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2010年9月に作成された投稿

2010年9月30日

肥満体忌避の家系の血

我が家の家系は代々、肥満体型を好まない。放っておくと私自身がデブになってしまいそうなので、必死にウェイトコントロールをしているのだが、これほどまでに必死になってしまうのは、やはり血のなせるワザと思わざるを得ない。

私の妹がその昔、義理で断り切れなくなって東京で見合いをしたとき、その見合いの席に私が親代わりとして同席することになった。前々日あたりに電話で待ち合わせの打ち合わせをすると、先方の男は「私、小太りですので、会えばすぐにわかると思います」と言った。(「会えばすぐにわかる小太り」って、一体どんな小太りなんだ?)

そのすぐ後に酒田の母から電話が来たので、「相手は小太りらしいよ」と言うと、即座に「あら、それじゃあ、ダメだね」(オリジナルはもちろん庄内弁だが)と言い放った。

これにはさすがにちょっとひるんで、「いや、見た目で判断というか、いやいや、見もしないうちにそれはないでしょ」と取り繕うと、「まあ、いずれにしてもダメだね」と言い張って譲らない。

見合いの直前に妹にそれを告げると、「どうして、ウチのお父さんもお母さんも、デブ嫌いなんだろうね」なんて笑っていたのだが、いざ実際に見合いした結果は、「だってあの人、性格までデブっぽいんだもん」という理由で「NG」ということになった。やはり、血は争えない。

電話で丁重にお断りする役を仰せつかった私は、かなりのストレスを感じたものである。

で、我が家の家族(妻と三人娘)も全員見事にスリムである。私のみが、ややもすると太ってしまいそうなところを、辛うじて普通体型でもちこたえているのだが、家族の目がとても厳しい。しょっちゅう「お父さん、近頃ちょっと、おなかがたるんでない?」なんて言われるので、油断できないのである。

我が家の娘たちは、温泉とかスーパー銭湯とかに行ってくると、「オバサン連中って、どうしてみんなあんなにデブなの?」なんて言ってる。私に一番似ているといわれる末娘など、「私も中年過ぎると、お父さんみたいに太っちゃうのかなあ?」なんて気にしているのだが、いや、私は決して太ってなんかいないって! 

誤解のないように繰り返すが、私は決して肥満体型ではなく、涙ぐましい節制のおかげで、ごく普通の体型を維持している。ところが規準の厳しい家族から見ると「ボーダーラインぎりぎり」ということになるらしいのだ。かくまでに我が家の「肥満体忌避」の気質は根強い。

で、本日発表された、キム・ジョンウン大将の写真である。(参照

この大将、年齢は 20代後半と言われるが、二重あごでメタボそのものの姿は、見るも無惨である。よほど贅沢なものばかり喰らって育ちやがったのだろうと思わせるに十分である。これで、我が家の肥満体忌避傾向は、ますます強まりそうなのだ。

 

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2010年9月29日

物語力と即物的情報力のバランス

昨日、「情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らない」 と書いた(参照)ところ、語り部をしていらっしゃる(すごい、おもしろそう!)ベロニカさんから、次のようなとても興味深いコメントがついた。

私、語り部をいたしております。
30~40分の物語も、暗記して本を見ずに語ります。
けれど、アフリカ、インドなどでは、全部語ると一週間、一ヶ月とかかる(もちろん一日に1時間か2時間ずつ語るのでしょう)長い物語があるそうです。

(中略)

彼らは、本を読んで覚えるのではありません。
師匠たる語り部の語る物語を聴いて、覚えるのです。
しかも、何度も繰り返し聴くのではなく、たった一度、魂のこもった語りを、精神を集中して聴いて、覚えるのです。

(中略)

>つまり情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らないのである。
これは、逆なのではないかと思います。
幼い頃から、求めもしないのに詰め込まれる情報。
テレビや新聞さまざまなメディアから、繰り返し繰り返し垂れ流される情報。
これらが、世の人々の感度を鈍らせてしまうのだと、私は思います。

とてもおもしろい指摘だ。現代の世の中はあまりにも多くの情報が垂れ流されているので、かえってアンテナ感度が鈍り、昔のように一度だけ集中して聞いた物語を覚えることすらできなくなっているというのである。

確かにその通りだと思う。コメントのレスにも書いたのだが、私は子供の頃、ラジオで一度聞いた落語はすっかり覚えて再現できる子だった。そのまま育てば天才落語家になれたかもしれないが、そうはならず、今では何度聞いても再現できないオジサンになってしまったのだが。

これは、私自身の脳内の構造が変わってしまったのだと思う。子供の頃の私は、昔の語り部のように、聞いた物語をそのまま受け入れ、その物語が脳内で生き始め、語り出せば自動的に出てきていたのである。そして今は、脳内がいろいろな浮き世の情報で埋まってしまったために、物語が自生する余地がなくなってしまったようなのだ。

とはいえ、私は今でも、庄内の昔話なら語り出せば自動的に出てくるごとくに語れる。確かに、昔話の世界が脳内にからみつくように、生きて呼吸をしているのである。

ベロニカさんはコメントの中で、アフリカ、インドなどでは、全部語ると一週間、一ヶ月とかかる長い物語を語るプロの語り部について語っている。彼らも、師匠の語る物語を集中して一度聞いただけで、自分のものにしてしまうのだそうだ。

日本の『古事記』も、そんなようなものであったはずだ。稗田阿礼という語り部が延々と語るのを太安万侶が書き留めたのである。思えば物語の力というのはすごいものである。具体的な即物的情報とは脳内処理の仕方が違うのだ。きっと。暗喩が生きて呼吸しているのである。

稗田阿礼にしても、彼女(フォークロア派の私は、この人は女性であったと思っているので)の脳内では『古事記』が脈々と生きていたに違いない。だから、一度語り出せば、彼女の中に生きていた物語が、自動的に口をついてでてきたのだ。それは「理性」とは別の領域の脳の働きなのだろう。

ベロニカさんは、物語には「身体性」が重要だとコメントしてくれた。「情報が自分自身の内部で微妙に化学変化し、実際に自分自身の声(あるいは筆)で語るとき、物語となる」というのである。これが論理的説明であるかどうかは別として、なんとなく実感としてわかる。

私は昨日の記事に付けられた alex さんのコメントへのレスとして、「人間は『文字』という外部記憶装置を発明してから、脳内の物語力がガックリと落ちたんでしょうね」 と書いた。

そして今や、記憶装置の外部化は、絵や文字(あるいは音楽や建築なども入るかもしれない)の段階を遙かに通り越えて、さまざまなデジタル・メディアというレベルにまで行き着いた。

まこりん さんがコメントしてくれたように、 「地図検索で『京都市』といれれば、場所などすぐにぱんと答えがでるわけですから、頭の中に大体の日本地図を記憶させておくなどという煩雑なことは必要ない」ということになってしまった。

記憶装置の外部化も、便利ではあるが、ここまで来ると何か危ないものを感じる。人間力が損なわれてしまうという直感的危機感まで、私にはある。

その意味で、私はこの "Today's Crack" という「情報ブログ」の他に、「和歌ログ」というアナログ的なブログも毎日更新している。横書き、デジタル画像のサイトなので、アナログそのものではなく、「アナログ的」ということなのだが、これら 2つのブログを同時並行することで、私は自分自身のバランスを取っている気がする。

ちなみに私は最近、メモを取るときにもなるべく縦書きで、しかも旧かなで取ったりしている。これなんか、なかなかいいリハビリになる。

なお、「外部記憶装置」ということで私は、自分自身が 8年も前に書いた "コンピュータは「脳みその大腸菌」" というテキストを思い出したので、ついでに紹介しておく。

 

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2010年9月28日

理性に期待しすぎちゃいけないのだ

TBS ラジオの朝の番組に毎週火曜日、詩人の荒川洋治さんが登場していろいろな事を話される。今日は途中から聞いてしまったので、全体のテーマがどういうものだったのかは遂に把握できずじまいだったのだが、衝撃的な話を聞いてしまった。

荒川さんは大学で講座をもって 30年になるというのだが、ここ 10年ほど、基礎知識のない大学生が目立って増えたと指摘される。なにしろ、京都がどこにあるか知らない大学生がいるというのである。

荒川さんはある大学の講座で、読書をする際に本の中に登場する場所の地域性をきちんと理解するため、地図帳を持ってこさせて、いちいちロケーションを確認させるという試みをされたそうだ。

ところがある日、「それじゃ、京都の地図をみてごらん」と言った時に、地図帳のページをさっと開くことができずに、地名索引からようやく該当ページに辿り着く学生が少なからずいたというのである。荒川さんのような、地図帳を眺めるだけで想像上で旅行ができてしまうというほどの地図大好き人間には、イラっとくる光景だっただろう

これを聞いて、さすがに私も驚いた。島根県と鳥取県、山形県と秋田県など、どっちがどっちかわからないという人がいても全然不思議じゃないが、それでも、大体の位置はわかっているから、調べようと思えば索引の世話になることはまずない。地図帳で京都のページを開くのに索引から入るというのは、日本の大学生としてひどすぎる。

でもまあ、最近はそういう大学生もいるんだと認めざるを得ない。私はこうしたことを、「基礎知識の不足」というよりは「当然届くべき情報が、なかなか届かない人がいる」というように捉えている。頭が悪いってわけじゃないが、要するに脳内のアンテナ感度が低すぎて、ぼうっとしちゃってるのだ。

例えば、もう手垢の付いた話だが「振り込め詐欺」にひっかかる老人が後を絶たない。自分でキャッシュディスペンサーを操作できるのだから、頭が悪いわけでも、ボケているわけでもない。ところが、ころりと詐欺に引っかかるのである。

「振り込め詐欺に注意」と、これだけ呼びかけられても、その情報が届かないのである。自分の身にも起こりうることとは、全然考えないのである。アンテナ感度が低いとしか思われない。

「犬を飼うなら、毎日の散歩、排泄などの躾、予防注射など、かなりの負担を覚悟した上でないと捨て犬ばかり増えることになるので、衝動買いをしてはいけない」という情報も、繰り返し流されているが、それでも「わぁ、かわいい!」と衝動買いして、あっという間に捨ててしまう人も後を絶たない。

「CO2 削減のため、アイドリングストップを心がけましょう」といくら呼びかけられても、駐車場で延々とエンジンかけっぱなしのドライバーも、まだまだ多い。

乗車券の自動販売機に並び、自分の番になってからあわてて行き先までの料金を調べ始める人もいる。そしてそういう人に限って、なかなか自分の行き先を探し当てられなくて時間がかかる。

とまあ、アンテナ感度の鈍い人というのは、そこら中にいるのである。これは「わかる」ということとは切り離して考えなければならないと思う。聞いたその時だけは、頭の表面で「わかったような気になった」としても、いざとなるとすっかり忘れてしまっているのだ。要するに、「身に付いていない」のである。

世の中には「一度言われれば身に付く人」、「二~三度言われて初めて身に付く人」「何度も何度も言われてやっと身に付く人」「何度言われても全然身に付かない人」というのがいる。そして、圧倒的多数は 2番目と 3番目の人である。

つまり情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らないのである。察しのいい人にとってはうんざりしてしまうようなことだろうが、「もういい!」といわれるぐらい言い続けて、さらにその倍ぐらい発信しなければ、世の中にはきちんと受け入れられないのだ。

