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2010年11月に作成された投稿

2010年11月30日

小沢氏の「地方から反乱」発言

「一兵卒」の小沢一郎氏が菅政権について「もうしょうがない」と匙を投げ、「地方から反乱が起こり、民主党政権は根っこから崩れてしまう」と述べたことが話題になっている。さらに、ねじれ国会に関連して「民主党も人材難だが、同じ人材難の自民党に助けられている」とも語っている(参照)。

民主党が地方レベルでガタガタになっていることに関して私は、先月 25日の 「民主党、早くもボロボロ状態?」という記事と、今月 18日の「 民主党、もう本当にガタガタ」という記事で、短期間のうちに 2度触れている。両方とも、地方レベルで党員の離反が目立っているということだ。

毎日新聞によると、前回の総選挙のマニフェストで小沢氏は地方重視の方針を打ち出してきたが、「菅政権が財政再建を重視する立場から修正を図っていることが、地方選敗北の一因」との見方を示しているという(参照)。小沢さんらしい見方だ。「地方にどんどん金を落とすぞ」という方針が一転されたから、地方が離れていくというわけだ。

しかし、本当にそうだろうか? 問題はより深いところにあるのではなかろうか。「この国のあり方」という次元の問題で、民主党員自身が「民主党は日本をおかしくしてしまう」という危機感を持ち始めたというのが本当のところのような気がするのである。そしてその認識は国民一般にも広がっているので、選挙で勝てないというのが直接の致命傷だ。

今のところは地方選での敗北が連続しているが、今総選挙になったら同じ結果になる。民主党は惨敗してしまうだろう。それだけに、小沢氏はまたぞろ政界再編成に動き出したくてたまらないのだろうと思う。「同じ人材難の自民党に助けられている」という発言は、それを示しているのだろう。

 

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2010年11月29日

「ふからはらぎ」という庄内弁の超難解単語

庄内弁はもろにネイティブ同士で話したら、庄内以外の人たちにはまるで外国語のように聞こえる。前に飛行機で鹿児島空港に向かうとき、隣に鹿児島県民らしいじいさん 2人(雰囲気からすると、どうやら兄弟であるらしい)が座り、もろに鹿児島弁でしゃべり出したが、ほとんど一言も理解できなかった。あんなようなものなのだろう。

20年近く前に妻の実家(仙台)を訪問した時、夜のテレビ番組で方言クイズがあった。ちょうどその日は庄内弁のクイズにあたっていて、平田町(現在は酒田市)のばあさん 2人がものすごくディープな庄内弁で話している映像が映し出された。

「でって、まんず、おらいのまごだばべんきょさねぐで、でぎわりぐで、こまたもんだなだでば」
「あいや~、いもんだぁ、おらいんなぁて、あんだなで、でがぐさはらっだなだもんだし」

なんてなことを話している。日本語に翻訳すると、次のようになる。

「ところで、まず、我が家の孫ときたら、勉強しなくて、できが悪くて、困ったものなのよ」
「まあ、いいわよ。うちのだって、あの程度で大学に入れたんだから」

てなことなのだが、私にはすらすらと理解できるこのやりとりを、妻の家族は全然理解できず、目が点になっている。「外国語よりわからない。どうして同じ東北なのに、こんなにわからないんだ?」という。同じ東北で、しかも緯度も大体同じぐらいなのに、日本海側と太平洋側とでは、かくまで文化圏が違うのだ。

そうするうちに、平田町のばあさんは大きな声で次のように頼んだ。

「おとちゃん、ふからはらぎ」

要するに奥の間にいるじいさんに、「ふからはらぎ」 なるものをもってきてくれと頼んだのである。奥の間からはじいさんの「あいよ~」という声が聞こえ、ここで画面はストップした。さて、問題である。庄内弁の「ふからはらぎ」とは一体何なのか。

ここで私はあせった。庄内弁バリバリのこの私も、「ふからはらぎ」なる言葉は聞いたことがなかったのである。こんな難解すぎる庄内弁の単語をクイズにするなんて、この番組のスタッフ、意地が悪すぎる。

そこで急遽、酒田に電話してみると、今は亡き母が出た。そこで「のうのう、『ふからはらぎ』って、何だがわがっが?」(ねえねえ、「ふからはらぎ」って、何だかわかる?)と聞くと、母はあっさりと、「わがる~、灰皿だんでろ~」(わかるよ、はいざらでしょ)という。

果たして、クイズの答えは「灰皿」で正解だった。さすが庄内弁のディープさでは、私はまったく母に敵う者ではなかった。

「ふからはらぎ」とは、多分「吸い殻払い」あるいは 「吸い殻はたき」の訛りだろう。庄内弁では掃除に使う「はたき」を「はらぎ」という。私はこうして、30歳をとっくに過ぎた頃に「ふからはらぎ」という超ディープな庄内弁の単語を知ったのであった。

後で父に聞いたら「ふからはらぎ」には「すからはらぎ」というバージョンもあるらしい。こちらの方が「吸い殻はたき」というオリジナルに近い。平田町のばあさんの方が、ずっとディープだということである。

 

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2010年11月28日

庄内では雪が降ったらしい

Twitter で庄内在住の人たちの tweet をみると、今日の酒田は雪が舞ったようだ。もう冬である。冬の日本海側は、見るからに重たそうな雲にどんよりと覆われてしまう。

私は酒田で生まれ、18歳の春まで酒田で暮らした。大学に入って上京したが、その年の半分以上は大学紛争でロックアウトされ、大学の授業なんてなかった。だからほとんどアルバイトして暮らしていた。夏になって 19歳の誕生日を迎え、秋が過ぎても冬になったとは気付かなかった。

これは既に何度か書いたことだが、クリスマスの頃になってようやく、「冬なのに、どうしてこんなに天気がいいんだ?」と思った。周囲の人間は 「冬に天気がいいのは当たり前」と言う。それが当たり前だと思う感性が、私にはあまりにも傲慢に思われた。

正月前に急行列車で 9時間かかって帰郷し、旧友達と夜中まで飲み歩いた。狭い飲み屋でギターをかき鳴らしてブルースを歌い、一歩外に出ると、そこは地吹雪の世界だった。体中真っ白になって家に帰り、冷え切った浴室に入って湯船に飛び込むまでは命がけだった。

正月が終わって再び東京に出ると、そこはまぶしいほどの冬晴れ。「こりゃ、関東暮らしは止められんわ」と思った。ところが今、あの地吹雪が妙になつかしい。冬に帰郷して地吹雪に見舞われると、「これこれ、これですよ」なんて、嬉しくなってしまう自分がいる。

 

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2010年11月27日

海老蔵のこと

海老蔵が誰だか知らないが荒っぽいやつらにボコボコにされてしまった件で、私は昨日 Twitter で 「海老蔵は役者っ振りはいいが、頭が悪い」 と tweet したのだが、それがどういうわけだか消えてしまっている。(注) Twitter というのは、よくこういうことがあるらしく、私のところでもついに生じてしまった。

消えてしまったのは、細かい点は多少違うかも知れないが、こんなふうな tweet だったはずである。

海老蔵は役者っ振りはいいが、頭が悪いというようなことを、前にもどこかで書いたような気がしていたが、ググっても検索されない。もしかしたら、人の悪口だから控えていたのかもしれないが、こんなことだったら、ちゃんと書いておけばよかった。

まあ、人の悪口だから消えてしまって幸いなのかもしれないが、こんな風にブログで再現してしまっているのだから、我ながらしょうがない。

海老蔵はやたら酒癖が悪いらしく、酔っぱらうと「俺は人間国宝だから、国から 60(歳)まで 2億もらえる!」 なんてことを吹きまくる癖があったと暴露されている(参照)。で、この 「人間国宝だから国から 2億円もらえる」なんてことを本気で信じてしまっている人が、ブログの世界では何人もいるようで、私は驚いてしまった。

歌舞伎ファンとしては、それではいくら何でも困る。ちょっと本当のところを書いておかなければならない。

海老蔵は人間国宝なんかじゃない。親父の団十郎だってなってないのに、30歳を過ぎたばかりの若造が、いくらちょっとばかり役者っぷりがいいといっても、あんなぺえぺえで人間国宝になれるわけがないじゃないか。それに、今回の不祥事で永遠に人間国宝になれなくなったかもしれないし。

それから 「2億円もらえる」なんていうのもでたらめだ。そんなんだったら、人間国宝指定がどえらい利権ビジネスになってしまう。全然金をもらえないわけではないが、実際には、年額 200万円の特別助成金が交付されるだけである。

こんな程度の金は、伝統芸能の世界でははした金である。『藤娘』を一度踊るにも足りない。だから、人間国宝は、直接的にはそんなにもうかる商売じゃない。どっかのペットボトル入りのお茶の CM をしている方がずっと儲かる。しかしその CM もお蔵入りだろう。

海老蔵の親父の団十郎はくそ真面目で有名だが、歌舞伎役者は当然ながら、そんなに堅物ばかりじゃない。今の菊五郎(彼は正真正銘の人間国宝)みたいな、若い頃は相当な遊び人というか、不良だったというか、そんな人間もいるが、今の海老蔵みたいにまともな遊び方を知らないで無茶をするやつは相当に珍しい。

海老蔵は当分謹慎すべきだろう。性根を入れ替えて復帰するまでは、1年やそこらでは足りないと思う。

(注) 消えたと思った tweet がいつの間にか復活していた。オリジナルは、最後にちゃんと励ましの言葉が付いていた (参照)。

 

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2010年11月26日

Do you care for coffee, or tea?

今日は業界の某国際会議に出席させられて、ディナーまで付き合い、今から帰るところである。このところ忙しくて、呑気な国際会議なんかに付き合ってる暇はないので、申し訳ないが、会議中にもノート PC 広げて、内職しまくりさせていただいた。帰宅したら風呂に入って寝るだけにしたいので、今日の更新は軽い話題でさくっと終わらせて頂きたい。

で、コーヒーと紅茶の話題である。どっちが好きかというようなことじゃない。米国のオフィスを訪問して、秘書のおねえちゃんに "Do you care for coffee, or tea?" (コーヒーにしますか? 紅茶にしますか?)と聞かれても、"Tea, please." (紅茶お願いします) なんて言っちゃいけないということだ。

大抵の米国のオフィスでは、コーヒーメーカーにいつでもたっぷりのコーヒーが用意されているが、紅茶を入れる設備なんかない。だから、紅茶なんか所望してしまったら、秘書のおねえさんは心の中で舌打ちしながら「ちっ、面倒なことを言う客だわ」と思うに違いないのである。で、多分嫌われてしまうのである。

だったら、初めからコーヒーか紅茶かなんて、聞かなければいいではないかということになるのだが、彼らとしては、一応カッコ付けて聞いておきたいのである。聞いても米国人の 90%以上は "Coffee, please" というに決まっているので、安心してそう聞くのである。

日本人は日本の空気は読めても米国の空気は読めないので、軽い気持ちで紅茶なんか頼んでしまうが、米国ではコーヒーを飲むことにしておく方がいい。その方が何かとスムーズに事が運ぶ。

なんだか、昨日のエントリーとは矛盾するようなことを書いてしまった気がするが、結果オーライならいいのである。

 

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2010年11月25日

「いいえ」と言えない日本人

「千日ブログ」のキロさんが「いいえといえるドイツ人」というタイトルの記事を書いておられる。"『本質か、現象か』、何を信じるのか? 「いいえ」 を教えるドイツ" という日経ビジネスオンラインの和田智さんという方の記事を元にしたものだ。

ドイツでの学校では "Nein Sagen"(ナイン・ザーゲン)という授業があるという。 直訳すると「いいえ、と言おう」「違う、と言おう」という意味だそうで、どんな授業かというと、次のように説明されている。

生徒1人ひとりがみんなの前で、先生に言われたことに対して「いいえ、そう思いません」と答えなくてはいけない。そう答えるだけなら簡単ですが「なぜそう思わないのか」を説明できなくてはいけないという授業なのだそうです。

