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2011年1月に作成された投稿

2011年1月31日

天気が本当に極端

寒い! 日本海側は大雪だ。故郷の酒田では多くの人が一日 4回の雪かき (朝に自宅の駐車場から出る時、会社の駐車場に入る時、夕方に会社の駐車場から出る時、自宅の駐車場に入る時)で、へとへとになっているらしい。

とにかく、近頃は天気が極端である。

子どもの頃の夏休みの宿題で絵日記を付けていた頃の記憶を辿ると、酒田では真夏でも 30度になることは稀だった。日の当たる部屋にかけてある寒暖計が 30度以上を指していたとしても、測候所の発表は 28~29度ぐらいだった。ところが昨年の夏は、酒田でも連日 33~34度を記録していた。

昭和 46年に大学に入って東京に出てきたが、当時は関東でも 32~33度ぐらいになると大変な暑さだった。ところが昨夏は 33度になると少しは暑さが和らいだような気がして、ほっとしていた。そして昔の冬は平均的に少し寒くて、都区内でも最低気温が氷点下になることもたまにはあったと記憶している。

とはいえ、一時的に極端な数字が出ることを除けば、1年間の温度差はおおむね 35度以内に収まっていたように思う。ところが、最近は一時的な数字を除いても、気温差が 40度ぐらいに開いていると思う。これは大変な差だ。砂漠とまでは行かないが、その方向に近づいているではないか。たった 50年足らずのうちに、こんなになってしまった。

雪にしても、私が酒田で高校時代を過ごした昭和 40年代前半までは、多少の変動はあっても毎年大体同じぐらいの積雪があって、同じような苦労をしていたものだ。ところが最近は、降らない年はほとんど降らないが、降るとなるとどっと降る。

近頃は酒田でも雪の全然ない正月が珍しくなくなって、中学や高校の野球部が真冬にグランドで練習している。こんなことは、昔は考えられなかった。野球部員は冬になると、体育館の片隅で腹筋したり、廊下の端っこをぐるぐる回る意気の上がらないランニングをしているしかなかった。

こんなだから、東北や北海道 (太平洋側を除く) の高校野球部が甲子園に出ても、一回戦でボロ負けするのが常だった。私の母校は一度だけセンバツに出たが、1回戦で沖縄の豊見城高校に 10 - 0 で負け、その豊見城は二回戦で簑島高校にやはり  10 - 0 で負けた。初めから簑島とやったら、20 - 0 でやられるところだった。

最近、北海道東北勢が甲子園でもそれなりの活躍をするようになったのは、ひとえに冬でも野球の練習ができるようになったからだと思っている。もしかしたら、最近の甲子園の記録を調べたら、大雪の年は北海道・東北勢があっさり負けるなんていう傾向が発見されるかもしれない。(いや、強豪校は屋内練習場を持っているから、関係ないかな)

一昨年の冬はスキー場でも雪不足に悩まされた記憶があるが、今年はスキー場に行っても吹雪で外に出られないなんてことがあるようだ。本当に極端すぎる。

こんなに天気が極端になったということは、上述のように、日本列島とその周辺が砂漠に近くなっているからではないかという気がする。いろいろな環境変化を吸収するバッファーとなる自然環境が、砂漠ほどではないがかなり貧弱になっているために、ちょっとした変動要因がストレートに反映されてしまう。

あのモデレートな温帯気候が衰退して、夏は熱帯、冬は寒帯の様相を呈するという、ものすごく変動幅の大きな気候帯に日本は属してしまったと、諦める方がよさそうだ。

 

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2011年1月30日

サッカーは美しくなければ

週末だというのに、二日連続仕事。土曜日は江古田まで出かけて、それが終わってから高校時代のクラス会。夜中に帰宅して風呂に入ると、サッカーのアジアカップ決勝戦。これを見ないで寝るという選択はなかった。今日の仕事も顧みず、延長戦終了まで眠い目をこすりながら観戦したのである。勝って優勝したからよかったけど。

で、本日の日曜も朝から仕事。今度は水戸方面である。北に向かうとやはり寒い。それに寝不足だから、車のハンドルを握るにも緊張する。帰りは雪になりそうという情報もあったが、幸いそうはならず、ようやく帰ってきた。それで、明日は朝からまた都内にでかける。考えてみれば、今年になってから三が日以外は休んでいない。相変わらずの暇なしだ。

それにしても、昨夜の(じゃない、日本では今日になってからの)サッカーは興奮した。実力から言えば、プレミアリーグのレギュラー選手を 3人も抱えるオーストラリアの方が上と言っていいのかもしれない。事実、高さに勝る攻撃力で、日本はゴール前に押し込まれるシーンが目立った。

それをしのぎにしのぎ、延長後半のあの素晴らしいゴールで優勝を決めてくれた。長友選手の左サイドでの動きは始めから素晴らしかったが、最後のあのシーンは秀逸だった。本当に本当に、心のこもったふんわりとしたクロス。ノーマークになった李が、芸術的なボレー(格闘技好きの私は「回し蹴り」と言いたい)で決める。ぴくりとも動けない GK。

ああ、あのシーンを何度脳内ビデオでスロー再生したか。美しいゴールだった。準決勝の日韓戦で、延長後半終了ギリギリに韓国が決めた、どさくさ紛れのこぼれ球がたまたま入ったみたいなのは、やはりおもしろくない。わが先輩 alex さんによると、あの手のゴールは昔、「百姓一揆」なんて言われていたらしい (参照)。

昨日の決勝ゴールは美しかった。あの美しさなら、負けた方も納得いくだろう。ラグビーの精神的な美しさと違い、サッカーではやっぱり、形としての華麗なまでの美しさを見たいのである。日本代表、課題はまだまだあるにしても、進化したなあ。

 

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2011年1月29日

大阪弁における「はん」と「さん」の使い分け

3年前に "「殿様問題」- 敬称の序列" という記事を書いたことがある。敬称で「殿」と「様」では、フツーは「様」の方が上位であるとしたものだ。「神様、仏様」とは言うが、「神どの、仏どの」とは言わない。(「神殿、仏殿」は、「しんでん、ぶつでん」と読んで別の意味になる)

この記事で、「関西弁では敬称にも序列があって、「やん、どん、はん、さん」の順に偉くなっていく」と書いた。なるほど、「番頭はんと丁稚どん」というぐらいだからそうなのだろう。しかしこれにも例外的適用というものがあるらしい。

語尾が「い」と「う」で終わる名前には、「はん」はそぐわないのだそうだ。それを知ったのは、たまたま こちらのページ を読んだからである。

ブルースシンガーユニットの 「三井ぱんと大村はん」 で、なぜ「三井はん」が破裂音の「三井ぱん(pan)」になったのかというと、落語家の桂雀三郎師匠に、「大阪弁では "三井はん" とはいわへん」 と指摘されたからなのだそうだ。

「こいさん」とはいうが、「こいはん」とは言わない。同様に、「三井(みつい)」は語尾が「い」なので「三井はん」にはならないというのである。そのため、「三井はん」の「は」をシャレで破裂音に変えてしまったのだそうだ。こちらのページには、その件について次のように明快に解説してある。

(船場言葉の場合だすけど)
まあ、普通は「はん」を付けることが多いですわ。そやけど、「はん」はおかしい、「さん」やろぅ、という事例をまとめたら以下のようになります。

イ列 (イ段) ・ ウ列 (ウ段) ・ ん で終わる名前→ 「さん」を付ける
【例】・・・森さん・奥さん・御寮さん (ごりょんさん) ・桶井さん (おけいさん)
サ行の音で終わる名前→ 「さん」
【例】・・・きよしさん(きよっさん)・ やすしさん (やっさん)・ 高橋さん (たかはっさん)
人を表す名詞→ 「さん」
【例】・・・パートさん・ 新婚さん・ 他人さん

なるほど、そうだったのか。私は関西弁にはかなり馴染んでいるつもりだったが、ここまで明確には認識していなかった。このページには "京阪電車の「おけいはん」の 場合だっけど、あれ、「おけーはん (おけえはん)」と発音するなら OK なんやけどねぇ" とある。

最初に紹介したページでは、私の件の記事の「番頭はん」もおかしいのではないかと疑問を呈しているが、紹介された解答(ベストアンサー)では、"「番頭はん」は、「ばんとー (お)」はん、なんでしょう" とされている。私は「ばんとはん」だと思っていたのだが、生粋の関西人がそう言うのだからそうなんだろう。

なんでこんなことを言いだしたのかというと、Twitter で 木津勘助さんの「波平はん家長 #atakowa 磯野家」という tweet を見て、そのシャレのセンスの良さに感動して、つい座布団 3枚上げたくなってしまったのだが、「ん? 待てよ」 と、上記の大阪弁文法をつい思い出してしまったからだ。

悔しいことに、「波平はん」にはならないようなのだ。「い」で終わってるからね。他人事といえば他人事だけど、やっぱり、ああ、悔しい。「権兵衛はん」は「ごんべはん」と読めばいいんだろうが、「なみへはん」はちょっと無理がありそうだし。

