驚いて楽しむという江戸的洗練
今朝、仕事地に車で向かいながら TBS ラジオの「永六輔その新世界」を聞いていると、北山修氏がゲストで出演していて、おもしろいことをおっしゃっていた。吉本新喜劇で育った彼の中のコテコテのお笑い感覚は時々、永さんの江戸的感性による物言いとのギャップを感じるそうなのである。
とくに、永さんがとてもよく「驚く」ということに驚いてしまうのだという。彼の中のコテコテのお笑い感覚は、「なんでまたこんな些細なことに、永さんは驚き、感動し、おもしろがるのだろう」と、ついて行けないものを感じると言うのである。
精神分析医である彼はこれについて、「子供の感性では、『驚く』というのは恐いことであって、成長するにつれて、それを『楽しむ』ことができるようになっていく」と、興味深いことをおっしゃった。
なるほど、子供の頃は「びっくりする」ということはすなわち「恐ろしいこと」であった。びっくりしたら、とにかく大あわてで逃げるものと決まっていた。逃げることができない赤ん坊は、とりあえず泣き叫ぶ。それは感性的なものというよりはむしろ、直接に生理的反応だったと思う。
ところが、大人になると確かに「驚くこと」を「楽しみ」と捉えることができるようになる。平凡な予測を裏切る意表を突いた事象や表現に触れて、驚き、感動し、楽しむようになるのだ。「いやあ、こりゃまた、びっくりだね!」なんて言って、大喜びするのである。
そしてますます感性が研ぎ澄まされると、ほんのちょっと意表をついたことで、十分に驚き、感動するようになる。永六輔さんが、とても微妙なことに注目して「僕は、あれには本当にビックリしました」なんて度々おっしゃるのは、まさにそれだ。コテコテでなければおもしろくないと感じる感性は、それを「なんでそんなことで ……?」と思ってしまうのである。
そして北山氏は、「ついていけないものを感じつつも、そうか、それが江戸的洗練というものなのか」と納得するそうだ。京都育ちである北山氏だって、後天的なコテコテ感覚とは別に、第一級に洗練された京都的感性を持っているはずなのだが、どうやら、京都的洗練と江戸的洗練というのは、かなり違うものであるらしい。
思うに、京都は静かにすべてを飲み込んで楽しむが、江戸は些細なことにびっくりして楽しむ。
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コメント
北山修さんとは、「フォーククルセーダーズ」のメンバーであった方ですね
私は大阪育ちですが、大学から東京に住み、東京人、その中でも、「下町っ子」と言う人種と出会い、単純で「ナイーブ」な人達だな~という感想を持ちました
いい人達だな~とも思いました
日本語となった「ナイーブ」は、本来の英語での意味とは、ちょっと異なるような感じがしますので、敢えて英語の意味を non-native English leaner向けの英英辞書である「the Oxford Advanced Learner's Dictionary」 の定義を示してみます
naive
1 (disapproving)
lacking experience of life, knowledge or good judgement and willing to believe that people always tell you the truth
2 (approving) (of people and their behaviour)
innocent and simple
3 (technical) (of art)
in a style which is deliberately very simple, often uses bright colours and is similar to that produced by a child
ここには、
否定的な意味として
「人生経験、知識、または的確な判断に欠け、また他の人々が常に彼らに本当の事を言っていると信じ勝ちな」
肯定的な意味として
「経験が少なくて単純な行動の」
芸術に於ける意味として
「極めて単純で、原色を多用し、幼児の描く絵に似た」
と定義されています
私の受けた印象も、これほど極端ではもちろんありませんが、まあ、こういう感じがありました
上記の否定的な意味合いも、肯定的な意味合いも、同じコインの裏表を言ってるわけですが
よく言えば
単純でサッパリしていて、敢えて物事をあまり複雑に考えない、人の言うことの裏など読まない
悪く言えば
単純な思考の人々
これは、江戸の下町の人々を育んだ歴史から来ていると思います
例えば、大阪が商人は商いに専心、徒弟ものれん分け目指して励む、競争・上昇志向の商人の町とすれば、江戸の下町の人達は主に職人です
度重なる大火で建築の仕事が多く、人々は日銭の入る仕事には困らない状況
稼いだ金はその日のうちに使うという、その日暮らしでも、なにも支障がなかった
落語に出てくる庶民も、富貴とはまったく縁のない、家具などなにもない長屋暮らし
第一、自分が貧乏だという自覚も無かった(笑)
その上に、徳川400年の御代といっても、しょせん新興地であって、京都などの、千年の都という歴史があるわけではないから、人間も単純(失礼)
これは、米国・豪州などの新世界・植民地の人達を見れば分かります
反対に京都を中心とする同心円の古い歴史のある文化圏の人々は、悪く言えば、すれっからしで、複雑で、人が悪い
人の言葉の裏を読むし、人を容易に信用しない
文化が饐(す)えているのです(笑)
「少しのものにも驚きを見いだすという江戸の洗練された文化」
と言うものがあるのも確かですが、それは、ナイーヴさでもあるという、人の悪い私の皮相的な見方も(笑)、また有りかと思い、一つの意見として、述べさせていただきました
なお、私から見れば、東日本(関東・東北・北海道)の人間と、
西日本(北陸・中部・関西・中国・四国)の人間は、文化的に異なるグループ
西日本が京都文化圏です
また九州も、またさらに沖縄も独特と感じます
私は、その人の顔を見れば、だいたい、その出身地がわかります
また、これは、縄文人と弥生人という民族的なものも基盤にあるのかも知れません
投稿: alex99 | 2010年10月 3日 02:58
alex さん:
まさにおっしゃるとおりだと思います。
この放送の日の北山修氏は、自らの京都的ベースにことさらオブラートをかけ、後天的な 「コテコテ感性」 を表に出してコメントしてらしたと思います。
投稿: tak | 2010年10月 3日 18:53
久しぶりにコメントさせていただきます。
私は中高と北山修氏の後輩で大学は違うものの同じ学部に進学いたしました。
alex さんのご意見を拝聴して私の感じる所をコメントします。
既に御存知かもしれませんが、
北山氏は中学から大学卒業までは京都でしたが、医師としての新人時代の研修は札幌ですごしました。
その後ラジオの仕事の関係でしばらく東京住まいをして、京都にあった北山医院も青山に移転されました。
そして九州大学に招かれて定年までは福岡におられました。
北山氏はalex さんが指摘された日本文化の異なるグループを、時間的な長短はあるものの其々経験されたことになります。
同窓会などでの内輪の講演で感じられる京都的文化ベースと、TVなどで発揮しているサービス精神を勘案すると、
>自らの京都的ベースにことさらオブラートをかけ、後天的な「コテコテ感性」を表に出して
永さんとの対談に臨まれたであろうという推察に深く同意するものであります。
投稿: ちいくま | 2010年10月 4日 08:56
ちいくま さん:
>同窓会などでの内輪の講演で感じられる京都的文化ベースと、TVなどで発揮しているサービス精神を勘案すると、
>>自らの京都的ベースにことさらオブラートをかけ、後天的な「コテコテ感性」を表に出して
>永さんとの対談に臨まれたであろうという推察に深く同意するものであります。
なるほど。
ありがとうございます。
「内輪の講演」というのを聞いてみたい気がします。
投稿: tak | 2010年10月 4日 16:14