普段の世の中というのは、それほどまでに「おぼろげ」な動き方をしているのである。誰もが理の通った生き方をしているわけじゃないので、社会というのはこけつまろびつ、馬鹿馬鹿しいほどの動きをするのである。そんなものなのである。

理性にあまり期待しすぎちゃいけないのだ。

 

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2010年9月27日

煙草の値上げを巡る冒険

ジョンソン・エンド・ジョンソンの調査によると、今回のたばこの大幅値上げを機に禁煙を決意した喫煙者は前回値上げ時の調査より 2割以上も増えて、57,9%に達したという。禁煙の理由は、圧倒的に 「お金のため」 のためだそうだ。なんだかなあ。

禁煙を決意した理由について、MSN 産経ニュースは次のように伝えている (参照)。

禁煙理由で「お金」を挙げた人は前回の 37.0%から 57.9%に増加し、「健康」を挙げた人は 45.7%から 26.2%に激減した。お金と健康以外で多かったのは「喫煙しにくい環境が増えたため」(7.1%)と「家族、友人などに勧められたため」(4.9%)だった。

ということは、多くの喫煙者は、これまで経済的負担が比較的小さかったから、副流煙で周囲に大きな迷惑を垂れ流しすのを気にせずに喫煙し続けてきたが、ここにきて経済的な理由でそれを断念したということか。つまり、値上げさえされなかったら、これまで通りに迷惑をかけ続けるつもりでいたということだ。

日本人の美徳は「人に迷惑をかけない」という意識が高いことだといわれるが、こと煙草に関しては、全然当てはまらないのはなぜだろうか。喫煙者は自らが周囲に迷惑をかけ続けているということを、ほとんど意識していないみたいなのだ。

しかし、煙草の煙って、本当に迷惑なのだということに、そろそろ気付けよ。私なんか、煙草の煙が流れてくるたびに、心ならずも息止めてやり過ごしてるのだ。喫煙者は、他人がまともに呼吸するという、生物として当たり前の行為の邪魔をしているのである。

森永卓郎 という人は、今回の値上げについて、「ライフスタイルの多様性を認めないという政策。イジメだと思います。格差社会の助長はやめろ! 民主党は弱いものへの目配りをするといって政権とったのに、真逆のことをやってる」と、テレビ番組で公言したという(参照)。

なんで喫煙者が「弱いもの」なのか、私にはさっぱりわからない。現状では受動喫煙被害に悩む非喫煙者の方が、ずっと弱い立場にある。喫煙者で「煙草吸っていいですか?」なんて聞く人はものすごく少ない。私は聞かれたら「吸わないでください」とはっきり言うんだが、聞きもしないでいきなり吸い出すので困るのだ。

誤解のないように言っておくが、私は喫煙者に対して「煙草を辞めろ」と無理強いしているわけじゃない。吸いたければいくらでも吸うがいい。ただし、非喫煙者に迷惑がかからないように、隔離された場所で。そして、吸い終わっても嫌な臭いはつきまとうから、あまり気安く近づかないでもらいたい。

私はよく、電車の中でのウォークマン(最近は iPod かな)のシャカシャカ音の迷惑を、煙草の迷惑の例えに出す。 「あいつら、困ったもんだ、少しは人の迷惑も考えろ」という人は、喫煙者の中にも多い。

しかし、シャカシャカ音も煙草の煙も、「垂れ流し」ということでは一緒なんだよと、私は言いたいのだ。「あんただって、本質的には同じ迷惑を垂れ流しているんだよ」と。それがわかっていない喫煙者は、とても多い。

さらに言えば、極論に聞こえるかも知れないが、私は健康が急激に悪化してドクターストップがかかって初めて煙草を止めたという人を、むしろ内心軽蔑する者である。他人の健康被害にはまったく無頓着なくせに、自分の身が危なくなったらすぐに煙草を止めるという態度に、かなり醜いエゴイズムを感じるからだ (詳しくは こちら) 。

今回の煙草の増税について、「禁煙する人が増加すれば煙草の消費が減るから、税収が減少して、逆効果だ」と批判する人がいて、私は驚いた。逆効果じゃない。そもそも今回の増税の目的は、税収を増やすためではなく、喫煙者を減らすためなのだ。厚労省主導なのだもの。

昨年度のたばこ関連の税収は国・地方合わせて約 2兆 291億円だった。それに対して、02年に発表された厚労省研究班の調査によると、99年度に喫煙や受動喫煙に起因する疾患のために要した医療費は推計で約 1兆3000億円で、入院や死亡で失われた労働力も含めた社会的損失は約 7兆円にも上ったという。

喫煙者が減少した今では 10年以上前ほどの大きな金額にはならないだろうが、それにしても、煙草の税収が相当減ったとしても、社会全体ではかえっておつりが来るのだ。喫煙者には「俺たちゃ、税金払ってるんだ、文句あるか」と言う人もいるが、実際には、まだまだ応分の負担をしていないみたいなのである。

 

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2010年9月26日

公共トイレのデザイン、しつこく補足

2日続けて公共トイレのデザインについてしつこく触れた。とくに昨日は、太ったオバサンが鬼のような形相にならないように、大便所の個室のドアは外開きにすべきだと提言した。内開きだと、個室内のスペースが狭い場合に、中に入ってからのドアの開け閉めがしにくい。自分の体が邪魔になるのだ。

しかし、公共トイレの大便所のドアが内側に開く方式なのには、ちょっと調べると、それなりの理由があるようだ。それで今日は、さらにしつこく補足である。

外側に開く方式だと、開けっ放しにするとドアが邪魔になるので、全てのドアが常に閉まっている状態にすることになるが、一方、内側に開く方式だと、空いている個室のドアは開けっ放しにできる。

それで内開き方式だと、使用中の個室と空いている個室がすぐに区別できるということになる。外開き方式だと、どの個室が空いているのか、一目で分かりにくいのだ。なるほど、これは少し不親切だろう。

それで内側に開く方式が圧倒的に多いようなのだが、それでもやはり、内部の空間に余裕がないと、内部からドアを開閉する時に、体をかなり窮屈にどかさなければならない。太っている人だけでなく、体の不自由な人や、大きな荷物を抱えている人には、とても辛い。外開き方式の不親切より、さらに不親切だ。

だから少なくとも、個室内部に十分な余裕がない場合は、やはり外開きにするか、あるいは飛行機のトイレみたいに、ドアが途中で折れる形式にするなど、工夫していただきたいところである。

外開き方式にした場合、ドアが閉じっぱなしのトイレが、空いているのか使用中なのかをわかりやすくするには、鍵をかけた時に使用中であるとの目印が大きく表示されるようにすればいいだろう。

いずれにしても、公共トイレのドアの 「使用中」 サインは、あまりにも控えめすぎてわかりにくいと思っている。あれは大人の目の高さぐらい (といっても、大体 140センチぐらいの高さかな) に、十分に見やすい大きさで表示されるべきだろう。そうでないと、使用中の個室のドアを無理にごりごりこじ開けようとする人がいて、アセる時がある。

 

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2010年9月25日

「公共トイレのデザイン」 に、とても重要な補足

昨日のトイレに関する記事は、思いのほかの盛り上がりを見せてしまった。皆さん、トイレへの思い入れは強いようなのだ。

ところでトイレ関連の話で、既に大昔に書いてしまったような気がしていたのだが、自分のサイト内をいくら検索してみても見つからないので、今頃になって 「いやはや、まだ書いていなかったんだなあ」 と、意外に思っている事件がある。今日はそれについて書こうと思う。

もう 15年以上前のことだと思う。ある日、勤め帰りに上野駅のトイレに入った。このときは「小」の方の用である。ところが、そのとき、男子トイレにオバサンが入っていたので、私はビックリしてしまったのである。

いや、男子トイレにオバサンが入ってくるぐらいでは、私は驚かない。そんなことは珍しいことではないからだ。とくに、今はなき歌舞伎座のトイレなんかは、休憩時には女性用はものすごく混むようで、オバサン連中がどっとなだれ込んでくるのが毎度のことだった。

そんなとき、オバサンたちは「いいんですよ~、気にしませんから~」なんて言ったりするんだが、そっちは気にしなくても、こっちが気にしてしまうのである。でも、まあ、いいのだ。新しくできる歌舞伎座は、きっと女性用トイレが拡充されているだろう。

話がそれかけたので元に戻そう。その夜、上野駅の男子トイレにオバサンが入っていてビックリしてしまったのは、その入り方が異様だったからなのだ。そのオバサンは、相撲取りのような巨体だったのだが、なぜか大便所のドアを開けっ放しで、鬼のような形相で、便器をまたいでしゃがんでいたのである.

それをみた男たちは、一様にとんでもないものを見たように、あわてて目をそらしたのであった。いや、確かにとんでもないものではあったのだが。

そそくさと用を足してトイレを後にしながら、「今のは、一体何だったんだ?」と、私はようやく冷静になって考えた。

オバサンが男子トイレにいたのは、上述の如く、別に不思議なことじゃない。女子トイレが混み合っていて、そのオバサンはよほどガマンができなかったので、やむなく男子トイレに駆け込んだのだろう。それは理解できる。責めようとは思わない。

問題は、どうしてそのオバサンは、ドアも閉めずにパンツを下ろして用を足していたのかということだ。これが大きな謎として残った。どうみても (いや、そんなにジロジロみたわけじゃないのだが)、露出狂というような雰囲気でもなかったしね。

謎が解けたのは、それから 1週間以上経ってからのことだ。改めて上野駅のトイレの大便所のドアの構造をみると、ドアを内側に押し開けて入るようになっている。そして、中に入ってからドアを閉めなければならないのだが、その際に、人間は隅の方にどかないと、内側に押し開けたドアが戻らない。つまり、人間の体が邪魔になるのだ。

そういえばあの時、鬼のような形相でしゃがんでいたオバサンは、ものすごく太っていた。「相撲取りのような巨体」と書いたが、もしかしたら、その太り方は相撲取り以上だったかもしれない。

つまりそのオバサンは、大便所の中に入ってしまうと、自分の体が邪魔になって、内側に押し開けたドアを閉めることができなかったのだ。そして押し寄せる便意に耐えきれず、ついそのまま、パンツを下ろしてしゃがんでしまったのだ。それで、あんなに鬼のような形相だったに違いない。

まったく気の毒なことである。

で、昨日のテーマの「公共トイレのデザイン」について、とても重要なポイントを付け足さなければならない。それは、大便所のドアはなるべく外側に開くようにすべきだということである。内側に開くようなデザインが絶対に不可というわけじゃないが、それは内部に十分な空間的余裕がある場合に限るべきである。

そうでないと、あのオバサンはまた、鬼のような形相をしなければならなくなるかもしれないから。

 

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2010年9月24日

公共トイレのデザイン

仕事の関係で、栃木県に来ている。途中、昼食で某 「道の駅」 により、しばらくお茶を飲んでからトイレに入った。恥ずかしながら、「大」 の方である。

公共施設のトイレは、近頃目に見えてきれいになった。それに、鉄道の駅や道の駅などに至るまで、「大」 の方にはトイレットペーパーが備えてある。昔は空港や大型小売店のトイレならいざ知らず、駅のトイレなんかにトイレットペーパーはなかった。