 

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2011年1月28日

iPad 2 を待望している私

以前私は、メインマシンとしてのデスクトップ PC と、持ち歩くためのモバイル・ノートの 2台体制でやっていた。しかし昨年 5月に Panasonic の Let's Note CF-S9 を購入して以来、これ 1台だけを使っている。

それまでメインマシンとして使っていたデスクトップよりも Let's Note の方がずっと性能がいいので、別にメインマシンを使って 2台体制にする意味がなくなってしまったのである。それで、Let's Note の唯一の弱点であるディスプレイの小ささを補うために、自宅ではずっと使ってきた 19インチのディスプレイと、外部キーボードをつないで快適に使っている。

しかしそれにしても、Let's Note は高い。昨年 5月に買った時は、モデルチェンジ直前の最後の 1台だったが、それでも 16万円ちょっとした。Dell のノート PC なんか、ちょっと高スペックなものでもうまく買えば 6万円ぐらいで買えるというのに、惜しげもなく 3倍近い値段のものを買ったのである。

それもみな、外に持ち歩くためである。Let's Note はバッテリー持続時間がとても長い。うまくやれば 8時間以上軽くもつ。新幹線で大阪に行くまで、E-mobile でインターネットにつなぎっぱなしでも、余裕で仕事し続けられる。

最近の新幹線のぞみはほとんど N700系で、コンセント付きになったが、出張のすべてがのぞみに乗っていくというわけじゃない。だから、バッテリー持続時間の長いのは捨て難い魅力だ。他の安いマシンでは、こうはいかない。

しかし考えてみれば、今の世の中には iPad というものがある。外でちょっとした仕事をこなすなら、これで十分だ。軽いし、バッテリー持続時間も十分だし、持ち歩くならこれでいける。しかも今年の春過ぎには iPad 2 も出そうだし、性能的には文句ない。

これを買ってしまえば、今の Let's Note は、家に置きっぱなしにすることができる。どうしても外で必要な時だけ持ち歩けばいい。あまり持ち歩かない方が、機械も長持ちするだろう。そして、何年かしていよいよ壊れたら、Dell の安いノート PC を買えばいい。重さが 3kg 以上あっても、バッテリーが 2時間もたなくても、外で使うつもりがないからかまわない。

そしてコスト的にも、Let's Note 1台体制で最低でも 16万円以上使うより、iPad と安いノートで合計 12~13万円程度に抑える方が得だと、今頃になって気付いた。それに、外に出るときには iPad の方が少し軽いし、起動も早い。

よし、それでいこう。しかしここまで来たら、とりあえずは iPad 2 の出るのを待とうと思う。

 

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2011年1月27日

政界再編に向かうのか、向かわないのか

政権党の民主党がガタガタである。フツーは与党には求心力が働いて、野党には遠心力が働くと言われるが、今の状況はまったく逆だ。与党である民主党の方が事実上の分裂状態を示し、野党の自民党は余計なことをいうジイさん連中がおとなしくなって、一見だが一枚岩のように見える。

これはもう、与党が与党ではなくなっているということを示している。菅政権はそのうち衆院解散に追い込まれるだろうが、この状態で総選挙をしたら、民主党はボロ負け必至だ。自民党が政権に返り咲くのは、もはや織り込み済みと思っていいだろう。

それがわかっているから、現在は与党のはずの民主党がまるで野党のような分裂状態になり、現在は野党のはずの自民党は、早く解散に追い込むために一丸になっている。先に希望があるというのは強いなあ。

民主党の一部はこのままだと次の総選挙でどうしようもないので、政界再編を視野に入れて、新しい枠組みで勝負したいようなそぶりを見せている。マスコミの論調でも、これからは「政界再編」という言葉が頻出するようになるだろう。

ちなみに「変節」したとしてあちこちから批判されている与謝野さんだが、確かにこの人は、求心力の強まっている自民党から出て、さらに「立ち上がれ日本」からも出て、ドロ船状態の民主党政権に参加した。まあ、セーフティ・ネット的に「無所属」という立場を保持しているが。

ただ、この人が「立ち上がれ日本」に参加したのは、民主党がここまでガタガタになる前、そして自民党が政権を失ってがっくりきている時期だった。だから「求心力」に逆らってスピンアウトしたというわけじゃない。

逆に「このまま自民党にいたらどうしようもない」という危機感からだったろう。あわよくば、民主党との連立もできるかもしれないと思ったとしても、不思議ではない。しかし「立ち上がれ日本」は平沼さんがあの通り頑固な原則主義者だから、民主党との連立なんてあり得ないということが明白になった。

そうなると与謝野さんとしては、今さら自民党に戻るわけにも行かず、自分の健康問題もあって残された時間は短いということがわかっているから、チョー短期的視野で民主党政権に参加することを選択したのだろう。それが見え透いているから、ご覧の通り、全然支持されていない。

私としては、今の枠組みで進むよりも、一度ガラガラポンして政界再編してもらいたいとずっと思ってきたのだが、これが単に民主党残党の隠れ蓑みたいな状況になるんだったら、かえってややこしい状況に突入してしまうんじゃないかと、うんざりしている。

ああ、政治って本当にうっとうしいなあ。こんなうっとうしいことへの付き合いを強要される有権者も大変だ。付き合いを拒否して選挙に行かないという人が増えるのも当然だと思う。私としては、うんざりしつつもお付き合いだけは継続するつもりなのだが。

 

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2011年1月26日

ニューヨーク流の 「ブラインド・デート」 なるもの

軽いけどこじゃれたニューヨーク情報のサイト "Cube NY" に、「ブラインド・デート」なるものの話が出ていた。"在NY日本人が語る 「ニューヨークでのブラインド・デート体験」" という記事である。

「ブラインド・デート」 というのは、別にお互いに目隠ししてデートをするというわけではない。実際に会ってみるまでどんな人だかわからないので、「ブラインド」なのである。つまり人の紹介による「お見合い」みたいなものだ。ニューヨークにも、知人や友人の結婚相手を紹介したがる世話焼きがいるのだね。

ところがこのページに紹介された 7人の体験談を読むと、ハッピーエンドに終わったケースは 1件もない。全部破局とも言えないほどの見当はずれのケースか、自然消滅だ。

「女性 (30歳) 在NY 6年」 という人は、同性の友人に離婚経験のあるちょっと金持ちの男性を紹介され、デートしてみた。友人の旦那が 「僕の友達に君の女友達はどうかなぁ」と言い出したのがきっかけだったという。

ところが相手の年齢は 50歳ぐらいというふれこみだったが、会ってみるとどうみても 60歳以上に見え、一緒にいるのが苦痛に感じるほど「気持ち悪い」男だったので、即刻お断り。「ブラインド・デートなんてするもんじゃないとその時は思いました」と、この女性は言っている。

「男性 (44歳) 在NY 15年」という人は、一度だけ米国人の女性(学校教師)を紹介されてデートしたが、相手のハイテンションに圧倒されて自然消滅。何となくわかるような気がする。

「女性 (31歳) 在NY 6年」は、「アジ専」(アジア女性専門に好む)の男性を紹介されたが、「どうしても アジ専というと、アメリカ人女性に相手にされない弱い男性というイメージが抜け切れなくて…」というわけでうまく行かず。

「女性 (39歳) 在NY 11年」は、日本語を話す男性を紹介されたが、相手があまりにもエキセントリックなので調べてみると、精神病の治療を受けていたことがあるとわかり、それを隠して紹介した友人にも不信感をいだくことになった。まあ、米国人が精神科にかかるなんていうのはそれほど珍しいことじゃないのかもしれないが。

「女性 (36歳) 在NY 9年」は、同じアパートの男性に知り合いの日本人女性を紹介した。しかし、日本人女性の方はものすごく気に入ってテンション高まりっぱなしだったが、男性の方が相手のあまりのハイテンションに引いてしまって破談。

とまあこんな具合で、うまくいった話は一つも紹介されていない。ここでちょっと嫌な話なのだが、ニューヨークにおける日本人を含むアジア人蔑視の雰囲気を感じてしまうのは、私だけではないんじゃなかろうか。

上記の女性も 「アジ専というと、アメリカ人女性に相手にされない弱い男性」というイメージをもっているということだが、白人女性には見向きもされないような「ちょっとワケあり」の男性を、周囲が「日本人女性なら相手にしてくれるかもしれない」と思い込み、紹介したがるというケースが多いんじゃないかと思うのである。やっかみかもしれないが。

日本の「お見合い」の場合は、履歴書と写真を取り交わすなんてことがあるらしいから、ニューヨーク流の「ブラインド・デート」よりは安全かもしれないが、いずれにしてもきちんと相手を見定めないとアブない。

 

