「文系/理系」と「論理的/感覚的」
昨日論じた「文系と理系」の続きである。
私は高校時代、とくに 2年生の後半からは極端な文系の子だった。試験の結果は、文系 3科目 (英語・国語・社会科) の合計点数と、理数を加えた 5科目の合計点数が、ほとんど変わらないという、いわばハンディキャップ・マッチを勝手に演じていた。
なにしろ勉強というものをしない子だったのである。ただ、英語の歌はくさるほど聞いていたし、本は読むし、哲学的なことや歴史的なことに興味はあったしで、文系 3科目は、学校で教わるレベル以上のことに、日常的に勝手に親しんでいた。自分ではそれを「遊び」と思っていたが、客観的にみればかなりハイレベルな「勉強」をしていたんだろう。
しかし理数系だけは、七面倒くさい数式や亀の甲みたいなものを覚えるのがうっとうしくて、ほったらかしだった。そうしたものは、覚えさえすればそこから先の論理展開はできる。ところが、「ああ、この問題はあの公式を使えば解けるんだがなあ」と思いながら、その公式がうろ覚えだから、解答ががごちゃごちゃになる。だから、理数系は点数にならない。
とまあそんなことで、私は周囲からも「チョー文系」と思われて生きてきたわけである。
ただ、理系の話が全然わからないかといえば、そうでもない。七面倒くさい計算なんか端折って、ダイナミックに論理の展開を追えば何となくおもしろいというようなことだと、ものすごく興味が湧く。多分、その辺のレベルの低い「自称理系人間」よりは、相対性理論や量子力学の本は読んでいると思う。
昨日の記事に、alex さんが次のようなコメントを付けてくれた。
どうしようもなく文系だとか、どうしようもなく理系だとかの人達は確かにいます
別の言い方をすれば、理系の才能はあるが文系の部分がほぼ全くない、またはその逆のケースは確かにいますね
それに対して私は、
複雑な数式や亀の甲は得意だけれど、それを日本語で(英語でもいいですが)説明できない人っていますね。
自分はわかっているようなんだけど、他人にわからせることが全然できない。
自分でわかっていることを、論理的なストーリーとして、言葉で再現できない。
(中略)
逆に、感性的な文芸などは得意だけど、日常的な論理の展開にすら付いてこれない人もいます。
ただ表面的には、前者は理系、後者は文系と思われますが、煎じ詰めれば、どちらも「感覚派」なんじゃないかと思います。
ものごとが論理ではなく画像のようにそのままパシッと印象付けられて、それをそのまま受け入れているだけなので、改めて論理の展開として説明するのは苦手。
というレスを書いた。
ものごとを感覚的に、つまり論理の介在が希薄なまま、脳に焼き付けられるタイプの人は、確かにいる。その人の興味がたまたま、理系の複雑な数式や亀の甲に向いたりすると、彼または彼女は「理系人間」としての道を歩むことになったりする。
彼または彼女は、現場の技術者としてはある程度優秀である。しかし、自分の仕事を他人に論理的に説明するのが苦手だ。非常に専門的なことを、自分では理解しているようなのだが、それを言葉にして他人にわかりやすい論理展開として再現することができない。
私はそうしたタイプの人を何人か知っている。専門技術に関することを彼に聞くと、それは彼にとってはお馴染みのことで、よくわかっているはずなのだが、いざ人に説明しようとすると、なかなかうまくできない。自分でもかなりまどろっこしそうである。