多分、トイレットペーパーを備え付けないと、水に溶けにくいティッシュペーパーなんかを使われてパイプ詰まりが頻発し、復旧のための人件費の方が馬鹿にならないので、こういうことになったんじゃないかと思っている。それにしても、誰も見ていないところにトイレットペーパーなんか備え付けても盗まれないのだから、日本は平和な国である。

ただ、私が日本のトイレで今でも不満に思っていることがある。それは用を済ませてから水を流すためのボタンまたはペダルについてだ。

今日入ったトイレもそうだったが、水を流すためのボタンがやたら固いことが多い。力一杯押さないと、反応してくれないのである。あれでは指の力の弱い女性やお年寄りにはきついだろう。

さらに、中途半端な高さに「ペダルの形をしたノブ」が設置してある場合もある。足でなく、きちんと手で押せということなのだろう。しかし、あんなものを手で押す人なんていない。その証拠に「ペダルの形をしたノブ」の表面には、いつもべったりと靴底の跡がついている。

フツーの心持ちとしては、やっぱり足で踏んで水を流したいのである。形だって、いかにも足で踏みつけるためにあるみたいな形をしているし。しかしなぜか、それが「お行儀よく、きちんと手で押してね」といわんばかりの高さにあるのである。

こんな馬鹿なデザインがあるだろうか。あんなものは初めから足で踏めばいいような位置に設置すればいいのである。そうすれば何の問題もないのだ。しかしこんなことを言うと「足の不自由な人はどうするか」と言い出す人が必ず出てくる。

しかし、そもそも公共施設の、とくに和式のトイレなんか、足の不自由な人には使いにくいのだ。そのトイレに一人で入れるような人なら、足でペダルを踏むぐらいのことはできると想定するのが自然ではないか。それができなくても、杖でなら押せるだろう。

和式トイレに入れない人のためには身障者向けのトイレがあって、一応ユニバーサルなデザインになっている。なんだか、赤い光センサーみたいなのがあって、そこに手をかざしさえすれば水が流れるようになっている。しかしそこまでできるなら、便座に座っていた人が立ち上がったら、それを関知して自動的に水を流せばいいだろうにとも思う。

トイレのデザインというのは、考えられているところはものすごくよく考えられているが、そうでないところって、ものすごくおざなりなのだ。

 

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2010年9月23日

世界はなかなか混じり合わないからおもしろい

寒い! 昨日は残暑というより、いつもの年の真夏以上の暑さだったのだが、一夜明ければ季節が急に 3ヶ月ぐらい進んだような冷え具合だ。20度切ってるんじゃないかと思ったが、午前 10時半頃に寒暖計をみれば、室温は 23度。それでも昨日より 10度近く低い。本来なら最も快適な気温と言っていいのに、体がよほど猛暑に順応しすぎたみたいなのだ、

前線 1本を境にして、空気というのはこんなにも違うのか。空気だけではなく、世界というのは、よくよく混じり合いにくいもののようなのだ。自分の中のモロモロさえ、なかなかうまく折り合いを付けられなかったりするのも道理である。

しかし考えてみれば、世界は容易に混じり合わないからおもしろいのである。いろいろあって多様性に富んでいるからいいのだ。どこを見渡してもモノトーンだったら、世界はさぞかしつまらないだろう。

前線 1本を境に、こんなにも様相が変わるから、四季のおもむきがあるのである。いろいろな人間がいて、ああだこうだとせめぎ合っているから、とりあえず自分も世界に参加してみようという気になるのである。自分の中にさえいろいろ折り合いの付かない要素があるから、いろいろな場面で深くも考えずに反射的に対応して動ける。

「山川草木国土悉皆成仏」と、釈尊は言われたのである。それならそうと、てんでんばらばらではなく、仏のありがたい多様性と思って生きようと思う。その方がずっと気が楽だから。

この夏の異常な暑さだって、このままの温暖化傾向が続いたら、数十年後にはこの暑さが「異常」ではなく「フツー」になってしまうのだということを、シミュレーション的に体験する機会が与えられたのだと思うことにした。「こりゃ、確かにヤバイぞ!」「何とかしなきゃ」と体感できただけで、意義はあった。

 

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2010年9月22日

Twitter ってそんなもんなんだと認識して使おう

昨日、帰宅途中に iPhone で Twitter をちらりとのぞいてみたら、JavaScript がどーたら、かってに RT されるのがこーたらいう tweet があって、「一体何のこっちゃ?」と思っていた。ちょっと気にはかかったが、何しろ iPhone の 3G 回線ではうっとうしいので、それ以上は自宅の光回線で確認しようと思ったのである。

で、帰宅して PC を起動し、Twitter の公式サイト(https://twitter.com/)を開き、ちょこちょこっとマウスを動かしたら、とたんに window の色が変わり、わけのわからないポップアップがどんどん現れて、制御不能に陥ってしまった。それどころか、どうやら自分では書き込んだ憶えのない JavaScript みたいな tweet がアップされてしまっている。

で、とりあえずまともに動いている iPhone の TweetMe を起動して、次のように書き込んだ。

あれ? 覚えのない JavaScript のtweet が私の名前でアップされてる。もしかして、これが噂のアレ? 何だか知らないけど、ご迷惑おかけします。(参照

と、こう書き込んでからよくよく調べると、なんだかエライことのようなのである。わけのわからない JavaScript のコードのような tweet の上にマウスポインタを重ねるだけで、どんどん同じコードが retweet されてしまって、被害が拡大しているらしい。

その retweet しちゃった人をフォローしている人が同じことをすると、ますます被害が拡大する。これは Twitter のシステムの脆弱性を利用したワームらしい。

一時はこれが悪質なウィルスで、下手すると Twitter のパスワードまで取得されてアカウントが乗っ取られてしまう可能性もあるなんて情報が乱れ飛んだので、「えらいこっちゃ」とばかりに、TweetMe の機能を使って、とりあえず私が心ならずも retweet しちゃった分だけは削除しておいた。

で、しばらくは PC で Twitter の公式サイトにアクセスするのは控えた方がいいなと思っていたら、ほどなく Twitter 側でパッチを当てて対応が終了したという知らせがあり、この混乱はあっという間に収束した。

つまり、発端はシステム側のちょっとしたバグによるセキュリティホールで、Twitter 側ではこの問題を把握して処理済みだったのだが、前回のバージョンアップで、元に戻ってしまっていたようなのだ。詳しくは こちら に解説してある。

まあ、Twitter というシステムは元々、そのゆるさが魅力で、システム的にもすぐにビジーになって有名なクジラがしょっちゅう現れたりするのだが、こういうところもユルユルだったようなのである。

そんなもんなんだと、きちんと認識して使うようにしようと思う。

 

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2010年9月21日

iPhone 用の ATOK アプリが出るらしい

iPhone を使い始めてほぼ 13ヶ月。いつの間にか 1年を越してしまっていた。買ったのは昨年の 8月 14日で、それから 1ヶ月半ぐらい経った 9月 29日には "10年以上も慣れ親しんできた「超整理手帳」だが、このまま行ってしまうと、2010年版は買わないことになってしまうかもしれない" なんてことを書いている。

そして、ふと気付けばこの言葉通り、2010年版の「超整理手帳」なんて買ってなくて、それまで手帳ベースでやっていたスケジュール管理などは、全部 iPhone でやっている。たった 1年ちょっとで、iPhone がなければ仕事にならないというところまで来てしまったのだから、我ながら驚きだ。

とまあ、こんなにも便利に使っている iPhone だが、一つ不満がある。それは日本語変換のお馬鹿さ加減である。これほどまでに優秀なデバイスの中に、どうしてこれほどまでに頭の悪い変換ソフトが入っていなければならないのだ。

私は、PC では Windows 付属の MS-IME ではなく ATOK を使っている。MS-IME は、どこまで行っても「OSのおまけ」みたいなもので、まともな使い方をしようと思ったら機能不足でしょうがない。例えば、単語登録機能もお粗末そのものだし(参照)。

とまあ、そんなわけで、私は iPhone でも ATOK を使いたいと念願していたのだが、ようやくそれが叶いそうな案配だ(参照)。

このビデオ付きの紹介記事をみると、提供されるのは ATOK をメモアプリに組み込んだ、iPhone/iPod touch 用日本語入力アプリ "ATOK Pad for iPhone" ということになるようだ。iPhone にインストールされたすべてのアプリに使えるというようなものではないらしいのが、ちょっと不満といえば不満である。

つまり、iPhone のメモアプリとかメールソフトなどで日本語のテキストを作成すると、日本語変換がうっとうしいので、まずいったんこの "ATOK Pad for iPhone" というメモアプリケーションでテキストを作成し、それをメールや Twitter などに転送するという発想のようだ。ちょっとまどろっこしいが、まあ、仕方がない。

問題はアプリの値段で、1,000円だという。iPhone 用アプリといえば 115円とか 230円というレンジに慣れきってしまったため、ちょっと高いような気もするが、PC 用の ATOK が1万円近くすることを思えば納得される。

入力方法としては、「ダブルトリガー・キーボード」 というのがあって、どんなものかは紹介記事にあるビデオをご覧いただけばわかるが、慣れればずいぶん速く打てそうだ。多分、購入することになるだろうと思う。

 

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2010年9月20日

「くらコーポレーション」社員から内部告発があって

今月 5日に書いた「くらコーポレーション」の試験官が辞表を書いた方がいい理由 という記事に、その名も「内部告発。さん」という方から内部告発のコメントが付いた。以下のような出だしである。

私はくら社員の1人ですが、ここまで厳しい研修に耐え抜いた者でさえ、1年も経てば半分近く辞めているのが現状でしょう。私の勤務地でも、7人いた同期が今や2人。入社1年半も経たない内に自ずから出て行った者ばかりです。

要するに、話題の理不尽な研修に耐え抜いたタフな者でも、1年で半分近くが辞め、この方の勤務地では、さらに 1年半で 7人が 2人に減ってしまったというのだ。研修での理不尽が、実際の業務が始まったら止むというわけじゃないだろうから、それも当然だと思う。

もっとも、この方が実際にくらコーポレーションの社員であるという保証は何もない。同社のコンペチターが、競争相手を蹴落とすためにあらぬ事を書き込んだという可能性だって考えられる。

しかし、コンペチターだってこれほどひどくはないにしても、多分それほど威張れるほどの職場環境を実現しているわけじゃないだろうから、余計なことをしたら自分の首を絞めかねない。というわけで、私は「多分、本当に内部告発なんだろうなあ」という前提で話を進める。確たる根拠はないわけだけど。

「内部告発。さん」は、次のように続ける。

恐らくは会社としても余計な人件費を、すぐ辞める人間に使いたくないから、最終段階で篩に掛けたって所でしょうね。

このあたり、私は元記事を書いた時から憤慨していることである。最終段階というのは入社間近の「研修」を指しているのだが、ふるいにかけたいのなら、入社試験の段階でかければいいのである。わざわざ内定を出して、その上でふるいにかけるというのは反則だ。

この内部告発を読んで、この会社のねらいがほぼ明らかになったと思う。社員が「自発的」に退社するような環境をキープしておくことで、人件費を常に低く抑えておきたいのだ。ベテラン社員が増えたら人件費も上がるから、どんどん辞めてもらう方がいいのである。