日本的発想ではあり得ない授業である。日本では基本的に、教師の言うことに「いいえ」「違う」と言ってはならないことになっている。「はい」という子がいい子で、「いいえ」という子は悪い子なのだ。そうした空気のおかげで、私は子供の頃からどんなにストレスを感じていたことか。

私は小学校の頃から教師に向かって「そりゃ違う」というようなことばかり言う子供で、しかもいつもきちんと教師を言い負かしていた。そのために通信簿の左側の学業欄はオール 5に近かったが、右側の「素行欄」の評価はひどいものだった。しかしもし私がドイツに生まれていたら、学業も素行も優等生になっていたかもしれない。

ただ、この授業はドイツ国内でも、必ずしも歓迎されているとは限らないようだ。和田智さんの記事でも、この授業が始まって以来、「(ドイツ人の友人の)奥さんが、小学1年生の娘が最近言うことを聞かなくなって困ると嘆いていました」とある。

なるほど、ドイツ人は何でもかんでも「いいえ」ということには抵抗があるのかもしれない。私のヨーロッパ人との付き合いは非常に限定的なものなので、単なる思い込みに過ぎないかもしれないが、ドイツ人というのは案外素直である。フランス人ほどなんでもかんでも「私はそうは思わない」というような、かわいげのない反応はしない。

フランス人といっても、とくにパリの人間にその傾向が強いという印象があるのだが、連中は「自分は安易に他人に迎合するような人間じゃない」と示すだけのために、ことさらしょっちゅう「私はそうは思わない」と言っているんじゃないかと思うことがある

小学校の頃から教師に「そりゃ違う」と噛みついてばかりいた私がうっとうしいと思うほどだから、フランス人の自己主張はものすごくしつこい。なにしろ、どうでもいいことに妙にこだわるので、こちらとしては疲れてしまうのである。

「そんなどうでもいいことで議論なんかしたくない」と思っても、相手はしぶとく食らいついてきたりする。あまりうっとうしいから、こちらとしてはいい加減に「はいはい、あんたの主張はよくわかったよ」と言うと、相手は議論に勝ったようなつもりになっている。連中、案外単純なところもあるのだ。

ドイツ人は、そこまでなんでもかんでも余計な自己主張をしたがるところはないと思う。だからこそ、隣国の押しの強いフランス人に負けないためにも "Nein Sagen" の授業で鍛えているのかも知れないが。(日本も隣国に一方的な「配慮」ばかりしなくて済むように、少しは鍛えなければならないかもしれない)

ここで和田さんの記事に戻るが、和田さんは日本人としての自分の特性に立ち返り、「できるだけ相手の意見に耳を傾けようという謙虚さ、優しさ」という、フランスやドイツの教育とは正反対の態度を「日本が誇るべき感性」と言っている。

しかしその一方で、「本来素晴らしいものであるはずのこの感覚が、今の日本の社会におけるこころの問題になっている」と指摘する。現代の日本人は「空気を読む」ようにばかり教育された結果、「現象」しか見えにくくなっていると言う。

「現象とは個人主義が明確にある環境であればあるほど起こりにくく、人に同調しやすい環境ほど起こりやすい」もので、一方、自分の考えを簡単に曲げないドイツでは、「本質」にアプローチしやすいというような指摘をされている。

これ、「一体どういう意味じゃ?」と言いたくなるような、ちょっと飛躍的な論理だが、和田さんはご自身の専門であるデザインということに関して論究していることがわかると、「ああ、なるほど」と思う。

付和雷同的で流行に弱く、ちょっとしたことにすぐにみんなで飛びつく日本人は、現象に振り回されやすいので、日本のデザインは一過性であることが多い。しかしドイツのデザインは「何年、何十年経っても色褪せない」重厚で本質的なデザインが多いと、和田さんは指摘する。

なるほど、デザインの切り口からみれば、確かにそうしたことは言えるだろうと思う。しかし、私はこれにはちょっと異を唱えてみたくなった。なにしろ私は庄内人であり、庄内人は日本で一番「ノー」と言える人種なのである (参照)。

日本のデザインの良さは「重厚」とか、これ見よがしな「本質」とかいうのとは違うのではないかと、私は思うのだ。ある意味、日本の良さは「軽さ」である。「軽さ」の中に「深み」を発見すると、「わび・さび」になったりする。あまり強烈に「本質に関する自己主張」をしない深みなのだ。

日本人は、本質的なことに単刀直入に切り込むことをあまりよしとしない。それは下手すると「野暮」になってしまうと知っているから、できるだけ本質の周りの現象に頓着しようとする。周りのことばかり言って、本質はなるべく知らんぷりする。これが世阿弥の言う「秘すれば花」ということである。

いくら秘してもその秘し方が上手だと、本質はじわりと微妙に伝わるのだ。得も言われぬほど微妙で、単純な左脳の細胞には本質だかなんだかわからないほどなので、「幽玄」というのである。

で、大切なのは「上手に知らんぷりする」ということなのだが、困ったことに最近は、「本当に知らないだけ」ということが多くなっている。日本人は長らく知らんぷりしすぎたせいで、本当に大事なことを忘れてしまいつつあるのかもしれない。

 

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2010年11月24日

キリスト教なのに 「ウェストミンスター寺院」 とはこれ如何に?

英国のウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚は、来年 4月 29日にロンドンのウェストミンスター寺院で行われると発表された。おめでたいことである。私なんかがどうこう言っても仕方ないことだが、ここでお祝い申し上げる。

で、今日の話題は非常に細かいことで、ウェストミンスター寺院はキリスト教の施設なのに、どうして「寺院」というのかということである。こういうことになると、どうでもよさそうなことが気にかかるというのは、私の業のようなものなので、ちょっとお付き合い願いたい。

日本では一般的に、「寺」とか「寺院」とかいえば仏教関係のもので、「神社」というのが神道関係のものと理解されている。しかし子細に見ればそうと言い切っていいわけじゃない。イスラム教関連の宗教施設も「寺院」と称することがあり、キリスト教関係でも、このウェストミンスター寺院だけでなく、セントポール大聖堂のことをセントポール寺院と言ったりする。

キリスト教関連の施設といえば、日本人はまず「教会」という言葉が思い浮かぶが、この問題は言語の問題でもあるので、とりあえず英語をあたってみよう。

「教会」は和英辞書的には "church" ということになっている。この  "church" という言葉は、教会の建物を指す場合も多いが、組織としての教会や教派のことを指すこともある。あるいは宗教上の集まりのことをいう場合もある。だから、建物そのものというわけではない。

建物そのものをいうのは、"cathedral" という言葉がある。日本語では「大聖堂」と訳されているが、この言葉の意味合いは、同じキリスト教でも宗派によって異なるようだ。

カトリックでは、大聖堂(cathedral)とは、内陣中央の司教座(ラテン語で cathedra = 司教の座る席)を持つ御聖堂のことであり、司教が長を務める教会堂を指す。必然的に大きな威厳ある建物となる。

「司教」という役職のないプロテスタントと東方正教会には、当然ながら "cathedral" に相当するコンセプトがない。しかしながらプロテスタントの教会でも規模の大きなものは便宜上、日本語で「大聖堂」と呼ばれることがある。東方正教会でも大きな教会はロシア語で「サポール」と呼ばれていて、それを日本語では「大聖堂」と呼ぶことが多いようだ。

つまり日本人のイメージとしては、「教会の大きいのが大聖堂」ということになっていて、それで特段の不都合はないのでうるさいことは言わない。ただし細かいことを言えば、大聖堂と cathedral は、すっきり一致するわけではない。

で、この「大聖堂」という訳語が定着する前に、いつの頃かしらないが、"cathedral" を「寺院」と言い習わしてしまったことがあるようなのだ。セントポール大聖堂 のことをセントポール寺院と言うことがあるのは、どうやらその名残のようである。

英語翻訳の初期には、"church" は「教会」 と訳したものの、"cathedral" の訳語に困って、便宜的に「寺院」という言葉を当ててしまったのだろう。明治期においては、他の外来宗教の施設に「寺院」という言葉を当てることにそれほどの抵抗がなかったのだと思う。

元々は仏教だって外来宗教である。「寺(てら)」と和語で言ってしまうとそれはもう、生活に密着した仏教のものということになっていたが、「寺院」という気取った漢語なら、少しエキゾチックな感覚をも許容するいうところだったのではなかろうか。

しかし今回の話題の発端である「ウェストミンスター寺院」だけは、ちょっとややこしい。というのは、これは英語では "Westminster Cathedral" ではなく、"Westminster Abbey" という。

"Abbey" というのは、英単語集の最初の方に出てくるので、案外見覚えがあったりする。「大修道院」という意味だが、実際の場面で使う機会はほとんどない。Westminster Abbey と、ビートルズのアルバム、"Abbey Road" で使うぐらいのものだろう。英語で大文字の "The Abbey" と言えば、この Westminster Abbey のことを指すというぐらいである。

そしてややこしいことに、ロンドンには 「ウェストミンスター寺院 (Westminster Abbey)」とは別に 「ウェストミンスター大聖堂 (Westminster Cathedral)」というのがちゃんと存在する。前者はイギリス国教会の施設で後者はカソリックの施設として 1910年に建てられたものだ。

それだから「ウェストミンスター寺院」だけは、いつまで経っても「ウェストミンスター大聖堂」と言い換えるわけにいかず、他のキリスト教大型施設が「大聖堂」の呼称に集約されつつある今の世でも、「寺院」のままで残っているというのが実情のようなのだ。

ちなみに、日本人の多くは "temple" は仏教の「寺」のことと思っているが、英国には仏教が伝えられる以前から  "temple" という言葉はあったので、そう単純ではない。英語の  "temple" は、主としてキリスト教以外の宗教施設を指す。だから、イスラム教でもヒンドゥ教でもユダヤ教でも、古代遺跡の宗教施設でも、大抵 "temple" で済ませる。

おもしろいことに、モルモン教の教会も "temple" である。モルモン教はキリスト教では異端とされているので、"church" とは言わないらしい。そのくせ、仏教の施設のことを "Buddhist church" なんて言う(参照)。キリスト教は近親には厳しいのかもしれない。

最後に言うまでもないことだが、ロンドンで 「ウェストミンスター寺院」 への道順を聞くときに、"I'd like to visit the Westminster Temple." などと言っても通じないのでよろしく。

 

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2010年11月23日

文体というもの

同じ曲を複数の歌手に歌わせて録音し、それを当の歌った歌手が聞けば自分の歌が一発でわかるのは当たり前だ。しかし、同じ曲を複数のピアニストが演奏して録音し、それをランダムに再生しても、個々のピアニストはどれが自分の演奏か、一発でわかるという。

クラシック音楽にそれほど入れ込んでいるわけではない私には、ピアノ独奏とかオーケストラによる交響曲の違いはよくわからないけれど、弦楽四重奏ぐらいだとかなりわかる。ドイツ人のカルテットとイタリア人のカルテットの演奏を聞き比べると、別の曲じゃないかというぐらい雰囲気が違ったりする。

付き合いのあるカメラマンたちに聞くと、自分の取った写真なら、それについての詳細を忘れていても、「あ、これは自分の写真」というのがすぐにわかるそうだ。同じような場面を撮っても、個々のカメラマンによって雰囲気が少しずつ違うらしい。自分のアングル、自分の露出などがあって、それらの合わせ技で独自のスタイルが形成されるという。

そう言われれば私だって、ずいぶん昔のものでも、自分の書いたテキストならすぐにわかる。自分の文体というのは自分の体みたいなものだから、ほとんど身体感覚としてわかる。

だから、ライターというのは自分の過去のテキストが盗作されているのを見逃さない。内容的なものはほとんど忘れてしまっているようなテキストでも、パクリを目の前にすればすぐにわかる。多少「てにをは」が変えてあっても目はくらまされない。

ジャーナリズムに発表されたものでなくても、例えば業界の報告書などを読むと、過去に私の書いたテキストを誰かさんがレポートの一部にパクってしまっているなんていうのが、たまにある。

狭い業界だから筆者は顔見知りだったりするので、あとでその筆者にやんわりと文句を言うと、「あ、ごめん、すごくよくまとまってるから、引用させてもらっちゃった」 なんて、いけしゃあしゃあと、言い訳にならない言い訳を言う。

