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2010年6月 5日

人間の脳はデュアルタスクが限度なので

今日から Twitter でフォローすることになった hideya さんの tweet のおかげで、おもしろい記事を見つけた。IT Media News に 4月 20日付で載ったものだが、hideya さんが取り上げてくれなかったら、ずっと気付かずにいるところだった。近頃、Twitter の有用性にようやく気付いてきた。

おもしろい記事というのは、「人間の脳はデュアルタスクが限界――仏研究者が発表」というものだ。念のため最初に書いておくが、「デュアルタスク」とは、「2つの仕事、二重の仕事、二元的な作業」といったような意味だ。つまり、「人間の前頭葉機能は、2つの目標を同時に遂行するのが限界」ということのようだ。

この研究成果を発表したのは、Institut National de la Sante のシルバン・シャロン氏とEcole Normale Superieure のエティエン・ケクラン氏。ケクラン氏は、Business Week 誌のインタビューに応え、次のように語っている。

人間の高度な認識能力は基本的に二重構造となっている。人々が2択を好み、3択以上になると難しいと感じる(2つの選択肢の間では簡単に思考を切り替えて判断を下すことができるが、3つの選択肢の間ではそれができない)という事実もこれで説明がつく。

もう少し詳しいことを知りたかったら、前述の元記事を当たっていただきたいし、さらに詳細を知りたい場合は、お二人のリポートをを読むのがいいだろう。Science 誌の最新号に載っているようだから。

私としては、お二人の研究を子細に紹介したいというわけではなく、あくまでも門外漢の野次馬記事として、この 「人間の脳はデュアルタスクが限界」 という記事から思い浮かんだことを適当に書いちゃうだけなので、あまり深くつっこまれても、応える準備なんてもとよりないということは、初めからお断りしておく。

この記事を読んだのは、たまたま Twitter 上のある tweet につい脊髄反射して、「善悪二元論」 について論じていた時だった。まあ、ある意味、ちょうどいいタイミングだったのである。

人間の脳が二択思考は容易にできても三択思考は難しいということから、「人間が単純二元論に陥りやすいことの説明もつくかも」 と、私は考えた。単純な善悪二元論の陥りやすい罠について考えていた時なので、まあ、自然な論理的発展である。さらに、次のように tweet した。

単純二元論に陥らないためには、片方で単純二元論、もう片方でそれ以外の可能性を考えるというレベルのデュアルタスクができるまで、論理性を成長させないといけない。そうでないと、人間なんて、つい「好き嫌い」だけで物事を判断しちゃう。(参照

そこで、ふと気付いた。「ありゃ、これって、要するに弁証法の思考プロセスそのものじゃないか」 。なるほど、弁証法というメソッドが有効なのは、人間の脳がデュアルタスクしかできないからだったのか。

ここでは、ヘーゲルのメソッドを単純化して述べてしまうが、弁証法においては、「ある命題 (テーゼ)」 と 「それを否定する命題 (アンチテーゼ)」 について考える。つまり、基本は二元論、二項対立である。そして思考プロセスのうちにそれらを 「止揚 (アウフヘーベン)」 して、次のステージに移行する。

次のステージでは、前のステージで止揚されて獲得された命題が新たなテーゼになり、それに対するアンチテーゼとの関連性において思考がスタートする。つまり、一度に処理されるのは、常にテーゼとアンチテーゼの 2つの命題であり、それ以上にはならないように設計されている。なるほど、人間の脳にカスタマイズされて、よくできている。

しかし、このメソッドこそが、人間の脳の前頭葉による 「論理思考」 の限界を見事に表しているといえる。デュアルタスクが限界で、それ以上のマルチタスクができないというんでは、レスポンスが遅くてかなわないではないか。

実際の世界は、二項対立の弁証法で進んでいるわけではなく、いろいろな要素がうんざりするほどからまり合ってとぐろを巻いている複雑系なのだ。デュアルタスクごときで処理できるほど単純じゃないのだ。コンピュータを使えば処理は劇的に速くはなるが、常に処理しきれない部分を残すことに変わりはない。

だから、二元論で考えた論理的帰結というのは、いつでも実際の現象からは遊離していて、「そんなのはインテリの考えた机上の空論に過ぎない」 と言われてしまう要素をもっている。どうしてもそうなってしまう。当たり前なのだ。

私は基本的には論理思考を重視する人間だが、時として、論理というもののレスポンスの悪さに閉口して、付き合いきれないと思うことがある。論理って、煉瓦を一個ずつ積み重ねていくような作業が必要なので、すごく面倒くさいのだ。というわけで私は、一見論理的だが、頃合いを見てそれを放り出し、直感の方を信じてしまう人間である。

瞑想による直感が、論理の鈍足を容易に越え、すばらしいひらめきで千里の彼方に飛翔することができるのも道理である。論理はデュアルでしか働かないが、直感は 「すべて丸ごと」 で把握してしまえるのだ。

論理的すぎる人と話をすると、時々 「あんた、まだそんなことでぐずぐず言ってるの?」 と、うんざりしてしまうことがある。直感型の人間は、前提レベルのつまらないステージはさっさと飛び越えてしまうのだ。まあ、それがあまりにも独断的になると、単に 「エキセントリックな人」 になってしまうので、バランスは大切だが。

そうえいば、似たような話を既に昨年の 4月に 「分析的手法とホーリズム」 というタイトルで書いてあるじゃないか。今回の記事は、それに対する論理的裏付けになったかもしれない。

 

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