それなら、初めから採用人数を少なくしておけばいいはずだが、初めは安い給料で必要な人数を雇っておき、1年足らずの間に退社が続出して人手不足になった時点で、また新規採用を行うということなのだろう。新規出店もあるだろうし。

この繰り返しで、人件費は常に安く抑えられる。そして、従業員がこの会社に留まっている間は、理不尽な労働条件でこき使うことができる。内部告発はさらに続く。

安月給、ボーナスなし、退職金なし、社員は冠婚葬祭事故病気など、万人に値する重大事項でしか有給が使えない

安月給、ボーナスなし、退職金なしというのは、まあ仕方がないかもしれないが、有給休暇が「万人に値する重大事項」(一体、何じゃこりゃ?)でしか取れないというのは、明らかに法に反している。有給休暇を理由を告げずに取るのは、労働者の当然の権利なのだ。

まあ、有給休暇を取る際に上司に理由を聞かれるなんてことは、普通の会社でもないわけではない。しかし、聞かれても答える必要なんてない。どうしても何か言わなければならない空気なら、「個人的な都合」とでも言っておけばいいのである。それで有給休暇を取らせてもらえなかったら、労働基準局に訴え出ればいい。

前の記事でも書いたことだが、求職者は、採用してしまえば「社員」になるから、業務命令に従わせることができる。しかし、理不尽な求職者いじめをしてしまったら、落とされた者たちは「逆広告塔」と化す。

くらコーポレーションはさらに、一度雇った社員をどんどん辞めるようにし向けているのだから、「逆広告塔」をどんどん野に放っていることになる。こんなことをしていては、ろくなことにならないのである。

というわけで、私は単純に「逆広告塔」のキャンペーンに乗っかって、「くら寿司」という回転寿司屋は絶対に利用しないと、ここに宣言しておく。別に「くら寿司」で寿司を食わなくても飢え死にするわけじゃないのだから、客の方が圧倒的に立場が強い。そんな気分の悪い店に入ってまで、寿司なんか食いたくはない。

立場の弱い者をいじめると、より立場の強いものからしっぺ返しをくらう。これは世の常だと知っておくがいい。

 

続きを読む "「くらコーポレーション」社員から内部告発があって"

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2010年9月19日

政治家の 「朝立ち」

Twitter のおかげで、政治家が朝の駅前などに立って挨拶みたいなこと(「演説」にはなってないから、そうとしか言いようがない)をするのを、「朝立ち」というってことを知った。(参照) "せめて「辻立ち」って言おうよ" とか、まあ、私にはまともに思えるコメントが付いているが、政治家の世界では、そんなこと全然頓着していないようなのだ。

試しに「朝立ち 選挙」というキーワードでググってみたら、こんなに たくさんヒットしちゃった。政治の世界では、とてもポピュラーな業界用語になっているようなのだ。

"当選前から続けている「朝立ち」" とか、

"朝立ちを行う事は 1回目の選挙からずっとやっている事です" (これ、かなりの悪文だし) とか、

"現在の朝立ちは,選挙前のパフォーマンス的要素が強いかも知れませんが,本来の朝立ちは,上記の目的を考えた場合,「当然の」 ことではないかと感じます" とか……

ちょっと赤面してしまいそうな表現のオンパレードである。

とくに 3番目。"本来の朝立ちは、上記の目的を考えた場合、「当然の」 こと" って、もう、「本来の朝立ち」 を考えちゃったら、そりゃ、全然「当然」じゃないでしょ。

いくら「業界用語」 だと言っても、もっと他に言い方あると思うが、政治家という業種は、「恥ずかしい」なんていう感情を知っていては勤まらないもののようなのだ。少なくとも、フツーの感性ではやってられなそうだ。

こういうのって、業界内部の「符丁」として、仲間内だけで使っていればいいのに、どうしてまた、ブログにまでそのまま書いて、一般有権者にまで訴求しようという発想になるのだろうか。かなりゴーマンな特権意識がないと、こんなことはできないと思うがなあ。

ここまで考えて、はたとわかった。

政治家があんなにも幼稚で馬鹿馬鹿しい失言(最近の例では「産む機械」とか「日本のチベット」とか) を、いとも簡単にポロポロやらかしちゃうのは、「一般とは違う特権的な業界なんだから、かなり悪趣味な言い方をしても、下々はありがたく受け取ってトーゼン」と多分無意識的にではあるのだろうが、思いこんでる風土があるからなのだ。きっと。

うん、そうに違いない。

で、全然関係ない話になるが、「朝立ち」って、ちんちんの金縛りなんだそうだ。どちらもレム睡眠のときに、起こるんだって。

 

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2010年9月18日

瞬間接着剤って、自分の指しかくっつかないんだもの

この世には 「瞬間接着剤」 というものがあって、本当にあっという間に、しかもごく少量でものすごい接着力が発揮されるようなのである。テレビ CM をみると、まさに鳥肌が立つほど感動的ですらある。

例えばこんなのとかである。

まさに信じられないような、驚異の接着力がアピールされている。

しかし、私は自分でこの瞬間接着剤を使ってモノをくっつけることに、まともに成功したことがないのである。本当に生まれてから一度もうまくいったことがない。あれは、自分の指以外はくっつかないものだと思っている。

あれって、まともにくっつけるためにはものすごい「コツ」みたいなものがあるんだろうか? しかし、CM をみる限りでは、本当にごく無造作にひょいひょいっとくっつけている。とくに変わったことをしているようには見えない。

ウェブをいろいろ当たってみると、あれはごく少量の接着液でないといけないらしい。あんまりたくさんの液を垂らしてしまうと、くっつきにくくなるんだそうだ。だから私も、ほんのちょっぴりで試してみるのだが、それでもやっぱり、全然くっつかない。

「おかしいなあ」 と思って指で触っちゃったりすると、突然くっついて取れなくなったりして、大あわてになる。指はこんなによくくっつくのに、どうして本当にくっついて欲しいものがくっつかないのか、謎である。まあ、悪いのは接着剤じゃなくて、ぶきっちょな私の方なんだろうけど。

結局、私は接着剤としては、「セメダイン」とか「ボンド」とか、ごくスタンダードなものを使うことにしている。時間はかかるが、ほぼ確実にくっつくんだもの。本当に、瞬間接着剤って、あれ、一体何なんだろう。

 

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2010年9月17日

「茨城の魅力度」 に関する考察

昨日のエントリー、"茨城の 「魅力度」 が全国最低という件" に関連して続きを書く。何も自分の住む茨城県の悪口を言いまくるというわけではなく、いろいろ自戒の念もこめた話としてお読み頂きたい。

この件に関して MSN 産経ニュースは、茨城県のお役所の反応として次のように伝えている。

茨城県の鈴木章一郎・広報広聴課長は 「昨年以降、新たに広報官を設置して活動を強化してきただけに残念の一言。茨城県は農業生産高全国 2位、水産物水揚げ量全国 5位であり、認知度も 30位と決して低くはありませんが、それを魅力としてアピールしきれていない。今年度は、茨城空港から神戸や名古屋、北海道にも就航しますので、次回は必ず最下位を脱してみせます」 と雪辱を期している。

ああ、県庁の、しかも広報関係の部署がこういう認識だから、茨城の「魅力度」は上がらないのだなあと思うのである。「農業生産高全国 2位」 だの、あれだけお笑いぐさの茨城空港だのを出してくるようなお話じゃないのだ。

問題は、「生産高全国第○位」なんていうことに寄りかかりたがる発想そのものなのだ。こういう「目方で勝負」みたいな発想は、檜造りの御殿みたいな家とかメルセデス・ベンツとか、わかりやすい単純なところで見栄を張って、 「大将、さすがだねえ! 立派なもんだねえ!」と声をかけられるのが大好きという茨城的傾向にもつながる。

いや、本当に茨城県というところは、ホームセンターとかスーパー銭湯とか、とても庶民的な施設の駐車場で、黒塗りのベンツが目立つんだよね。パチンコ屋の駐車場は知らないけど、多分同じ傾向だと思う。

それから茨城に限らず、北関東には「著名人の誰それと懇意にしてる」みたいなことで自慢したがる人が多い。実はつい最近もそういう人と会って閉口した。聞きもしないのに、「どこそこの会合に出席して○○さんと親しく話をした」とか「国会議員の××さんの秘書と親しい」とか、次々に名前を挙げて吹聴する。

「いやぁ、あの人は大したもんだよねえ!」なんて言いながら、名刺入れからその人の古びた名刺を取り出す。人に見せびらかすために、きっと何年も後生大事に持ち歩いてるんだろう。そのココロは「その大した人の名刺をもってる俺には、一目置いとけよ」ということである。著名人の名刺なんて、私なんか仕事柄、それこそくさるほどもってるけど。

こんなように、「全国第何位」とか、豪勢な御殿風住居とか、黒塗りのベンツとか、著名人の名刺とか、つまり、お役所的お墨付きや外側の権威に寄りかかって、それが自分の「魅力度」だと思っているうちは、まともなアピールなんかできないのだよね。

 

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2010年9月16日

茨城の「魅力度」が全国最低という件

地域や企業のブランド研究とコンサルティングを行う「ブランド総合研究所」(東京) という会社が毎年「地域ブランド調査」という大々的なリサーチをしていて、それによると私の住む茨城県の「魅力度」は、昨年に続いて今年も全国で最低の 47位なんだそうだ。

ちなみに、茨城以外の北関東の群馬、栃木、埼玉の各県も、それぞれ 41位、45位、43位と、低迷している。41位以下の 7県のうち、4県が北関東で占められているというのは、かなり極端なお話だ。残り 3県は、徳島県、福井県、佐賀県である。

茨城県のイメージがそんなにいいもんじゃないというのは、住んでいる私も認めざるを得ない。人に「どうして茨城県に引っ越したの?」と聞かれたら、「都内も千葉県内も、高すぎて家が買えなかったから、茨城県まで流れたのさ」と答えるぐらいで、引っ越してくる直前まで「なんでまた、茨城なんかに住まなきゃいけないんだ?」と思っていた。

まあ、引っ越してきて 30年近く経ってしまったので、今となっては「住めば都」みたいな気もしている。とくに県南のつくば周辺は、私を含め、都内から移ってきた人間が多いので茨城色が薄く、よそ者にも馴染みやすい。とはいえ、やっぱり時々は「茨城、だせぇ!」なんて思ってしまうこともあるが。

俗に「水戸の三ぽい」、「茨城の三ぽい」なんてことが言われる。水戸の人間は「理屈っぽい、骨っぽい、怒りっぽい」のが特徴で、茨城人は「怒りっぽい、飽きっぽい、忘れっぽい」んだそうだ。

ここでいう「茨城人」的要素の最も色濃いのは、水戸周辺ではなく、筑波山のちょっと北西に位置する下妻(あの映画『下妻物語』 の舞台)辺りだと言われていて、あの辺に行くと、それはもう茨城要素が充満しているのを感じる。確かに「怒りっぽい、飽きっぽい、忘れっぽい」のである。

それから典型的茨城人は、「大将、さすがだねえ! 立派なもんだねえ!」と声をかけられるのが大好きのようなのだ。それだけに、ちょっと金を儲けると檜造りの御殿みたいな家を建てたがるし、サンダル履きでベンツを運転してホームセンターやスーパー銭湯に乗り付けたがる。

