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2010年7月18日

保存した資料/素材を「自分のもの」と勘違いすることについて

例の件で、最終的なご報告。

市議のパクリ記事の話を某有力地方紙にたれこんだ人があり、その地方紙はさっそく市議に取材して、7月 17日付の小さな記事として掲載した。その紙面の写真を撮影してくれた方があり、おかげで私は遠く離れたつくばの地でその記事を読むことができた。

念のために書いておくが、紙面の写真を撮影してくれた方は、地方紙へのタレコミをした人とは全然別人である。たまたまその地方紙を購読していて、記事を見つけられたのである。

私の住むつくば辺りでは、その地方紙を入手するのが困難で、しかもその地方紙の無料閲覧ウェブサイトはすべての記事をアップロードしているわけでもなく、当然ながらそんな小さな記事は載っていない。この方が写真を撮ってくれなかったら、大きな図書館まで足を運ばなければならないところだった。本当に感謝である。

記事では、市議の昨年 10月 15日付のブログ記事の内容と構成が、茨城県の男性(私のこと)の「ブログに載せたもの」と同じということになっている。細かいことを言えば、内容と構成が同じなのは「ブログに載せたもの」ではなく、私のウェブサイトの中の記事(参照)なのだが、新聞記事では細部の不正確はよくあることなので、まあいい。

この記事には、問題の市議さんのコメントが次のように紹介されている。(冒頭に出てくる「男性」というのは、私のこと)

「(男性の考えは)運動の参考になると思って保存し、選挙スタッフに読ませようと自分の文体にして載せた。私の意見として受け止められるとは考えなかった」

なんだか典型的によくある言い訳である。典型的すぎて、私としてはますますむっときてしまった。

選挙カーの連呼に関する私の考えというのは、とくにオリジナルなものでもなんでもない。同じことを考えている人は、世の中にくさるほどいる。オリジナルなのは、その考えを表現した私の記事である。そこには、私自身による構成というものがある。

私の考えに共感したのなら、その共感した内容を、自分なりに構成した文章で表現すればよかったのである。「だ・である」調を「です・ます」調に変えただけで、「自分の文体」にしたとは、「よく言うよ」ってなもんである。自分なりの文章が書けなければ、私の記事にリンクを張ればいいだけだ。

今回の件に限らず、パクリ行為では、元ネタを「参考になると思って保存」あるいは「記憶の片隅に」とどめ、次に「それを自分なりに解釈した」つもりで、実は細部をほんの少し改変しただけで発表するというパターンが目立つ。

これこそが問題の根元みたいな気がする。以前、某アイドル・タレントの盗作問題でも、似たような言い訳がされていたような記憶がある。

こうしたケースでは、元ネタを保存、あるいは記憶の片隅にとどめた時点で、その人にとっては単に「元の人格から離れた単なる資料/素材」になってしまうみたいなのだ。そして次の段階で、それを「自分のもの」と勘違いする。あるいは少なくとも、勝手に二次使用することに抵抗がなくなる。

このプロセスには、かなりの「無神経さ」と「あつかましさ」が必要だ。政治家として知的所有権に関する無神経さというのは問題だが、「あつかましさ」というのは、ある意味、うってつけの要素なのかもしれない。

【追記】

私の 16日付の記事で、

全然わかってないみたいなのである。懲りない人のようなのである。私は、できることならばこの市議さんにダメージを与えたくなかったのだが、ここまで来るとさすがに呆れてしまった。政治家としてヤバすぎるだろう。「もう、どうなっても知らんわ」と思うまでになってしまったのである。

と書いたが、その後、先方の市議さんはやっとことの重大さに気付いたようで、18日付でお詫びのエントリーを書き、さらに「オリジナリティの検証のため」と称して、以前の記事を全部削除したようだ。

私の忠告がようやく身に浸みたようなのである。

 

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