引用なら引用で、その旨をしっかりと明らかにすればいいのに、あたかも自分の文章のように書いている。そんなのは引用とは言わない。よくまあそんなことで原稿料もらってるなあと、ちょっとムッとするが、まあ、業界内部で争っても仕方ないから、大抵は穏便に済ませる。穏便に済ませても、そいつは菓子折をもってくるわけでもない。

多分そいつのレポートは、あちこちのテキストのつぎはぎで、要するにパクリの集大成なのだろう。菓子折をもっていくなんてことを考えたら、一体何人にもっていけばいいかわからない。

数年前、ドイツの業界系出版社から、私が以前に書いた業界記事ををドイツ語に訳して掲載したいという依頼があり、私は「どうぞ、どうぞ」と気楽に承諾したまま、そんなことがあったことすら忘れていた。どうせ私はドイツ語がわからないので、その雑誌をもらっても読めないし。

ところが最近、そのドイツ語訳を改めて日本語に訳し直してくれた人があり、それを読んでうなってしまった。意味的には確かに私の書いたままなのだが、文章的にはものすごくコッチンコッチンになって、私の文体からはおよそかけ離れている。まるで学術論文みたいな雰囲気だ。

多分、日本語からドイツ語に訳された時点で少し堅苦しくなり、それを日本語に訳し戻す時に、さらに堅苦しくなったんだろう。いいとか悪いとかいう問題じゃなく、「おもしろいなあ!」と、一人で盛り上がっている。

 

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2010年11月22日

死と眠り

レイモンド・チャンドラーのお馴染みのフィリップ・マーロウ物に "The Big Sleep" というのがある。日本語では『大いなる眠り』と訳されているが、要するに大きな眠りとは「死」のことである。小説の中で直接そう語られているわけではないが、そうとしか思われない。決して「爆睡」のことじゃないと思う。

「死ぬほど眠い」ということがある。家で PC に向かい仕事をしていて、一時も目を開けていられないほど眠くなり、「ああ、こりゃやばいなあ」と思いながら、ふと気付くとベッドの上に横たわっていたりする。いつの間にデスクからベッドに移動したんだか、全然記憶がない。移動の最中にはもう眠っていて、単に惰性で動いていたのだろう。

眠りから覚めようとしても、どうしようもないほど眠いときというのもある。起きようという意識はあるのだが、体が動かない。目も開けられない。意識が人間の世界に戻っていない。これはきっと、「大いなる眠り」の一歩手前、「プチ死」の状態なんだろう。ほとんど死んだような状態から生き返るのだから、猛烈に眠くて起きあがれないわけだ。

「死」と「眠り」とは、本当によく似ている。眠りはあの世への回帰で、朝起きるのは、あの世から甦ることなのだ。

これからの季節、朝に起きるのが辛くなる。ベッドの中から抜け出すにはかなりの勇気が必要だ。できれば暖かい布団の中でいつまでもまどろんでいたい。これはある意味、「死の願望」に近いと思う。死というのはきっと、甘美なものなのだ。だから人間は甘美な死にあこがれる。

それでも、今死ぬわけにもいかないから、なんとかしてベッドから抜け出す。生きる意欲が辛うじて勝利を収める。どうせいつかは死ぬのだから、何も今死ななくていい。そう思いつつ、布団の中ではなく、世の中の方に潜り込む。

 

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2010年11月21日

国会中継ショーでうっぷん晴らし

「どうしてみんな、あんなつまらないものに注目しちゃってるわけ?」と聞きたくなるほど、テレビの国会中継を見ている人が多い。「フツーは仕事中だろう」と言いたい時間帯だが、オフィスでテレビを付けっぱなしにして見ている人も多いみたいなのだ。

吠えまくる野党議員と、菅内閣首脳の(とくに仙谷官房長官の)お粗末な答弁を聞いてうっぷんを晴らすという構図が、この国に生まれているようだ。あんなむかつきまくる答弁を聞いてどうしてうっぷんが晴れるのか不思議なくらいだが、人間の心理とは不思議なものである。

自分ではない他の誰かが、とくに国政を預かるような要人が、あまりにもお粗末なことを口走ると、安心してそいつの悪口を言いまくれる。社会的弱者を悪く言うのは問題だが、何しろ相手は弱者どころか、強者中の強者、代議士先生だから、言い放題に言いまくってもそしられることはない。

政府首脳のお粗末な発言をリアルタイムで聞いて、その後でニュースショーなどでニュースキャスターやゲスト評論家が批判しまくるのを確認し、その上で大船に乗ったつもりで、心ゆくまで悪口を言いまくればいい。

飲み屋や銭湯での政治談義は、誰かが「あいつじゃ、ダメだ。とても任せていられない」というトーンのことを言い出せば、次から次に「そうだそうだ、その通り」と同調者が現れる。「あいつら、代議士とか大臣とか言っても、ひどいもんだよね。その点、俺らはまだマトモだよね」という空気を作り出せば、それで精神衛生が図られる。

同じ悪口を言うにも、大臣のお粗末な発言をリアルタイムで聞いていれば、悪口の言い甲斐が違う。「俺は、その場面をしっかり見ていたんだ」となると、他のことは評論家の受け売りでも、なぜか説得力があるような錯覚を醸造することができる。というわけで、今や国会中継は悪口を言ってうっぷんを晴らすネタ探しの場と化している。

それにしても柳田法相の発言は、なかなかお見事だった。いくら政治家先生でも、あちこちでそれに類した非公式発言はバンバンしていて、とくに気のおけない後援者との酒席とかでは、相当ヤバイ発言だってジョークとしてしゃべりまくっているのが漏れ聞かれる。

しかし誰が聞いているかわからない講演会みたいな席であまり率直なことを言うのは、なぜか名字に「柳」という字の付く大臣に多いようなのだ。(前の自民党政権の柳沢厚労相(当時)の「生む機械」発言とかね)

どうやら、酒席のジョークとして受けそうな話を、講演会でしても受けると勘違いしているみたいなのだ。これじゃ、あまりにもセンス悪いやね。そのセンスの悪さが、あまりにもタイミングの悪いところで漏れてしまって、今や本気で倒閣を狙う自民党の餌食になっている。

で、大方は民主党政権に呆れかえってしまっているので、そのくだらない揚げ足取りに大いに注目しちゃっているわけだ。この騒ぎの中で、小沢一郎先生が何となくまた動き出しそうで、もう本当に「何でもあり」の様相である。

 

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2010年11月20日

洗濯機で洗った iPhone 3GS の電源が入るようになった

今月 9日付で iPhone 3GS を洗濯機で洗ってお釈迦にしてしまい、iPhone 4 に機種変更したことを報告したが、その後、もしかしてと一縷の望みを持って本棚の棚に置いといた 3GS の電源が入るようになった。

やれうれしや。元々、iPhone を 4 に機種変更したら、3GS の本体は iPod Touch として使うように、妻にお下がりにしてあげるという約束をしていたので、その約束を果たせるというものだ。

ところが、なかなかそうは問屋が卸さない。どうも調子が悪いのである。電源が入って立ち上げてみると、「アクティべーションしています。お待ちください」という表示が出る。ところがいつまで待っても再起動を繰り返すばかりで、らちがあかない。

それで調べてみると、SIM カードが入りっぱなしのために、無駄なアクティべーションを繰り返しているのだとわかった。iPhone 4 は、SIM カードの規格が変わったので、3GS から取り出して新しい方に入れ直すということをしなかったのである。そのためにアクティべーションで足踏みしていたわけだ。

そうとわかったので、SIM カードを取り出す。3GS の SIM カードを取り出すには、上部にある小さな穴に針を突き刺すと小さなトレイが出てくるので、そこから SIM カードを外してトレイを戻してやればいい。再起動すると 「SIM カードが挿入されていません」 という表示が出るが、かまわず操作を続ければいい。

これで 「アクティべーション云々」 の問題はなくなった。WiFi に接続すれば、インターネットにも問題なくつながるし、iPod の音楽も聴ける。YouTube にだけはなぜか直接接続できない (通常の Web からは入れるので、OK) が、まあ、ほとんど iPod Touch そのものみたいに使える。

ところがまだ問題があった。動作が安定せずに、不意に落ちて再起動に入ってしまうのである。これは困る。iPod で曲を聴いていても、あれっと思うと再起動に入っている。それが案外頻繁なのである。これでは使い物にならない。

もしかしたら、内部でまだ水に濡れて乾ききっていない部分があるのでこんなことになるのだろうか。そうだとしたら、もう少し時間をかければ安定するかもしれない。

今日はこれから仕事で九州に飛ばなければならないので、本体はこれまでのように本棚に置きっぱなしにしておく。九州から帰った頃には、動作が安定しているだろうか。楽しみなような、不安なような気分である。

 

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2010年11月19日

「邦楽」と「洋楽」

最近の「洋楽/邦楽」の分類に、違和感ありまくりである。レコードショップに入ると「邦楽」という分類でものすごい数の CD が売られているが、その邦楽というのは、私としては「洋楽」という分類に入れたいものばかりなのだ。

近頃、日本人が作って日本人が歌う楽曲はすべて「邦楽」というジャンルに入れられてしまっている。しかし私にとっての「邦楽」というのは、箏曲とか、長唄とか、文楽とか常磐津とか清元とか、はたまた端唄とか、そういうものなのである。宇多田ヒカルの歌が「邦楽」とは、いくらなんでもおかしい。

私の「邦楽」というもののコンセプトを形成したのは、NHK がかつて放送していた『邦楽百選』という番組である。今はなくなってしまったようだが、この番組では日本の伝統音楽の名曲を紹介してくれていた。その多くは踊りもつけて放映されたので、なかなか風情のあるものだった。

要するに、私にとっての「邦楽」のイメージとは「ツントシャン」という三味線が付くもの(そりゃ、謡曲とか箏曲とか、つかないものもあるが)、ということなのである。いかにも R&B というような曲が、いくら日本人作曲で日本人歌手が歌っていたとしたって、「邦楽」とは言いたくない。

私がかつてギターを弾いてシンガーソングライターをしていたときだって、自分の曲を「邦楽」だなんて思ったことは一度もなかった。むしろ「洋楽」だと思っていた。

ところが今は、私にとっての「邦楽」は「純邦楽」といわれるようになり、私にとっての「日本語の洋楽」が 「邦楽」 になってしまったようなのである。それは「日本語の洋楽」の市場性が広まった結果、それを「邦楽」と呼ぶ方が便利になったからということなのかもしれない。

そしてさらに、いわゆる「純邦楽」の市場性が小さくなってしまったということもあるだろう。昭和 30年代は、普段はポピュラーを歌っている歌手が端唄を歌うなんてことはよくあった。江利チエミが「さのさ」を歌い、美空ひばりが「梅は咲いたか」を歌い、ザ・ピーナッツが「木遣りくづし」を歌っていた。

今の若い歌手で端唄を歌えるのは何人いるだろうか。松浦亜弥は、ちょっと練習すれば多分「かっぽれ」ぐらいすぐに歌えるだろうが、ほかの多くは無理だろう。

自慢じゃないが、私はシカゴ・ブルースも端唄もちゃんと歌いこなせる。端唄の一つや二つ歌えないで、インターナショナルとは言えないだろうよ。インターナショナルとは、「ナショナルがインターしちゃうこと」 だから、無国籍とは違うのだ。

 

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2010年11月18日

民主党、もう本当にガタガタ

ちょこっと裏っぽいルートで知ったことなので、あまり具体的には書けないが、民主党はもうガタガタのようである。ガタガタというのは、外部からの批判にさらされているというだけでなく、内部崩壊的な様相もあるということだ。

これについては先月 25日にも「民主党、早くもボロボロ状態?」というタイトルで書いたが、近頃は疑問符が入らないぐらい、本当にボロボロのようなのだ。菅内閣が誕生してから、7月の参院選、10月の衆院北海道 5区補選、今月の福岡市長選と、民主党は 3連敗しているが、もう勝てる気がしない状態である。