まあ、こんなような要素が、茨城以外の北関東にもあるようで、どうも共通してイメージはあまりよろしくない。というか、そうした没イメージを埋め合わせるだけの要素を、全然演出しきれていない。

私の生まれた山形県なんか、茨城よりずっと田舎っぽいのに、この調査では 25位と中位に付けている。田舎っぽいならいっそ、ずっと田舎っぽい方が魅力になるのだ。中途半端がいけないのである。

 

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2010年9月15日

「夫婦別姓」には消極的反対の私

今さらながら、夫婦別姓問題について書こうと思う。私個人としては、夫婦が別姓でも「ああ、この夫婦はそういうことなのね」と、別に何の感慨もなしにそれを受け入れることができるのだが、世の中にはそうでもない人が案外多いので、どうも社会を不安定にする要因になるんじゃないかと思っている。

だから個人的にはどうでもいいが、社会全体への影響という視点で、夫婦別姓によって生じたきしみの妙なとばっちりを浴びるのはまっぴらご免なので、「消極的反対」の立場を取っている。

いつもの「健康のためなら命も惜しくない」というわけにはいかないという論理である。「男女平等化のためなら、社会的混乱も辞さない」というような、思いっきりのいい人間じゃないのだ。私は。

夫婦別姓に正面から反対する立場の人は、「親と子の名字が別だと、家族の絆が薄れる」ということを、最大の反対理由に挙げている。私個人は、父か母と名字が違っていたとしても、別に抵抗は感じないが、世の中にはそのことで疎外感を覚えてしまう子供もいるだろう。

いや、確かにいるのである。本当に世の中にはどうということもないことで、親との断絶を感じてしまうウェットな子供がいるのだ。

例えば、早いうちから一人で寝る習慣をつけてやろうとして個室を与えられると、親の愛情に飢えておかしくなってしまう子もいるのである。友達が親子で川の字になって寝るなんてことを聞かされるとうらやましくてしょうがなくなって、自分の両親は愛情に欠けているなんて思ってしまう子がいるのだ。

私なんか子供の頃、そんなに裕福じゃなかったから、個室で一人で寝る子がうらやましかったが、逆の思いを抱いてしまう子も少なくないのである。一人で寝るのが、一人でメシを食うのが、一人で本を読んだり絵を描いたりすることができないのだ。

そうした子は、親とべったりの愛情を感じていないと安心できない。そして大人になっても、自分の子供とべったりでいないと安心できないのである。それがないと人格が崩れてしまう。「家族というのはいつも濃密に触れ合っていなければならないのに、それが欠けてるから、俺はこんなになってしまったんだ」なんて、妙な思いを抱くようになったりする。

「そんな馬鹿なヤツがいるのか?」と、信じられない人もいるだろうが、私なんか案外その手の人生相談をもちかけられたりすることがあって、世の中にはそんなような超ウェットな手合いがものすごく多いということを、経験的によく知っているのである。

そんな相談を受けてしまうと、「お前は甘ったれすぎだ」とか「お前は間違ってる」とか、つい言いたくなってしまうこともあるのだが、それは考え物である。そんなことで解決できるほど、人間というのは理屈通りに進むものじゃないのだ。そんなタイプの人間には「甘美な甘え合い」が人生で不可欠の「美しい要素」なのである。

彼らは、一人で寝たり、メシを食ったり、本を読んだり絵を描いたりするなんて、「そんな寂しい人生をおくるのは、不幸なことだ」と思ってしまうのだ。私なんかはそれと逆で、いくら家族でも必要以上にべたべたしたら、うっとうしくてたまらなくなってしまうのだが、まさに「人生いろいろ」である。

濃密な触れ合いを求める「非論理」「感情過多」のタイプの人間にとっては、親子で名字が違うなんて、もってのほかだ。親の勝手な都合や好きずきの問題で、家族で他人みたいに名字が違うなんて、許し難いことで、それだけで妙にねじくれてしまいかねないのだ。そんな子があちこちに出てきたら、それこそ社会の不安定要因になる。

というわけで、繰り返すが、私は夫婦別姓には「消極的反対」である。仕事上の理由で途中で名字を変えたくないというという希望には、旧姓を「通称」として使い続けるという手もあって、それはそれで案外広く受け入れられていることだしね。

【2010年 12月 23日 追記】

遅ればせながら、この問題についてのその後の考えの変化について追記させていただく。

2015年 12月 7日付 " 夫婦別姓でもいいじゃないか":「消極的容認」に転向

2018年 11月 9日付 "「夫婦別姓」 は、保守派にもメリットがあるだろうに": 賛成姿勢が強まる

2020年 12月 17日付 "「選択的夫婦別姓」は、はっきり「賛成」と言っておく": 「積極的賛成」の態度を明確化

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2010年9月14日

かなり色褪せてしまった 「小沢幻想」

昨年暮れから 「小沢一郎を首相に」「今度こそ、小沢一郎を首相に」「やっぱり、小沢一郎を首相に」と、3度も小沢首相待望論(?)を書いたのだが、それはついに叶わなかった。しかも菅さんに「大差」をつけられての敗北だという。

まあ、僅差で敗れて「俺を幹事長にしろ」と言われるよりはずっとよかったのだが、なんだか肩すかしを食らったような気がしてしまう。小沢さんの党内での影響力は、ずいぶん小さくなってしまうだろう。

今回の代表戦で、これまでの「小沢幻想」がずいぶん色褪せてしまった。最大の幻想は「小沢一郎は選挙に強い」というものである。身近にいる国会議員だけは、いろいろ脅したりすかしたりして半分近くは小沢票にすることができたが、党員・サポーター票の部分ではガタガタだった。彼の選挙戦術が通用しにくくなっていることの証明だ。

第二の幻想は「小沢一郎は豪腕」というものだ。ふたを開けてみたら、そんなに「豪腕」ってわけじゃなかったことがバレバレになった。彼の「豪腕イメージ」は、要するに幹事長という地位にあって、金の配分ができるという裏付けがないと、発揮できないもののようなのだ。つまり、「豪腕」というよりは、単に「金の力」だったのである。

今回の選挙では、彼は幹事長という地位が保証されていなかった。そうなると、言うことを聞くのはよくよくのシンパと子分しかいなくなったのである。昨年の総選挙で、小沢幹事長の力で(?)初当選した一年生議員の中にすら、小沢流締め付けよりは地元に帰ったときの反発の方が恐くて、菅さんに投票したのが多かったみたいだし。

彼の自民党時代には、金丸信という超ややこしいじいさんがバックにいたので、誰も逆らわなかったのだが、今回は渡部恒三というじいさんまで、公然と小沢一郎を批判したからね。逆らいやすくなったわけだ。

それに、民主党員の中には「小沢一郎自身に『ややこしいじいさん』になられたりしたら、それこそうっとうしい」という空気もあったんじゃないかと思う。「あのオッサンにあまり裏で威張りちらされると、やりにくくてたまらん」と思ってる人は多いだろう。今回の菅さんの最大の勝因は、民主党内のこうした空気だったかもしれない。

つまり民主党員は、首相に祭り上げるよりもずっとストレートな意思表示で、小沢一郎を骨抜きにしたかったんじゃあるまいか。要するに政策云々よりも、党内での人望がなかったのよね。人望がないのは菅さんだって似たり寄ったりかも知れないが、反感がないだけ勝つことができた。

今後の民主党人事においても、「小沢幹事長」の可能性はものすごく小さいだろう。「ノーサイドで挙党一致体制」なんて言っても、小沢さんを支持したグループの中から、あんまりややこしいことを言わない人を選んで、党三役のいずれかに付けるみたいなことになるんだろうし。

こうなると、小沢さん、今までもそうだったように「追い込まれると何をしでかすかわからん」みたいな、ものすごいリスク要因になりかねないが、今回に限っては、例の「政治と金」問題で起訴するだのしないだのという件があるので、あまり気軽にケツをまくって与党から飛び出すわけにいかないというシバリがある。

つまり、今回の小沢さんの代表戦出馬は、これまでも数々あった「自爆」のうちの一つということになっちゃったと、結論付けるのが正解なのかもしれない。鳩山さんの根回しで「トロイカ体制」を受け入れて、幹事長になる方がずっと得だったろうに。(もっとも、それが困るので、私は小沢首相待望論を唱えたのだが)

というわけで、小沢一郎という人の「政治家としての状況判断」というものも、そんなに鋭いものじゃなんじゃないかと、私は思ってしまうのだよね。本来なら、これまでの「自爆癖」を見るだけでも、それは分かり切っているとも思うのだが。

とりあえず、「最後のご奉公」をしそこねた今、彼がどのような「次の手」を打つのか、しらけながら見守りたいと思う。

 

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2010年9月13日

法律論とはうっとうしいもの

例の 「押尾薬物事件」 裁判の 6日目、弁護側は薬物中毒に詳しい専門家の証人を立てて、押尾被告がもし救急車を呼んでいたとしても、救命可能性はきわめて低かったし、被害者に心臓マッサージを施しているということは、評価されるとして、「保護責任者遺棄致死」 の罪状は免れると主張しているようだ。

法律解釈というのは、なかなか大変なものである。フツーの常識なら、一緒の部屋にいた者がドラッグのせいで重篤な異変を現わした時に、救急車も呼ばずに素人の心臓マッサージ程度で済ませていたら、それは 「見殺し」 にしたに等しいと思われても仕方がないのだが、罪に問うためには、救急車を呼べば助かったはずということを証明しなければならないらしい。

つまり、同じ見殺しに等しい行為をしても、助かるはずのものだったら有罪になるし、どうせ助からないなら無罪になるということで、罪になるかならないかは条件次第ということだ。しかし、助かるか助からないかなんて、そのとき居合わせた素人には容易にはわからないのだから、同じ無責任な行動でも運次第で有罪になったり無罪になったりする。

裁かれるのは行動そのものではなく、事件発生時点の当事者には知りようがなかったところの、「助かるか、助からないか」 という条件がくっついて、初めて裁かれるみたいな、妙なことになる。法律論というのは、なかなか不条理なものである。

常識的には、どうせ助からなくても、遺体を放りっぱなしにしたというだけでも十分に 「ヤバイんじゃねえの?」 ということになるのだが、それはこの際、問題にならないらしい。常識と法律とは、時としてかなりかけはなれたものになってしまうようなのだ。そんなこと知ってはいたが、やっぱり割り切れないところがある。

しかし、救急車を呼んでもどうせ助からなかったということを、もし認めるとしたら、押尾被告は、「そんな危険なドラッグを飲ませた」 ということで、「過失殺人」、下手すると 「未必の故意の殺人」 ということになりかねないではないか。つまり、このロジックは諸刃の剣である。

そして、たとえそのドラッグは押尾被告が調達したものでなく、被害者が自ら持ち込んだもので、つまり、「自分のもってきたドラッグを飲んで勝手に死んだ」 というストーリーが認められたとしても、その場に居合わせて一緒に服用した押尾被告は、「救いようのない馬鹿野郎」 ということになるだろう。

押尾サイドの戦略が功を奏して、たとえ無罪を勝ち取ったとしても、この 「救いようのない馬鹿野郎」 という汚名を晴らすのは、なかなか容易なことではない。彼がそのくらいの覚悟で公判に臨んでいるのだということを、心の底では期待する。そうでないとしたら、こう言っちゃ何だが、馬鹿野郎以下である。