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2011年1月25日

「じゃによって」という言葉

@kmiyazawa さんの tweet によって、「じゃによって」という IBM 用語があると知ってびっくりした。なかなか時代がかっている。「子供が狂言の稽古を始めたもんでリアル『じゃによって』を目にするようになったのが可笑しい」と書かれているように、古典芸能ではお馴染みの言葉である。

意味は「~であるから」というようなことだ。「~じゃ(である)」という断定を受ける言い方で、「左様なことぢやによって、かやうにあい成るのぢやわいなあ」みたいに言う。歌舞伎、とくに丸本物(文楽からきた演目)ではフツーに使われる。ということは、上方で一般的に使われていた言い回しなのだろうか。

IBM というハイテク企業に、こんなような古い言い回しが生き残っているというのはおもしろい。もしかしたら IBM の企業文化って、外資系と上方系の合わせ技なのかしらん。日本法人が発足した当初のエライ人の中に、古典芸能好きの大阪人が多かったとか。あるいは文楽の太夫の息子がいたとか。

それにしても「じゃによって」は、どちらかと言えば口語的な言い回しなのだが、IBM ではドキュメント・テキストの中に「じゃによって」を使うのだろうか? そうだとしたら、ちょっと異様な感じがする。

「IBM 用語辞典」というサイトには、「じゃによって」の別名に「よってもって」があると書いてある(参照)。もしかしたら、会議などでは 「じゃによって」と言い、その議事録では「よってもって」に翻訳されるのだろうか。

そう言えば、IBM 用語には「ディスケット」というのもあると聞いた。今ではほとんど見かけることもなくなったが、フロッピーディスクのことである。

私が昔よく顔を出していたオフィスの長老格、某氏は、フロッピーディスクのことを「ビスケット」と言っていた。もちろん「ディスケット」を聞き違えて覚えてしまったのである。その間の事情については、私の過去記事「フロッピーディスクとビスケットを巡る冒険」に書いてある。

IBM という会社は、ずいぶんいろいろユニークなものの言い方を好むようなのだ。私の知ってる IBM 社員は、とくに妙な日本語を使うという印象はないのだが、実は社に帰ったら「じゃによって」なんて言いまくっているのだろうか。

「じゃによって」は順接の接続詞みたいな使い方だが、話の筋道がそうすんなり行かない場合は、「じゃと言うて(ゆうて)」になる。歌舞伎などでは 「忠ぢやと言ふて孝を捨つるもならず」みたいな言い方で、悶々とする美学に突入する。

ちなみに、一部では「じゃによっては」という言い回しが「悪い方向に転んでしまった場合は…」 という意味合いで使われているらしい(参照)。これなんか「邪に寄っては」と書くしかないんだろうなあ。いわゆる「じゃによって」から派生したのかもしれないが、意味合いは全く別の特殊な言い回しになってしまっている。

 

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2011年1月24日

子どもの金切り声

近頃気になっていることに「子どもの金切り声」というのがある。見たところ大体 3歳から 5歳ぐらいの小さな子に多いのだが、耳に突き刺さりそうな甲高い「キィー!」という声で叫ぶのである。それはほとんどの場合、1度や 2度では終わらない。下手すると延々と続くこともある。

人が大勢集まっているところ、ショッピングセンターや駅、電車の中などでこれをやられると、かなり気に障る。ちなみにうちは娘が 3人いてそれぞれ成人してしまっているが、いくら小さい頃でも、3人ともこんな声は上げなかった。

ちょっと気になって調べてみると、「キンキンした金切り声を叫び続ける子とあげない子」 という Yahoo 知恵袋のページが見つかった。この質問へのベスト・アンサーとして挙げられた解答の一部を紹介しよう。

(前略) そこまでしないと親が構ってくれない子と、ちょっとぐずればすぐに構ってもらえるような環境の子との差です。
貴方も経験したように、金切り声を上げ続けるような子供は、その状態でも親がすぐには対処しない場合が非常に多いです。
これは、その声に親が慣れてしまっているというのもありますが、基本的に子供への関心が薄くあまり構っていない(ので、子供は必要であればわめき続ける)ってのもあると思います。

「なるほど」 という気がする。これも一つの解答だ。しかし、そればかりではないような気もする。金切り声を上げる子どもというのは、何かを要求して叫んでいるというより、金切り声で叫ぶ行為自体に快感を覚えているように見える。

MSN 相談室の「金切り声がすごいのです」という質問には、「声を出すのが楽しいんでしょうかね。(^^; 」とか「とりあえず今はきっと娘さんの "マイブーム" になっちゃってますね」とかいう解答が寄せられている。この辺りは、「子どものことをよく見てるなあ」と思う。

とりあえず子どもの金切り声には「何かを要求している場合」と「快感を覚えてマイブームになっている場合」があるように見える。そして人の集まる場所で意味もなく金切り声を上げ続ける子というのは、後者の「快感マイブーム」のケースが多いという印象だ。あるいは「どう、すごい声でしょ?」ってな感じで少しだけ得意になってるかもしれない。

この場合の問題は、金切り声を上げる子供ではなく、それを放っておく親にあると思う。日本は子どもの大声にかなり寛容な文化圏だと思う(欧米だと大ヒンシュクになる)が、いくらなんでもうまく興味をそらして止めさせないと、周囲に迷惑をかけ続けることになる。そのことにあまりにも無頓着な親が多い。

私なんか結構図々しいから「済みませんが、静かにさせていただけませんか」なんて言っちゃう(本当は「じゃかあしい! 黙らせろ!!」と言いたいのだが、ぐっと抑えている)方なのだが、そう言うとこちらをすごい目でにらみつけてくる親もいる。

やはり、問題はどちらかといえば親の方にある。

 

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2011年1月23日

SMAP がハモらないのは

だいぶ前のことだが、森山直太朗がラジオにゲストとして出演しておもしろいことを言っていた。「母の世代は、どうして集まるとすぐ車座になるんだろう。そして、どうして誰かの弾くギターに合わせて、すぐにハモって歌い出せるんだろう」と、子供の頃から不思議に思っていたというのである。

そして彼はずっと、「自分の世代には、車座になってハモって歌える歌がない」と感じてきたのだそうだ。ふぅん、そうなのか。そうなのかも知れない。私の世代にとっては、集まってみんなで歌い出すのは案外自然なことで、しかも複数の人間が集まって歌うのにハモらなかったら、何だか損をしているような気さえしてしまうんだがなあ。

ビートルズとアメリカン・フォークソングの洗礼を受けた者にとっては、ハーモニーというのはごく当たり前のことで、ほっとけば自然に付いてしまうようなものなのである。複数の人間で歌うのにハモらないなんて、あまりにももったいないことのようにさえ思ってしまう。

しかしそういえば、最近はグループで歌っても全然ハモらないのが多い。SMAP なんかは交代でソロを取って、サビはユニゾンというスタイルで何年もやってきている。私なんか、「5人もいて、どうしてハモらないんだよ ?!」と、かなりいらつく。「後ろでフラフラ踊ってる暇があったら、少しはハモれよ!」と。

なぜハモらない」でググってみると、「Yahoo 知恵袋」という Q&A サイトに、「ジャニーズ系はなぜハモらない」「AKB48 はなぜハモらない」「PUFFY はなぜハモらない」 という質問が見つかった。なるほど、SMAP ばかりではない。

最近契約問題で話題になっている韓国の KARA というグループも、ちらっと聞いてみたら「代わりばんこにソロ取って、サビはユニゾン」という日本のアイドルグループと変わらないスタイルだ。これが最近の東アジアのデフォルトなのかしらん。

で、Yahoo 知恵袋に寄せられた一連の「なぜハモらない」系質問への解答でベスト・アンサーに選ばれているのは、例外なく「ハモらないのではなく、ハモれない」ということになっている。PUFFY の件では、「ハモれないって本人が言ってるの聞いたことあるよ。相手につられちゃうんだって」だそうだ (参照)。うーん、正直でよろしい(と言っていいのか)。

思うに、彼らが「ハモらない」本当の理由は、市場がそれを求めていないからなのだろう。いくらナチュラルでハモりが苦手でも、市場がそれを求めていれば、事務所が必死に練習させてでも身につけさせるだろう。それをしないのは、市場にハモりのニーズがないからだ。

一応プロのアイドルグループがハモりを苦手とするぐらいだから、その辺の素人のにいちゃんねえちゃんたちも多分、ハモりは苦手なのだろう。ということは、オリジナルで下手にハモられてしまうと、カラオケで歌えない。カラオケで歌えない歌は、流行らない。

日本のアイドルグループの歌は、素人にカラオケでどんどん歌ってもらうために、あまり面倒なことはしないのである。多分。必死に訓練すれば、ハモりぐらいは身につけられるだろうけれど、敢えてそれをしないのは、そのためだろうと思う。

ただ私としては、歌舞伎の割り台詞じゃあるまいし、「代わりばんこにソロ取って、サビはユニゾン」という安易なスタイルから脱却しない限り、日本の音楽の底上げは無理だろうと思っている。Perfume あたりがクールなハモりをフィーチャーしまくってくれるといいのだが、彼女らも最近はハモりを自粛しがちに思われる。