元々民主党は、よくまあ、これだけいろんなところから寄せ集めたものだと思うほどの寄り合い所帯で、右派は自民党よりずっと右だし、左派はマルキストまでいる。だから外国人参政権や夫婦別姓などの話は、民主党内部でもかなりデリケートな問題のようだ。

上げ潮状態にあるときはかなり大きなことでも問題にされなが、調子がおかしくなると、とたんに不満要因になる。国会段階では政府首脳が、外国人参政権や夫婦別姓を通してしまいたいみたいな雰囲気をちらちらと見え隠れさせているものだから、民主内部の右派はかなりストレスの塊と化しているようなのだ。

民主党内部でも自衛隊とつながりのある議員はいくらでもいるが、「暴力装置」なんて口走る官房長官がいると、やりにくくてしょうがない。自衛隊や海上保安庁や、それだけでなく、警察にいたるまで「民主党政権じゃ、やってられん!」と、士気が下がりまくりみたいなのである。

尖閣ビデオを流出させた海上保安官の逮捕が見送られたが、あれは海保、検察、警察が一体になったサボタージュでしかない。いくら仙谷長官がいら立っていろんなことを言っても、彼らの中では大きな声じゃ言えないが、「流出、よくやった!」というメンタリティの方がずっと優勢だから、ああだこうだと理屈を付けて逮捕なんかするわけない。

自衛隊基地で開かれた集まりで、民間支援団体の会長がちょっと率直な意見を述べたのがきっかけになって、仙谷長官は言論統制みたいなことを言い出したが、自衛隊内部は「民主党政権、早く潰れろ」という空気に満ちているので、溝は深まるばかりだ。

日本だからこの程度で済んでいるが、血の気の多い国だったらクーデターになりかねない。現実に、民主党内部ではクーデターってわけじゃないが、ずいぶん不穏な動きが出始めているようだ。小沢さんは、何があっても自分の責任じゃないとばかりに高見の見物をしながら、隙を狙っているみたいだし。

一番気の毒なのは、地方選挙で民主党の看板を背負ってしまっている議員たちで、必至に民主党色を出さないようにうじうじと活動している。民主党の県レベルでは、正式に受理していない離党届が何枚も溜まっているとの話も聞く。離党届が提出されても正式受理せず、逆にある日突然 「除名処分」 にするなんていう裏技まであるようだ。

民間で言えば、退職願を受理しないことで 「円満退社」という形を取らせず、ある日突然懲戒解雇にして、次の就職を不利にする嫌がらせのような手口である。いろいろあるもんだなあ。

 

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2010年11月17日

「小さな非常識」と「極端な非常識」

いわゆる 「こんにゃくゼリー事故」 で、全国で初めての判決が出た。一昨年に、一歳の子供に半解凍状態のこんにゃくゼリーを食べさせ、窒息死させた祖母がいたが、この遺族が「安全性に欠けた食品を販売していた」などとして、製造会社「マンナンライフ」を訴えていたものだ。

判決は、「固さや水に溶けにくいことなどは、こんにゃくの特性であり、ゼリーの欠陥ではない」として、遺族の訴えを退けるものだ。遺族はどうせ控訴するだろうから、判決の確定にはまだ時間がかかるだろうが、私としてはぎりぎり妥当な判決だと思う。

この問題に関しては事故直後に「非常識の裾野」というタイトルで記事を書いている。こんにゃくゼリーより餅の方が危ないという人もいるが、食べる人の人数を考慮すればそうとも言い切れないだろう。ただ、こういう食べ物を食べるときは注意しなければならないというのがほぼ常識化してもいるので、むずかしいところだというトーンだ。

この記事の中で私は、こんなものを年端もいかない子どもに食べさせたら、喉につまる危険性が高いのは「常識」の範疇だが、世の中には、それを半解凍のままで食べさせるなんていう、極端に非常識な命知らずのおばあちゃんがいることを知らなければならないと書いている。

世の中を見渡すと、ゴミのポイ捨てや歩きながらの喫煙、若者がシルバーシートに座って居眠りしているなど、 「小さな非常識」であふれている。そしてこうした「小さな非常識の大きな裾野」が、「極端な非常識」の温床となっているのだ。

啓蒙などによってその裾野を小さくすることはできるだろうから、「極端な非常識」だって減らすことはできるだろう。しかし、いつまでたってもゼロにすることはできない。人間の世の中というのはそういうものである。

「こんにゃくゼリー問題」 というのは、ごく少数の「極端な非常識人間」を救うために、「こんにゃくゼリー」という愛用者も少なくない製品を、世の中からなくしていいのかという問題である。

そして最もむずかしいのは、どこまでが「小さな非常識」で、どこからが「極端な非常識」なのかを見定めることだ。極端に非常識な人というのは、決して自分が「極端な非常識人間」だとは認めたがらないだろうし。

そして、今後 「こんにゃくゼリー」 にどんなような警告表示を付ければ、このような事故が完全に防げるかというような問題になると、それこそ昨日の 「自転車置き場の議論」 になりかねない気がする。

 

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2010年11月16日

「自転車置き場の議論」 というもの

恥ずかしながら「自転車置き場の議論」という言葉を初めて知った。はてなキーワードによると、「些細なことほど議論が紛糾する現象のこと」だそうだ(参照)。Wikipedia によると、元々は「パーキンソンの凡俗法則」から出た言葉らしい。

パーキンソンの法則」といえば、「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」(第一法則)、「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」(第二法則)というのが有名だ。要するに「役人というのは無駄が大好き」ということを実証的に説いたものである。

それにプラスして、「組織はどうでもいい物事に対して、不釣り合いなほど重点を置く」という法則まであるとは知らなかった。これが「パーキンソンの凡俗法則」というもので、どうでもいい議論ほど白熱するということのようなのである。

これについては、「自転車置き場の議論」という言葉を知る前から気付いてはいた。「会議というのは、重要な案件は何の問題もなく、シャンシャンシャンでさっと通るのに、どうしてどうでもいいことになると、急にああじゃこうじゃと言い出す人が続出するんだろう」と、ずっと不思議に思っていたのである。

たまに重要案件で不合理な点に気付き、こちらが質問で問いただしても誰も同調者が現れずに浮いた感じになってしまい、それどころか当事者でもない人間から、「まあ、その辺はいいじゃないですか。様子を見ましょう」なんて意味不明の発言が出て、シャンシャンで終わったりすることがある。どうでもいいことだと、思いっきりこだわるくせに。

で、今回 「パーキンソンの凡俗法則」というのを知るに及んで、ようやく納得がいったのである。ちょっと Wikipedia から引用しておこう。

原子炉の建設計画は、あまりにも巨大な費用が必要で、あまりにも複雑であるため一般人には理解できない。このため一般人は、話し合っている人々は理解しているのだろうと思いこみ口を挟まない。(中略)このため審議は「着々と」進むことになる。

この一方で、自転車置き場について話し合うときは、屋根の素材をアルミ製にするかアスベスト製にするかトタン製にするかなどの些細な話題の議論が中心となり、(中略)次に委員会の議題がコーヒーの購入といったより身近なものになった場合は、その議論はさらに白熱し、時間を最も無駄に消費する。

なるほど。人間というのは理解できないことには口をつぐむが、次の話題が急に身近なものになると、その反動のようについ口を挟みたくなるもののようなのだ。このことについては、「Koeだめ」というブログにおもしろい指摘があるのを見つけた。(参照

例えば、メインの難しい議論には中々加われなくて大変申し訳ない気持ちになった、という経験はよくあるかと思います。この時どう考えるか。「せめて自分の加われる範囲は積極的に発言しよう」こう考えるのではないでしょうか。

かくして、自転車置き場の修理の話のような些細な議論に皆が発言し、紛糾してしまうという、残念な結果になってしまうという訳です。

なるほど、これはある種の責任感からくるものだったのか。余計で過剰な責任感なんだけど。

ならば会議の主催者はこれを、案件を通すためのテクニックとして使えるだろう。どうしても通したい重要案件は、専門家を呼んできて、むずかしいテクニカルターム満載ながら印象としては至極もっともらしい説明をしてもらい、誰もよくわからないうちにシャンシャンシャンで議決してしまう。

ところが、それだけだと会議の参加者には漠然とした不満が残るので、別にどうでもいい案件を用意しておき、どうころんでも別に大した違いのない次元で思いっきり熱い議論を展開し、しっかりガス抜きしてもらう。こうすれば、参加者たちは非常に民主的な会議に参加したように錯覚して、満足して帰ることができる。

多分、こうしたテクニックはあちこちで使われているのだろう。だまされないように気を付けなければならない。

 

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2010年11月15日

知っておく方がいい外国語の言い回し

最近の若い人はあまり外国に出たがらないようだが、まあ、何だかんだで外国旅行をする機会は、昔と比べればずっと増えている。それに伴って、グァムだのハワイだのの日本人の多い観光地では、ほとんど日本語で用が足せる施設も増えているようで、グループツアーなどでは、言葉の苦労はほとんどないみたいだ。

実は私は、観光で海外ツアーに参加したことのない人で、仕事がらみの出張でしか外国に行ったことがない。だから、日本人客で溢れる海外の観光地というのをあまり知らない。だが聞くところに寄れば、看板も日本語表記があるし日本語を話せるスタッフが多いみたいで、英語で話す必要なんてほとんどないというのである。

とはいいながら、私は自分が訪問する国で話されている言葉の決まり文句ぐらいは、いくつか覚えておくべきだと思っている。

最も覚えておくべきなのは、「ありがとう」に相当する言葉だ。英語なら "Thank you" で、これは大抵どこに行っても通じるが、できればその国の言葉でお礼をいう方が、ずっと気持ちが伝わる。ぎこちなく言う方が気持ちが伝わるかもしれないという、珍しい言葉である。

そもそも旅行先というのは、ちょっとしたことでも人に尋ねて教えてもらったり、人の世話になったりすることが多いので、礼を述べる機会というのはものすごく多い。日本人はあまり言わないが、レストランで食事をもってきてもらうだけでも礼を言う。

だから、旅行先では一日中何かでお礼を言っているようなものだ。それだけに、その国の言葉で感謝の気持ちを述べることは、旅行をスムーズにする上でもとても役に立つ。

この「ありがとう」とセットで覚えておくべきなのは、「どういたしまして」だ。英語ではいろいろな言い方があるが、"You are welcome." が一般的だろう。面倒なら "That's OK." でもかまわない。

次に覚えておくべきは、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」と、「さようなら」「お休みなさい」の挨拶である。欧米では滞在先のホテルでエレベーターに乗ったとき、見知らぬ相手にでも挨拶をする方がいい。そうしないと、雰囲気的に妙に警戒されちゃったりして、こちらもストレスになる。できれば挨拶はした方がいい。

ただエレベーターで会うのはその国の人とは限らないので、英語でもいいが、外国人専用ホテルでもない限りやっぱりドメスティックの人の方が多いので、その国の言葉の方が雰囲気がいいと思う。時間帯によって使い分けるのが面倒なら、"Hello." だけで済ませるという手もある。

案外必要なのは、「ちょっとすみません」(英語なら "Excuse me.") と「トイレどこ?」(同 "I'd like to use men's room [ladies' room]." など)である。まあ、ちゃんとしたレストランとかなら英語だけでも通じるから OK だ。

そして、数を表す言葉である。欧米語は数を表す言葉が案外長ったらしいので、全部覚えるのはうっとうしいが、実際上は「3つ」まで言えれば最低限の用は足せる。それ以上の場合は、英語で言えばいい。

そのほかにも知っておく方がいい言い回しはあるが、最低限これでなんとかなる。いずれにしても、「ありがとう」のバリエーションだけは引き出しにたくさんあった方がいい。

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2010年11月14日

日本はそこまで特別ってわけじゃない

今日は仕事で福島まで車ででかけ、夜の 10時頃に帰ってきた。近頃、またずっと休みなしなので、さすがにひいひい言っている。10時頃の帰宅で済んだからよかったが、日付が変わる頃だったら、睡魔との壮絶なる戦いを展開しながら帰ってきただろう。