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2010年9月12日

「さばく」ということ

近頃、「さばく」という言葉にちょっとだけこだわっている。Goo 辞書 (デジタル大辞泉) では、つぎのように説明されている。

さば・く【裁く/×捌く】
[動カ五(四)]

  1. (裁く)理非を明らかにする。裁判する。「罪を―・く」「人を―・く」

  2. 手を使ってものを思いのままに扱う。「ヒット性の打球を難なく―・く」「手綱を―・く」

  3. ごたごたした物事や複雑なことを、適切に処理する。「会社を一人で―・いている」「もめごとを―・く」

  4. 品物を売りつくす。「滞貨を全部―・いた」
    ①くっついたりからまったりしやすいものを、解き分ける。「髪を―・く」「着物の裾を―・く」「力士が下がりを―・く」
    ②料理で、材料に包丁を入れて切り離し、ばらばらにする。「鴨を―・く」

フツーの感覚では、「1」 の意味の 「罪を裁く」 とか 「人を裁く」 とかいう場合と、それ以後の意味の 「手綱をさばく」 とか 「売りさばく」 とか、料理人の 「包丁さばき」 とかは同音異義語のように考えられているが、辞書的には同じ言葉のようなのだ。

さらに、私の生まれた山形県の庄内地方では、「さばく」という言葉に 「破く」いう意味を持たせている。ちなみに「破く」というのもなかなか注意して使わなければならない言葉で、Goo 辞書では「《「やぶる」と「さく」との混成語》 紙や布などを、引き裂く。破る」 と説明されている。

単に 「破る」 というのでなく、「引き裂く」 という行為を、私の故郷では 「さばく」 というのである。

こうしてみると、なるほど、この 「さばく」 という言葉は、「裁く」と書こうが「捌く」と書こうが、語源的には共通のニュアンスがあるのだとわかる。要するに、切り裂いて処理するのである。理非を明らかにするという意味の「裁く」も、ものごとを「理」と「非」に切りさばいて、分けるのだ。

私は近頃、「裁く」という行為をできるだけ避けようとする傾向がある。物事というのは「いい」とか「悪い」とか、「正しい」とか「誤り」とか、二元論で切りさばいてしまえるほどに単純なものではないと思っているからだ。前に "そりゃ、「斬る」 方が楽さ" という記事でも書いているように、斬ったり、切ったりするのは苦手なのだ。

最近の裁判でいうと、厚労省の村木元局長のケースなどは、「疑わしきは罰せず」というよりは明らかに検察の作文が行き過ぎた例ということができるが、判断がむずかしいケースではなかなか「裁く」ことはできないだろう。

その意味で、裁判員になっている人は大変だろうなあと思うが、私は個人的には一度裁判員に選任されてみたいという気がしている。それは「できるだけ裁きたくないなあ」という感慨を、「裁判の実際のケースを、楽屋裏までこの目で見てみたい」という好奇心の方が上回ってしまっているからだ。

我ながら勝手なものである。裁判の楽屋裏まで眺めてしまって、いざ判決に参加しなければならなくなったら、尻込みしてしまうかもしれないのに。

まあ、もし私が裁判員になったら、どうみても被告人は有罪だろうというケースを除いたら、多分「疑わしきは罰せず」という原則に従って、「無罪」(というより "not guilty = 有罪じゃない" という方がしっくりくるが)を主張するだろうと思う。その方が「裁いてしまった」という実感が小さいだろうから。

 

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2010年9月11日

ブログのタイトルバナーを変えてみた

昨夜ふとした気まぐれで、ブログ "Today's Crack" のタイトルバナー(一番上の画像)を変えてみた。昨年秋に帰郷した際に撮影した鳥海山の写真である。すっぽりと雪を戴いて、東(向かって右側)から昇る朝日を受けて輝いている。

前のデザインは、既に 6年ちょっと使い続けた。ここらで変えてみるのもいいだろうと思ったのである。

多くのブログのデザインは、ありものの中から選ぶというシステムになっていて、私が利用しているココログでも、かなり豊富なデザインが提供されている。しかし私がココログを始めた頃は、今ほど豊富なデザインがなく、しかも私の場合は本宅サイトの中に組み込んでしまうというスタイルなので、うまく表示できるデザインを自分で作るしかなかった。

元々お仕着せデザインは嫌いなので、自分でデザインすることには抵抗がなかったが、ずっと同じデザインだと、自分でも少し飽き始めていたということはある。何しろオリンピックやワールドカップだって、4年ごとに新しい大会が開かれる。6年というのは、ウェブの世界ではいくらなんでも長すぎたかもしれない。

というわけで、今回はアイデンティティの強化という意味も込めて、我が故郷、庄内の心の山、鳥海山の画像にしてみたわけだ。

鳥海山の山容は、富士山のような左右対称というのとは違い、ピークが2つあって、東側の 「新山」 の方が高い。それだけに、横幅がやたら長くて、写真に撮りにくい山である。両側の裾野まで入れると、どうしても空とか手前の地表の占める面積が広くなって、鳥海山自体は平べったく写ってしまうのだ。

ところが、ブログのタイトルバナーに使うと、どうせ横長の配置にしなければならないので、ちょうどいい感じになる。しばらくはこのデザインで行ってみようと思う。

 

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2010年9月10日

靖国問題を巡る、上杉隆氏の指摘

昨日の TBS ラジオ「小島慶子のキラキラ」でジャーナリストの上杉隆氏が、靖国問題でとても興味深い指摘をしていた。靖国神社には A級戦犯が合祀されていると言われるが、それははなはだ根拠に乏しい話で、彼の解釈では「合祀も分祀もされていない」というのである。

ことの次第はいささか複雑だが、これについては 『週刊文春』 の 9月 7日号に、上杉氏自身が記事を書いておられるらしい。私はそれを読んでいないが、彼はブログでものすごく手短に、次のように触れている。

靖国神社は、厚生省の送った 「祭神名票」に基づいて合祀事業を行ってきました。
つまり、戦後、靖国神社に祀られた英霊は、国家(厚生省)が決めてきたのです。

ところが、なんと、その「祭神名簿」を取り消していた「通知」 を発見しました。
しかも、それは14人のA級戦犯のみに該当する通知。
ということは……。

そうです、靖国神社のA級戦犯合祀問題は、じつは、合祀も、分祀もされていなかったことになるのです。
宗教的には合祀でしょうが、行政的には未合祀になっていたのです。

もう少し詳しく書くと、次のようになると思う。

誰が靖国に祀られるかということは、戦前は国が決定したが、政教分離の新憲法下ではそんなわけにいかなくなった。しかし靖国神社としても、一宗教法人の一存で祀るのではあまりにももっともらしさに欠けるので、国による認定というか、裏付けのようなものが欲しかった。

そこで妥協的方策として、国が「靖国神社合祀事務協力」というものを行った。具体的には、恩給法・援護法に伴って調査した戦没者氏名を、靖国神社に「祭神名票」として送っていたのである。しかし、それも昭和 46年に厚生省が一方的に打ち切っていた。政教分離に微妙に抵触することを厚生官僚がおそれたのだろう。

その後は「祭神名票」という形ではなく、もっとぼやかしたリストを作成し、靖国側はそれを入手して二次利用するという体裁で、戦没者の合祀を進めてきた。

ちなみに、昭和 46年の「祭神名票」の打ち切りにおいては、厚生省から靖国側に、「昭和 31年 4月 19日から同 45年 8月 4日まで」の、靖国神社合祀事務協力に関する「諸通知」を廃止すると通告しているらしい。(私自身は裏付けを取っていないが)

A級戦犯の祭神名票が厚生省から靖国側に送られたのは昭和 41年だが、それは 46年の時点で、31年にまで遡って廃止されたのだから、A級戦犯の祭神名票は効力を失っていることになると解釈されるという。そこで上杉氏は、「靖国神社側が主張してきたA級戦犯合祀の行政の支えが失われたことになるまいか」と問いかけているわけだ。

A級戦犯が靖国に合祀されたのは、それよりずっと遅れて 昭和 53年。当時の松平宮司という人が強力に推し進めた結果らしい。上杉氏は、この合祀を「国によって取り消されている祭神名票によっているのだから無効」と解釈しているわけだ。

しかし慎重にみればこのあたり、解釈によってどうにでもなる。「国家が取り消しているのだから、A級戦犯は合祀されたと思われてきただけで、実は幻だったのだ」と言うこともできるし、「いやいや、靖国は国家に属する機関ではなく、一宗教法人なのだから、当事者が合祀したと言っている限りは、合祀されたのだ」 とも言える。

しかし靖国側は、パンフレットに 「戦争による公務死に該当するか否かは靖国神社当局が勝手に判定しうるところではありませんので ……」 と書いて、国家にその根拠を委ねる姿勢を示しているので、ちょっと始末が悪い。又裂き状態になる。

私は 5年ほど前に、「分祀」という言葉の使われ方に異議を申し述べていて(参照)、「A級戦犯を祭神から外すことを『分祀』というのは、言葉上では正しくない」というようなことを言っている。そして靖国側の 「一度祀ってしまったら、分離するわけにはいかない」という言い分を、一応支持している。こりゃもう、仕方ないじゃないかと。

しかし、実は A級戦犯が合祀されたことなどなかったのだという解釈が可能なら、靖国問題のほとんどは解決する。これは福音と言っていいのではなかろうか。国のために命を捧げた英霊を祀るのは、とやかくいわれるようなことじゃないし、A級戦犯が合祀されたと言われる前は、御皇族も参拝されていたのだから。

ただ、A級戦犯の合祀に当たっては、東京裁判史観など、やたらやっかいな問題がぞろぞろとつきまとっている。簡単に解決されるような話にはならないだろうが、私としては上杉解釈に希望を見いだしている。昭和天皇も、A級戦犯合祀には不快感を示されたと伝え聞くし。(参照

 

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2010年9月 9日

再び 「もみじマーク」 のメッセージ性

私は時々、「健康のためなら命も惜しくない」 というメタファーを使うことがある。「平和のためなら闘争も辞さない」 とか 「平等のためなら停滞もしかたない」 とか 「リサイクルのためなら余分な CO2 排出もかまわない」 とか、いろいろなパラドックスがある。

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新しい高齢運転者標識 (いわゆる 「もみじマーク」) として、8月19日に決定された四つ葉のクローバーをデザインしたマークだが、依然として一部の高齢者は不満を訴えているという。

リアルライブの記事 は、"ある高齢ドライバーは 「もみじマークが何故、批判されたのか分かっていない」 と憤る。問題はマークの色である。葉の黄色と橙色が「もみじマーク」と同じく、茶色にも見え、枯れ葉を想起させる" と伝えている。

つまり、枯れ葉を想起させる黄色と橙色が嫌なのだね。そんな年寄りじみたマークを付けて車を走らせるのはまっぴらゴメンというわけなのだ。しかしこの件について私は今年の 6月 20日に、「もみじマーク」 のメッセージ性 という記事を書いて、次のように疑問を呈している。

元々、もみじマークを付ける目的というのは、周囲のドライバーに、「この車は高齢者が運転しているので、気を遣ってね」 というメッセージを発することではなかったのか。だったら、多少の哀れっぽさを感じさせる方が、その目的に合致しているんじゃなかろうか。

