昨日は "「ユニクロ嫌い」 を巡る冒険" というタイトルで、私にしては珍しく長文の記事を書いてしまった。まあ、長文のうちのかなりの部分は、私の過去記事に寄せられたコメントの引用なので、仕方がないのだが。
で、あんなにムキになって (?) まで、ユニクロ擁護とも取られかねない記事を書いたのは、別に私がユニクロが大好きだからとかいうわけではない。それよりも、ユニクロの悪口さえ言っていれば自分のスタンスが保たれるという、安易な錯覚の方が問題だと思うからだ。
昨日の記事の末尾で、ユニクロ嫌いには、「ユニクロはあなたのような人を満足させるためのマーチャンダイジングをしているわけじゃないから、妙に意識しないで、安心して遠離っていてください」と言えばいいと書いた。でもユニクロ嫌いとしては、どうしても「妙に意識しちゃう」んだろうなあ。気になっちゃうんだろうなあ。うふふ。
世の中には「ユニクロ・コンプレックス」とでもいうべき心理があって、フツーのユニクロ・ユーザーにとっては 「親しみやすくて買いやすいフツーの服」に過ぎないものが、ユニクロ嫌いの心の中では、なぜか「特別な服」に化けてしまう。これはとてもおもしろいパラドックスだ。
「単なるフツーの服」に「特別な服」という幻想を与えて、あることないこと、やいのやいのと言ってくれる「ユニクロ嫌い」という人たちの存在が、実はユニクロの「強み」になっているということに、私はようやく気付いたのである。
昨年の今頃のファッション業界で「ユニクロ一人勝ち」なんて言われたように、ユニクロは間違いなく「勝ち組」であり、「強者」である。しかし、あの頃からユニクロ・バッシングのようなものがそれまで以上に強まったように思う。ユニクロが本質的にもつ「ヴァルネラビリティ」が目立ってきた。
「ヴァルネラビリティ」とは、一般的には「脆弱性」と訳される。IT業界では、情報システムにおいて他から攻撃される可能性のある、システム上の欠陥や問題点を意味する。また軍事的には、防衛上の弱点を指す。
しかし、この言葉には「欠陥」とか「弱点」とかいう意味合いと並び、「攻撃誘発性」という意味合いもある。他者からの攻撃を誘発して、受けてしまいやすい傾向のことだ。これについては大江健三郎氏が一時、ずいぶん語っておられた。
ユニクロは、軽い気持ちで悪口も言われやすい体質の企業なのである。こうしてみると、「ヴァルネラビリティ」はむしろ 「いじめられやすさ」または「いじられやすさ」とでも訳す方が適切かもしれない。
現実に、「安物」「画一的でつまらない」「あんなのはファッションとは言えない」「デフレ・スパイラルの元凶」「国内製造業空洞化の元凶」など、いろいろな「いじり方」をされている。それらの「いじり」は、いかにももっともらしく聞こえて、誰でも尻馬に乗りやすいのである。
「ユニクロは安物」「画一的でファッション性に欠ける」「本物の良さを知らない人が買うのだ」という言うのはまだしも、「ユニクロで上から下まで買いそろえるようになったら、人間としておしまい」とまで攻撃する人もいる。
そうなると、フツーのユニクロ・ユーザーは別に理論武装して購入しているわけじゃないから、ユニクロを着ることが「恥ずかしいこと」のように思えてしまう。
実際に、私のユニクロについて論じた記事に、思いっきり偏見に満ちたコメントをされた miyakowasure さんは、昨日の記事でも紹介したが、次のように書かれている。
自分があんな洋服を買うのはとても惨めです。
買っている自分を友達に見られたくない。
この方は、自分はユニクロ商品を「1着も買ったことがない」と言ってるのだから、本来はこんなことを言う必要が全くない。にもかかわらずことさらにこう言うのは、潜在意識的には実は自分もユニクロ商品が気になって仕方がないか、あるいは「ユニクロを買っている姿を友人に見られたら、あなたも惨めでしょ」と言いたいかのどちらかである。
後者だとしたら、まったく「余計なお世話」なのだが、こんな余計なことを言う人が結構多いので、世の中には自分の着用している服がユニクロ商品であることを隠す「ユニクロ隠し」という言葉があるぐらいだ。ほっといてくれれば、そんなことは気にしないで済むのに。