 

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2011年1月22日

「あの節はどうも…」で気持ち悪くならないのは、ちょっと問題

時々人に会って、「あの節はどうもお世話になりまして…」なんてお礼を言われることがあり、そのたびにちょっとガクっとなってしまうのだが、「そういう時は『その節は』って言うもんだよ」と言うのも面倒だから、かなり親しい関係でもなければ知らんぷりしている。

言葉の使い方というのは別に法律で定められているわけでもないので、「あの節は…」でも別にいいのだが、やはりそこは「その節は…」でないと感覚的に気持ち悪い。だが、平気で「あの節は…」という人にとっては、気持ち悪くもなんともないみたいなのだ。これはちょっと、日本語の危機なんじゃないかと思ってしまう。

「こそあど」は、便宜的に英語を訳すときに "this" "it" "that" "what" に当てはめているから、そんな風に解釈している人もいるが、それは元々の日本語というより「翻訳語」である。本来の日本語は英語との機械的な対応関係で説明しきれるものではない。「こそあど」はなかなか面倒なのである。

外国人に日本語教育をしている「矢野アカデミー バンクーバー」というサイトでも、"「その節」か「あの節」かどっち…?" というページでこの問題を論じている。このページにおける「こそあ」の違いの説明の仕方が、とてもわかりやすい。

まず第一に、距離の問題である。次のように説明されている。

まず先生の近くに本を置いて生徒に 「これは本です」。生徒の近くに本を置き、先生はもとの場所に戻って、「それは本です」。そして二人から遠くに本を置き、生徒と肩を組んで 「あれは本です」 と何回も繰り返す。

つまり、自分の近くにあるのが「これ」で、相手の近くにあるのが「それ」 。そしてどちらからも離れているのが「あれ」だ。つまり、「自分」と「相手」という存在を意識しないと、「こそあ」はうまく説明できない。これは日本人でもそれほど明確には意識化されていないことだと思う。

さらに距離だけの問題ではない。自分にも相手にも見えないほど遠くのことについて語る場合の、「あ」と「そ」の使い分けは、ちょっと別の問題になる。件のページには、次のように説明されている。

もう一つの使い方は話し手と聞き手と両方分かっている場合には「あ」を使い、片方しか分からない場合には「そ」を使いましょうである。

(中略)

「ロブソン通りにおいしいラーメン屋があります。今度その店に行きましょう」であり、「きのうのラーメンおいしかったね。今日もまたあの店に行きましょう」である。

つまり、自分は知っているが、相手はまだ知らない店に行く場合には「その店に行きましょう」だが、一度二人で行ってしまって、両方とも知ってしまったら「またあの店に行きましょう」となるのだ。

とてもわかりやすい説明である。

ところが、このページでも困っているのが「その節は…」という言い回しだ。「その節」がいつのことを言っているのかは、話し手と聞き手の両方わかっているのだから、本来ならば「あの節」というべきなのではないかという疑問が当然湧き上がるのである。「あの時はどうも…」なんていう場合は、決して「その時はどうも…」なんて言わないし。

やはり「その節はどうも…」というのは、日本語の文法としてもかなり変則的な言い回しなのである。間違って「あの節はどうも…」なんて言う人が多いのも仕方のないことかもしれない。

この件について、件のページでは次のように説明されている。

これは「時」と 「節」 の丁寧さの違い、敬語表現の独特の用法なのであろう。「節」の場合「あ」を使うとあまりにも生々しく、「そ」を使って何となく和らげ(ママ)と丁寧さを醸し出しているのであろう。

つまり、「その節」というのはかなり婉曲的な表現なのである。婉曲的に言わないと生々しすぎて気持ち悪いから、そのように言うのだ。「あの節は…」で気持ち悪くならないのは、やはりちょっとまずいのである。しかし悲しいことに、「あの節は」でググると、こんなにたくさん ヒットしてしまう。

「その節」は、過去だけではなく、未来を指す場合もある。大辞林には次のように説明されている。

① 過去のあの折、あの時。「―― はお世話になりました」
② 未来のその折。その時。「来月上京いたしますので、―― はまたよろしく」

② の場合なら、「あの節」 にはなりようがないから安心だ。この使い方で、「その節」 に慣れてしまう方がいいかもしれない。

 

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2011年1月21日

iPhone で光学望遠撮影できる 「モバイルフォン テレスコープ」

私は「和歌ログ」という、いわゆる「写真短歌」のようなサイトもやっていて、毎日更新している。このサイトに使う写真には、一時はコンパクト・デジカメ(コンデジ)でも光学 10倍という機能をもつ Lumix を使って案外凝りまくっていたが、最近は「売り物は写真ではなくて和歌」と割り切って、主に iPhone のカメラで間に合わせている。

一昨年頃まで常にコンデジを持ち歩いていたのは、当時持っていたケータイのカメラの性能が悪すぎて、いくら何でも使い物にならなかったからだ。しかし、iPhone 3GS を買ったら、カメラが案外使えるではないか。さらに iPhone 4 に替えたら、もうほとんど文句なしである。

常にコンデジを持ち歩くのもうっとうしいし、iPhone 4 のカメラは、画素数が 500万画素あり、はっきり言って、これだけあれば十分だ。プロユースじゃないんだし、A4 サイズにプリントするわけでもない。和歌ログに添える写真に使うには、これでもややオーバースペックと言っていいぐらいのものだ。

ただ、一つだけ不満があるとすれば、iPhone のカメラには光学望遠がついていないということだ。デジタル望遠しかなくて、望遠の設定にすると、要するにデジタル処理で一部分を拡大表示するだけだから画素が落ちる。つまり写真の質がちょっとだけ落ちるのである。

まあ、ある意味これはしょうがない。iPhone とコンデジの 「2台持ち」 が面倒だからと、フツーの外出時の撮影は iPhone で間に合わせるという選択をしたのだから、それで我慢すればいい。まともに光学望遠で撮影したかったら、常にコンデジを持ち歩けばいいだけのことだ。

そう思っていたところ、今日ふとしたことで「モバイルフォン テレスコープ」というものがあるということを知った。iPhone に装着して、光学望遠撮影を可能にするというのである。いろいろな種類があるようだが、最もお手軽で注目度の高いのが、センチュリーという会社のもののようで、光学 6倍で撮影できるというのである。結構魅力的なお話だ。

同社の直販サイト「白箱ドットコム」(参照)に行ってみると、なんと値段は 1,980円と書いてある。これは安い。アンドロイド版だとさらに安くて 1,780円というのがちょっとだけ気に入らないが、正直なところかなり心が動き、すぐにでもポチってみたくなった。これがアマゾンのサイトだったら、その場で衝動買いしていただろう。

ところがこの「白箱ドットコム」は初めてアクセスだったので、購入するには会員登録が必要だ。そこで急に面倒くさくなって気持ちが萎え、面倒くさがりの言い訳に、「これって、本当に必要なのか?」と、ちょっとだけ間をおいて考えてみた。

上述の販売サイトの写真で見たところでは、小型テレスコープ(望遠鏡)みたいなものを、iPhone にセットして撮影するもののようだ。ということは、そのテレスコープと付属品を常に持ち歩かなければならない。そしてここぞというときに、そのテレスコープと付属品をさくさくっと取り出して iPhone に装着し、その上でおもむろに狙いをつけなければならない。

それを思うと、急に「面倒くさ!」という気がしてしまった。そんなにまで光学望遠の写真を撮りたいのだったら、別にコンデジを持ち歩けばいいだけのことで、その方がずっとお手軽だ。テレスコープはコンデジほどの大きさじゃないが、円筒形のシェイプなので、気軽には持ち歩きにくいだろう。

1,980円という値段は確かに魅力だが、買ったところで、実際にはあまり持ち歩かないんじゃないかという気がする。たまたま持ち歩いていたとしても、取り出して iPhone に装着するのが面倒で、使用機会はそれほど多くならないんじゃあるまいか。

あるいは、ちゃんと持ち歩いて面倒をいとわず装着しようとしても、その間にシャッターチャンスを逃してしまいがちなんじゃあるまいか。被写体は止まって待っていてくれるとは限らない。

と、ここまで考えて、購入は見送ることにした。普段は iPhone で間に合わせて、光学望遠の写真を撮ることになりそうな時にだけ、狙い澄ましてコンデジ持参で外出すればいい。要するに今のスタイルで十分だ。テレスコープを買ってしまったら、荷物が一つ増えるだけだ。

ただ、コンデジを持っていないか、手持ちのコンデジが光学 3倍程度の機能しかないという iPhone ユーザーにはオススメだと思う。たまたま私のケースでは必要性が低いというだけで、品物自体をけなしているわけでは決してない。

 

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2011年1月20日

未病? 未未病?

