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2010年9月28日

理性に期待しすぎちゃいけないのだ

TBS ラジオの朝の番組に毎週火曜日、詩人の荒川洋治さんが登場していろいろな事を話される。今日は途中から聞いてしまったので、全体のテーマがどういうものだったのかは遂に把握できずじまいだったのだが、衝撃的な話を聞いてしまった。

荒川さんは大学で講座をもって 30年になるというのだが、ここ 10年ほど、基礎知識のない大学生が目立って増えたと指摘される。なにしろ、京都がどこにあるか知らない大学生がいるというのである。

荒川さんはある大学の講座で、読書をする際に本の中に登場する場所の地域性をきちんと理解するため、地図帳を持ってこさせて、いちいちロケーションを確認させるという試みをされたそうだ。

ところがある日、「それじゃ、京都の地図をみてごらん」と言った時に、地図帳のページをさっと開くことができずに、地名索引からようやく該当ページに辿り着く学生が少なからずいたというのである。荒川さんのような、地図帳を眺めるだけで想像上で旅行ができてしまうというほどの地図大好き人間には、イラっとくる光景だっただろう

これを聞いて、さすがに私も驚いた。島根県と鳥取県、山形県と秋田県など、どっちがどっちかわからないという人がいても全然不思議じゃないが、それでも、大体の位置はわかっているから、調べようと思えば索引の世話になることはまずない。地図帳で京都のページを開くのに索引から入るというのは、日本の大学生としてひどすぎる。

でもまあ、最近はそういう大学生もいるんだと認めざるを得ない。私はこうしたことを、「基礎知識の不足」というよりは「当然届くべき情報が、なかなか届かない人がいる」というように捉えている。頭が悪いってわけじゃないが、要するに脳内のアンテナ感度が低すぎて、ぼうっとしちゃってるのだ。

例えば、もう手垢の付いた話だが「振り込め詐欺」にひっかかる老人が後を絶たない。自分でキャッシュディスペンサーを操作できるのだから、頭が悪いわけでも、ボケているわけでもない。ところが、ころりと詐欺に引っかかるのである。

「振り込め詐欺に注意」と、これだけ呼びかけられても、その情報が届かないのである。自分の身にも起こりうることとは、全然考えないのである。アンテナ感度が低いとしか思われない。

「犬を飼うなら、毎日の散歩、排泄などの躾、予防注射など、かなりの負担を覚悟した上でないと捨て犬ばかり増えることになるので、衝動買いをしてはいけない」という情報も、繰り返し流されているが、それでも「わぁ、かわいい!」と衝動買いして、あっという間に捨ててしまう人も後を絶たない。

「CO2 削減のため、アイドリングストップを心がけましょう」といくら呼びかけられても、駐車場で延々とエンジンかけっぱなしのドライバーも、まだまだ多い。

乗車券の自動販売機に並び、自分の番になってからあわてて行き先までの料金を調べ始める人もいる。そしてそういう人に限って、なかなか自分の行き先を探し当てられなくて時間がかかる。

とまあ、アンテナ感度の鈍い人というのは、そこら中にいるのである。これは「わかる」ということとは切り離して考えなければならないと思う。聞いたその時だけは、頭の表面で「わかったような気になった」としても、いざとなるとすっかり忘れてしまっているのだ。要するに、「身に付いていない」のである。

世の中には「一度言われれば身に付く人」、「二~三度言われて初めて身に付く人」「何度も何度も言われてやっと身に付く人」「何度言われても全然身に付かない人」というのがいる。そして、圧倒的多数は 2番目と 3番目の人である。

つまり情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らないのである。察しのいい人にとってはうんざりしてしまうようなことだろうが、「もういい!」といわれるぐらい言い続けて、さらにその倍ぐらい発信しなければ、世の中にはきちんと受け入れられないのだ。

普段の世の中というのは、それほどまでに「おぼろげ」な動き方をしているのである。誰もが理の通った生き方をしているわけじゃないので、社会というのはこけつまろびつ、馬鹿馬鹿しいほどの動きをするのである。そんなものなのである。

理性にあまり期待しすぎちゃいけないのだ。

 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

はい!!
ごめんなさい。

投稿: tokiko68 | 2010年9月28日 18:28

私、語り部をいたしております。
30~40分の物語も、暗記して本を見ずに語ります。
けれど、アフリカ、インドなどでは、全部語ると一週間、一ヶ月とかかる(もちろん一日に1時間か2時間ずつ語るのでしょう)長い物語があるそうです。
それを語るのはプロの語り部で、村々を巡りながら村長の家などに滞在し、夜毎集まってくる人々を相手に語って、暮らしを立てているのです。(さすがに、今はもうそのような人はいないかもしれませんが)
彼らは、本を読んで覚えるのではありません。
師匠たる語り部の語る物語を聴いて、覚えるのです。
しかも、何度も繰り返し聴くのではなく、たった一度、魂のこもった語りを、精神を集中して聴いて、覚えるのです。
文字を持たず、ただ、その脳細胞だけに刻み込まれた物語は正確に何度でもその言葉たちを再生出来るのです。