ユニクロもその辺のことはかなり察知しているようで、その批判をことさらな「過剰品質」でかわそうとしている。ユニクロの品質が悪いなんていうのは、このあたりをよくわかっていない人の言うことで、むしろユニクロ商品の「スペックとしての品質」は、平均的にはあの値段としては慇懃無礼なほどに高いのである。
だから大抵のユニクロ商品は、品質的には安心して買えるレベルにある。ユニクロのヴァルネラビリティは、見事に「アドバンテージ」に昇華されてしまっている。ヴァルネラビリティをアドバンテージに変えるというのは、ユニクロのずっと取り続けてきた企業姿勢のようにさえ見える。
しかし、ユニクロ商品の「高品質」はあくまでも「スペックとしての品質」つまり、単純に数値として表せる部分の話であって、即ち「本物としての良さ」というわけではない。だから「本物志向」を自称する人は、ユニクロなんてものは軽く無視してしまえるような圧倒的な存在感を発してしまえばいい。それでこそ「本当の本物」 だろう。
いじりやすい対象をことさらに取り上げて悪口を言いまくるようなレベルでは、まだまだ修行が足りない。くだらないこだわりを超越し、ときにはユニクロ商品を見事に取り入れたコーディネーションを自然にしてみせるぐらいになれば、それこそ「本当の本物」といえるだろう。
音楽で喩えれば、モーツァルトが今生きていたら、『猫踏んじゃった』の悪口なんか言わないだろうし、それどころか、時には意表を突いたアレンジで、自ら弾いてみせたりすらするかもしれないというようなことだ。
ファッション面での安易な批判と並び、経済的視点では「ユニクロ亡国論」というのがある。日本経済のデフレ・スパイラルの象徴としてユニクロをやり玉にあげているのだが、これなども「手近にあって言いやすいから言った」ということでは、ファッション的な悪口と大差ない。
ユニクロの中国生産比率の大きいことが批判の要因だが、これはユニクロばかりがそうなのではない。今や、日本のアパレル製品のおよそ 9割は中国製なのである。そして、同じ中国製品を販売している企業の中では、ユニクロは製造小売業として、圧倒的な規模で国内にも利潤を落としている。
総体的な縫製市場に関しては、ユニクロが結果として国内縫製業界のもっていたシェアを奪ったということもできるが、アパレル市場全体からみれば、ユニクロ 1社の占めるシェアなんてそれほど大きなものではない。ユニクロがいなくても、日本の業界全体がその方向に向かわざるを得なかったのは、歴史の必然である。
日本のアパレル業界は、元々は国内縫製でまかなっていた生産の大部分を、現在は中国縫製に回してしまっている。言い換えれば、元々は国内縫製工場に落としていた工賃を、今はみんなして中国にばらまいているという構図だ。
しかしユニクロに関して言えば、ほとんど初めから中国縫製でやってきたのである。最近まで国内に落としていた工賃の行き先を、急に中国に切り替えてしまったのではない。少なくとも個別企業としては、国内縫製工場を二階に上げて、いきなりはしごを外してしまうという荒技に直接的に関わったわけじゃない。それを直接的にやったのは、他の企業である。
むしろ、後から尻馬に乗って中国縫製に群がっている企業の方が、適正利益を無視したやり方で、自分の市場を疲弊させているということもできる。「ユニクロは完全無罪」と、ことさらに擁護するわけではないが、「亡国の象徴」とまで言ってしまうのは、かなり気の毒なところがある。
ユニクロを悪し様にいうのは実に簡単なことだが、そうすることで自分の高いファッションセンスを確認できたり、正義の味方のスタンスを確保できたりするというのは、安易な錯覚でしかない。
本当にヴァルネラブルなのは自分自身なのではないかと、そろそろ気付いてもいいだろう。他をことさらに批判することで自分のスタンスを守ろうというのは、基本的には「自分が脆弱だから」である。
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