こちらは、途中からなんとなく結論への筋道が想像されてしまうから、「要するに、これこれこういうことなのか?」と、単純にイエスかノーかで答えやすい質問をする。答えがノーだったら、どの部分がノーなのかを慎重に確認しながら、だんだん範囲を狭めていって、最終的に解答に到達する。そうでもしないと、彼は要領よく説明することができないのだ。
しかし、こんなアプローチの仕方だと、どちらが理系人間なんだかわからなくなる。「俺、根が文系でわからないから、理系のあんたに聞きたいんだけどさあ」なんて言いながら質問してるのに、解答に至るまでの筋道は、こちらの方がずっと論理的に主導しちゃってる。
なにしろ向こうは、単純にイエスかノーかで答えることさえ、かなり戸惑う。非常に論理的な質問を論理的に理解して、その論理上で考えて解答するということが苦手なようなのだ。
文系か理系かという分類は、根本的にはあまり意味はないが、表面的にはかなり便利なジャンルわけである。しかしもっと煎じ詰めると、見かけ上の「文系/理系」にとらわれず、「論理的/感覚的」で区別する方がしっくり来る場合があるということだ。
そして技術的な現場では、論理よりも感覚でこなしていく方が、ずっと便利なこともあるようなのだ。これって、「理系」というより「職人肌」なんだろうなあ。だから昔から職人は、「技は盗んで覚えろ」と言って、教えたりはしなかった。というか、論理的に教えるノウハウをもたなかったんだろう。
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コメント
こんにちは。
結論のない議論であることは承知していますが、ちょっと入れてください。
私の結論からすると、理系人間とは、
最終的にはきちんと論理の上に乗った数式、図形、設計図を構築できる価値のあるアイディアを、言語を使わずに構築、洞察できる能力を持った人々です。たとえ、感覚的に一瞬で行われた思考のようなものでも、論理の上に乗っているかどうかは、ほぼその瞬間に本人はきちんとわかっています。
文系の場合は、最終的に厳格な論理の上に乗せられないアイディアを、言語を使わずに構築、洞察できる能力を持った人々ではないかと思います。
言語に変換できる能力は全く別物です。ここでもまた習熟や才能が関わってきます。
それと、文系と理系ですが、表面的どころが、非常に人間を分類するのに有力な手法です。私は、両者に合う機会が多少増えたのですが、大して違いはないと信じていた私にはその違いが衝撃でした。誤解を恐れずに言えば、そこそこ会話をして、普通だなと感じたらほぼ文系です。
投稿: fn.line | 2010年10月 9日 16:42
fn.line さん:
うぅん、よくわかりません。
あなたのコメントの修飾語を取り去って単純化すると、
理系とは、
論理の上に乗った 「数式、図形、設計図を構築できる価値のあるアイディアを、言語を使わずに構築、洞察できる」 (論理が 「てれこ」 にみえますが) 能力をもった人々
文系は
論理の上に乗せられないアイディアを、言語を使わずに構築、洞察できる能力を持った人々
要するにその違いは、「理系が取り扱うのは、論理の上に乗るアイデア」で、文系が取り扱うのは、「論理に乗らないアイデア」ということで、
共通点は、両方とも 「言語を使わない」 ということで、それを言語に変換するのは、別の次元の能力ということのように読み取れます。
それは納得できないです。
>そこそこ会話をして、普通だなと感じたらほぼ文系です。
これは例外が多すぎるテーゼだと思いますよ。
そもそも 「論理に乗らないアイデアを構築できる人」 を 「普通」 と感じられるわけですか?