>つまり情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らないのである。
これは、逆なのではないかと思います。
幼い頃から、求めもしないのに詰め込まれる情報。
テレビや新聞さまざまなメディアから、繰り返し繰り返し垂れ流される情報。
これらが、世の人々の感度を鈍らせてしまうのだと、私は思います。

投稿: ベロニカ | 2010年9月28日 20:50

原始社会などでは、語り部が語る物語が、重要な情報でしょう
しかし、社会が、文明が変われば、情報も変わる
現代では、無制限に近い大量の情報に対する、価値判断、取捨選択や受信能力も求められます
いわゆる高感度人間と言われる人と、そうでない人との情報格差も広がっています

投稿: alex99 | 2010年9月28日 21:41

tokiko68 さん:

どうレスしたらいいか、困るコメント ^^;)

投稿: tak | 2010年9月28日 22:10

ベロニカ さん:

>私、語り部をいたしております。
>30~40分の物語も、暗記して本を見ずに語ります。

私も子供の頃、ラジオで落語を一度聞くと覚えて再現できましたが、今はできなくなってしまいました。

脳の構造か構成か、どっちかわかりませんが、変わってしまったんだと思います。

>>つまり情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らないのである。
>これは、逆なのではないかと思います。

逆になってしまったんですね。

あるいは、ある種の人間には一度でずばりと入ってしまうけれど、集団に対しては、やはり繰り返しが必要になるのかも。
(「行き渡らない」 という表現に注目)

>幼い頃から、求めもしないのに詰め込まれる情報。
>テレビや新聞さまざまなメディアから、繰り返し繰り返し垂れ流される情報。
>これらが、世の人々の感度を鈍らせてしまうのだと、私は思います。

まさにそうだと思います。
それで、逆になってしまったんですね。
あるいは、ズバリと物語が入ってしまう人が減ってしまったんですね。

クズ情報に接していない人 (あるいは、情報の取捨選択が自然体でできる人) は 、アンテナ感度がいいと思います。

投稿: tak | 2010年9月28日 22:16

alex さん:

>原始社会などでは、語り部が語る物語が、重要な情報でしょう
>しかし、社会が、文明が変われば、情報も変わる

「物語」というのは、現代的な意味での (狭義での)「情報」とは、性格を異にしますね。

メタファーで語られる何物かと、直接話法の即物的情報は、脳の中でも受信する部位が違うんじゃないかなあ。

>現代では、無制限に近い大量の情報に対する、価値判断、取捨選択や受信能力も求められます
>いわゆる高感度人間と言われる人と、そうでない人との情報格差も広がっています

もしかしたら、現代の情報格差の中で底辺にいる人の中に、物語的な圧倒的強さを秘める人がいたりして。

私としては、両方に強くありたいなあ。むずかしいけど。

投稿: tak | 2010年9月28日 22:23

ベロニカ さん:

物語は入りにくいが、ある種の人には一度でずばっとはいる。

即物的情報は入りやすいが、一度でずばっと深く入るわけではない

という仮説はいかがでしょうか。

いずれにしても、物語は 「理性」 というよりは 「感覚」 と 「直観」 の産物ではないかと思いますし。

私、今でも庄内の民話は、かなり長いものでも語ることができますが、それは脳の中に民話の世界がからみつくように生きていて、語り出すと勝手に出てくるもののようです。

考えてみると、不思議ですね。物語というのは。

投稿: tak | 2010年9月28日 22:27

tak shonaiさん

私も、tak shonaiさんのレスには、それなりに同感ですし、長文派としては、そういうことも書きたかったんですが、場を心得て(私のブログじゃないので)、感じることの、ほんの一端だけを書いたんです
だから、私の意見が偏向したもののように見えちゃいますね
そもそも、情報とはなんぞや?から、本当は説いて行かないとね


投稿: alex99 | 2010年9月29日 00:45

あるアメリカ原住民の伝説という触れ込みで書かれた、その部族の語り部(と称する女性)に受け継がれた、一万年を超える部族の歴史という本がありますね
本物かどうか?ちょっとまゆつばですが
シベリアから氷結したベーリング海峡を越えて、アメリカ大陸に渡った歴史を語り伝えたという、途方もない語り部の物語ですが

