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2010年6月25日

英語を社内公用語にすることについて

ユニクロが、じゃない、社名としてはファーストリテイリングが、社内の公用語を英語にすることにしたんだそうで、それについて、あちこちで賛否両論取り交わされている。内田樹先生などは懐疑派の代表格で、ご自身のブログに次のように書かれている。(参照

英語が公用語という環境では、「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」という人間が高い格付けを得ることになる。

(前略)決して「言語運用能力」と「知的能力」を同一視してはならない、ということをルール化しなければ「植民地主義的」なマインドと「買弁資本的おべんちゃら野郎」を再生産するリスクが高い(後略)

確かに内田先生の指摘されるとおりの弊害は出てくるだろう。昔は多少英語ができることを売り物にして(他のことはほとんど何もできないのに)、外資系企業を渡り歩く「英語ゴロ」というのがいた。外国人の役員は、どうしても英語をすらすらしゃべれる奴を重用したがる傾向が強くあったし、今でも多分その傾向は残っているだろう。

私も三十代後半からしばらく、英語を公用語とする団体に勤務していたことがあって、外国から出張してきた職員との会話はおろか、社内文書の多くも英語でやりとりするという環境に身を置いていた。だから、日本の組織で英語を公用語とするとどうなるかというのは、かなり身をもって経験している。

内田先生は、大学などの教育機関において英語をベースにすると、"その学部では「ネイティヴスピーカー」が知的序列の最上位に来て、次に「帰国子女」が来て、最後に「日本育ちで、学校で英語を勉強した人間」が来る" とおっしゃっているが、それは教育機関にとくに顕著な形で現れることだろう。

しかしいくらなんでも、営利を目指す企業や組織で、英語さえできれば最上位にランクされるということはおこりにくいので、極端な心配はいらない。確かに英語が上手な方が重用される可能性が高いが、それだけで無条件に出世するなんていうことはない。

私の外資系団体勤務経験においても、上層部に行くほど人に誇れるほど英語が上手なんてことは、まったくなかった。むしろ「あれ、この団体って、みんな英語がすごく上手だという触れ込みだったのに、これだったら、俺の方がずっと上手じゃん」と思ったものである。

なんだかんだ言っても、出世の条件は英語よりも処世術である (「英語よりも仕事能力」と言えないところが、ちょっと苦しいが)。 英語さえ上手なら出世街道驀進なんてことは、ないと思っていい。

とはいいながら、英語を公用語として採用することにはいくつかのディスアドバンテージがある。その筆頭は、コミュニケーションに時間がかかることだ。

本来なら、日本語のコンテクストでぐだぐだと義理人情論から説き明かすより、英語でドライに論理を展開する方が話が早いはずなのだが、そこは何しろ、ネイティブ・スピーカーじゃない人間の集まりである。「えぇと、うぅんと、あーうー、あーうー」とか、"Let me see..." とかが多くなって、物理的に時間がかかる。

それに、そのものズバリの的確な表現ができないと、本題の周囲をうろうろするような表現ばかりになって、「要するに、何が言いたいの?」という状態になりやすい。「いいから、日本語で言えよ。俺が通訳してやるから」ってなことになったりする。

会議の席で、日本人が 「えぇと、うぅんと、あーうー、あーうー」状態になって、ネイティブ・スピーカーがじれったさのあまりぶち切れたりすると、本当に「英語ができなくて出世できない」ということになってしまったりする。だから、いくら英語のうまさと仕事能力は別だといっても、人を納得させるぐらいの英語力は必須だ。

しかし、英語公用語は悪いことばかりではない。アドバンテージもたくさんある。

上記で述べたことだが、英語でコミュニケーションすると、うまく行けば、日本語コミュニケーションでは必要以上に重視しがちな余計な義理人情ファクターを適当に切り捨て、論理思考ベースでいくことができる。すると話が単純に早くなって、意志決定が促進される。不思議なもので、言語というのは人間の思考の方向性をかなり規定してしまうのだ。

ユニクロみたいな企業風土のところで英語を使うと、社内の意志決定がどんどん合理化されて、海外ビジネスがやりやすくなる可能性がある。その結果、ユニクロの利益の大部分は海外で上がるってことに、本当になるかもしれない。

ただ、それも 「上手にやれば」 の話である。

 

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コメント

私、ごぞんじのように(笑)英語第二公用語論者です
そのため、ブログでは,叩かれたりしていますが(笑)英語第二公用語と言うより,「世界語第二公用語」というつもりです
これなら文句ないでしょう(笑)

今とは言わずとも、いずれは踏み切らねば成りません
米国では乞食でも英語をしゃべるんですから(笑),時間を掛ければ,やれるはずです
私が知る限り、少なくともオランダ・ドイツ・シンガポール・インド・北欧などでは、実質的に英語が第二公用語
さらにビジネス・科学技術・医学の世界では英語が公用語です
韓国でも,若いインテリは,ほとんど英語が話せます
地下資源は増やすことは出来ませんが,人的資源はグレードアップ出来るはずです

投稿: alex99 | 2010年6月25日 17:15

alex さん:

>私、ごぞんじのように(笑)英語第二公用語論者です
>そのため、ブログでは,叩かれたりしていますが(笑)英語第二公用語と言うより,「世界語第二公用語」というつもりです

英語というのは、「道具」として本当に便利な言語です。
世界中大体どこでも通じるので、実質的な世界共通語です。

ですから、できないよりできた方が、ずっとずっとずぅっうううっといいわけですね。

私も本音を言うと、片言でもなんでもいいから、もっと気軽に英語でコミュニケーション取っちゃおうよという考えの人間です。

そのかわり、日本語もしっかりやろうぜということで、それで、頭の中の CPU をデュアルコアみたいにできると思ってます。

投稿: tak | 2010年6月25日 21:59

日本語を公用語にしていることによっても、「日系の企業では日本語が話せる/日本人であることだけで出世するヤツが出てくる」というバイアスが生じるわけで、このことの方が、ますますグローバル化するビジネス環境の中で生き延びて行こうとする日本企業にとっては大きな問題なのではないでしょうか。現に、諸外国で優秀な人材が日本企業は避けるという話も聞きます。国内の人材だけで、国内のビジネスだけでうまくいく会社にとってはどうでもいい事かもしれませんけれど。
「外資系の企業では仕事ができなくても英語が出来るだけで出世できる」というのは言うまでもなく偏見です。むしろ、外国語が堪能でないことを他の能力の欠如の言い訳にしているケースもままあるというのが実感です。
まあ、そのうち中国語を公用語とする企業も増えるでしょう。私なら、中国の企業でも英語が公用語のところがいいな。

投稿: きっしー | 2010年6月28日 12:55

きっしー さん:

>日本語を公用語にしていることによっても、「日系の企業では日本語が話せる/日本人であることだけで出世するヤツが出てくる」というバイアスが生じるわけで、このことの方が、ますますグローバル化するビジネス環境の中で生き延びて行こうとする日本企業にとっては大きな問題なのではないでしょうか。

確かにその通りですね。
国際ビジネスをしようというのであれば、日本語しか使えないというのは、人材を集める際のネックになります。

>「外資系の企業では仕事ができなくても英語が出来るだけで出世できる」というのは言うまでもなく偏見です。むしろ、外国語が堪能でないことを他の能力の欠如の言い訳にしているケースもままあるというのが実感です。

個人的には「英語ぐらいしゃべれよ」ということにつきると思うんですがね。ごく単純な話として。

投稿: tak | 2010年6月28日 13:31

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