投稿: tak | 2010年10月 9日 21:26
苦労して解読していただいたようで申し訳ない。寝起きはダメですね。
軽く補足します。
論理の中でも、展開方法や形態、正誤が非常に明快に決まるものと、そうでないものがあると思います。
高校レベルの数学と決めれば1+1は2ですし、化学反応も相当に決まったパターンで発生します。これは前者の論理です。
美しい絵画の構成や、経営判断などは、手堅い定番はあっても、前者の論理と比べれば、結論や展開方法の正誤判断を明確にできません。
文系理系の違いは、使う論理の種類の違いという感じになると思います。理系の人間が、前者の論理の範疇でそうなると判断した場合は、たとえ、言語化に時間がかかっていたとしても、正誤に問題はありません(もちろん、勘違いも有り)。言語化や数式化する前の判断(感覚)がとても重要です。実業務上には、色んな判断が混じってしまうので、ここで止めます。
あと、理系人間と文系人間の差ですが、どちらかに相当に突っ込んだ方々に対する印象でした。起業の研究者や大学教授などに会ったときの印象です。
重い補足になってすみません。
投稿: fn.line | 2010年10月10日 23:50
fn.line さん:
>高校レベルの数学と決めれば1+1は2ですし、化学反応も相当に決まったパターンで発生します。これは前者の論理です。
決まったパターン (「公理」 みたいなもの)を、人間が理解する仕方は、むしろ、感覚的なものといえます。
「大きい/小さい」 「離れている/接している」 などの判断は、ごちゃごちゃいうよりも、「認める」 しかないわけですから。
あなたは、こうした 「当然の感覚的事実」 に類した事項を称して 「言語化されない論理」 とおっしゃっているように思えます。
まあ、そのように名付けてもいいのですが、混乱を避けるためには、「論理展開の前提となる約束事」 と位置づける方がいいと、私は考えます。
あなたが
>言語化や数式化する前の判断(感覚)がとても重要です。
とおっしゃっているところと共通します。
「言語化や数式化」 する作業のことを 「論理の展開」 というのです。
そして数式も、広義の言語とみる方がすっきりします。
そして、その展開に矛盾がないこと (あるいは少なくとも、「矛盾を排しようとする態度」) を 「論理的」 といいます。
それは私が前日の記事で "「論理」 というのは 「言葉」 (広義の 「言語」 も含む) を通じて語られるもの" と書いている通りです。
>文系理系の違いは、使う論理の種類の違いという感じになると思います。
お言葉ですが、文系だろうが理系だろうが、論理には基本的な差はありません。
論理とは、A=B か、そうでないか、B=C か、そうでないか …… の判断を矛盾なく積み重ね、組み合わせて結論を導く展開ですから。
例えば論理学の基本である 「三段論法」 に、文系と理系の違いはありません。同じメソッドです。
厳密か曖昧かの 「程度の違い」 はあるにしても、文系と理系の論理が基本的に違うということになったら、学問は成立しません。
物理学だって、突き詰めると 「不確定性原理」 にたどり着きます。
経営判断なども、色々な可能性の中から確率論などを駆使して集約していく論理性が求められます。そこに文系も理系もありません。
あなたは多分、多くの経営者にみられるように、途中で 「論理的展開」 から 「えいやっ」 とばかりに 「直感的判断」 にジャンプしてしまう傾向のことを 「文系の論理」 と称しているのではありませんか。
しかし、それはもはや 「論理」 ではなく 「直観」 の領域ですから、この 2つは、区別して考える必要があります。
あるいは、論理よりも 「好き嫌い」 が優先する判断は、「感情的判断」 です。これも、論理とは区別して考えなければなりません。
それが 「論理的思考」 ということです。
>あと、理系人間と文系人間の差ですが、どちらかに相当に突っ込んだ方々に対する印象でした。起業の研究者や大学教授などに会ったときの印象です。
あなたが受けた 「印象」 に関しては、論理の範疇で語るにふさわしくない問題ですので、ここでは 「ああ、そうですか」 としかいえません。
投稿: tak | 2010年10月11日 14:29
2012.3.12で連続3000日ということ、おめでとうございます。いつも(ほぼ毎日)ブログを拝見させていただいております。
