理屈通りに行かないのが、世界のありよう
今年の 6月 26日に私は「論理思考の限界という記事で、「論理は綿密に掘り下げれば掘り下げるほど、現実の結果によって裏切られる」と書いている。馴染みのある言い方をすれば、「世の中は理屈通りには行かない」ということだ。
ここで「理屈通りに行かない世の中の方が間違っている」と考えるのは、中途半端なインテリの傲慢である。まあ、人の数だけ理屈があるって言い方もされるし。
実際の世界は、ノイズに満ちている。いや、それは決して「ノイズ(雑音)」などではなく、すべてを含んだ「丸ごと」で「実際の世界」なのだが、論理思考で分析するためには、一見ノイズと見えるものを取り除かなければならない。そうしないとケースが途方もなさすぎて、分析手法のテーブルにのらないからだ。
何しろ、人間の脳はデュアルタスクが限度で、一度に 3つ以上のことを交えて比較検討や分析をしようとすると、とたんにアバウトになってしまうもののようなのだ。だから一般的な分析検討をするためには、はなはだ恐縮なことながら、ノイズを取り除いてやらなければならない。
それでギリシャの昔から、論理的思考というのは弁証法的メソッドによって、A か B か、あるいはイエスかノーかの二項対立に還元してから行うのが基本になっている。そうでないと、厳密には考えられないからだ (参照)。
ところが実際の世界は、人文学的な世界も物理的な世界も、複雑系で成り立っているので、作業の各段階で当然のように小さなノイズをそぎ落としていくと、その積み重ねで得られた最終結論は、実はかなり「純粋化されすぎた」ものである可能性がある。
それが実際の結果によって、いとも簡単に裏切られてしまうことがあるのも当然だ。どのノイズをどこまでそぎ落とすかによっても、結論はどんどん違ってくるが、こうしたことが最も目立つのは経済分野だ。しかしつぶさにみれば、医者や化学者も、目の前に突きつけられた現実を見て「おかしいなあ」とつぶやくことが、いかに多いことか。
繰り返すが、実際のケースは複雑系でノイズに充ち満ちているから、理屈通りにいかないことがあって当然なのだ。現実というのは、実験モデルとは違う要素をくさるほど内包しているのだから。
だから、「おかしいなあ」とつぶやくことを否定してはいけないし、むしろそのつぶやきから出発するという試みもあって当然だ。このブログの右のサイドバーで紹介している『感染症は実在しない―構造構成的感染症学』(岩田 健太郎・著)というのも、ある意味では、そうしたつぶやきを重視しているところがあるかもしれない。
できるだけノイズをそぎ落とさずに、現象を丸のままつかもうとすると、今度はデータ的に膨大になりすぎて手に負えない。翌日の天気はスーパーコンピュータでかなり正確に当てることができても、1週間先の天気予報はむずかしいという事実をみても、それは明らかだ。
これが「論理」というものの限界である。上記の「構造構成的感染症学」は、そのあたりをかなりうまく交わしてこなしている試みかもしれない。
一方で、論理には限界があるから、オルタナティブな可能性を探るために、直観的にまるっと把握して進もうとすると、「科学的でない」との批判を浴びることがある。いわゆる「科学的」でないのは百も承知で進もうとしても、その百も承知の基礎的事項をイチから丁寧に説明しようとしてくれる親切な人が後を絶たない。
論理というものは、とことん突き詰めれば「不確実性」に行き当たらざるを得ない。この不確実性を笠に着て、チョー怪しい試みまで「科学的」と言い張る一部のカルトには、私は決して与しないが、注意深く進められるオルタナティブな可能性へのトライアルまで、「科学的でない」という一言で全否定してしまうのは、かなりもったいないと思う。
アプローチや手法が必ずしも厳密に科学的ではなくても、後付け的に科学的に解釈・説明できる可能性もあるかもしれないし。
それはもしかして、従来は「ノイズ」として切り捨てられていた要素を拾い、改めて見直す作業であるかもしれない。まあ、元々「ノイズ と思われていたことを大まじめに取り扱うのだから、ヴァルネラブルなのは当然だし、オルタナティブ側も妙に科学を軽視しすぎる傾向があるのも問題だと思うが。