何だか風邪を引いているようないないような、変な気分である。時々ものすごく寒気がするが、熱を測ってみればなんのことなく平熱である。咳き込んだりするのだが、これはいつものダニ・アレルギーのような気がする。鼻水が出るのもきっとそれだ。

何となく頭痛がするような気もするのだが、意識して「そんなに頭痛いか?」と自問自答してみると、頭痛というほどのことはない。何となく節々が痛いような気がするが、単なる筋肉痛のようにも思える。

そして何より、全然元気なのである。寝込むような感じでは全然ない。朝はさっと起きられるし、電車に乗り遅れそうになれば平気で駆け出せる。駅の階段を二段飛びで駆け上がっても、別に息も切れない。これで病気だなんて言ったら、本当に病気の人に気の毒だ。

しかし、何となく本調子ではない気もするのである。これって、例の漢方でいうところの「未病」ってやつなのか?

ちょっと気になって「未病」というキーワードでググったら、「未病.jp」というサイトが見つかった。そこには、こんなことが書いてある。

肩こり、腰痛、便秘、不眠、肥満など、体が何らかの異常を示すサインを出しているけれど、明確な症状がないため病院では病気と判断できない状態を「未病」と言います。
すなわち、健康な人と、病気の人の間、半病人の状態のことですが、現代人にはこの未病の方がとても多いのです。

ここに挙げられた中では、肩こり以外の自覚症状はないから(「肥満」 はスレスレで大丈夫としておこう) 、まだ「半病人」にはなっていないと思う。「未病」以前だから「未未病」ぐらいのところかもしれない。

しかしいずれにしても、健康には気を付けろというサインが出ているんだろうから、ちゃんと注意して生活しようと思う。なんといっても、健康が一番だ。仕事をするにも、多少不器用で手間がかかっても、健康でありさえすれば、いつかは成し遂げられる。

 

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2011年1月19日

わさびの毒消し作用

私はカーッとくる辛さ、英語で "hot" と形容する唐辛子的な辛さにはとても強くて、カレーなんかも常に「激辛」指定なのだが、わさびの辛さ、あの「ツーン」とくる辛さには弱い。寿司屋で「さび抜き」を注文するほどヤワではないにしろ、あまりべったり塗られると絶句する。

子供の頃、どうして刺身にわさびを付けるのかと母親に聞くと、母は即座に「毒消し」だと言った。わさびで消さなければならないような「毒」 を、ずっと食わせられ続けてきたのかと驚いて、念のため祖母にも確認すると、祖母も即座に「毒消し」と言う。

子供心にはかなりショックなことだったが、かといって刺身を食うのを止めたわけではない。そのあたりは、かなりテキトーなものである。逆にわさびさえ付ければ刺身の毒は消えるとばかり、安心してどんどん食い続け、死にもせずに現在に至っている。

最近、ふと思いついて「わさび/毒消し」のキーワードでググってみたら、確かにわさびには強力な解毒作用があるということが確認できた。「わさびスルフィニル」という成分のおかげなのだそうだ。祖母も母も、そんな化学的知識はなかったはずだが、昔ながらの知恵というのは、なかなか大したものである。

金印わさび機能性研究所」 というサイトに行くと、わさびスルフィニルの効果が詳しく紹介されている。

わさびスルフィニルには、解毒作用のほか、抗酸化作用、血流改善作用、がん細胞転移抑制作用、糖尿病合併症予防作用、花粉症軽減効果、炎症抑制作用、膝関節痛抑制作用、美肌効果と、かなり広範な効果があるのだそうだ(参照)。わさびもなかなか捨てたものじゃない。

ただ、このわさびスルフィニルというのは、本わさびに含まれている成分だそうで、その辺で売られてるテキトーに水増ししたようなわさびでは、あまり期待できないんだろうと思われる。せいぜい「気は心」程度のものなのかもしれない。

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2011年1月18日

日本人旅行者は silent bomber?

日本人客は、海外では "silent bomber" (静かな爆弾)といわれているんだそうだ。アメリカ人はサービスが悪いとその場でクレームをつけるが、日本人はその場では我慢して何も言わず、帰国してからブログなどで悪口を書きまくるからだという。

J Cast の記事から少し引用してみよう。話の筋としては、海外で泊まったホテルのアメニティやサービスに失望したときにどうするかということからの続きである。

そのとき、読者の皆さまはキチンとフロントにクレームの電話を入れるだろうか。多くは短い滞在期間だし自分が我慢すればいいしと思うだろう。ところが、実際は日本人はそれでは気が済まない。帰国して自分のブログに、ハワイで泊まったホテル○○は最悪! 設備も悪くて2度と泊まりたくないと書き込む人が多いのだそうだ。

今どきは個人のブログとはいえ結構な影響力をもつことがあるらしく、海外のサービス業者はこうした現象に当惑して、「日本人は silent bomber」と言い始めているらしい。その場ではニコニコして帰り、帰国してから突然文句を言い出すという態度に、かなりミステリアスなものを感じているようなのだ。

どうしてこんなことになるのかというと、最もわかりやすい理由は、「日本人旅行者はクレームをつけるだけの英語力がない」ということだろう。日本国内でなら口うるさいお客も、海外に出るととたんに借りてきた猫のようにおとなしくなってしまうという現象は、よく眼にする。

しかしこれは、単純に「言語能力の不足」によるというだけではないと思うのである。私は海外でのサービスに(理不尽でない)不満があったら、「日本語でいいから、怒ればいいんだよ」とアドバイスしている。そうすれば、向こうが日本語のできるスタッフを連れて来るなり、なんとかしてくれる。ところが日本人は、海外に出ると怒ることもできなくなる。

今月 10日に 「Guest と customer は別の単語」という記事を書いた。これは、英語では商売上の客である "customer" (顧客)と個人的なお客である "guest" とは別なのに、日本では両方とも「お客様」で、区別なく神様扱いしてしまうということを書いたものだ。

サービス提供者と "customer" は、原則として平等である。だから米国の顧客はことさらに丁寧なサービスを求めない。たまにすごいサービスをしてもらうと、感激してしまう。ところが日本人は、下にもおかぬおもてなしをされて、初めて「当然」と思う。

まあ、ホテルのお客の場合は英語でも "hotel guest" というが、最近では "visitor" という語が幅をきかせているようだ。つまりホテルの客も、基本的には "customer" なのである。だから、米国のホテルでは気持ち悪いほどの微笑を浮かべた下にも置かぬおもてなしなんて、あまり期待しない方がいい。

部屋の電球が切れていても、アメニティが多少貧弱でも、オーシャンビューが売り物のはずなのに反対側の部屋に泊められても、それは「ありがち」なことなのだ。しかし、その場で苦情(「クレーム」ではなく "complaint")を言えば、まあ、米国のことだから迅速にではないにしろ、ちゃんと対応してもらえることが多い。

日本人の場合は何も言わずに不思議な微笑ををたたえているから、単純な米国人は「満足しているんだな」と思ってしまうのである。

それは、単に英語ができないからということもあるが、もっと大きな雰囲気として、"customer" 文化の空気に飲み込まれて、「私はお客よ、神様よ」という振る舞いができなくなってしまっているからだ。まあ、もっと正確に言えば、どうふるまったらいいかわからず、困惑して遠慮しっぱなしということになってしまうのだろうが。

ところが日本に帰った途端に、再び「お客様は神様」文化の空気を吸って、めらめらと不満が頭をもたげる。「あのサービスは、一体何なんだ!」となり、我慢ができず、ついブログにも書いてしまう。

海外旅行から帰ったばかりの人がつい陥りがちな、「海外のサービスはひどい。日本は素晴らしい」みたいな、ちょっとした愛国的感情もそれに拍車をかける。それで話にも尾ひれがつきがちだ。

この文化ギャップは、なかなか根が深い。ちなみに、"bomber" の読みは 「ボンバー」 ではなく 「ボマー」。

 

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2011年1月17日

神戸新聞社の例のキャラが萌えない本当の理由

ululun さんの記事で、神戸新聞社の「緊急雇用創出事業に基づくアルバイト募集」の募集告知(参照)というのを知った。一部では既にかなり話題になっているらしいが、「右のキャラクターがいまいちいけていない(萌えていない)理由を 3つあげなさい」という例のアレだ。

リンク先をみていただければ一目瞭然だが、本当に「いけていない(萌えない)」キャラなのである。ただ、その萌えない理由を 3つ、言葉で挙げて説明するというのは、なかなか難しい。ululun さんも、"イラストにすると「わかりやすい」ものも文章にすると今ひとつ伝わりにくい" と書いておられる。

それで私も、次のような tweet をした。(参照

例の萌えない理由を三つ書くとかいうアレ、あれこれ言うよりも「こんなんで萌えるわけない」という言い切りで十分なんじゃないかなあ。一目瞭然の感覚的事項を下手に説明すると、その言葉によって裏切られる。

こう書いたのは、告知広告のイラストを見れば、それが「萌えない」ということは一目瞭然なので、わざわざ言葉で説明する必要がないと判断したからである。「萌える絵」はいくらでもあって、それらと見比べれさえすれば、イヤでも一目で違いがわかる。こうしたことは、あえていろいろなことを説明しようとすると、かえってわからなくなる。

