物語力と即物的情報力のバランス
昨日、「情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らない」 と書いた(参照)ところ、語り部をしていらっしゃる(すごい、おもしろそう!)ベロニカさんから、次のようなとても興味深いコメントがついた。
私、語り部をいたしております。
30~40分の物語も、暗記して本を見ずに語ります。
けれど、アフリカ、インドなどでは、全部語ると一週間、一ヶ月とかかる(もちろん一日に1時間か2時間ずつ語るのでしょう)長い物語があるそうです。(中略)
彼らは、本を読んで覚えるのではありません。
師匠たる語り部の語る物語を聴いて、覚えるのです。
しかも、何度も繰り返し聴くのではなく、たった一度、魂のこもった語りを、精神を集中して聴いて、覚えるのです。(中略)
>つまり情報というのは、繰り返し繰り返し発信しないと、行き渡らないのである。
これは、逆なのではないかと思います。
幼い頃から、求めもしないのに詰め込まれる情報。
テレビや新聞さまざまなメディアから、繰り返し繰り返し垂れ流される情報。
これらが、世の人々の感度を鈍らせてしまうのだと、私は思います。
とてもおもしろい指摘だ。現代の世の中はあまりにも多くの情報が垂れ流されているので、かえってアンテナ感度が鈍り、昔のように一度だけ集中して聞いた物語を覚えることすらできなくなっているというのである。
確かにその通りだと思う。コメントのレスにも書いたのだが、私は子供の頃、ラジオで一度聞いた落語はすっかり覚えて再現できる子だった。そのまま育てば天才落語家になれたかもしれないが、そうはならず、今では何度聞いても再現できないオジサンになってしまったのだが。
これは、私自身の脳内の構造が変わってしまったのだと思う。子供の頃の私は、昔の語り部のように、聞いた物語をそのまま受け入れ、その物語が脳内で生き始め、語り出せば自動的に出てきていたのである。そして今は、脳内がいろいろな浮き世の情報で埋まってしまったために、物語が自生する余地がなくなってしまったようなのだ。
とはいえ、私は今でも、庄内の昔話なら語り出せば自動的に出てくるごとくに語れる。確かに、昔話の世界が脳内にからみつくように、生きて呼吸をしているのである。
ベロニカさんはコメントの中で、アフリカ、インドなどでは、全部語ると一週間、一ヶ月とかかる長い物語を語るプロの語り部について語っている。彼らも、師匠の語る物語を集中して一度聞いただけで、自分のものにしてしまうのだそうだ。
日本の『古事記』も、そんなようなものであったはずだ。稗田阿礼という語り部が延々と語るのを太安万侶が書き留めたのである。思えば物語の力というのはすごいものである。具体的な即物的情報とは脳内処理の仕方が違うのだ。きっと。暗喩が生きて呼吸しているのである。
稗田阿礼にしても、彼女(フォークロア派の私は、この人は女性であったと思っているので)の脳内では『古事記』が脈々と生きていたに違いない。だから、一度語り出せば、彼女の中に生きていた物語が、自動的に口をついてでてきたのだ。それは「理性」とは別の領域の脳の働きなのだろう。
ベロニカさんは、物語には「身体性」が重要だとコメントしてくれた。「情報が自分自身の内部で微妙に化学変化し、実際に自分自身の声(あるいは筆)で語るとき、物語となる」というのである。これが論理的説明であるかどうかは別として、なんとなく実感としてわかる。
私は昨日の記事に付けられた alex さんのコメントへのレスとして、「人間は『文字』という外部記憶装置を発明してから、脳内の物語力がガックリと落ちたんでしょうね」 と書いた。
そして今や、記憶装置の外部化は、絵や文字(あるいは音楽や建築なども入るかもしれない)の段階を遙かに通り越えて、さまざまなデジタル・メディアというレベルにまで行き着いた。
まこりん さんがコメントしてくれたように、 「地図検索で『京都市』といれれば、場所などすぐにぱんと答えがでるわけですから、頭の中に大体の日本地図を記憶させておくなどという煩雑なことは必要ない」ということになってしまった。
記憶装置の外部化も、便利ではあるが、ここまで来ると何か危ないものを感じる。人間力が損なわれてしまうという直感的危機感まで、私にはある。
その意味で、私はこの "Today's Crack" という「情報ブログ」の他に、「和歌ログ」というアナログ的なブログも毎日更新している。横書き、デジタル画像のサイトなので、アナログそのものではなく、「アナログ的」ということなのだが、これら 2つのブログを同時並行することで、私は自分自身のバランスを取っている気がする。
ちなみに私は最近、メモを取るときにもなるべく縦書きで、しかも旧かなで取ったりしている。これなんか、なかなかいいリハビリになる。
なお、「外部記憶装置」ということで私は、自分自身が 8年も前に書いた "コンピュータは「脳みその大腸菌」" というテキストを思い出したので、ついでに紹介しておく。
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コメント
すばらしい!!