最近私は、人々が口にする「科学」ということに関して、「現代の科学的手法の延長線上に存在するであろう未発見の理論・法則等も包含した、宇宙の根本的法則」というような意味合いと、「いわゆる科学的手法に沿った現時点での科学分野の成果」という意味合いが、ごっちゃにされているきらいがあると思う。前者は「科学は絶対的なもの」という視点だし、後者は「相対的・限定的なもの」と捉えられる。
この辺が、いわゆる科学論議の陥っている罠の根本的要因だが、私としては、議論をする以上は「根本的法則が存在する」ということを想定し、期待しつつも、後者の視点を十分に考慮する必要があると思う。
というのは、おそらく存在するであろう根本的法則にしても、人間が認識・解釈しなければ議論の俎上に載せられらないし、しかもそれは認識・解釈した瞬間に「相対的・限定的」なものになるからだ。認識・解釈とは、不可避的にそういうものである。認識・解釈という作業を飛ばして、あるものをそのまま把握しろといったら、それは「直観的アプローチ」との差がなくなる。
11月 2日の記事で私は、「安敦誌」というブログで表明されている「キレの良すぎる一刀両断の意見には、いつも違和感を持ってしまう」という見解に共感を示した。
安敦さんはその違和感のバックグラウンドとして「トレードオフ」という要素を挙げておられる。ほとんどのことには「あちら立てればこちらが立たず」という要素があり、優先度の高い方をとって他方を捨てるという選択が伴うのだが、それを無視して「白か黒か」「善か悪か」という二項対立に持ち込むのはいかがなものかということだ。
このトレードオフというのは、ノイズに充ち満ちた複雑系の現実世界においては、多くの場合において避けられないことなのだろう。
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コメント
ありがとうございました。
おもしろかったです。
先日のホメオパシーのお話もおもしろかったので、
「安敦誌」を
私のお気に入りにいれました。
ありがとうございました。
投稿: 朱鷺子 | 2010年11月 4日 13:06
朱鷺子 さん:
コメントありがとうございます。
「安敦誌」 は本当にクールですね。
投稿: tak | 2010年11月 4日 15:37
科学って何?を考えてみたときに一番しっくりくるのは、以前起きた現象や直感的に「こうなるのではないか」と思ったことを論理的に分析していく作業なのではないかと思います。
過去の現象を分析することを突き詰めてゆくことで、未来を予想したり、今起きていることの持つ意味を知る作業だという風にも言えます。
早い話が「温故知新」って言うことの論理バージョンですね。
投稿: 蝠樂亭 | 2010年11月 4日 22:34
蝠樂亭 さん:
>科学って何?を考えてみたときに一番しっくりくるのは、以前起きた現象や直感的に「こうなるのではないか」と思ったことを論理的に分析していく作業なのではないかと思います。
詰まるところは、「人間の左脳の機能に最適化したメソッド」 と私なんかは思っていて、てことは、「左脳の限界に規定されることから免れない」 とも思っています。
投稿: tak | 2010年11月 4日 22:49
tak shonaiさん
おっしゃることはわからないでもないし、また、「科学は相対的・限定的なもの」であることが総体的に真実であろうとは思います
ただし、厳密な理論的なレベルとはちがって、我々の現実の普通の生活一般においては、科学というものを、ほぼ信じて生きて行っていい、むしろそうすべきである、といえるのではないでしょうか?
さもないと、宗教や金儲けなどの魑魅魍魎がますます跋扈しかねないと思いますが
投稿: alex99 | 2010年11月 5日 13:46
alex さん:
>ただし、厳密な理論的なレベルとはちがって、我々の現実の普通の生活一般においては、科学というものを、ほぼ信じて生きて行っていい、むしろそうすべきである、といえるのではないでしょうか?
日常生活においては、科学というものを信じて生きて行く方がいいと、私も思います。
ただ、「究極的には絶対ってわけじゃない」ということを理解した上でという条件付きです。
(私みたいに日常から外れたがる人間ばかりだと、逆に困るかもしれませんが ^^;)
ただ、科学自身としてもそうしたことを認めつつあるような動きを示しているようにも見えますので、なおさら OK だと思います。
投稿: tak | 2010年11月 5日 16:04