声の大きさによる遠回り
昨日の朝の上野駅の常磐線ホーム、階段を昇れば山手線などのホームに行けて、 昇らずに直進すれば新幹線ホームに行けるという案内標識を指さしながら、新幹線ホームに行くには階段を昇るべきか否か、大声で議論しているオバサン 3人連れがいた。
誰がどうみても、新幹線に行くには階段を昇るべきではないのだが、どうやら何か余計なツボにはまりこんでしまっているらしい。
2人は案内の通りに直進すればいいと言っているのだが、一番声の大きなオバサンが、「前に行ったときも階段を昇って行ったから、間違いない。階段を昇らないと、ややこしくて必ず迷う」と主張している。やれやれ、階段を昇る方がずっとややこしいのに。
上野駅の新幹線ホームは地下にあるから、わざわざ階段を昇るのが正解であるわけがない。一番声の大きなオバサンの経験というのは、客観的にみれば単に「メチャクチャな遠回り」をしただけということなのだが、声の大きさというのは客観的事実を上回る圧倒的な強さをもつ。とくにオバサン同士の会話においては、その傾向が強い。
初めのうちは「案内通りに行けばいいんじゃないの?」と言っていた 2人も、「そっかぁ、不親切な案内で、かえってわからなくなることも、よくあるよね」なんて妙な納得をして、階段を昇ることに同意しかけている。
最後まで見届けたわけじゃないので、その後にどうなったのか知らないが、あの様子では階段を昇ってしまったに違いない。そして、声の大きさに負けた 2人もこれからずっと、上野駅から新幹線に乗るとき「案内が不親切のよ、階段昇らないと、迷子になっちゃうらしいわよ」と言って、遠回りをし続けるのだろう。
不憫なことである。「階段昇らずに行く方が、ずっと近いですよ」と一声かけてあげなかった自分が、ほんのちょっぴりだけだけど、悔やまれる。
いやしかし、もしかしたら、私が声をかけてて誤った思い込みを正してあげたおかげで、あの声の大きなオバサンが 1日中不機嫌になり、残る 2人が嫌な思いをしてしまうことになったかもしれない。私の経験則の教えるところでは、ああいうタイプはそうしたケースで、「友達の前で恥をかかされた」なんて思ってしまうようなところがある。
そこまで考えると、オバサン 3人の旅行の平安を護るためには、余計なお世話をしないでよかった。多少遠回りをしても、新幹線ホームには多分たどり着けたのだろうし。
世の中というのは、本当にビミョーでむずかしいものなのだ。
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