このところのホメオパシーの一方的な叩かれ方を見るにつけ、なんとなく割り切れない思いがしていた。寄ってたかって 100%インチキみたいに言う世の論調には割り切れない思いがするし、かといって、完全擁護する気にも到底なれない。それに下手なことを書いたら、この趨勢だからブログが炎上しかねない。
こちらは専門知識はないし、試してみたこともないから、当然ながらそれで病気が治ったという経験もない。しかし「ホメオパシーの元々のコンセプトって、予防注射とか、『酒が弱くても、どんどん呑みゃ強くなる』とかいうのと、それほど遠くないんじゃないの?」という私の疑念は強まるばかりだった。、
そんなわけで本当にうじうじしていたのだが、今日、この問題に関してとてもクールに答えてくれているブログ記事が見つかって、それを読んで、私の割り切れない思いがかなり割り切れてしまったのである。それは「安敦誌」というブログの「ホメオパシーについて」という記事だ。
万が一先方に迷惑がかかってしまってはいけないので、一応お断りしておくが、安敦さんはホメオパシーを礼賛しているわけでもなんでもない。「現代のホメオパシーは怪しい雰囲気が満点なのだが、本来はそんなに怪しい考え方ではなかったのではないか」という観点から、非常にクールな見解を述べておられるだけである。
何しろ書き出しが 「しばらく掛かったが、ようやく書く気が起きたネタ」となっているぐらいだから、熟慮に熟慮を重ねた結果の記事と思っていいだろう。それだけに「ホメオパシーは 100%ニセ科学、インチキ!」という考えから少し間をおいて読めば、とても納得しやすい。
なお、ここからは安敦さんの文章からの引用をちりばめて論を展開するが、引用は部分的なものなので、そこだけを取り上げて曲解することのないようにお願いしたい。詳細は、上述のオリジナル記事に飛んで読むことをオススメする。
論の前提としてまず、18世紀末に天然痘ワクチンが開発され、「弱毒化した病原体を健康体の人間に接種することにより、病原性の細菌による感染症に対する防疫を事前に行う」 というコンセプトが成功を収めたという歴史的事例があり、その上で 19世紀初めに、ハーネマンによる 「弱毒投与」 が提唱されたという経緯がある。
当時はまだパスツールによって病原体としての微生物が発見される前だったので、「天然痘に似ているが病原性の少ない病気にかかることで、人体に天然痘に対する抵抗力が生まれる」 という現象面しか分かっていなかった。
(中略)
天然痘以外にもこの拡張されたワクチンの考え方を実験してみようとした医師が現れたとしても自然な流れであるし、この当時としては決して 「トンデモ」 系の発想ではなかったのだろうということがわかる。
発想自体は決して 「トンデモ」 系というわけではなかったということに注目したい。免疫という事実からの発展型アイデアである。また重金属などは別だが、いろいろな毒性に対する耐性が、少しずつ摂取することで強まることがあるのは、経験的にも知られている。酒もどんどん呑みゃ、少しは強くなるみたいなことだ。
しかし、このハーネマンの 「弱毒投与」 は、ワクチンほどには劇的な効果がなかったので、次第に医学の本流から外れ、ホメオパシーという民間療法として、非科学的な方向に発展を遂げてしまった。それについては、安敦さんも次のように指摘している。
本来的に考えれば、ホメオパシーというのは健康な人間が予防的に取り組むべき医療だったはずだが、現代日本で観察されるホメオパシーの実践方法によると、
熱が出てからレメディを飲んで 「治療」 したり、生まれたばかりで一番弱いはずの新生児にビタミンの代わりにレメディを飲ませたりして、理屈からしても妙な
ことになっている。
考慮すべきことは、ほとんど全ての療法には「トレードオフ」があるということだ。いいこともあるが、それにともなって少しは不都合なことも生じるが、まあ、全体として改善すればいいので、少々の不都合には目をつむろうということだ。「あちら立てればこちらが立たず」だが、まあ、この際だからあっちの方を立てることを優先しようってなもんである。