わたしはみかんの国に住むアラサーであります。
大分時期遅れですが、理系と文系は違いがあるという命題を得て、それについて約1年半考えました。といっても常にではなく意識下においていたのですが、私の考えが整理できたのでご報告したく、今回コメントしました。以下の長文、ご自由にお取り計らい下さいませ。
tak氏は、チョー文系だと思った。なぜなら自分の考えを感情と共に述べているからである。
文系は自分がどう事象に関して感じているかを(言語にて)表現するのが文系だと思う。こういうことが起こって感動した、嫌だ、好きだ、と自分がどう思ったのかが主である。
方や、理系は、膨大な情報をまとまりをつけて扱い、それを記号(言語)で表す。またそのまとまりをパターン性があるかを分析する。ある法則に則ったまとまりで扱うのだから判断が早い。 パターン性を見出すのには感情は不要である。ありのままの事象を認識する。
生活していくためにはこの文系、理系どちらの能力も必要だと思う。つまり、文系はコミュニケーション力で、理系は自然などの事象とうまくつきあうため機能すると考えた。
いかかでしょうか。あくまでも私の考えですが、私はこれにえらく満足しています。
こういう私は多分理系のほうが多いのかもしれないと感じております。
いつもいつもダイレクトな考えを文章で提供してくださってありがとうございます。私にはこのブログの内容が、いつも、とんとふところに来る。とんとくる、普段触れることのない人の考えに触れることができるのは幸せです^^これからも覗きに来ますことをお許しくださいませ。
以上
投稿: KAMI | 2012年3月13日 18:22
KAMI さん:
>2012.3.12で連続3000日ということ、おめでとうございます。
ありがとうございます。
>tak氏は、チョー文系だと思った。なぜなら自分の考えを感情と共に述べているからである。
私は考えを述べるのにできるだけ感情を除外するように勤めているつもりです。
言い換えると、好き嫌いの要素を必要以上に交えて結論まで導くということは、まったくないとは言えないかもしれませんが、非常に少ないと自負しています。
もし私が感情的な判断に陥っているとしか思われない記事がありましたら、指摘してください。
反省の材料としますから。
あるいは、「感情」 ということの定義が私と貴方とでは異なっているのかもしれません。
私はユングの心理学での「性格タイプ」に沿った定義をしています。
http://miztools.so.land.to/js-tools/diag/Jung.html
このあたりは、「感情」 というものを漠然と捉えるタイプの人よりも、ずっと論理的だと思っています。
そもそも、私がこの記事で論じているのは、「文系/理系」という分類は甚だ表面的なもので、深く掘り下げれば 「論理的/感覚的」の分類の方が的確なのではないかということです。
「論理的/感覚的」 のそれぞれが、文系と理系という見かけで現れているということです。
本文にも書いたとおり、「感覚的理系」 の人は、論理的説明が下手で、文系の私が 「イエスかノーか」 の質問を積み重ねて、それにやっと答えることで理論を説明できる。
このケースでは、「論理的文系」 の私の方が、ずっと論理的です。
その辺りが、コメント欄を読む限り、あまりよく通じていないのではないかという気がしますが、それは私の文章力の限界なのかもしれません。
改めて論じてみる必要があるかもしれません。
投稿: tak | 2012年3月13日 22:55
お、以前のものが発掘されていますね。そういえば、先日こんな記事を読んだことを思い出しました。takさんがおっしゃっていることと、かなり重なるけど違う面もあり、という感じかな。
http://www.mammo.tv/interview/archives/no301.html
投稿: 山辺響 | 2012年3月14日 10:04
山辺響 さん:
おもしろいページをご紹介頂きまして、感謝です。
>理系と文系というのは、あまりいい分類ではないと思っています。冗談で言えば、現実系と妄想系にわけてみるといいんじゃないでしょうか。
>
>現実系には法学や経済、物理、化学がある。一方の妄想系には情緒派と論理派があって、妄想系情緒派なら文学や芸術に。妄想系論理派だと哲学や数学へ行く。
これ、おもしろいですね。