もみじマークに求められるメッセージ性って、本来はそうしたものだったんじゃなかろうか。もみじマークにそれ以外の 「かっこよさ」 みたいなものを求めてしまうのは、本末転倒なんじゃなかろうか。

上述の 「ある老人」 は、 「もみじマークが何故、批判されたのか分かっていない」 と憤っておられるが、その批判そのものが、「もみじマークに求められるメッセージ性がどういうものか分かっていない」 ために発せられたピンぼけなものと言われても仕方がないと、私は思う。

決して 「かっこ良さ」 のために付けるわけじゃないのだ。高齢ドライバーの身の安全のためには、周囲のドライバーに 「おっ、ちょっと危なっかしそうな車が走ってるな」 と、直感的に思わせるような、こう言っちゃナンだが、多少は哀れみを感じさせるマークの方が、より望ましいメッセージを発信することができるだろう。

「かっこよさのためなら、安全性も惜しくない」 とは、私は決して思わない。ただ、そう思ってしまう人もいるようなので、ものすごくフレッシュでかっこいい (つまり、高齢者が運転しているとは直感的にイメージしにくい) マークも作って、それを選択してもいいことにするという手はあるだろう。あくまでも自己責任で。

 

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2010年9月 8日

「停滞」を巡る冒険

政治なんか、最もその傾向が色濃く現れてるわけだけど、最近の日本の状況ってかなり停滞気味で、おもしろい話題がないのだよね。おかげで、ブログを毎日更新している私はネタ不足に悩んじゃってる。

で、ふと気付いたんだけど、ネタ不足に陥るような停滞した状況というのが、今の日本の最大のトピックなんじゃないかということだ。大抵のことは既に語られ尽くして、目新しいことにはおもしろい要素が発見できない。まさに「停滞」である。

「停滞」といえば思い出すのが、山登りの時の悪天候による「停滞」。無理して出発せず、天気が回復するまで山小屋やキャンプ地でゴロゴロしていることだ。晴れ男の私だが、それでも若い頃に盛んに山登りしていた頃、2度だけ停滞したことがある。

両方とも妻と一緒の縦走で、山小屋は利用せず、テントでの停滞だ。一度は山形県の朝日連峰の縦走、二度目は南アルプスの東側稜線を広河内岳から北岳まで縦走した時だ。とくに南アルプス縦走のときは、台風が急に進路を変えてやってきたようで、農鳥岳付近の稜線直下で、テントがバホバホいうほどの強風に煽られた。

で、その時だったのである。我が故郷、庄内の酒田市で 40.1度という最高気温を記録したのは。

「明日は晴れるだろうなあ」 と心配しながら携帯ラジオで天気予報を聞いていて、いきなりそんなニュース飛び込んできたのである。こちらは標高 3000メートルの稜線で大粒の雨と強風に煽られているのに、故郷では 40度を超える暑さを記録していたのだ。改めてネットで調べたら、昭和 53年 8月 3日のことだった。32年も前である。

エアコンもあまり普及していなかった頃とて、酒田市民は扇風機と団扇ぐらいのことで耐えていたらしい。

「昼間は、『なんだか、今日の暑さはおかしい、おかしい』と言いながらも、みんなちゃんと仕事をしていたんだから、人間というのは大したものだよ」と、父は今でもその日を思い出して言う。「ところが、夕方のニュースで 40度を越えたという事実を知らされたとたんに、『道理でおかしいと思ったあ!』なんて言いながら、みんなぶっ倒れてしまったよ」

まさに「知らぬが仏」とはこのことだ。ちなみに、この日のことで一番印象に残っているのは、「人の座っていた座布団に座ると、ひんやり感じた」ということだそうだ。なるほど、体温で冷やしていたわけだね。

この日の暑さは台風のフェーン現象によるものなので、一日限りだったが、今年の暑さは、40度にはならないものの、今日までずっと続いてきた。おかげで夏バテ寸前である。

今日は台風 9号接近のおかげで、雨は激しいものの、少しは涼しくなっている。ところが、台風が過ぎ去ったらまた暑さが戻るらしく、停滞感は払拭されずに残るらしい。やれやれ。

 

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2010年9月 7日

押尾薬物事件は、よくよく因果なお話みたいなのだ

MSN 産経ニュースが、「押尾薬物事件」の裁判を詳細にレポートしている (参照: 最初のページ)。私としては詳細にこだわらずどんどん読み飛ばしてみただけなのだが、よくよく因果な事件だったということはよくわかった。

弁護側としては、「被害者だって相当ヤバイ女だったんだもんね」ということを印象付けるために、暴力団の親分と親密な交際があったとか、背中に入れ墨してたとか、自分でも薬物に手を染めていたとか、いろいろなことを言ったあげく、「彼女は自分で手配したドラッグを飲み過ぎて勝手に死んだのだ」と主張する戦術のようだ。

そして死にかかった彼女に、押尾被告は心臓マッサージを施したり、できるかぎりの救命措置を取ったのだから、遺棄致死とドラッグ譲渡の 2罪については無罪なのだというストーリーで臨んでいる。うん、押尾サイドにとってはこれ以上ないほど魅力的なストーリーである。

しかし裁判の過程においては、押尾被告が元マネジャーを身代わりに仕立てて罪を押しつけようとするなど、あきれ果てるほどの幼稚で身勝手な画策をしていたことが明らかにされるなど、まあ、「救いようのないバカ男」というイメージが確立されてしまった。

被害者が「自分で手配したドラッグを飲み過ぎて勝手に死んだ」というのは、そりゃ、可能性としてはあり得ない話ではないが、もしそのストーリーがでたらめということを示す新たな証拠が出されてしまったら、裁判官の心証を決定的に悪くしてしまうことになる。

それだけに「ずいぶんリスクをとった戦略に出たな」という印象だ。まあそれも、被告の性格的なところから来るのかもしれない。そもそも、できる限りの救命措置をとったにしては、救急車を呼ぶという一番肝心な措置は、「自分もクスリをやってるのがバレるのは困る」という、とても身勝手な理由で最後まで避けたわけだし。

それにしてもまあ、この裁判はやたら怪しげな登場人物満載で、「因果ここに極まれり」という感じがする。何しろ、元国会議員まで登場しているのだから、びっくりだ。この元国会議員は、ちょっとググれば実名がすぐにわかるが、ここではまあ、触れないでおこう。

押尾被告みたいな人物は、私なら、まず親しく付き合う気になれないタイプなのだが、世の中には逆に、このようなバカ男と親密に付き合ってしまう種族がいるみたいなのである。そこがまさに世の中の世の中たるところなのだが、本当に因果なことである。

 

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2010年9月 6日

「くらコーポレーション」 の試験官が辞表を書いた方がいい理由

9月 1日に MBS で放映された特集番組が話題になっている。くらコーポレーションという外食チェーン企業の、「20人内定辞退」問題だ。表面上は内定者が自発的に「内定辞退届」を書いたような形になっているが、内実はどうみても理不尽な内定取り消しに等しい。詳細は こちら をご覧いただきたい。

くらコーポレーションという会社を私は知らなかったが、くら寿司という回転寿司チェーンを運営する会社らしい。この会社の就職内定者が、入社間近の 3月下旬に「二泊三日の研修」で集められ、意味不明の課題をつきつけられた。それができなかった者はさんざん罵倒された挙げ句に、「内定辞退届」を書かされたというものだ。

意味不明の課題ということで挙げられているのが、「くら社員三誓」の暗唱というものだ。暗唱した内容を、試験官の前で極限のプレッシャーの下に 35秒以内で言わせる。調べてみたところ、暗唱するのはこんなものである。

◇くら社員三誓◇

ひとつ、私は人と会話することが大好きな社員となります。
その為に人に好意を持ちます。
人を喜ばせることが自分の喜びと思います。
いつも明るい笑顔で自分から積極的に話しかけます。
また、常にプラス思考で自分と会話すれば相手が明るく元気になれるように働きかけます。

ひとつ、私は自ら進んで仕事を覚える社員となります。
その為にマニュアルをしっかりと覚えます。
常に向上心を持ち新しい仕事に取り組みます。
またどんな仕事を頼まれても自分を成長させるチャンスと考えて喜んで引き受けます。

ひとつ、私は社会人としての基本を身につける社員となります。
その為に早寝早起きをします。
手洗いうがいを徹底し、バランス良く食事し、体調管理に気を配ります。
毎日新聞・本を読み知識を深めます。また、交通ルールやエチケットを守り健全な社会生活を送ります。

この会社の就職試験官は、どうみても自らの会社の「三誓」の最初の項目を破っているとしか思われない。研修会参加者に内定辞退届を書けと迫る前に、自分の方がさっさと辞表を書くべきだろう。「自分と会話すれば相手が明るく元気になれるように働きかけます」なんて、どのツラ下げて言えるんだ?

話を元に戻すが、この「三誓」というものを暗唱して言うのに、40秒以上かかった者は、「家に帰れ」と言い渡されるのだそうだ。記事ではこれを MBS のアナウンサーが普通に読んだら 1分ぐらいかかるとし、早口で読んでも 35秒近くかかるとして、かなり理不尽な課題だとしている。

自分でトライしてみたら、確かに早口言葉が得意な私が必死にぶっ飛ばして読んでも 32秒かかった。読めることは読めたが、内容なんてちっとも吟味できなかった。つまり、こんなものを早口で言うことに、意味は見いだせなかった。

くらコーポレーションの内定者研修が、「研修」に名を借りた 「内定者いじめ」で、「内定辞退届」を書かせるためのものとしか思われないというのは、この特集番組をみたものの共通した印象になるだろう。

私は業界団体関連の仕事を長くしていて、4月頃に中小企業が合同で行う「新入社員研修会」を運営していたことがある。その中で、就職活動に関するアンケートをとったが、面接時のセクハラなど、企業側の理不尽な応対に不満をもらす回答が毎年いくつかみられた。

こうした話を聞くにつけ、企業は求職者を採用して自社の社員とするまでは、「お客様」なのだということをわかっていないと、つくづく感じた。

求職者は、採用してしまえば「社員」になるから、業務命令に従わせることができる。しかし、面接時のセクハラ質問や、理不尽な課題を出しての求職者いじめをしてしまったら、落とされた者たちは「逆広告塔」と化す。企業はそれを意識していない。

自分の実力不足で落とされた者は仕方がないと思うだろうが、明らかに理不尽な仕打ちを受けた者は、周囲の者にその会社の悪口を言いふらすだろう。数年前ならば、それはごく限られた範囲の口コミにすぎなかっただろうが、今はインターネットというメディアがある。

誰でもが全世界に向かって、企業の隠された実情というものを発信できるのだ。それを企業側は知る必要がある。くらコーポレーションという会社のリクルート関連のひどさは、かなりのレベルのもので、これは既存社員の不満のガス抜きのためにやらせてると思われても仕方がない。

とりあえず、私は「くら寿司」というチェーン店で回転寿司を食った記憶がないので、ことさらに必要以上の不愉快さを味わうことだけは免れたが。

 

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2010年9月 5日

暑さと交通事故の日曜日

今日は仕事で朝の 5時半に出発して福島県に行き、日がとっぷりと暮れてから戻ってきた。往復 8時間の運転に、正味 4時間の仕事。やれやれ。

福島は少しは涼しいかと期待したが、とんでもない。盆地特有の肌を焼くような暑さで、頭がくらくらした。それに、帰りは常磐道が事故で、岩間の先が渋滞とやらで、途中で高速道路を降りて下道を通って帰ってきた。どこまで走っても 1000円という、せっかく休日割引のメリットを十分に享受できなかった。