Togetter をみると、「髪型とキャラ像があってない」「目が死んでる」「生気がない」「単色すぎる」「髪の色と服が同色」「表情がない」「属性が想像できない」「へただから」とかいうのから、「鼻が高すぎる。鼻と口の位置が上すぎる」とかいうやや専門的なものまで、いろいろな意見が書かれている。

だが、こうしたポイントを備えていながら、それでも十分萌えるというキャラも中にはあるはずだから、一つ一つの事項を挙げても、究極的な答えにはならない。やはり、「一目見ればすぐわかる」というしかないような気がする。「萌える」という、極めて感覚的な事項を言葉で説明するのは、本当にむずかしいのだ。

ただ、これを少し視点を変えて論じると、例のキャラが萌えないのは、「神戸新聞社からの『萌えないキャラを描いて』という注文に、イラストレーターが忠実に応えて描いたから」ということができると思う。ある意味、ちょっとした職人芸である。

イラストレーターが「萌えないキャラ」という注文に対応するためにどんな手法を使ったのかというと、「パーツ」としての「萌え要素」を、少しずつビミョーに換骨奪胎的にズラして備えたキャラを描くことによって、「萌えない」という要素を満たしたのだと推察される。

ミク的なスタイルを少しズラしてダサダサにし、大きな目に瞳をいれずにぼんやりさせてしまうことで存在感を希薄にし、顔や体のバランスを少しずつ貧弱方向にズラすことで「フィジカルな萌え感」を微妙に裏切っている。

そうした手法によらずに、個人のイラストレーターの主観で「萌えない絵」を描いてしまったら、もしかしてそうしたテイストに逆に限りなく萌えてしまう人間がいないとも限らない。しかし、既存のティピカルな萌え要素を少しずつ裏切るという手法なら、大抵の場合は「萌えない」で済む。

「萌えない」の最大公約数を作るには、「萌える」のそれぞれのパーツをちょっと足したり引いたりしてアレンジするだけでいいのだ。絶世の美人がちょっと顔をゆがめるだけで、がっかり顔になったり、流行から外れたばかりのスタイルが一番もっさりして見えるのと同じ理屈である。

つまり、このキャラが萌えないのは「萌え要素を少しずつ裏切って萌えないように描いたから」というしかない。決して「下手だから」というのではなく、クライアントの要求に極めて忠実に応えた結果なのである。ここまで微妙に萌えない絵を描くというのも、なかなか大変だったろうと思われる。

 

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2011年1月16日

関東の雪

昨夜、水戸からの帰り道でみぞれになっていたと書いたが、8時過ぎ頃につくばに帰り着くと道路はからからに乾いていた。だから雪の心配は全然無用と思いつつ、安心してベッドに入った。

ところが今朝起きて、カーテンを開けてみて目を疑った。一面銀世界だったのである。しかも、雪は止むことなくしんしんと降り続いている。今朝も車で水戸方面に行く仕事があったので、大あわてで朝食をとり、予定より 1時間も早く家を出た。

常磐高速はチェーン規制になっていたものの、幸い積雪はほとんどなく、順調に水戸に着いた。高速道路を降りてから、日陰の測道や橋にさしかかる上り坂などでアイスバーンになっていて、慣れない車はかなり難儀していたが、私はスタッドレスタイヤに替えたばかりだったので、何の問題もなく目的地に着いた。

私は問題なく着いたのだが他のメンバーがかなり遅れてしまい、仕事開始がかなりずれ込んだが、結局は問題なく終了。これで週末 3日間を使ったワークはつつがなく終わった。ありがたい。

仕事中に、関東人の雪に対する弱さが話題になった。確かに関東人の多くは雪に全然慣れていない。今日みたいな突然の雪の朝などは、通勤で近道になる田んぼの中の道を通ると、必何台かの車が田んぼに落ちている。気の毒なことである。

曲がりくねった田んぼの中の道で、妙に急加速したり急ブレーキをかけたりするものだから、タイヤがロックした状態になり、ということは、スキーをはいているのと変わらないことになって、ハンドル操作が効かず、田んぼの中にまっすぐに落ちてしまうのである。最近は ASB が普及したので減ってはいるが、やはり 2~3台は落ちている。

それから、橋にさしかかる道は大抵土手を越えるためにちょっと上り坂になるが、そこでビビって止まってしまうと、そんなところは大抵風でアイスバーン化しているから、タイヤが空回りして発進できなくなってしまう。しょうがないから、後ろで停められてしまった車から人が降りて、押してあげることになる。

そんなこんなで、関東ではちょっとした雪で道路が麻痺状態になってしまうことが多い。東北の人間は、わずか 5センチ足らずの積雪でどうしてそんなことになるか理解できないのだが、「慣れない」ということは、なかなか大変なことなのだ。

今日の雪は、幸いにもすぐに解けてしまった。ありがたいことである。

ちなみに、関東では雪が降ってもその後にすぐに青空になることが多く、青空の下で輝く白雪というのはなかなか美しいものである。雪国ではなかなか味わえないことだ。雪国の雪は、積もり始めたらどんどん積もってしまう。風情を楽しむどころではない。

それから、今回の雪はいつもの春先の「関東型の雪」ではない。西高東低の冬型気圧配置で生じた雪雲があまりにも強大なので、上越の山を越えて関東平野にまでせり出してきてしまったことによる。今年の冬は、なかなか強力のようだ。

 

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2011年1月15日

寒空と大学入試

昨日からいわゆる「センター試験」というのが行われているらしい。私が大学受験をした頃は「共通一次」とかいうのもなくて、各大学がそれぞれ入試問題を独自に作っていたんだと思う。今もそうしている大学があるのかもしれないが、なにしろ私はそっちの方面についてはほとんど何も知らない。

昨日も Twitter で「共通一次とセンター試験の違いも知らない」というようなことを書いたら、早速 Hiro_Eclipse さんが「名称変わっただけじゃなかったでしたっけ?」と教えてくださった(参照)。そんなこととは、ちっとも知らなかった。

いずれにしても、この受験シーズンというのは天気が悪い。受験生にははなはだ気の毒なことである。よりによってこんな寒い時期に入試を行わなければならないのだから、大変だ。

昨日から明日までの 3日間、仕事で水戸に通っているのだが、昨日の帰り道は水戸方面はみぞれになった。昨日の朝一番で、普通のラジアルタイヤをスタッドレスに替えてあったので、別にあせりはしなかったが、とにかく寒さが一番厳しくなる時期には違いない。

こんな時期に入試が行われるというのは、春の 4月に新年度が始まるという、日本独特の制度による。4月に新年度を始めるためには、入試はその前に済ませておかなければならない。

桜が咲き終わり、いかにも新たな気持ちで新年度が始まるのはいいが、それを保証するための入試時期を逆算して考えると、一番やっかいな時期になってしまうというのが、なかなか痛恨である。痛恨ではあるが、日本人のメンタリティとしてこれが一番ぴったりと来るようなので、長らく変わらずにきているのだと思う。

やれやれである。

 

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2011年1月14日

たいやきくんは、幸いなのか、不憫なのか

先日、ラジオから 「およげ! たいやきくん」 が流れてきたので、ふとくだらないことを思い出した。この歌が流行ったのは 1975年、私が大学生だった頃の話である。この歌は大ヒットして、街を歩けばこの歌の聞こえてこない日はなかった。

レコード・CD の売上げはオリコン調べで 450万枚、一説には 500万枚以上売れているという、シングル版としては日本で一番売れた曲だ。こんなに売れたのに、歌手の子門真人は買取契約しか交わしていなかったために、歌唱印税が全然入らなかったというのも、知る人ぞ知るエピソードである。

この頃、私は大学を留年して、しかも残った単位はほんのわずかだったので、ほとんど一年中アルバイトと、音楽や演劇活動をしていた。本当に浮世離れした生活をしていたのである。海に飛び込むほどの喧嘩をする相手もなく、やりたいことだけをやりたいようにやって、金がないことをのぞけばストレスとは無縁の生活をしていた。

それだけに、身から出たさびで、やがて海の中でふやけて溶けてしまうであろうたいやきくんが、不憫でしょうがなかった。そして、そのうち自分も喧嘩したら海に飛び込んで溶けてしまうしかないような、ストレスに満ちた浮き世に出て行かなければならないかもしれないと思い、それもまた不憫だった。

しかしこの歌を最後まで聴いていると、たいやきくんは海の中で溶ける前に、おじさんに釣り上げられ、食べられてしまうのである。これはふやけて溶けてしまうよりずっと幸いなことだったろう。

そしてあれから 35年以上経った今でも、たいやきくんの歌は時々ラジオから流れてくる。まるでたいやきくんは一匹ではなく、次から次に海に飛び込み、そして釣り上げられ、食べられてしまっているようなのだ。これが幸いなことなのか、あるいは延々と続く不憫なのか、判断に戸惑うところである。