こうした分類をつきつめると、ユングの性格判断は、かなり納得いくところがあります。
「論理・感情・感覚・直観」の4つの要素を、それぞれ「外向的/内向的」に分けているのですが、実際の人間の性格をかなりよく説明できます。
投稿: tak | 2012年3月14日 13:42
3.13にコメントしたKAMIです。いつも見ているtak氏からの返信は、話の筋がわかっていないということを示唆されていようが大変うれしいものでしたから、今回指示のあった件についてきちんと考えお答えしたいと思い再度コメントした次第です。
以下、何故感情と共に述べていると表現したのか、本記事の論理的/感覚的についての私の意見をまとめました。
1つ目は、このブログは、色々なことに関するtak氏を通した文章であるので、これに感情を感じられないわけがないことを''感情と共に''と表現しました。
ブログに書かれている全体から趣向が漂ってきます。小さいこと(毎日の記事)が集まりまとまりになると形ができます。
感情のない文章は味気のないものになってしまいます。私が思う味気のない文章とは、法律の文章です。
2つ目について、文系/理系は甚だ表面的なもので、深く掘り下げると、論理的/感覚的の分類の方が的確というtak氏の見解と同意見です。
論理的になるためには、焦点を絞ることが一番であると結論づけます。
範囲を狭めることで明確になりなおかつ、人と向き合うことに焦点を当てることで人に分かりやすく説明することが可能になると思います。
職人さんの見て覚えるということについての私の結論は、マニュアルの膨大な言葉の情報より、洗練された形(範囲を狭める)は、それに関することを短縮化してくれるということです。
ちなみに、示されていたユングの心理学に基づいた性格診断は、外交的思考タイプ8点、外交的直観タイプ7点、次に外交的感覚3点という順に特点が大きいという結果でした。自分では内向的と思っていますのでびっくりしました。しかし振り帰ると納得です。これを文章にするまでに3日以上要しましたので(17日から書き始めました)!毎日これだけの記事を書けるtak氏は、文章力がすばらしいです。
春めいて いろんな色の ことりちゃん よきにはたらけ あれこれと
以上
投稿: KAMI | 2012年3月21日 04:38
KAMI さん:
コメントが 2度送られていましたので、1つ削除して整理しました。
>このブログは、色々なことに関するtak氏を通した文章であるので、これに感情を感じられないわけがないことを''感情と共に''と表現しました。
私としては、「感情」 というよりも、「私なりの視点」 というものだと思っています。
まあ、広い意味で 「心の動き」 まで 「感情」 と言ってしまえばそれでもいいのかもしれませんが、あくまでも 「感情的」 にはなりたくないと思っていますので、よろしく。
>感情のない文章は味気のないものになってしまいます。私が思う味気のない文章とは、法律の文章です。
法律の条文は、可能な限り客観的に書かれるべきものでしょうから、あまり 「味気」 がありすぎても問題だと思いますが、「日本一シュールな法律条文」 (「公選法 第141条の3)みたいなのは困りますね ^^;)
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2007/04/post_9d70.html
>範囲を狭めることで明確になりなおかつ、人と向き合うことに焦点を当てることで人に分かりやすく説明することが可能になると思います。
私としては、論理的であることに 「人と向き合うこと」 は必須ではないと思います。人と向き合おうが、そうでなかろうが、論理の筋道は変わりません。
人と向き合って説明する時には、時折、論理以外の要素も加えたメタファーを使うことがあります。
そのメタファーが、「その人なりの視点」 ということになるんでしょうが。
>職人さんの見て覚えるということについての私の結論は、マニュアルの膨大な言葉の情報より、洗練された形(範囲を狭める)は、それに関することを短縮化してくれるということです。
確かにそうではありますが、それを弟子に伝承する場合、最初のとっかかりだけでも論理的に説明できれば、「見て覚える」 ための時間がものすごく短縮されます。
最近の親方は、言葉で教えるというメソッドも取り入れている人が多く、そうした親方の弟子は、平均点が高いように見受けられます。