そして、下道を走れば走ったで、あちこちで車の事故を目撃した。日曜は、普段あまり運転しない人が長距離ドライブをしたりするので、事故が増えるのだろうか。普段運転をしない人らしく、ぶつかった車同士が大した衝突でもないのに、道の真ん中に停まりっぱなしで、余計な渋滞を引き起こしている。

というわけで、今日はぐったり疲れたので、この辺で失礼。

 

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2010年9月 4日

芋煮会シーズンが始まったらしい

関東はこんなにも暑いのに、山形県では芋煮会シーズンが始まったらしい。そういえば私も酒田で過ごした中学・高校時代は、9月の声を聞けば毎週日曜は芋煮会をしていたような気がする。

クラスの芋煮会、部活の芋煮会、親しい友人同士の芋煮会、サークルの芋煮会、近所の芋煮会、その他いろいろの芋煮会。毎週日曜の芋煮会シリーズは、1ヶ月以上に渡って続いたものだ。今もそんな感じなんだろうか。

明日の日曜、山形市では河原で「日本一の芋煮会」というのが催される。なんでも中で水泳ができるぐらいの大鍋の中に、パワーショベルで具を放り込んで作るんだそうだ。恐ろしい。庄内人はそんな乱暴なことはしない。

内陸の芋煮は牛肉醤油味だと聞いてびっくりしたのは、そんなに古いことではない。7~8年前のことである。庄内の芋煮は、豚肉味噌味。私はこれが芋煮会のスタンダードだとずっと信じていたから、汁気の多いすき焼きみたいな芋煮汁があると知って愕然とした。

向こうは向こうで庄内の芋煮を「豚汁じゃないか」と言っているらしいが、豚汁にあんなにたっぷりの里芋が入るものか。(と言ってしまったら、向こうは当然にも、「すき焼きにあんなにたくさんの里芋が入るものか」と言うに決まっているが)

checkey さんが、今年最初の芋煮汁を食べたと tweet されている。この暑さだから、汗だくで食べたそうだ(参照)。私のイメージでは、芋煮会は秋風渡る庄内の砂浜でセーターを着て食べるものだから、かなり頭の中が混乱してしまう。

こうなったら、地球温暖化に対応して「冷やし芋煮」なんてものを開発しなければならないかもしれない。例えば、熱々に煮込んだ具を、冷たい付け汁に浸して食うとか。

 

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2010年9月 3日

「名刺交換」 というセレモニー

私は「名刺交換」というセレモニーが苦手だ。業界の集まりや会議などで、参加者に片っ端から挨拶しまくり、名刺交換している人をみると、「あぁ、俺んとこに来る前に、名刺が底を突いてくれ」と思ったりするが、そういう人に限って、名刺を一箱ぐらい準備していて、いくらでも出てくる。

ついに私のところまで来て、うやうやしく自己紹介しながら名刺を差し出してくる。こちらも仕方ないから自分の名を名乗って名刺を出し、「よろしくお願いいします」 なんて挨拶する。「多分、このテーマの会議が終わったら、もう二度と会うこともないでしょう」とは、思っていても決して言わない。

本当は、単に業界の会議で遠くの席に座っているだけの人と、そんなに丁寧に名刺交換なんてしなくていいと思う(会議資料の 「出席者リスト」に、全員の名前が所属企業、役職入りで書いてあるし)のだよね。紙の無駄だと思ってしまうのだよ。

それに、いわゆる「営業マン」の世界には「名刺交換の際のビジネスマナー」なんていうのがあって、名刺は胸の高さに両手でもって差し出し、差し出されたら両手でうやうやしく受け取るだの、もらった名刺はすぐにしまっちゃダメだの、うっとうしい決まり事があるらしい。

しかし営業マンでない者同士であまりにもご丁寧な名刺の受け渡しなんかしたら、多分 8割ぐらいの人はイラッときてしまって、「こいつ、堅苦しいやつだなあ」という印象を与えてしまうだろう。名刺の受け渡しなんて、むしろ適当に略式で済ますのが礼儀というものだ。

日本人の教科書通りの名刺の受け渡しというのは、なんだか名刺という紙を、相手の魂か何かがこもったお札(「おさつ」じゃなくて 「おふだ」ね) かなんかみたいに扱っているように思われる。下手すると、一期一会の象徴としての、名刺交換道の家元なんてのが出てきそうだ。

初対面同士の挨拶が名刺交換から始まるというのは、多分日本とか東アジア流のメソッドなんだと思う。私の経験則では、西欧では、「一応、名刺を渡していつでも連絡が取り合えるような関係にしておく方がよさそうだ」と思ったときに、別れ際にさりげなく名刺を交換することが多い。

私は決して西欧礼賛型の人間じゃないのだが、名刺交換に関しては、西欧メソッドの方がずっと合理的だと思う。ただ、西欧の名刺の合理的じゃないのは、サイズが標準化されていないということだ。それだけ、ビジネス・ルーティンとして確立されてないんだろう。

大きめのサイズの名刺は、日本式の名刺入れに収まりきれないし、やたらと大きいのは、葉書大ぐらいのがあって、名刺のサイズで自己主張するような、力尽く単純バカみたいなところがある。

葉書大の大判名刺には、出身大学名とかドクターの学位とか、もらった賞とか、あるいは代々伝わる紋章とか、いろんなのが書いてある。それをみるにつけ、「ああ、ヨーロッパって、身分社会だなあ」 と思ったりする。

 

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2010年9月 2日

新手の出会い系スパム

三日前、メールをチェックしたら差出人が "♪4-season♪" とあるメールがどっさり届いていた。内容をみると、よくある出会い系サイトに誘導するための文面だ。例えばこんなような具合。


≪上村 莉緒≫さん(35歳)からメールが届いています。
□メール本文□
私の事が信用出来ませんか?それとも私みたいなオバサンより若い子の方が好みですか?・・・


≪パチンコメーカー勤務 33歳 独身です。≫さん(33歳)からメールが届いています。
□メール本文□
正直、今のご時世出会い系サイトはどうなのかとか思ったりもしたわけですけど、出会い・・・


≪アヤ≫さん(22歳)からメールが届いています。
□メール本文□
アドレス交換って見ず知らずの相手とするのって抵抗あります…よね?

いきなり連絡・・・

すべて、メールを全文読みたければこちらをクリックしろという矢印付きである。

これだけなら、さっさと削除して、今後はスパムメールフィルターにひっかかるようにするための設定をするところだが、今回のは少し違った。「なんとかさんからのメールが届いています」というメールに混じって 「※Pt追加完了のお知らせ☆」 なんていうのがあり、それは次のような文面である。

〔会員登録情報〕
会員様ID:1775874556
password:5535
所持pt:150pt

ご利用ありがとうございます☆

━--━--━--━--━

♀[登録地域:東京都]

♀[登録名:上村 莉緒様]より

先ほどお客様宛にて、ご入金がございましたので、Ptを追加させて頂きました。

━--━--━--━--━

◇上村 莉緒様のご入金につき、お客様への請求はございません。◇

━--━--━--━--━

尚、ポイント確認後は下記より上村 莉緒様へご一報よろしくお願い致します。

http://4-season.net/***********************

なんと、「上村 莉緒」 さんというどこの誰だかわからん人が、有料出会いサイトの私の分の会費を払ってくれて登録は完了しているから、あとはガンガン利用しろというのである。すごいなあ。ご丁寧なことに、同じ文面のメールが 3度も届いている。

あまりにもすごいので、試しにスパムメールフィルターの実行を保留しておいたら、届くわ届くわ、20時間あまりで 32通も「女性からのメール」が届いた。すべて(多分)出会いサイトに誘導するリンク付きである。

届いたメールの目的は、出会いサイトに誘導しさえすればいいのだから、確かめたわけじゃないので断言はできないが、まず、すべてでっち上げのサクラだろう。さすがに馬鹿馬鹿しくなって、スパムメールフィルターをかけたので、今は届いても自動的に削除されることになった。

それにしても、手の込んだことだ。誰だかわからん人が会費を払ってくれたから、安心して出会いサイトを利用しろというお話を、まともに信用してひっかかるやつがいるのだろうか。いや、いるんだろうなあ。1日 30通以上も「女性からのメール」を受け取って、喜んじゃうやつがたまにいるからこそ、こういうメールがばらまかれるんだろうなあ。

 

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2010年9月 1日

やっぱり、小沢一郎を首相に

一昨日の記事で、小沢さんは結局、首相ではなく幹事長の椅子が欲しいんじゃないかみたいなことを書いたが、ふたを開けてみれば代表選への出馬ということになってしまった。そうこなくちゃね。私としては「今度こそ、小沢一郎を首相に」と書いた手前、そうなってくれないと困る。

ただ、小沢さん、立候補表明の記者会見を聞いても(テレビを見ない私としては、ラジオで聞いただけなので、表情まではわからなかったが)、いつものカラ元気が感じられない。疲れてるんだかなんだか知らないが、とにかくおとなしすぎるのである。

おとなしすぎる小沢さんといえば、前に代表を務めた時の記者会見などでの印象がそうだった。柄にもなく、ことさらなソフト路線を印象付けたいというような印象で、必要以上に愛想笑いをしてペコペコしていた。

私としては、だからこそ小沢さんに首相になってもらいたいのである。柄にもなくソフト路線でニコニコ・ペコペコしていてもらいたい。そして国会答弁では、旧態依然としたわけのわからないその場逃れのごまかしの連続で、どんどん突っ込まれてもらいたい。そして、ストレスのあまりプッツンして、論理の通らないことをわめきちらしてもらいたい。

基本的に小沢さんは、自分の言葉では、まともに人を納得させる答弁のできる人ではないと思っている。それを白日の下にさらけ出していただきたい。そして、そんなこんなで、ついには最低支持率を更新してお引き取り願いたい。

ついでに、トロイカの菅、鳩山のお二人も道連れにして、誰からも相手にされない存在になっていただきたい。(既に鳩山さんはほとんどそうなっているが)

最悪なのは、小沢さんが僅差で敗れ、「敗れはしたが、これだけの支持がある」なんてことを主張して、大いばりで幹事長になっちゃうことだ。引っ込みがつかなくなったので、仕方なく出馬するけど、本当はこれを狙ってるんじゃないかと思うほどである。

ちなみに、小沢さんが首相になったら例の西松建設がらみの件は、指揮権発動(正式なものか、うやむやなものかは問わず)で不起訴になるだろう。今回の出馬のもう一つの動機はこれなんじゃないかとも思う。

この件を乗り切るためには、小沢さんは与党の要職に付いていなければならないという、ちょっとしたシバリがある。民主党分裂とかなんとか言っている人が多いが、実は、そんなに簡単に党を割って出て行くわけにはいかないんじゃないかなあ。

しかし、たとえ起訴されたって、どうせ最高裁まで行くのに 10年もかかる。あるいは、地裁段階で証拠不十分で無罪になんかなったら、いきさつ上、検察は上告を諦めてしまいかねない。だから、これ自体には私はあまり興味をもっていない。

別に起訴されなくても、小沢さんが金権体質なのは、地元やその筋の業界に行けば誰でも知ってることだし。

 

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