投稿: alex99 | 2010年9月29日 00:52

tak様 alex様 おはようございます。
そして、ありがとうございます。
お二人の議論に、私も深く考えさせられました。

情報と物語の違いのもっとも大きなものは、身体性なのではないかと思います。
一連の情報を、取捨選択し、頭の引き出しに入れる、そこまでが「理性」の作業。
その情報が、自分自身の内部で微妙に化学変化し、実際に自分自身の声(あるいは筆)で語るとき、物語となる。この段階で、takさんのおっしゃるように「感覚」と「直感」をフル稼働して、体を使って(身振り手振りの有無は関係なく)、聞き手に語りかけるのです。

楽しい議論をありがとうございました☆

投稿: ベロニカ | 2010年9月29日 08:46

alex さん:

>私も、tak shonaiさんのレスには、それなりに同感ですし、長文派としては、そういうことも書きたかったんですが、場を心得て(私のブログじゃないので)、感じることの、ほんの一端だけを書いたんです

ということだと思ってました。

>あるアメリカ原住民の伝説という触れ込みで書かれた、その部族の語り部(と称する女性)に受け継がれた、一万年を超える部族の歴史という本がありますね
>本物かどうか?ちょっとまゆつばですが

まあ、伝説とか神話とかいうのは、大体そんなものです。
事実としての歴史ではなく、暗喩としての歴史になってしまいます。

日本の『古事記』 にしても、稗田阿礼が延々と語ったわけですしね。

人間は「文字」という外部記憶装置を発明してから、脳内の物語力がガックリと落ちたんでしょうね。

投稿: tak | 2010年9月29日 10:54

ベロニカ さん:

>情報と物語の違いのもっとも大きなものは、身体性なのではないかと思います。

そうですね。
文字を介さない伝達は、身体性に依拠しますから。
そして、生身の脳内で、物語が生きているわけですから。

投稿: tak | 2010年9月29日 10:56

荒川さんの大学生の話はまず単純に

・少子化の影響で、90年代までなら大学生になれなかった学力レベルの生徒が大学に進学できるようになってしまった。

次に、

・ケータイ・パソコン普及の影響

なんじゃないかなぁと思います。
昔、学習塾に勤めていたことあるのですが、最近の子は(――成績の悪い子であるほど)簡単な四則演算や読めない書けない漢字に、すぐケータイを使おうとします。
地図の話もそうで、地図検索で「京都市」といれれば、場所などすぐにぱんと答えがでるわけですから、頭の中に大体の日本地図を記憶させておくなどという煩雑なことは必要ないわけです。
ケータイやパソコンにストックされている情報を外付けハードディスク的な感覚で使っているというか。
もちろんいい傾向でないのは事実なのですが、自分もキーボード入力になれて、手書きで文章書くと、漢字を一瞬ど忘れしてうっとなる場面が最近増えたので、あまり人のこといえないなぁと思ったりもしますです。

投稿: まこりん | 2010年9月29日 12:37

まこりん さん:

>少子化の影響で、90年代までなら大学生になれなかった学力レベルの生徒が大学に進学できるようになってしまった。

それはまさに、その通り。
入る大学を選ばなければ、ほとんどの大学進学希望者は大学生になれる世の中ですからね。

>ケータイやパソコンにストックされている情報を外付けハードディスク的な感覚で使っているというか。

これは、alex さんのコメントへのレスで私が

>人間は「文字」という外部記憶装置を発明してから、脳内の物語力がガックリと落ちたんでしょうね。

ということの大きな流れの延長線にあると思います。

記憶装置をどんどん外部化したせいで、内部が脆弱になってきたというか。

物語力を取り戻すことは、人間力復興につながるかも。

投稿: tak | 2010年9月29日 14:48

>地図帳で京都のページを開くのに索引から入る

これを一意に「場所が分からないから索引から入る」と解釈しているのに少し疑問を感じました。
ここでどのような地図帳を使用していたのか詳細は分かりませんが、1冊の地図帳内でも同じ地名が複数のページに記載されていることがあります。例えば200ページほどある地図帳の索引に「京都・・・P31 P101 P177」とあった場合、頭から「小縮尺 大縮尺 巻末の市内地図」と予想できます。
本についても詳細が分かりませんが、「本の中に登場する場所」を調べるのに必要な情報は「日本のどの位置か」ではなく「どのような町並みか」でしょう。

実際、私が地図帳で地名を調べるときは位置を知っているかを問わず索引から入ります。この癖は携帯電話やパソコンが普及する前からのものですが、普及に伴って結果的に検索・索引から入るタイプが増えてきたのでしょう。

投稿: 葉 | 2010年11月14日 14:11

葉 さん:

>実際、私が地図帳で地名を調べるときは位置を知っているかを問わず索引から入ります。

ほほう、そうですか。認識を新たにしました。

ただ、使い慣れた地図帳なら、京都ぐらいは縮尺がどうあれ、索引からではなくて、2~3秒で開けませんかね。

まあ、速さではなく、索引からはいるルーティン重視というなら、それはそれでかまわないんですが。

投稿: tak | 2010年11月14日 21:34

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