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2010年11月 8日

「アクセント自由地帯」 を巡る冒険

「みそ文」というブログに「アクセント自由地帯」という記事があるのを発見した。次のような書き出しにちょっと惹かれた。

私が現在暮らす地方は、「崩壊アクセント」と呼ばれる方言文化を持つ。「アクセント崩壊地域」と呼ぶ場合もある。「崩壊」というと、「ほんとうは崩れないほうがよいにもかかわらず」であるとか、「壊れないようにしたほうがよいのではないか」などというイメージが伴われがちかもしれないけれども、そうじゃないんだよ、という気持ちを込めて、別の呼び方をするならば、「アクセント自由地帯」あるいは 「アクセントフリーダムエリア」と言えるのではないかと思う。

私は山形県庄内地方出身だが、現在住まい致すところは茨城県というかなりのアクセント自由地帯である。また、私の妻も仙台というアクセント自由度のめっぽう高い地域の出身なので、「自由アクセント」には常日頃から馴染んでいる。

庄内弁は「今」を関西弁風に尻上がりに発音するなど、標準語とはずいぶん違うところがあるが、逆に頭高型では発音しないという、かなりしっかりとした規則性がある。アクセント・オリエンティッドな方言ということができると思う。

ところが、茨城や仙台などは単語そのものには決まったアクセントなどはないようで、センテンスの中に埋没しながら変幻自在になる。ただしゃべっている方には「自由に変幻自在なアクセントでしゃべっている」というような意識すらないようで、要するにアクセントに関する感覚があまりないというだけのようなのだ。

例えば私の妻は、普段は全然訛りのないソフィスティケイティッドな話し方をするのだが、ただ一つ、「牡蠣」(頭高型)は言えるが、「柿」(平板型)がなかなか言えない。だから、彼女に「カキ(頭高型で発音される)食べる?」と聞かれても、それまでの文脈や状況で判断が付かないときは、注意が必要だ。

結婚当初は、彼女にそう聞かれ「牡蠣フライ」かなんかが食えるのかと思って 「うん、食べる」と答えても、出てきたのは果物の柿だったなんてことがあった。だから唐突に聞かれた場合は、慎重に「果物の柿? それとも海の牡蠣」と聞き直さなければならない。

すると、彼女は「果物の牡蠣」と答えたりする。ここでは便宜上「果物の牡蠣」なんて標記したが、それはアクセントを表すため (標準的なアクセント感覚ではどうしても「果物の牡蠣」としか聞こえないので)で、彼女の意味するところはもちろん「果物の柿」なのである。どうも平板型のアクセントをすらりと言うのが苦手のようなのだ。

本来平板型でない単語を平板型で発音したりすることはよくあるのに、必要以上に意識すると、どこかにアクセントをおきたくなるみたいなのである。彼女が「柿」をまともに言うためには、ちょっとした手続きが必要だ。「柿食えば鐘が鳴るなり」と小声でつぶやいてからだと、辛うじてその流れで、ちゃんとした平板型で「柿」と言える。

彼女の父は、70歳を過ぎて初めて自分のアクセントが標準語と違うことに気付き、「そう言われてみれば、今まで『食べる橋』と『渡る橋』と、どうやって区別してたんだろう?」と言っていた。ここでは「食べる橋」なんて表記したが、それはもちろん、「食べる箸」の意味。しかしどう聞いても「食べる橋」としか聞こえないのである。

下手に区別して言おうとすると、今度は「食べる箸」と「渡る箸」なんてことになって、ますますゴチャゴチャになる。

生粋の茨城生まれの人間が友人の結婚式の司会をすることになり、司会原稿をもって「tak さん、ちょっと私のアクセントがまともかどうか、聞いてみて」なんて言ってきたことがある。「自分ではわからないの?」と聞くと「自分のアクセントが自分でわかったら、こんなこと頼まないよ」と言っていた。

ことほど左様に、アクセント自由地帯で生まれ育った人間には、いわゆるフツーのアクセント感覚というのが養われないみたいなのである。しかしそれをとがめだしたら、日本人が英語の "L" と "R" の区別がつかないことまで言及しなければならないので、もう仕方のないことなのだ。

そもそも「柿」と 「牡蠣」、「橋」と「箸」の区別が付かないで困るなんていうのは滅多にあることではなく、普通は文脈と状況で十分に判別できるから、ほとんど大丈夫なのだ。わかっているのにことさらに聞き直すなんていうのは、ちょっと嫌味なことになってしまうだろう。

困ることがあるとしたら、妙な聞き違いが時々生じることだ。こちらとしては、「どうしてそんな突拍子もない聞き違いをするかなあ」なんて思うことがあるが、それはアクセントのフィルターが機能しないからである。

例えば、「阿弥陀如来」を「涙オーライ」なんて聞き違えるという、「何だそりゃ?」的なトンチンカンが生じる。「阿弥陀」と「涙」、「如来」と「オーライ」 ではアクセントが全然違うので、普通は聞き違えるはずがないのだが、アクセント自由地帯に育った人は平気でそういう聞き違いをする。