酒に強くなりたくて意識して呑み続ければ、少しは効果があるだろうが、肝臓は少しずつダメージを被るというようなものだ。さらに西洋医学にだって副作用ってものがある。このことを踏まえ、安敦さんは以下のように指摘されている。
一般市民の中にはトレードオフの考え方がなく、白か黒かの極端な判断をしてしまって問題をこじらせているようにも見える。そういう一般知識に近い人々によって運用されているだろう療法が現代のホメオパシーで、そのためにいろいろな問題が発生しているように見える。
こう指摘した上で、次のように書かれている。
善か悪か、真実か虚偽か。そういう白黒判断は強力な道具で、複雑なトレードオフを吟味すると、結果的には単なる優柔不断に陥ってしまう場合もある。それでもやはり、キレの良すぎる一刀両断の意見には、いつも違和感を持ってしまう。
この「違和感」は、私がいろいろな問題で感じるのとかなり近いような気がするのである。私は病気が治りさえすれば、西洋医学だろうが、漢方だろうが、鍼灸だろうが、ホメオパシーだろうが、まじないだろうが、何でもいいという考え方である。世の中には、まじないで病気が治ってしまったという人だっている。要は結果オーライだ。
そう言いっぱなしだと炎上しかねないので、念のため「病気が治りさえすれば」という前提を強調しておきたい。治らなかったり、かえって悪化したりしたら、そりゃやっぱり困るので。
ホメオパシーやまじないは、最初に頼る療法としては考えない方がいいだろうが、あらゆる手を尽くしても治らずに医者にも見放された不治の病人が、最後の最後にまじないやホメオパシーに頼りたいと言ったら、無理に止める理由はない。多分それでも治らないだろうし、死期を早めることにもなるだろうが、心安らかに死ぬことはできるかもしれない。
そして、もしかして奇跡的にそれで治ったとしても、他の人にまでは薦めない方がいいとまで、念のために言っておく。
【追記】
なんか、あちこちで繰り返し書かれている現代科学の視点からの見解をコメントで教示してくださる親切な方がいらっしゃるので、上記の本文で書き足りなかったことを補足しておきたい。
私としては、あんまり当たり前すぎることなのであえて触れなかったのだが、やっぱり一応触れておかないと、私自身が無知なホメオパシー信者という誤解を受けてしまいかねないので、恐縮だが、長々と追記させていただく。
上記で「病気が治りさえすれば」ホメオパシーでもまじないでもいいと書いたが、いくら私でも、もし治ったとしてもそれはプラシーボであって、まじないやホメオパシーそのものの効果ではないということぐらいわかっているので、ご安心いただきたい。
現代科学の見解でも 「ホメオパシーにはプラシーボ以上の効果はない」とわかっている。しかし、それは逆に言えば「プラシーボ程度の効果はあるかも」ということで、プラシーボで病気が治ることもあるということは、現代医学も否定していない。
しかしだからといって、そのプラシーボ効果に積極的に期待してもしょうがないということも、またホメオパシーにはプラシーボ効果以上の危険性もあるということもちゃんと理解しているので、さらにご安心いただきたい。だから、馬鹿なホメオパシー信者に、現代科学の見解を基礎から教えてやろうなんて親切心は無用である。
いくらなんでもそのくらいの基本事項はおさえておかないと、ホメオパシーに関する記事なんて、怖くて書けない。それを無視してノー天気な「ニセ科学批判批判」記事を書いてしまうほど、エキセントリックというわけじゃない。
この記事では、それほど「トンデモ」系ではなかったと思われるホメオパシーの初期のコンセプトは、ずいぶんいびつで不幸な形で発展してしまったのではないか、むしろ、別の発展の仕方をすべきだったんじゃなかろうかということを読みとっていただければ幸いだ。それは、現代の 「免疫学」 とかなりかぶってしまうことになる可能性が大きいと思うが、それ以上の広がりも期待できると思う。
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