たしかにね。
投稿: tokiko68 | 2010年9月29日 15:29
tokiko68 さん:
シンプル極まるお褒めの言葉、ありがとうございます。
投稿: tak | 2010年9月29日 15:52
「物語力」 なんとも的確でシンプルなネーミングですね。次回のライヴで紹介させていただきます。
考えてみると、そもそも 昔語り という文化は、文明の進歩と共に消えてしまう運命にあるのですよね。
何の娯楽もない、電気すらない、暗闇と魑魅魍魎の支配する夜に、子供たちを楽しませ、安らかな眠りに導くために、親または祖父母が語ったものなのですから。
私が語り部となったきっかけも、そのあたりにあるのですけれど、話が長くなりますので、リアルな世界でお目にかかれたときにゆっくり、ということで。
いずれにしても、外部記憶装置に頼りすぎるのは、ほどほどにしたいですね。
ありがとうございました☆☆☆
投稿: ベロニカ | 2010年9月29日 21:27
ベロニカ さん;
>考えてみると、そもそも 昔語り という文化は、文明の進歩と共に消えてしまう運命にあるのですよね。
いえいえ、消してはいけませんよ。
いろいろ姿を変えながらも、生き残ると思います。
投稿: tak | 2010年9月30日 00:20
tak shonaiさん
おっしゃることは、納得ですが、敢えて一言
おっしゃるものは、精神性を伴った、人格の深いところまで浸透するような情報でしょう
しかし情報は、もちろん、すべて物語り力を伴って記録されなければならないものでもありません
常時は外部記憶装置に temp file としてストアーされていて、必要時に検索・抽出されれば十分な、揮発性記憶とでも言うべき、即物的なものが、数量的には圧倒的に多いのではないかと思います
また、現代では、そういう情報のニーズが大きい
一方、物語力情報は、深く浸透して応用が効くと言う点ではいいが、それは主に芸術的な分野に有効で、何からなにまでそれで記憶することも出来ないはず
それに、下手をすると、頑迷な先入観となってしまう可能性もあると思います
まあ、これ以上は、哲学的な課題になりそうなので
今日はこれくらいにしといたるわ!
投稿: alex99 | 2010年9月30日 08:47
alex さん:
おっしゃることはもっともです。
それゆえに、この記事のタイトルは 「物語力と即物的情報力のバランス」 としてあります。
投稿: tak | 2010年9月30日 18:24
特別なやり方で記憶できるのではなく、自分の中で再構築できるかどうかではないでしょうか。
記憶はより多くの関連性を持つ方が長く鮮明に覚えることができると聞いた事があります。例えば物語を聞いている場合、物語自体の他に語り部の身振りやリズム、場の雰囲気や匂い、自分の感情や想像等、より多くの情報を五感やそれ以外(まさしく心身)で取得し、自分の中で関連付けることでより鮮やかさを増し記憶されるのではないでしょうか。
現代では情報が断片化、記号化されてしまうことで上滑りし、関連付けも外部(ネットやPC)で行うため、ますます記憶が厚みを持たないのでは。
投稿: vagari | 2010年10月 1日 00:16
vagari さん:
>特別なやり方で記憶できるのではなく、自分の中で再構築できるかどうかではないでしょうか。
そうですね。それが「身体性」ということなんでしょうね。
かなり具体的なご指摘、ありがとうございます。
投稿: tak | 2010年10月 1日 08:05