなに簡単に実現されるはずがないではないか。そういう彼らのイメージにしても、せいぜい「そのサークル全体」における最適であって、それ以上の外部までは視野に入っていない。

「部分という全体」なら、話は楽だが、その中での最適が果たされたとしても、その次には必ず、その外部との矛盾が問題になる。そうなると、やっぱり「あれか、これか」の二者択一、二項対立が蒸し返されて、うまく着地点が見いだせないと面倒な話が延々と続くことになる。

そうなると、部分最適すらテキトーなところで納めておく方が利口じゃないかということになったりする。この論理は、先月書いた「ある状況に最適化しすぎると」という話と共通してしまうかもしれない。

 

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コメント

こ~ゆ~ことを言ってると、なんにもしない方がいいや・・・と、霞を食って生きる仙人的になるはずなのに、tak-shonai さんは、毎日、コマネズミのように(失礼)(笑)忙しく立ち働いているじゃないですか(笑)
私もロボトミーの手術を受けましょうか・(笑)


投稿: alex99 | 2010年6月28日 01:39

続き (笑)

人生とは、解に到着することではなく、解への過程だと思います

同じ過程なら、論理的思考を放棄して酔生夢死で生きてもいいわけですが、それは人間には出来ない業だと思います
だから「シジフォスの岩」であり「賽の河原」じゃないでしょうか?


投稿: alex99 | 2010年6月28日 01:48

alex さん:

>こ~ゆ~ことを言ってると、なんにもしない方がいいや・・・と、霞を食って生きる仙人的になるはずなのに、tak-shonai さんは、毎日、コマネズミのように(失礼)(笑)忙しく立ち働いているじゃないですか(笑)

完全な自己矛盾ですね (^o^)

まあ、私のいいたいのは、論理は万能ではないということで、限界を意識しながら考えるのが、本当の論理思考というものだということです。

投稿: tak | 2010年6月28日 13:33

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