酒田大火の思い出
今日 10月29日は、酒田大火のあった日である。1976年(昭和 51年)のこの日、私の生まれ育った酒田市の中心部にあった、かの有名なグリーンハウスという映画館から出火し、折からの強風にあおられて見る間に 1,767棟が焼失し、被害総額は約 405億円、死者 1名、被災者は 3,300名以上にのぼった。
あれからもう、34年も経ったのである。早いものだ。私は 1971年に酒田東高校を卒業して東京に出てきていたから、酒田大火は直接には体験していない。それでも、夜通しテレビの画面を眺めてハラハラしていた。
34年前のこの日の夜、同郷の友人、勘ちゃんから電話が入った。「酒田で大火になっているのを知っているか?」という。知らないというと、「ちょっとテレビをつけてみろ」というので、友人からもらったお古の白黒テレビのスイッチを入れると、もうもうとした炎の中で、仲町商店街のト一屋という地元スーパーの店舗がどっと焼け落ちるところだった。
勘ちゃんは当時、テレビを持っていなかったが、姉が火元の近くに嫁いでいるので、どんな具合かテレビでみて教えてくれという。いくら電話しても不通で、心配でしょうがないというのである。
「うわぁ、こりゃあ、どんな具合も何もないよ。一面火の海だわ。気の毒だけど、火元の風下にある家は、間違いなくみんな燃えちゃってるね」
「そうか、それじゃあ、どうしようもないね。避難はしてるだろうから、命の心配はないと思うけど」
「そうだね。ありゃりゃ、それどころじゃないわ。風に煽られた火が、うちの実家に向かってるみたいだ! これじゃあ、市街地を焼き尽くすまで止まりそうにないね。えらいことだ。知らせてくれてありがとう」
確かに、火元の映画館から私の実家までは、この夜の風速 12メートル以上の季節風が、まともに吹き付けているというではないか。テレビのニュース画面が伝える延焼範囲は見る間に長く伸びていき、そのまっすぐ先に、我が家がある。冷や汗が流れた。
電話してみるが、案の定、全然通じない。電話というのはどうでもいい時にはすぐにつながるが、災害時など、本当に必要な時には全然つながらなくなる。こういう場合は、遠い親戚とか、ちょっとした知り合いとかいう人は、わざわざ電話なんかしないでもらいたいものなのである。混雑しちゃうから。
火元と我が家の間には、新井田川(にいだがわ)という川が流れているのだが、この火の勢いでは、あの川ごときで食い止められるかどうか、疑問だ。それどころか、強風に乗って大きな火の粉がどんどん飛んでいるらしいから、川ぐらいあっというまに飛び越えてしまうかもしれない。
薄情なもので、テレビニュースも夜中を過ぎるとあまりまともなレポートはしてくれなくなる。ああ、田舎の父と母は家を後にして避難所で毛布にくるまり、震えているに違いない。まんじりともしない一夜を明かす。
夜が明けた 6時過ぎに電話がなった。父からである。どこにいるのかと聞くと、「家にいる」という。実家は焼けずに済んだらしい。どっと緊張感がとける。
我が家の近所では、夜中に総出で屋根にのぼり、ホースで水をまいていたそうだ。そうでもしないと、拳骨より大きな火の粉がどんどん飛んできて、延焼しかねなかったという。そして、屋根で水をまいていた人は全員、押し寄せる熱気のために顔が低温火傷で真っ赤になっているらしい。
その年の冬に帰省すると、高校の頃までお馴染みだった仲町商店街がすっかり焼け野原で、雪に覆われている。何人かの同級生や友人の家も焼けてしまった。変わり果てた故郷の姿に、私は愕然としてしまった。
しかし、酒田の人は基本的にオプティミストである。失ったものにはこだわらない。要するに諦めが早いから、落ち込まないのである。酒田の街は驚くほどの早さで復興を遂げた。仲町商店街も見違えるようなモダンな街並みになり、あまり見違えすぎて、私なんか地元で道に迷うほどである。
焼けてしまった同級生の実家も、1年ほどで新築なった。火災保険で焼け太りしたなんて話も聞いた。しかし家が新しくなったので、しばらくはたまに帰省して夜中にトイレに行こうとしても、電灯のスイッチの場所がわからなくて往生していたそうだ。なるほどね。
※ ここに出てくる 「勘ちゃん」 というのは、知る人ぞ知るギタリスト、古田勘一氏である。
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