道中は楽しかった。常磐道のいわきの手前で磐越道に入り、東北道に向かうと、そこはきれいな紅葉の世界だった。今年は紅葉が遅れているらしく、まだ「燃えるような」と表現するには物足りなかったが、やっぱり日本の四季の景色は美しい。

ところで、どこで見かけたんだか忘れてしまって、多分 Twitter での 誰かの tweet だったかなあと思うんだけど、「秋に紅葉と黄葉が入り交じって見られるのは日本だけだそうだ」というような書込みがあった。これ、何を根拠にそんなことを言ってるんだろうか。

甚だしくは、「明確な四季があるのは日本だけ」なんていう書込みも、どこかで見たことがある。いやはや、そんなはずないじゃないか。そんなんだったら、ビバルディの『四季』なんて、どうして生まれたんだ。

赤や黄色の入り交じった秋の光景は、外国でだって見られる。何なら、"autumn leaves" というキーワードで、Google の画像検索をしてみればいい。いくらでも探せる。

それにしても、こんなような「日本はかなり特別」という思い込みは、どこから生まれたんだろうと思う。確かに日本はかなり特別な国で、その光景はとてもコンパクトで親密な美しさに満ちているが、四季や紅葉・黄葉といったような事項まで特別だなんてことはない。

これが 「日本はこれだけ特別なんだから、国際性が多少欠けていても仕方ないよね」 みたいなエクスキューズに使われているのだとしたら、そりゃちょっと問題だ。

 

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2010年11月13日

何でもありの、今日この頃

ふう、今日は忙しかった。日が暮れてようやく家に帰り着いた。帰り着いたと思ったら、バレーボールで日本がブラジルをセットカウント 2-0 でリードしていて、我が家の娘が興奮した面持ちでテレビ画面を見つめている。いやはや、驚いた。

もしかしたら、尖閣ビデオが流出したときよりも驚いたかもしれない。ビデオ流出はあり得るかもしれないと思っていたが、日本がブラジル相手にここまでやるとは、全然思っていなかったからね。

もう本当に、近頃の世の中は何があっても不思議じゃない。何でもありである。私の本宅サイトのタイトルが 「知のヴァーリトゥード」で、「何でもあり」を謳っているが、最近のように本当に何でもありになってしまうと、別にそれが新鮮でも何でもなくなってしまうなあ。

逆に、なんでもかんでも順当に収まってしまうのが一番意外なことになってしまうかもしれない。ちなみに、その後の試合経過は 2-2 に追いつかれて最終セットにもつれこみ、最後は力尽きて敗れてしまったが、まあ、よくやったと言っていいと思う。

で、今日はもう疲れたので、和歌ログを書いて、風呂に入って寝る。明日はまた車を運転して福島まで行かなければならない。私には土曜も日曜もないのである。ひいひい。

 

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2010年11月12日

最近の社長は誰も顔を知らない

私が社会に出た昭和 50年代というのは、あの高度成長期というのはとっくに終わっていて、オイルショックなんてものを経験した後なので、少しは厳しい時代にさしかかってはいたのだが、時代のムードとしてはまだまだオプティミスティックな空気が残っていた。今のような「日本は経済的には老大国」みたいな感じではさらさらなかった。

だから、当時の会社というのも、今のようなムードではなく、まだまだあっけらかんとしたムードがあった。どっかの会社の営業担当が尋ねてくると、仕事の話が終わってもそれから 1時間以上も世間話をして帰るなんてことが当たり前だった。今の世の中でそんな呑気な仕事をしていたら、何を言われるかわからない。

会社の社長のイメージというのも、当時とはずいぶん変わった。当時の会社の社長というのは、「外に顔のある人」だった。会社内部の細かい経理とかそういったものには無頓着でも、自ら外に打って出て、仕事の話をまとめて帰ってくるというような、また、名前を言えば業界関係者ならすぐに顔を思い浮かべられるというか、そんなような親方タイプが多かった。

「お宅の社長に頼まれたら、イヤとは言えんでしょ」と言ってもらえるようなタイプの人間が社長になったのである。つまり、「外部に顔が利いて、得点の多い者が社長になった」という時代だったといえる。

ところが最近は様相が変わった。いろいろな会社から社長交代の知らせが届くが、新社長の名前を見ても、顔も知らないということがほとんどだ。「この人、何物?」という感じである。いつの間に、こっちの知らないところで出世街道を昇ってきてたんだ? と聞きたくなる。

外に顔があるというよりも、内向きの地道な努力で、コツコツやってきた人が社長になるのである。総務畑から社長になるなんて、昔は考えられなかったようなこともある。外部の人間が誰も顔を知らないのも道理である。つまり、得点の多い者というよりは「失点の少ない者」が社長になる世の中になった。

カリスマ性たっぷりの創業社長ががんばって大きくした会社でも、3代目、4代目社長になると、もうすっかりサラリーマンの顔である。これを称して、「最近の社長はどこも小粒になった」という人がいる。しかしどちらがいいとか悪いとかではない。

多分こんな時代だから、失点の少ない守りに強いタイプの方が求められているのだろう。もはや「顔で商売をする」というような、のどかな時代でもなくなりつつあるし。

こんなことを思うようになったのは、気付いてみれば、私自身がこの業界にずいぶん長くいるということなのだろうなあ。

 

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2010年11月11日

尖閣ビデオの流出者判明で、こけてしまったよ

例の尖閣ビデオの流出者が名乗り出てしまったそうで、5日付の記事で流出を "good job" とほめてしまった私としては「何だかなあ」と、力が抜けてしまったような気がしている。流出した海保職員は、事前に読売テレビに特定されてしまっていて、インタビューなんてされているという。

読売テレビは 5日の流出後に、「sengoku38 を名乗る人物がいる」との情報を得て調べたところ、あっさり人物が特定されて、インタビューに成功したもののようだ。そんなに脇が甘かったら、IP アドレスから神戸の漫画喫茶まで調べが付いてしまった以上、逃げ切るのはいずれにしても無理だったろう。

私は 5日の記事で、「これはあたかも、政府判断によるウルトラ C であったかのごとき印象を与えつつ、すっとぼけながら流出源についてはうやむやにしてしまうべき」なんて書いたが、こんなにあっさりとアシがついては、そんな腹芸も無理だ(仙谷さんが官房長官では、元々無理だったろうが)。

さらに「機密保守がメチャクチャいい加減な国」ということまで、世界中にバレてしまった。これが一番痛いところである。

ただ私としては、5日の時点で good job とほめてしまった気持ちがまだ半分ぐらいは残っているので、まあ、かなりうじうじ感の残るところではある。

この流出が何でいけなかったのかというと、「捜査段階の証拠を流出させてしまった」ということなんだそうだが、だったら「捜査段階の容疑者をさっさと帰国させてしまったのはどういうことなんだ」ということが蒸し返されなければいけないだろう。容疑者を釈放したからには、もうこの事件、ほとんどチャラだろということになる。

だったら、国民の知る権利を無視し続けた政府の方がおかしいというのは、大方の指摘している通りだから、ここではくどくど繰り返さない。

海保内部では誰でもこのビデオを見放題だったということだが、これが「流出させたかったらいつでもどうぞ」という政府の腹芸だったとしたら見事なものだ。しかし仙谷官房長官はこれを機に、情報流出に関する罰則強化と 「秘密保全法制」 を検討する考えを表明したというから、そんな見事な腹芸であったはずがない。

1985年にも、自民党政権下でいわゆる「国家秘密法案」が国会提出されたが、「政府による情報統制につながると」との反対が強く、廃案に追い込まれた。それを思うと、日本には自民党と民主党とその他の政党があるのではなく、与党と野党しかないんだとわかる。何党だろうと、与党になってしまうと与党でしかなくなるもののようだ。

 

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2010年11月10日

セキュリティソフトの更新

私の PC に入れているセキュリティソフト(Norton 360)が、先日から更新期限切れまであと何日と、毎日のようにコーションを発してくれている。「あと 30日」なんてあたりから、下手にクリックするとすぐにネット経由で更新に行ってしまいそうになる。

私はネット経由で更新するよりも、量販店で買えば「2,000円キャッシュバック」が付くのを知っているから、既に買ってきていて、「あと 1日」になった本日、おもむろにインストールしようとしている。

「あと 30日」の時点で、うっかりネット経由の更新をしようもののなら、せっかくの 1年契約が実質 11ヶ月契約になってしまう。単純計算して、約 8.3%割高になるし、2,000円キャッシュバックも受けられないから、2,600円ぐらいの損になる。

1人当りで 2,600円の違いなら、千人で 260万円、1万人で 2,600万円の違いだ。もう一ケタ増えれば億の位に届く。つまり、あせって 1ヶ月前にネットで更新する人が 1万人いたら、Norton 博士は 2,600万円儲かるのである。なるほど、ずいぶん前から早々と更新を呼びかけるわけだ。

今日はいろいろと立て込んでいて、これからその Norton 360 のインストールをしなければならないので、この辺で失礼。

【追記】

あれ、更新ができてからアカウントをみると、残りが「366日」となっている。ってことは、30日前に更新すると、残りは 395日ってことになるんだろうか。

前はそうはならなかったように記憶してるんだけど、Norton 博士は最近、ちゃんとその辺は考慮してくれてるんだろうか。てことは、製品版を買ってきて得するのは、2,000円キャッシュバック分だけということになるんだろうか。

ふむふむ。

 

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2010年11月 9日

iPhone を洗濯機で洗って、お釈迦にしてしまった

まだ 1年とちょっとしか使っていない iPhone 3GS を洗濯機で思いっきり洗って、お釈迦にしてしまった。2年縛りの半ばを越したばかりだが、これがないと仕事にならないので、仕方なく iPhone 4 に機種変更した。

昨年の夏にケータイをなくして iPhone に変えたときは、M氏に「iPhone に変えるために、敢えてなくしたってことにしたんでしょ」と疑われたので、今回も「iPhone をグレードアップするために、わざと洗濯機に放り込んだんでしょ」なんて言われそうだが、とんでもない。それをするなら、2年縛りが残り 3ヶ月を切るまで我慢してから、満を持して実行する。

幸いにも iTunes でマメにバックアップを取っていたし、さらに MobileMe も利用しているので、アプリやデータはほとんど完璧に復活させることができた。こんなこともあるので、バックアップを取るというのは、本当に重要だ。

今後しばらくはソフトバンクに支払う金額が少し高くなるが、さすがに新機種だけに、レスポンスが今までとは明らかに違って、ストレスがない。それを考えれば、満足感と引き替えに多少の出費をするのも、結果オーライといえないこともない。

ところで冒頭に、iPhone 3GS を「お釈迦にしてしまった」と書いたが、台無しにしてしまうことを「お釈迦にする」ということの語源について書いてみみたい。これは 7年半ほど前にも書いた(参照)ことだが、当時はココログを使っていなかったし、時間も経ってしまったので改めて書くことにする。

ものを台無しにすることを「お釈迦にする」というのは、江戸時代の鍛冶屋の符丁からきている。鍛冶屋の仕事では、仕事を失敗するのはたいてい火が強すぎることが原因だそうだ。

江戸の鍛冶屋の親方と弟子が、次のような会話をしている。

弟子:    「親方、すいやせん、しくじっちめいやした」
親方:    「何ィ、またか? なんでまたしくじっちまったんでぃ?」
弟子:    「へぃ、火が強かったもんで …… 」

この場面の登場人物は 2人とも江戸っ子だから、「火」は「シ」と発音する。だから、発音どおりに表記すると、以下のようになる。

弟子:    「へぃ、『シガツヨカッタ』 もんで …… 」

ここで、魔法の呪文を唱えていただきたい。

「シガツヨカッタ」 …… 「シガツヨォカッタ」 …… 「シガツヨォカダ」

親方:    「何ィ、『シガツヨォカ(4月8日)』だぁ? それじゃぁ、花祭りじゃねぇか。オシャカばっかりこしらいやがって!」

というわけで、仕事をしくじって台無しにしてしまうことを、お釈迦様の誕生日にちなんで「お釈迦にする」と言うようになった。これは決してこじつけではなく、語源説として非常に有力なものなので、「また始まった」みたいに受け取らず、まともに信じてもらってもいい。