「ミシェル・フーコー」が「見せる封筒」になったり、「FAX で送って」が「隠して置くって」になったりもする。これも、アクセントのフィルターにかからないので、聞き違えの可能性がものすごく広がった結果である。

ま、話の種になるからいいか。

 

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コメント

勤めている会社の関西関係者の集まりでは、新参者は「箸の端を持って橋をわたる」というセンテンスを読まされます。
これで純関西人なのか、半関西人なのか、ノン関西人なのかが容易に判明します。
私は、両親が生粋の大阪生まれの大阪育ちなのに(というか、自分も物理的には大阪生まれなんですけど)関西アクセントがかなりアヤシイので、外様大名扱いです。

投稿: きっしー | 2010年11月 9日 15:16

私も、きっしーさん同様、大阪生まれなんですが、アクセントは薄いし、大阪弁の語彙は極めて乏しい
というのも、父親は地方出身者、母親は神戸生まれだが大阪弁がキライという変わり者
それに商家ではなくサラリーマン家庭、北摂の郊外という比較的大阪弁が薄い地域で育った、さらに、大学から最近まで東京に住んでいたという条件が重なっています

数年前、実家に帰阪した当初は、大阪弁になじめず(笑)、最近、ようやくアクセントがやや関西風に順応して来たところです
ただし、ある程度公式の場とか、初対面の人と話す場合は、無意識に共通語になっています

私の観察では、上京した関西人では、少なくとも大学までに上京すれば、共通語アクセントを体得できる可能性が高い(笑)が、それ以降だと困難
個別条件としては、耳の善し悪しが関係してきます
私は、この二つの関門をクリアーしたので、一応、日本語版バイリンガルです

ただし、大阪人の中には、まるっきり最初から大阪弁をなおそうとも思わない人達もいる
(もちろん、それはそれで結構です)
こういう人達は、個性・性格も、しっかり大阪人的なように思えます
私は、あまり大阪愛国者ではないもので、魂を東京に売りました(笑)

投稿: alex99 | 2010年11月 9日 16:39

きっしー さん:

>勤めている会社の関西関係者の集まりでは、新参者は「箸の端を持って橋をわたる」というセンテンスを読まされます。

わはは。

私はもしかしたら、関西生まれであるとだましおおせるかもしれません。

結構耳がいいので。

投稿: tak | 2010年11月 9日 17:03

alex さん:

確かに同じ大阪でも、言葉の感覚はかなり違いますね。

>大阪人の中には、まるっきり最初から大阪弁をなおそうとも思わない人達もいる

それでも日本中大抵通じるから、大阪弁は強いです。

庄内弁でそれをやったら、通訳が必要になります。

両親が生粋の庄内人で、子どもたちがそれぞれ東京や大阪に出て、そこで結婚し、盆や正月に配偶者を連れて帰郷したりすると、兄弟姉妹で一番言語感覚の優れたやつがその場にいなくなると、コミュニケーションがとれなくなります。

同じバイリンガルでも、適切に気の利いた通訳をこなすには、やはりそれなりの言語感覚が必要なので、誰でもできるわけではないようです。

そのあたりは、私は達人でして、もろに日本語・庄内弁の同時通訳ができます。
(このレベルのことが英語でできたら、私は引っ張りだこの同時通訳者になっているはずです ^^;)

投稿: tak | 2010年11月 9日 17:14

tak shonaiさん

先に私は、「バイリンガル」だ大言壮語しましたが、今、つらつら、考えてみると、そうではありませんでした

正統な濃い古い大阪弁だと、聞き取る(ヒアリング)ことがせいぜい
しゃべる方は、もっとひどくて、大阪弁とも言えないレベルの薄いものです
努めて大阪弁らしくしゃべろうとすると、意志的努力が必要ですし、窮すると、古手の吉本芸人の話し方の真似のようなことをしてみたり(笑)
それに、転勤などでよそ者が増えた私の自宅近辺では、本物らしい大阪弁をしゃべる人もいません

ここに謹んで訂正し、お詫び申し上げます(笑)
 <(_ _)>

投稿: alex99 | 2010年11月 9日 17:58

alex さん:

>正統な濃い古い大阪弁だと、聞き取る(ヒアリング)ことがせいぜい

うぅむ、「正統な濃い古い大阪弁」って、どんなものなのか、そこまでは私の認識も深まっていません。

私としては桂米朝師匠の噺しぶりを 「いいなあ」 と思うのですが、あれは 「正統な濃い古い大阪弁」 と言っていいのでしょうか。それとも、やはり多少はアレンジが加わっているのでしょうか。

翻って、私の庄内弁も、「正統的」 と言えるかどうかは疑問です。

どれを 「正統的」 というのかによってぶれるんですよね。

鶴岡の城下町のそれを言うのか、酒田の商家のそれを言うのか。

私の場合は、祖母が 「はましょ」 (浜衆) なので、気の荒い漁師言葉が混じっていて、決して上品な庄内弁ではないと自覚しております。

もしかしたら、大阪で言えば河内弁に近いポジションかもしれず、ある意味、かなりディープではあります。

投稿: tak | 2010年11月 9日 19:13

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