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2010年12月15日

「山鹿流陣太鼓」ってものは、ないんだって

昨日は忠臣蔵討ち入りの日ということで、それにちなんだ記事を書いたが、書いた後でいろいろな疑問が湧いてきたので、ちょっと調べてみた。そうすると、お馴染みの物語としての「忠臣蔵」と、史実としての「赤穂事件」の相違がますますわかってきたのだった。

一番ずっこけてしまったのは、討ち入り直前に大石内蔵助が打ち鳴らしたとされる「山鹿流陣太鼓」というものは、なかったというのである。「山鹿流兵法」というのは確かにある。開祖を山鹿素行とする兵法で、江戸時代には諸藩に普及していた。

しかし、山鹿流兵法というのはあっても、山鹿流陣太鼓なんてものはなく、これは物語の中のフィクションであるということがわかった(参照)。まあ、討ち入りの直前に陣太鼓なんて打ち鳴らしたら、不意打ちが効かなくなるから、実際にはそんなことはしなかったろうとは思っていたが、山鹿流陣太鼓そのものが想像の産物だったとまでは知らなかった。

三波春夫の『俵星玄蕃』では、「一打ち二打ち三流れ、確かにあれは山鹿流儀の陣太鼓」なんて歌われる。私の好きな芝居『松浦の太鼓』でも、討ち入り当夜に陣太鼓が聞こえてくると、勘三郎扮する松浦公が、太鼓の音に合わせてその拍子をもっともらしく指折り数えて確認し、「おお、あれはまさしく山鹿流の陣太鼓!」なんてなことを言う。

それなのに、何だよぉ~、あれはみんなでたらめだったのか。

ずっこけはしたが、まあ、ここまで物語としてフィックスされてしまうと、それはそれでもう認めざるを得ない。物語の力とは、偉大なものである。

ちなみに討ち入りの夜に天下無双の槍を構え、外部からの邪魔が入らないように立ちはだかって守ってくれたと外伝にいう俵星玄蕃なる人物も、実在しなかったのだという(参照)。おいおい、あの三波春夫の名調子はどうしてくれるのだ。

それから、私がずっと前から疑問に思っていたことは、四十七士以外の家来は、どうなってしまっていたのかということである。5万 3千石クラスの大名の臣下は大体 300名はいたらしい。その約 300名のうち、討ち入りに参加したのは 47名(46名という説もある)である。

これではたったの一割五分である。結構少ない。残りの八割五分の多くは、我が身大事ということで、討ち入りには加わらずに新しい仕官の道を探していたのだろう。

さらに Wikipedia にあたってみると、当初は討ち入りの計画に加わりながら、途中で脱落したのが 12人もいる(参照)。この中には、酒におぼれたり大阪の女郎と心中したり金品を盗んでトンズラしたりしたのもいるから油断できない。

お家取りつぶしの目に遭って浪士の身となると、初心を貫き通すのは難しかったのだろう。脱落者を追ってみればなかなかの人間ドラマが見られるかもしれない。

 

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