 

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2010年11月 8日

「アクセント自由地帯」を巡る冒険

「みそ文」というブログに「アクセント自由地帯」という記事があるのを発見した。次のような書き出しにちょっと惹かれた。

私が現在暮らす地方は、「崩壊アクセント」と呼ばれる方言文化を持つ。「アクセント崩壊地域」と呼ぶ場合もある。「崩壊」というと、「ほんとうは崩れないほうがよいにもかかわらず」であるとか、「壊れないようにしたほうがよいのではないか」などというイメージが伴われがちかもしれないけれども、そうじゃないんだよ、という気持ちを込めて、別の呼び方をするならば、「アクセント自由地帯」あるいは 「アクセントフリーダムエリア」と言えるのではないかと思う。

私は山形県庄内地方出身だが、現在住まい致すところは茨城県というかなりのアクセント自由地帯である。また、私の妻も仙台というアクセント自由度のめっぽう高い地域の出身なので、「自由アクセント」には常日頃から馴染んでいる。

庄内弁は「今」を関西弁風に尻上がりに発音するなど、標準語とはずいぶん違うところがあるが、逆に頭高型では発音しないという、かなりしっかりとした規則性がある。アクセント・オリエンティッドな方言ということができると思う。

ところが茨城や仙台などは単語そのものには決まったアクセントなどはないようで、センテンスの中に埋没しながら変幻自在になる。ただしゃべっている方には「自由に変幻自在なアクセントでしゃべっている」というような意識すらないようで、要するにアクセントに関する感覚があまりないというだけのようなのだ。

例えば私の妻は、普段は全然訛りのないソフィスティケイティッドな話し方をするのだが、ただ一つ、「牡蠣」(頭高型)は言えるが、「柿」(平板型)がなかなか言えない。だから彼女に「カキ(頭高型で発音される)食べる?」と聞かれても、それまでの文脈や状況で判断が付かないときは、注意が必要だ。

結婚当初は、彼女にそう聞かれ「牡蠣フライ」かなんかが食えるのかと思い、 「うん、食べる」と答えたところ出てきたのは果物の柿だったなんてことがあった。だから唐突に聞かれた場合は、慎重に「果物の柿? それとも海の牡蠣」と聞き直さなければならない。

すると彼女は「果物の牡蠣」と答えたりする。ここでは便宜上「果物の牡蠣」なんて標記したが、それはアクセントを表すため (標準的なアクセント感覚ではどうしても「果物の牡蠣」としか聞こえないので)で、彼女の意味するところはもちろん「果物の柿」なのである。どうも平板型のアクセントをすらりと言うのが苦手のようなのだ。

本来平板型でない単語を平板型で発音したりすることはよくあるのに、必要以上に意識すると、どこかにアクセントをおきたくなるみたいなのである。彼女が「柿」をまともに言うためには、ちょっとした手続きが必要だ。「柿食えば鐘が鳴るなり」と小声でつぶやいてからだと、辛うじてその流れで、ちゃんとした平板型で「柿」と言える。

彼女の父は、70歳を過ぎて初めて自分のアクセントが標準語と違うことに気付き、「そう言われてみれば、今まで『食べる橋』と『渡る橋』と、どうやって区別してたんだろう?」と言っていた。ここでは「食べる橋」なんて表記したが、それはもちろん、「食べる箸」の意味。しかしどう聞いても「食べる橋」としか聞こえないのである。

下手に区別して言おうとすると、今度は「食べる箸」と「渡る箸」なんてことになって、ますますゴチャゴチャになる。

生粋の茨城生まれの人間が友人の結婚式の司会をすることになり、司会原稿をもって「tak さん、ちょっと私のアクセントがまともかどうか、聞いてみて」なんて言ってきたことがある。「自分ではわからないの?」と聞くと「自分のアクセントが自分でわかったら、こんなこと頼まないよ」と言っていた。

ことほど左様に、アクセント自由地帯で生まれ育った人間には、いわゆるフツーのアクセント感覚というのが養われないみたいなのである。しかしそれをとがめだてしたら、日本人が英語の "L" と "R" の区別がつかないことまで言及しなければならないので、もう仕方のないことなのだ。

そもそも「柿」と「牡蠣」、「橋」と「箸」の区別が付かないで困るなんていうのは滅多にあることではなく、普通は文脈と状況で十分に判別できるから、ほとんど大丈夫なのだ。わかっているのにことさらに聞き直すなんていうのは、ちょっと嫌味なことになってしまうだろう。

困ることがあるとしたら、妙な聞き違いが時々生じることだ。こちらとしては、「どうしてそんな突拍子もない聞き違いをするかなあ」なんて思うことがあるが、それはアクセントのフィルターが機能しないからである。

例えば「阿弥陀如来」を「涙オーライ」なんて聞き違えるという、「何だそりゃ?」的なトンチンカンが生じる。「阿弥陀」と「涙」、「如来」と「オーライ」 ではアクセントが全然違うので、普通は聞き違えるはずがないのだが、アクセント自由地帯に育った人は平気でそういう聞き違いをする。

「ミシェル・フーコー」が「見せる封筒」になったり、「FAX で送って」が「隠して置くって」になったりもする。これも、アクセントのフィルターにかからないので聞き違えの可能性がものすごく広がった結果である。

ま、話の種になるからいいか。

 

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2010年11月 7日

年賀状のデザインを今から考えている

私は柄にもなく年賀状にはかなり凝る方である。モチーフは基本的に干支なのだが、その辺に公開されている画像(イラストっぽいのや、漫画っぽいのや、写実っぽいのや、墨絵っぽいのや、水彩画っぽいのや)を使ったら敗北だと思っている。

といっても、自分で絵を描くのはものすごく下手なので、初歩的な CG で作っている。自分用のコンピュータを買ったのは多分 16~17年前の、Windows 3.1 時代だったと思うが、CG で年賀状を作るようになったのは、平成 11年から。つまり、来年で一廻りだ。最初の CG 年賀状の画像は、これ だ。懐かしいなあ。

ちなみに、今年の寅年のはかなりご好評をいただいた。今年の元日の記事に、ウンチク入りで紹介されている。うぅむ、これらを超えるものにしたいんだけど、一体どうなることだろうか。

私は年賀状のデザインにはかなり早くから取りかかるのだが、12月半ばにそれがフィックスしてしまうと、それで力尽きてしまって、実際の年賀状印刷にはなかなか取りかかれなくなる。年末の仕事とか大掃除とかにかまけて、印刷は年末ギリギリとか、年明け早々になってしまい、発送が遅れがちだ。

今年は何とか早めに仕上げたいと思っているのだが、でも、どうなるかなあ。

 

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2010年11月 6日

「アジアでがんを生き延びる」 というイベントがあったようだ

久しぶりで TBS ラジオの「土曜ワイド 六輔その新世界」を聞いて、3日前の文化の日に東京駒場の東京大学先端科学技術研究センターで、 「アジアでがんを生き延びる - アジアのくらしと文化とがんと」というイベントが開かれたことを知った。(チラシはこちら

永さんご自身も、「アジアの多様性が私たちを救う - 民俗誌的考察からみたがんという病」 というパネルディスカッションに、パネラーとして参加された。永さんは最近、すっかり復活されて、こちらが想像力を駆使しなくても何をしゃべっているかわかるようになったので、喜ばしい限りである。ああ、前もって知ってたら、私もこのイベントに行きたかったなあ。残念。

このイベントには朝鮮半島のシャーマンも参加しておられたという。東洋医学や鍼灸などといった、ある程度はアカデミズムにも認められている分野だけでなく、こうした「まじない」的分野まで排除することなく、非常に広い視点でこのイベントが運営されたことを、私はとても好ましく感じた。(反対に 「好ましくない」 と感じる方も多いだろうが)

このイベントを主催した「アジアがんフォーラム」というのは、Collective Intelligence, Contextual Intelligence, Continuous Intelligence (ざっと訳すことで意味合いが狭められてしまうが、総合的知性、文脈関係的知性、継続的知性)という、3つのインテリジェンスを集め、アジアのいのちの繋がりのなかで「がん」を乗り越えることを目指す団体であるらしい。

とくに、純粋医学的な視点でのみでなく、文化的視点まで統合して「がん」を乗り越える(「がんと戦う」などではないところが重要だと、私は感じる)と言っているところが興味深い。下手したら、科学の視点からは「トンデモ」と言われかねないが、こうした Collective Intelligence の視点での模索を行うことには、一定の意味があると考える。

私は一昨日の「理屈通りに行かないのが、世界のありよう」という記事で、以下のように書いた。

論理というものは、とことん突き詰めれば「不確実性」に行き当たらざるを得ない。この不確実性を笠に着て、チョー怪しい試みまで「科学的」と言い張る一部のカルトには、私は決して与しないが、注意深く進められるオルタナティブな可能性へのトライアルまで、「科学的でない」という一言で全否定してしまうのは、かなりもったいないと思う。

そして、こうしたコンセプトからそう遠くないと思われる試みが現実に進行していることを知り、私はとても嬉しくなってしまった。

がんということですぐに思い当たったのは、外科医の土橋重孝先生という方が書かれた『ガンをつくる心 治す心』という本である。私は一昨年の暮れにこの本のレビューを書いている(参照)。

おもしろいのは、この本の著者でがん治療のエキスパートでもある土橋先生ご自身が、西洋医学ではがんが「完治」することはなく、「5年生存率」をいかに上げるかに終始しているが、末期の進行ガンが治ってしまうということが現実にあり、「それらのケースはすべて、病院の治療とは別のところで起きている」としている点である。

長年にわたって「西洋医学という科学」の最前線に立って素晴らしい実績を上げておられる医学者が、「本人の心が変わったことで治ったとしか思われない」として、自ら「科学的でない」というメソッドでガンというものを見つめ直しておられるのである。

ストレスががんの要因の一つであるというのは、既に知られたところなので、「本人の心が変わることでがんが治ることがある」というのは、あり得ないことではない。それどころか、がん治療のエキスパートが現にそれを認めておられる。

心が変わることでがんが治ることがあるのなら、がんに向かい合うには、医学という科学だけではなく、統合的な「文化」というものまで援用することにも意味あるだろう。そしてその「文化」の中にはシャーマニズムも含まれるから、優先順位は別として、初めからそれを排除する理由はない。むしろ、そこに何らかのヒントが見いだされる可能性すらある。

言うまでもないことだが、言っておかないとことさら誤解する人もいるので、ばからしいと思いつつも念のため言っておくが、私は、病院でシャーマンが護摩を焚いてまじないをすればいいと言っているわけでは決してない。「ありがとう」と書いたお札を貼った容器に入った水を飲めばいいと言っているわけでもない。

ただ、そうしたたぐいの「ノイズ」としかみえないような要素にも、全然「科学的」ではないが「文化的」な意味ならあるかもしれない、いや多分あるだろう。文化とはある意味、集団的な気の迷いでもある。極端な迷いまで含めて、文化である。注意深さは必要だが、トータルに取り扱うことには何らかの意味がある。

で、こうしたことを書くと、そんなインチキで荒唐無稽な金儲けをするやつがいるのが許せないという批判が決まってあがるのだが、それは、オルタナティブな試みそのものが悪いのではなく、それを悪用するやつが悪いのである。それをごっちゃにしてはいけない。

どんな分野にでも特有のシステムを悪用して理不尽な金儲けをするやつはいる。西洋医学だって、本来要りもしない薬を大量に出して、保険料を無駄遣いしているという非難はある。極端な例だが、命の危険性で言ったら自動車産業の方がずっと危ない。自動車の有用性の方を圧倒的に評価したトレードオフの上に成り立っているだけだ。

ナイフそのものは善くも悪くもない。ニュートラルである。ナイフで人を傷つけるやつが悪い。リスクを認識しつつ、注意深く取り扱えばいいのだ。そんなわけで、非常に注意深く進められるオルタナティブな試みにまで価値がないとは、私には到底言えないのである。