さらに自分自身としても、海に飛び込むほどではないが、ストレスに満ちた浮き世をなんとか漂流して溶けて流されずに済んでいることが、幸いなのか、あるいはまた、延々と続く不憫なのか、判断が難しい。

しかし、どうせ難しくて判断がつかないのなら、無理矢理にでも「幸い」と思いこむ方がいいと思っている。多分、それが正解なのだろう。

 

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2011年1月13日

若者文化って、画一性が高い

今年の成人の日は終わったばかりだが、ニュースで毎年のように「今年の新成人は、過去最少」と報道される。どんどん少子化しているんだから当たり前で、要するに若者人口が年ごとに縮小していることになる。増えるのは年寄りばかりだ。

若者は数が少ない上に金もない。ということは、若者文化は確実にマイナー化しつつあるということだ。駅や電車の広告でテレビドラマの広告を見ても、若者向けドラマに出ているタレントのほとんどは、顔ぐらいは知っていても名前は知らない。私だけがこの方面に疎いというわけじゃなく、同年代の誰に聞いても似たようなものだ。

高校の同期の集まりに出かけて、二次会でカラオケなんかに行っても、最近の歌は誰も歌えない。どれを聞いても皆同じに聞こえるという。それは、若い連中が演歌を聞いても反応としてはまったく同じなのだが。

エンタテインメントの世界では、市場が細分化されて久しいと言われる。年齢層が違うと、聞く曲が全然違う。若い連中なら誰でも知っている曲を、年配は誰も知らない。だから 「ヒット曲」 と言ってもたかが知れていて、CD の売上げも伸びない。人口が少なくて金を持っていない層でちょっとぐらいヒットしても、どうせ大したことにはならない。

ところが、テレビなどのメジャーな世界でフィーチャーされるのは、そうした若者向けが多い。メジャーなメディアに、加速度的にマイナー度を増している要素が居残っているのだ。テレビにちょっと出て、ちょっと売れてすぐに消えていくタレントが多くなるのも道理である。

その程度のマイナー化しつつある若者文化にメジャーのレベルのコストをかけてプロモーションしたら、フツーは儲かるはずがない。今、何とか儲かってるのは、若者が驚くほど画一的だからだ。

若者市場というのは、人口は少ないものの画一性が相対的に高いので、プロモーション効率がかなりいいんじゃないかと思う。中年以上になってしまうと、画一的には違いないが、いろいろ面倒なことをいって、そのまま素直になびく比率が下がる。その点、若者市場ではちょっとプロモーションすれば、あまり疑いもせずになびいてくれるのが多い。

若者市場は効率がいいのだ。市場が多様化しているなんていうのは幻想で、中身のものすごく画一的なセグメントが、複数存在するだけだ。ビジネス的には若者には思いっきり画一的でいてもらう方が都合がいいので、どんどん画一的に持ち上げて、軽薄にいい気分にさせる。

こうして、規模的にはマイナーな若者市場に、メジャーのコストをかけてガンガンプロモーションするから、画一性のみがどんどん拡大再生産される。「個性的な人材」とやらを求める就職試験の面接の受け答えまで、「望ましい答え」 が準備されている。

その結果、異質な要素を認めない空気が生じる。ちょっと異質な人間は疎外感を抱く。いじめが生じる。失敗してもやり直しがきかない。引きこもる。

生物多様性の重要性が言われるが、多様性というのは人間社会の中でも重要なことだ。これを認めないと、生きづらくてしょうがないのだが、若い連中がどんどん画一化して内向きになっているのは、かなり心配なことだ。

 

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2011年1月12日

よく学びよく遊べ

これは私の意見ではなく、ある高名な学者さんと話をしていたときに出てきた話題である。その人はなかなかフランクな方で、「よく学び、よく遊べ」をモットーにしていらっしゃる。学ぶだけではだめだとおっしゃるのである。それについては、私も双手を上げて賛成だ。

彼は「一流の学者は遊ばない、二流の学者は遊んでばかり」だとおっしゃる。はて、遊ばなくても一流にはなれるのかと疑問に思ったら、彼はダメ押し的に主張する。「よく学んでよく遊ぶ学者が、"超一流" になるんです」

なるほど。彼は言外に「私は超一流」とおっしゃっているわけだが、まあ、言外ではなく直接言われても、彼が超一流であることは衆目の一致するところなので、別に傲慢というわけでもなんでもない。妙に謙遜されるよりずっと気持ちはいい。

彼の指摘はなんとなくそうなんだろうなあという気がして、正面切って「いいや、それは違うでしょう」という反論もしにくい話だ。それに、学者の世界ばかりでなく、ビジネスやエンタテインメントの世界でも当てはまりそうな話である。

しかし、すべてがそうだというわけでもないということは言っておかなければならないと思う。謹厳実直、遊びが嫌いな超一流だっていてもいいし、遊んでばかりで一流になる人がいてもいい。多少の例外を認めておく条件でなら、「その通り!」と思うお話であった。

ちなみに私の場合は、遊んでばかりだからいけないんだろうなあ。

 

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2011年1月11日

radiko というサイト

このブログでも時々書いていることだが、私はラジオ人間である。車を運転している間はほぼ 100%ラジオをつけっぱなしで聞いているし、家にいるときも、狙い澄ました番組以外はテレビをみることはほとんどない。

しかしこれに関しては、最近まで不満があった。私の居住するつくば地域は都心から遠いせいか、受信状態があまりよくないのである。AM 放送は、ラジオを置く向きを微妙に調整しないとノイズが入るし、FM 東京や J-Wave などは救いがたく受信状態が悪い。なぜか、カーラジオの場合は OK なのだが。

ところが、ようやくこの不満が解消した。インターネットの radiko(ラジコ)というサイトで、IP サイマルラジオ(Internet Protocol simulcast radio)が聞けるようになったのである。試験放送の時は茨城県は聴取地域から外れていたが、本放送になってから問題なく聞けるようになった。ありがたいことである。これで、我が家のラジオはノイズから解放された。

ただ、この radiko は、iPhone では聞けないものと思っていたのである。というのは、radiko のトップページにあるメニューは flash で表示されるので、iPhone の Safari ではまともに見えないのだ。ということは、iPhone では対応できないのだと、私は早合点して諦めてしまっていた。

ところが、ある日ふと気付いたのである。これだけ豊富なアプリが用意されている iPhone だもの、radiko の聞けるアプリがないはずないではないか。そう思って探してみたら、やはりあったのだ。iPhone で radiko を聞ける公式アプリが無料で提供されている。もちろん、さっそくインストールした。

これで私は、その気になればほとんどどこでもラジオを聞ける環境を手に入れてしまったのである。ただ、電車などで高速移動中だと、時々ぷつんぷつんと途切れて、ちょっと前から繰り返して受信されてしまう。これだと、聞き終わるのは実際の放送終了よりかなり遅れてしまうだろうという気がする。

移動中の radiko は、現時点ではあまり使い物にならないと思った方がよさそうだ。それでも、出先で気軽にラジオを聞けるというのはありがたい。小型ラジオを持ち歩けばいいではないかと言われそうだが、そこはそれ、ケータイだのなんだのと、あまりいろいろ持ち歩きたくはないではないか。

ただ、このありがたさも、関東にいるときだけのようなのだ。放送の世界では 「県域免許制度」 というシバリがあって、全国で radiko が聴けるようには当分ならないようなのである。これは、地方局の保護のためと言われるが、どちらかと言えば、キー局が地方局に番組配信することで収入を得るという構造が崩れてしまうことの方が問題なのだろうと思う。

私なんか逆に、関東にいても故郷の山形放送を聞きたいと思うことがあるのだが、こうした制度がある限り、その希望が実現されるのはずっと先になるようだ。

 

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2011年1月10日

Guest と customer は別の単語

"emi's" というブログをやっておいでの emi さんが、「日本式サービス×アメリカ式の客」というのは、本当にいいコンビネーションだと思うと書いておいでだ。なるほど、「幸福とは、アメリカの家に住み、イギリスの給料をもらい、中国の食事をとり、日本人の妻を持つこと」というジョークに匹敵するくらいのレベルの、究極の組み合わせだ。

もっとも、件のジョークは 「不幸とは、日本の家に住み、中国の給料をもらい、イギリスの食事をとり、アメリカ人の妻を持つこと」と続いて完成するのだが、emi さんのテーゼは「アメリカ式サービス×日本式の客」になっても、最悪の組み合わせにならないというのがおもしろい。日本人の客は、外国に行くととたんに「神様」でなくなる。ブランドに極端に弱いし。

emi さんの記事から、少し引用させて頂く。

日本では 『お客様は神様』 が基本だけど
アメリカではどちらかというと提供者優位。
だからアメリカの客は最低限のサービスにも
とりあえず満足できるし
それ以上のことを提供されれば大いに賞賛する。