それ以上のことになると、もう 「職人技の神秘」 というような世界ですが、その入り口に達するまでの無駄な苦労を軽減するのが、ある程度の論理的説明だと思います。
投稿: tak | 2012年3月21日 13:23
tak氏は、論理的になるのは、人と向き合うことは必要条件ではないと思うということでした。それでしたら、論理的になるのに必要条件は、考えることで収まりがつきました。人と向き合うのに必要なのはどう関り合うのか考えること。人と向き合うのは、自分の経験にいろいろ当てはめ(範囲を狭め)理解しようとすることと思います。考えるというトリガを入れいると焦点も絞められ理解できるかもしれない。
内向的な私でして、人と関わることがおっくうになることがしばしば生じるので、人との関りについて、日ごろ何となく考えております。
最近、固定概念なく(=大きさなどにとらわれず)人と認識できたならば、案外すらすら読めて対処できるかもしれないと思いいたりました。それには集中して形を認識する。それには、きちんと向き合い自分で経験し(=体感し)、かつ経験を生かすことが必要であると思いました。そうすることで、対処できるのでは?、と考えました。
しかし、物事は、ぼけーとしていたら見落としてしまいがちで、もし形を認識していなかったら全く違う写像の部分に焦点を当ててしまう。私は、ぼけーとすることが執拗に好きなので気を注入するとを増やさないと!、と思います、あまりにも、ぼけーとして考えなければバカになってしまう。
職人さんの弟子の優秀度は、親方がうまく考えを誘導するのが上手で、自分で考えられる力がついた弟子は優秀であると思います。
私の文系/理系の最終結論は、認識するその感覚(形)の大きさで分かれるです。
内(自分)に向かっているか、外(自然)に向かっているか。
1~0の間は無限です。また1~100、100~1000・・・と無限であるので、どちらも奥が深い。くくりはいろいろ考えられます。
こんなんでましたけど☆★☆うぅむ仏教の世界のようだ。
法律に関して添付してくださっていたものに関し、じっくり読んで考えている最中です。
人との関りは、考えるきっかけとなり大変ありがたいものです。
内向的な私は、外と交わりたいという欲求があるのでしょうね^^
投稿: KAMI | 2012年3月30日 08:31
KAMI さん:
前回同様、同じコメントが 2度送られていましたので、1つ削除して整理しました。
>tak氏は、論理的になるのは、人と向き合うことは必要条件ではないと思うということでした。
前のコメントにも書きましたが、「人と向き合おうが、そうでなかろうが、論理の筋道は変わりません」ということです。
自分自身に向き合っている時と、A さんに向き合っている時と、B さんに向き合っている時とで、論理が違うということはありません。
違ってしまうとすれば、それはもはや論理ではなくて、「人による好きずき = 感情論」 とか 「方便」 とかいうものです。
同様に、他人をどう認識するかによって論理が変わってくるということもありません。論理は人によって変わるという部分を排除しているからこそ論理なのです。
ですから、思いっきり内向的になっても、十分に論理的であることはできるはずです。
同様に、思いっきり内向的になって、錯覚によって論理がめちゃくちゃに壊れるということもあり得ます。
それは、思いっきり外向的になっても同じことです。
内向的か外向的かによって、論理が変わるということもあってはならないからです。
論理というのは、論理的筋道を踏み外さない限り論理であり得ます。筋道を踏み外したか、踏み外さなかったかという検証は、外向的だろうが内向的だろうが、変わらずにできるはずです。
論理的でありさえすれば。
ただ論理的であるためには、本当にきちんと論理以外のファクターを排除して考える必要があります。人間はいろいろな感情的要素さえも論理と勘違いしてしまうことがありますので、慎重である必要があります。
ただ私個人は、それほどまでして徹底的に論理的であっても、その見返りは馬鹿馬鹿しいほど小さいので、「論理をすっ飛ばしている」 という自覚を十分に持ちながら、最終的には直観の方を採用する傾向があります。
ただ、私自身が 「最後まで論理的であるということはあまりない」 という判断に関しては、十分に論理的結論だと思っています。
投稿: tak | 2012年3月31日 23:34