 

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2010年11月 5日

例のビデオを巡る冒険

朝イチで、例の尖閣ビデオを見た。YouTube ではもう削除されてしまったらしいが、朝の 6時台では何の問題もなく見ることができた。全然重くは感じなかったから、YouTube のサーバは、クジラ出まくりの Twitter とは比べものにならないほど優秀だ。

どんな経緯でこのビデオが流出したのかは、いろいろなことは想定されるけれど、今の段階では何とも言いようがない。政府のトップ判断として意図的に流出させるというウルトラ C を演じたのかもしれないし、検察か海上保安庁の憂国の士が止むに止まれずやったのかもしれない。あるいは、本当に不注意で漏れちゃったのかもしれないし。

ただ、意図的に流出させたんだとしたら、私としては Good job ! と言ってあげたい気がする。細かいことをあげつらえばいろいろの波紋はあるだろうが、大きな視点で見れば、いつまでも隠しておかれるよりはずっといい。それに、現実問題としては永遠に隠しおおせるものじゃない。

で、私としてはここまできたら仕方がないから、これはあたかも、政府判断によるウルトラ C であったかのごとき印象を与えつつ、すっとぼけながら流出源についてはうやむやにしてしまうべきだと思う。そうでないと、単に 「国家機密保守がメチャクチャいい加減な国」 ということになって、対外的な信用を失いかねないし。

元々私は、「沖縄の地検のビデオを保存してある PC に、ウィニーをインストールしちゃいたい」なんて冗談 (実際はそんな無造作な保存はしてなかっただろうが) を口走っていたので、そうまでしなくても流出しちゃったというのは、手間が省けたというものだ。

で、内容としては、ありゃあどうみても、中国漁船の方が意図的にぶつかってきたというほかない。先行的にビデオを見た国会議員の中には、 「ちょっとコツンとぶつかるような」 なんて発言をする某福島瑞穂さんのような方もおいでだが、「まあ、見方は人それぞれだけど、本当にそんな感性だったら、命がいくつあっても足りない」と言っておこう。

今後の問題として、私としては中国側がどんな抗議の仕方をしてくるかということに注目したいのだが、本日午後 4時過ぎの段階では、公式の抗議が寄せられたというニュースを確認していない。多分、本当に寄せられていないのだろう。

中国側は、ビデオがこんなに早く公開されてしまうとは想定していなかっただろうから、多分、どう対処していいか、ずいぶん悩んでいるんだと思う。インターネットでは 「あっけらかんと流出させちゃえ」 なんていう意見が飛び交っていたが、まさかこんなに早い時期に本当にそうなるとは、私も思っていなかったからね。その意味でも good job だ。

中国としては、本当に公式の抗議を発しにくいシチュエーションだ。下手に抗議したら墓穴を掘ることになる。だから、もしかしたら公式発言なしのまま、「あんなでたらめな映像なんか、相手にしない」 なんてつぶやきながら、ずっとすっとぼけ通すかもしれない。

日本側としては、このビデオの内容について、公式には何も言わない方がいいだろう。何か言っちゃったら、カードが 1枚減る。それに、何も言わなくても周りがいろいろ言ってくれる。だから向こうが何か言いだすまで、貸しを作っておく方が利口というものだ。向こうが何も言わなかったら、いつまでも貸しを作ったままでいられる。

重要なのは、「流出させちゃってごめんなさい」ではなく、「流出しちゃったね。でも、何か文句ある?」のままでこちらもすっとぼけ続けることだ。すっとぼけつつ、貸しがあるのはこっちだぞということだけは、いつまでもうじうじと意識させておかなければならない。

だけど、民主党政権にそんな芸当ができるかなあ。ああ、心配だ。とにかく最低でも、 「ごめんなさい」だけは言わないでもらいたいんだが。

 

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2010年11月 4日

理屈通りに行かないのが、世界のありよう

今年の 6月 26日に私は「論理思考の限界という記事で、「論理は綿密に掘り下げれば掘り下げるほど、現実の結果によって裏切られる」と書いている。馴染みのある言い方をすれば、「世の中は理屈通りには行かない」ということだ。

ここで「理屈通りに行かない世の中の方が間違っている」と考えるのは、中途半端なインテリの傲慢である。まあ、人の数だけ理屈があるって言い方もされるし。

実際の世界は、ノイズに満ちている。いや、それは決して「ノイズ(雑音)」などではなく、すべてを含んだ「丸ごと」で「実際の世界」なのだが、論理思考で分析するためには、一見ノイズと見えるものを取り除かなければならない。そうしないとケースが途方もなさすぎて、分析手法のテーブルにのらないからだ。

何しろ、人間の脳はデュアルタスクが限度で、一度に 3つ以上のことを交えて比較検討や分析をしようとすると、とたんにアバウトになってしまうもののようなのだ。だから一般的な分析検討をするためには、はなはだ恐縮なことながら、ノイズを取り除いてやらなければならない。

それでギリシャの昔から、論理的思考というのは弁証法的メソッドによって、A か B か、あるいはイエスかノーかの二項対立に還元してから行うのが基本になっている。そうでないと、厳密には考えられないからだ (参照)。

ところが実際の世界は、人文学的な世界も物理的な世界も、複雑系で成り立っているので、作業の各段階で当然のように小さなノイズをそぎ落としていくと、その積み重ねで得られた最終結論は、実はかなり「純粋化されすぎた」ものである可能性がある。

それが実際の結果によって、いとも簡単に裏切られてしまうことがあるのも当然だ。どのノイズをどこまでそぎ落とすかによっても、結論はどんどん違ってくるが、こうしたことが最も目立つのは経済分野だ。しかしつぶさにみれば、医者や化学者も、目の前に突きつけられた現実を見て「おかしいなあ」とつぶやくことが、いかに多いことか。

繰り返すが、実際のケースは複雑系でノイズに充ち満ちているから、理屈通りにいかないことがあって当然なのだ。現実というのは、実験モデルとは違う要素をくさるほど内包しているのだから。

だから、「おかしいなあ」とつぶやくことを否定してはいけないし、むしろそのつぶやきから出発するという試みもあって当然だ。このブログの右のサイドバーで紹介している『感染症は実在しない―構造構成的感染症学』(岩田 健太郎・著)というのも、ある意味では、そうしたつぶやきを重視しているところがあるかもしれない。

できるだけノイズをそぎ落とさずに、現象を丸のままつかもうとすると、今度はデータ的に膨大になりすぎて手に負えない。翌日の天気はスーパーコンピュータでかなり正確に当てることができても、1週間先の天気予報はむずかしいという事実をみても、それは明らかだ。

これが「論理」というものの限界である。上記の「構造構成的感染症学」は、そのあたりをかなりうまく交わしてこなしている試みかもしれない。

一方で、論理には限界があるから、オルタナティブな可能性を探るために、直観的にまるっと把握して進もうとすると、「科学的でない」との批判を浴びることがある。いわゆる「科学的」でないのは百も承知で進もうとしても、その百も承知の基礎的事項をイチから丁寧に説明しようとしてくれる親切な人が後を絶たない。

論理というものは、とことん突き詰めれば「不確実性」に行き当たらざるを得ない。この不確実性を笠に着て、チョー怪しい試みまで「科学的」と言い張る一部のカルトには、私は決して与しないが、注意深く進められるオルタナティブな可能性へのトライアルまで、「科学的でない」という一言で全否定してしまうのは、かなりもったいないと思う。

アプローチや手法が必ずしも厳密に科学的ではなくても、後付け的に科学的に解釈・説明できる可能性もあるかもしれないし。

それはもしかして、従来は「ノイズ」として切り捨てられていた要素を拾い、改めて見直す作業であるかもしれない。まあ、元々「ノイズ と思われていたことを大まじめに取り扱うのだから、ヴァルネラブルなのは当然だし、オルタナティブ側も妙に科学を軽視しすぎる傾向があるのも問題だと思うが。

最近私は、人々が口にする「科学」ということに関して、「現代の科学的手法の延長線上に存在するであろう未発見の理論・法則等も包含した、宇宙の根本的法則」というような意味合いと、「いわゆる科学的手法に沿った現時点での科学分野の成果」という意味合いが、ごっちゃにされているきらいがあると思う。前者は「科学は絶対的なもの」という視点だし、後者は「相対的・限定的なもの」と捉えられる。

この辺が、いわゆる科学論議の陥っている罠の根本的要因だが、私としては、議論をする以上は「根本的法則が存在する」ということを想定し、期待しつつも、後者の視点を十分に考慮する必要があると思う。

というのは、おそらく存在するであろう根本的法則にしても、人間が認識・解釈しなければ議論の俎上に載せられらないし、しかもそれは認識・解釈した瞬間に「相対的・限定的」なものになるからだ。認識・解釈とは、不可避的にそういうものである。認識・解釈という作業を飛ばして、あるものをそのまま把握しろといったら、それは「直観的アプローチ」との差がなくなる。

11月 2日の記事で私は、「安敦誌」というブログで表明されている「キレの良すぎる一刀両断の意見には、いつも違和感を持ってしまう」という見解に共感を示した。

安敦さんはその違和感のバックグラウンドとして「トレードオフ」という要素を挙げておられる。ほとんどのことには「あちら立てればこちらが立たず」という要素があり、優先度の高い方をとって他方を捨てるという選択が伴うのだが、それを無視して「白か黒か」「善か悪か」という二項対立に持ち込むのはいかがなものかということだ。

このトレードオフというのは、ノイズに充ち満ちた複雑系の現実世界においては、多くの場合において避けられないことなのだろう。

 

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2010年11月 3日

Silly band って、ご存じ?

"Silly band" (シリーバンド) なるものをご存じだろうか? 今、米国の子どもたち、いや、下手すると大学生ぐらいまで大流行しているらしい。どんなものかというと、動物とか花とか文字とか、はたまた楽器とか、いろいろな形をしたゴムバンドである。こう言ってもピンとこないだろうから、いっそ画像でみればすぐにわかる (参照)。

早く言えば、いろいろな形の輪ゴムのようなものだ。で、これを何に使うのかというと、ブレスレッドのように腕に付けるのだ。こんな他愛もないものが、なぜか大流行しているらしいのである。

値段は 10個から 12個入りの袋で、どうでもいいデザインだと 1ドル弱だが、ディズニーやハローキティのキャラクターものは 3ドル以上するらしい。ただ、いくらキャラクターものでも、腕に付けてしまえば元の形なんてさっぱりわからなくなり、ただウニョウニョと波打った色とりどりの輪ゴムに過ぎなくなる。

大人の目から見れば、「一体何がおもしろいの?」ということになるが、米国の子どもたちはなぜか夢中で集めていて、フツーの子でも何十個ももっているらしい。まさに文字通りの「お馬鹿なバンド」である。

流行が過熱して、腕に何十本も巻き付けて血行障害になったり、友達との交換が行き過ぎて奪い合いになったりするので、一部では学校への持ち込みが禁止になっているところもあるようだが、多くの地域ではまだ流行は下火になっていないようだ。

米国というところは、なんだか変なものがはやるところだが、この silly band の元々のアイデアは、実は日本人が考えたものらしい。オリジナルは東京・浅草橋にある「デザイン工房アッシュコンセプト」という会社が、8年前にアメリカのギフト展示会に出品したものなのだそうだ。

ところがこの会社、意匠登録をしていないので、コピー商品が出まくりになっている。もし意匠権を取っていたら、今頃お蔵が建っていただろうが、同社の名児耶秀美(なごや・ひでよし)社長は、「子どもたちにも愛される日用品として海外で認知されれば本望」(参照) と、欲のないことをおっしゃっているようなのである。

まあ、宣伝費に換算すれば莫大なものになるだろうから、先行投資と考えればそれでもいいのかもしれないが。

これが日本に逆輸入されて流行する可能性もあるが、そうなったらネーミングが問題だろう。英語の "silly band" は、シリコンゴム(silicon rubber)製の、お馬鹿な(silly) なバンドというシャレなんだろうが、カタカナの 「シリーバンド」 ではあまりピンとこない。

「アニマルバンド」 でも、もはや動物の形だけではない広がりを見せているから、しっくりこないだろうし、「キャラゴム」 ではベタ過ぎる。何かいいネーミングはないだろうか。あるいは、日本の子はこういうものにはあんまり興味を示さないんだろうか。

 

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2010年11月 2日

ホメオパシーに関する「うじうじ」が晴れた

このところのホメオパシーの一方的な叩かれ方を見るにつけ、なんとなく割り切れない思いがしていた。寄ってたかって 100%インチキみたいに言う世の論調には割り切れない思いがするし、かといって、完全擁護する気にも到底なれない。それに下手なことを書いたら、この趨勢だからブログが炎上しかねない。

こちらは専門知識はないし、試してみたこともないから、当然ながらそれで病気が治ったという経験もない。しかし「ホメオパシーの元々のコンセプトって、予防注射とか、『酒が弱くても、どんどん呑みゃ強くなる』とかいうのと、それほど遠くないんじゃないの?」という私の疑念は強まるばかりだった。、

そんなわけで本当にうじうじしていたのだが、今日、この問題に関してとてもクールに答えてくれているブログ記事が見つかって、それを読んで、私の割り切れない思いがかなり割り切れてしまったのである。それは「安敦誌」というブログの「ホメオパシーについて」という記事だ。

万が一先方に迷惑がかかってしまってはいけないので、一応お断りしておくが、安敦さんはホメオパシーを礼賛しているわけでもなんでもない。「現代のホメオパシーは怪しい雰囲気が満点なのだが、本来はそんなに怪しい考え方ではなかったのではないか」という観点から、非常にクールな見解を述べておられるだけである。

何しろ書き出しが 「しばらく掛かったが、ようやく書く気が起きたネタ」となっているぐらいだから、熟慮に熟慮を重ねた結果の記事と思っていいだろう。それだけに「ホメオパシーは 100%ニセ科学、インチキ!」という考えから少し間をおいて読めば、とても納得しやすい。

なお、ここからは安敦さんの文章からの引用をちりばめて論を展開するが、引用は部分的なものなので、そこだけを取り上げて曲解することのないようにお願いしたい。詳細は、上述のオリジナル記事に飛んで読むことをオススメする。

論の前提としてまず、18世紀末に天然痘ワクチンが開発され、「弱毒化した病原体を健康体の人間に接種することにより、病原性の細菌による感染症に対する防疫を事前に行う」 というコンセプトが成功を収めたという歴史的事例があり、その上で 19世紀初めに、ハーネマンによる 「弱毒投与」 が提唱されたという経緯がある。

当時はまだパスツールによって病原体としての微生物が発見される前だったので、「天然痘に似ているが病原性の少ない病気にかかることで、人体に天然痘に対する抵抗力が生まれる」 という現象面しか分かっていなかった。

(中略)

天然痘以外にもこの拡張されたワクチンの考え方を実験してみようとした医師が現れたとしても自然な流れであるし、この当時としては決して 「トンデモ」 系の発想ではなかったのだろうということがわかる。

発想自体は決して 「トンデモ」 系というわけではなかったということに注目したい。免疫という事実からの発展型アイデアである。また重金属などは別だが、いろいろな毒性に対する耐性が、少しずつ摂取することで強まることがあるのは、経験的にも知られている。酒もどんどん呑みゃ、少しは強くなるみたいなことだ。

しかし、このハーネマンの 「弱毒投与」 は、ワクチンほどには劇的な効果がなかったので、次第に医学の本流から外れ、ホメオパシーという民間療法として、非科学的な方向に発展を遂げてしまった。それについては、安敦さんも次のように指摘している。

本来的に考えれば、ホメオパシーというのは健康な人間が予防的に取り組むべき医療だったはずだが、現代日本で観察されるホメオパシーの実践方法によると、
熱が出てからレメディを飲んで 「治療」 したり、生まれたばかりで一番弱いはずの新生児にビタミンの代わりにレメディを飲ませたりして、理屈からしても妙な
ことになっている。

考慮すべきことは、ほとんど全ての療法には「トレードオフ」があるということだ。いいこともあるが、それにともなって少しは不都合なことも生じるが、まあ、全体として改善すればいいので、少々の不都合には目をつむろうということだ。「あちら立てればこちらが立たず」だが、まあ、この際だからあっちの方を立てることを優先しようってなもんである。

酒に強くなりたくて意識して呑み続ければ、少しは効果があるだろうが、肝臓は少しずつダメージを被るというようなものだ。さらに西洋医学にだって副作用ってものがある。このことを踏まえ、安敦さんは以下のように指摘されている。

一般市民の中にはトレードオフの考え方がなく、白か黒かの極端な判断をしてしまって問題をこじらせているようにも見える。そういう一般知識に近い人々によって運用されているだろう療法が現代のホメオパシーで、そのためにいろいろな問題が発生しているように見える。

こう指摘した上で、次のように書かれている。

善か悪か、真実か虚偽か。そういう白黒判断は強力な道具で、複雑なトレードオフを吟味すると、結果的には単なる優柔不断に陥ってしまう場合もある。それでもやはり、キレの良すぎる一刀両断の意見には、いつも違和感を持ってしまう。

この「違和感」は、私がいろいろな問題で感じるのとかなり近いような気がするのである。私は病気が治りさえすれば、西洋医学だろうが、漢方だろうが、鍼灸だろうが、ホメオパシーだろうが、まじないだろうが、何でもいいという考え方である。世の中には、まじないで病気が治ってしまったという人だっている。要は結果オーライだ。

そう言いっぱなしだと炎上しかねないので、念のため「病気が治りさえすれば」という前提を強調しておきたい。治らなかったり、かえって悪化したりしたら、そりゃやっぱり困るので。

ホメオパシーやまじないは、最初に頼る療法としては考えない方がいいだろうが、あらゆる手を尽くしても治らずに医者にも見放された不治の病人が、最後の最後にまじないやホメオパシーに頼りたいと言ったら、無理に止める理由はない。多分それでも治らないだろうし、死期を早めることにもなるだろうが、心安らかに死ぬことはできるかもしれない。

そして、もしかして奇跡的にそれで治ったとしても、他の人にまでは薦めない方がいいとまで、念のために言っておく。

【追記】

なんか、あちこちで繰り返し書かれている現代科学の視点からの見解をコメントで教示してくださる親切な方がいらっしゃるので、上記の本文で書き足りなかったことを補足しておきたい。

私としては、あんまり当たり前すぎることなのであえて触れなかったのだが、やっぱり一応触れておかないと、私自身が無知なホメオパシー信者という誤解を受けてしまいかねないので、恐縮だが、長々と追記させていただく。

上記で「病気が治りさえすれば」ホメオパシーでもまじないでもいいと書いたが、いくら私でも、もし治ったとしてもそれはプラシーボであって、まじないやホメオパシーそのものの効果ではないということぐらいわかっているので、ご安心いただきたい。

現代科学の見解でも 「ホメオパシーにはプラシーボ以上の効果はない」とわかっている。しかし、それは逆に言えば「プラシーボ程度の効果はあるかも」ということで、プラシーボで病気が治ることもあるということは、現代医学も否定していない。

しかしだからといって、そのプラシーボ効果に積極的に期待してもしょうがないということも、またホメオパシーにはプラシーボ効果以上の危険性もあるということもちゃんと理解しているので、さらにご安心いただきたい。だから、馬鹿なホメオパシー信者に、現代科学の見解を基礎から教えてやろうなんて親切心は無用である。

いくらなんでもそのくらいの基本事項はおさえておかないと、ホメオパシーに関する記事なんて、怖くて書けない。それを無視してノー天気な「ニセ科学批判批判」記事を書いてしまうほど、エキセントリックというわけじゃない。

この記事では、それほど「トンデモ」系ではなかったと思われるホメオパシーの初期のコンセプトは、ずいぶんいびつで不幸な形で発展してしまったのではないか、むしろ、別の発展の仕方をすべきだったんじゃなかろうかということを読みとっていただければ幸いだ。それは、現代の 「免疫学」 とかなりかぶってしまうことになる可能性が大きいと思うが、それ以上の広がりも期待できると思う。

 

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2010年11月 1日

823年に 1度?

発生源は中国のインターネットという説が有力なのだが、先月末に 「今年の10月は金曜日、土曜日、日曜日が全部 5回あるが、これは計算上 823年に 1度しかない。今年の 10月は、823年の中で一番週末が多い 10月」というようなデマが、広まった。代表的なのは こちら である。

チェーンメールでもかなり広がったらしく、それを多くの人にメールで知らせると幸せになるとかいうような話まで出てきて、単純に信じた人があちこちにメールし、そのメールを受けた人の中でまた単純に信じた人がさらにメールを広げたりしたようだ。

「823年」 というキーワードでググると、この関連のページがどっさり検索される。これがデマだと指摘しているページもあれば、「823年に 1度だなんて、スゴイ!」と単純に盛り上がっている人もいる。世の中は広いものだと思う。

ちょっと考えればすぐにわかることだが、第 5 金・土・日曜日の発生する月が、823年に 1度しかないなんてはずがない。月と曜日の関係がそんな複雑だったら、暦がややこしくてしょうがない。実際には大の月(31日まである月)が金曜日で始まれば、自動的に 第5 金・土・日曜日が発生する。

計算上の確率では 1年に 1度になるが、今年は 1月 と 10月の 2度発生していて、そのかわり、2007年には 1度もなかった。いずれにしても、823年に 1度なんてのは途方もないデマというわけだ。

で、普通はこれでこの話はおしまいということになるのだが、私はこういうことになるとしつこい。どうしてまた、こんなばかげたデマを信じて、Twitter で tweet したり、メールに書いて送ったりする人が相次いだのかなんていうことに、興味津々になってしまうビョーキ持ちなのだ。

まず前提となるのは、第5 金・土・日曜日まである月というのは、それほど多くないということだ。確率的には 1年に 1度ぐらいあるとしても、カレンダーを見て「今月は縦の幅がやけに長いなあ」と、漠然と印象付けられているということはある。それはまあ、超レアではないにしても、ちょっと珍しいことではあるわけだ。

ただ、1年に 1度ぐらいはある現象が、先月に限って超レアなものと誤解されてしまいがちな心理状態というのがあると思う。3つほど挙げてみよう。

  1. 人に言われたことについて、「ちょっと待てよ」と考え直すより先に、まず単純に信じて舞い上がってしまうタイプの人がかなり存在する。
     
  2. 前述の通り、多くの人が 「今月のカレンダーは縦の幅がやけに長いなあ」と、無意識的にも感じていたが、暦というものにきちんと意識的に接している人というのは、案外少ない。
     
  3. 今年の 10月は猛暑から真冬の寒さまで、天候の変化が極端に激しかったので、ある意味、非日常的な時間感覚があった。そのため 「823年に 1度」 が、つい受け入れられてしまった。

1番目で挙げたタイプの人が少なからず存在するということに関しては、これだけ「振り込め詐欺に注意」と呼びかけられているにも関わらず、だまされる人が後を絶たないということの説明にもなるだろう。人間というのは、ちょっとツボにはまったことを言われると、かなり怪しいことでもつい信じてしまいたくなるという習性があるようなのだ。

で、どうして今回の「823年に 1度」というのがツボにはまってしまったかというと、それは、2番目と 3番目の合わせ技じゃないかと思うのだ。とくに、3番目の異常気象要因というのが、無意識的ながら大きな要素になっているような気がする。

月初めまでは 「ちょっと晴れればすぐ夏日」 なんていう状態だったのが、月末を待たないうちに「真冬の寒さ」にまで変化した。この非日常的な時間感覚が、「今年の 10月って、なんだか変ね」という思いに変化し、それが「823年に 1度」なんていわれたとたんに、ぽんとツボにはまってしまったということはあるだろう。

いずれにしても、人間の心理というのはなかなかおもしろいものである。

【追記】

Twitter 情報によると、月末の支払いを延ばす口実に使われたりもしているらしい。しかし、実は 823年に一度というわけじゃないので、あまり有効な口実にはならないだろう。

 

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