確かにその通りで、アメリカのサービス業の従業員は一般論として、日本では考えられないほどワイルドな態度なのだが、それについていちいち腹を立てる客はいない。むしろ、店と客は対等なんだからという基本理念の元に、そんなもんだとして、疑問すら抱かない。

それは、ものすごい作り笑顔で気持ち悪いほどの接客をする日本のスチュワーデスと、肘掛けにおいた乗客の腕にお尻でボンボン体当たりしながら歩くアメリカのスチュワーデスとを比べてみただけでわかる。そして日本人の客は、日本人のサービス提供者には些細なことで文句を言うが、相手が外国人だと何も言わない。

emi さんは 4年前の記事で、「guest と customer は別の単語だ」(参照)と指摘しておいでだ。なるほど、「ゲストと顧客」は別というのは、当たり前と言えば当たり前だが、日本人の多くがまったく気付いていないポイントである。日本人にとっては、どちらも「お客様」であり、本質的な区別はないのだ。

つい最近、某衣料チェーン店(ユニクロではない「し」のつく方)で、何か店員にクレームを付けた女性客が次第に興奮して、「何なのよ、その態度は。それがお客様に対する態度なの? 私はお客なのよ、お客様なのよ!」と金切り声を上げるのを目撃して、私はぞっとしてしまった。

「し」のつく店の名誉のために言っておくが、その店員はとくに失礼な態度を取ったわけではなく、私の目からはごく普通の対応をしているように見えたのだが。

客が自分で自分を「お客様」と言って、安物衣料品店の店員にぬかづくことを要求する国というのは、世界中でも日本だけかもしれない。他の国では、下にも置かぬおもてなしをしてもらいたかったら、それなりの高級店で常連客になるしかないと考えるのが常識だろう。

 

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2011年1月 9日

カーボンオフセット年賀状というもの

私は昨年から、こちらから出す年賀状はすべてカーボンオフセット年賀状にすることにした。といっても実際には、昨年も今年も、思わぬ先から来た賀状への返事を出すのに足りなくなってしまって、フツーのインクジェットはがきを 10枚買い足してしまったのだが、まあ、90%以上はカーボンオフセットなので、許してもらおう。

カーボンオフセット年賀状とは、通常のはがき料金 50円に 5円プラスして、その 5円分を環境保護のための活動に寄付するという仕組みの年賀状である(くわしくは こちら)。ちょっと高くはなるが、それでも 100枚で 500円、200枚でも 1,000円程度の違いだから、そこは気持よく寄付してしまおうというわけだ。ちゃんと「お年玉付き」だし。

そもそも、私は年賀状などというのは道楽の所行だと思っている。正月だからといって、そんなにむやみに紙を消費しなければならないという理屈はない。その理屈にないところをあえて、道楽のためにやってしまうのだから、せめてもの罪滅ぼしとして 1枚につき 5円ぐらいは寄付してもいいじゃないかと思うのである。

そしてその寄付金を、自分の道楽の結果生じた CO2 分を帳消しにする環境保護活動に使ってもらおうというのである。それで大体「行ってこい」。つまり 「オフセット」ということだ。あとは寄付金のちゃんとした運用を祈るだけである。

というわけで、こちらから出した年賀状の 90%以上はカーボンオフセット葉書なのだが、受け取った賀状をみると、カーボンオフセットのものは非常に少ない。比率にして 5%弱というところである。まだまだ普及していないものとみえる。

こう言っちゃなんだが、普段とてもエコっぽい言動をしていらっしゃる人や企業でも、年賀状は大抵フツーのお年玉付きはがきである。いや、別にそれを非難してるわけじゃない。ただ、そういう人や企業こそカーボンオフセット年賀状にしたら、「しかるべし」と思ってもらえるだろうにと、ちょっぴり残念に思うだけなのである。

私なんか、ブログでちょっとマイ箸だの生物多様性だのと、エコっぽいことを書いてしまっているから、もうフツーの年賀状なんか使ったら人聞きが悪くてしょうがないので、カーボンオフセット年賀状以外の選択肢はないと、勝手に思いこんでいるのである。

宣伝や CM や企業案内パンフレットやウェブサイトなどで一言でも 「エコ」を謳っている企業なんかは、カーボンオフセット年賀状でないとちょっとカッコ悪いよねと思われるぐらいに普及するといいかもなんて、私は微かに思っている。

 

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2011年1月 8日

小寒に入ったばかりで 「春の七草」 というのもねえ

昨日は 1月 7日で、世間では 「春の七草」 ということだったのだが「春」どころではない。冷たい木枯らしが吹きまくって、どえらく寒かった。午前中の体感気温なんか、確実に氷点下だったと思う。

高校三年まで過ごした庄内の地は、1月 7日といえば地吹雪の真っ只中だった。そんな中、ラジオを付けると「春の七草」だという。春の野の草を摘んで、粥に炊き込んで食べ、一年の無病息災を祈るのだそうだ。「一体どこの世界の話だ」と思っていた。

関東の地は、一月になれば春になるのかと思っていたが、そんなわけでもない。来てみればやっぱり寒い。考えてみればそりゃそうだ。一昨日に二十四節気の「小寒」に入ったばかりで、半月後には「大寒」が来る。その半月後にようやく「立春」だ。そんな時期に、「春の七草」なんて、ノー天気にもほどがある。

これもみな、旧暦で祝っていた行事の日付を、無理矢理そのまま新暦に当てはめてしまうなんていう無茶をしてしまったせいなのだ。本来の春の七草は、旧暦の睦月(一月)七日の行事なのだ。旧暦 1月 7日は、今年の新暦でいえば、2月 9日にあたる。

2月 9日なら、立春を過ぎているから、まだまだ寒さは続いているだろうが、一応「春の七草」という面目は立つ。大寒にもなっていないうちに「春の七草」なんて、わけがわからない。理屈が通らないにもほどがある。

一昨年の 1月 15日付の記事で、私は次のように書いている(参照)。

私は年賀状に「新春のお慶びを申し上げます」とか「迎春」とか書くのは、いかがなものかと思っている。(中略)年賀状にどうしても「新春」とか「迎春」とかいう文字を入れたかったら、旧正月に届くように出せばいい。

高校三年まで雪の中で正月を迎えていた私は、新暦の年賀状に「新春」とか「迎春」とか「賀春」なんていう文字を入れるのは、あまりにも生活実感とかけ離れすぎていて、恥知らずの所行のように思われた。それは今でも変わらない。だって関東では雪はないにしても、新暦の正月が「春」じゃないのは、誰が見ても明らかではないか。

新年の挨拶に「新春」などというのは、あれは旧暦で正月を祝っていた頃の名残である。明治の御代に新暦を採用して以来、本来なら引き継いではいけないものを、ノー天気かつ理不尽に引き継いでしまったのだ。あれは旧正月に使う言葉として取っておかなければならない。何度も言うが、新暦の正月は春じゃない。誰が見ても冬でしかない。

旧正月なら大体は立春直後だから、「新春」でも「迎春」でも「賀春」でも OK だ。たまに旧正月の元日以後に立春になるという年もあるが、それでも確実に松の内には立春になるから、固いことは言わないでおこう。固いことは言わないが、寒の入りの前に「迎春」というのは、いくら何でも実態とかけ離れすぎて白々しい。

同様に、私は関東に来て新暦の 7月 7日に七夕を祝うのを見て「馬鹿か!?」と思った。梅雨も明けないうちに七夕を祝ってどうする。彦星織姫に気の毒ではないか。七夕は、私の育った庄内でも、七夕祭で有名な仙台でも月遅れの 8月 7日に祝う。

七夕は、歳時記では秋の季語とされているのをみてもわかるように、夏の暑い盛りを過ぎて夜がだんだん長くなり始めた旧暦の 7月 7日 (大抵は新暦だと 8月の中旬以後、つまり 8月 8日頃の立秋以後にあたる) の季節感にぴったりの行事なのだ。つまり本来なら、月遅れでも早すぎるのである。

行事のすべてを旧暦に戻せとは言わないが、せめて、春の七草と七夕ぐらいは、旧暦でやるようにしないと、日本人の季節感は本音と建前が乖離しすぎてしまうんじゃないかと、私は危惧している。

唯一「秋のお月見」だけは旧暦 8月 15日のままだが、これは新暦の 8月 15日では満月になるかどうか決まっていないし、暑い盛りで、月も朧に見えがちだからしょうがない。旧暦の 15日なら、十五夜というぐらいで、大体満月になる(本当は、少しずれることが多いんだけど、それについてもあまり固いことは言わない)。

本当は七草も七夕も、半月になる日の行事なんだけどなあ。とくに七夕は、天の川を横切る半月が、織姫と彦星の乗る舟に見立てられるという風流があるのだ。そして、旧正月の元日が新月というのにも、当然ながら意味があるわけなのだけれどね。

 

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2011年1月 7日

「ツィンズタワー」 って?

全日本バレーボール高等学校選手権大会というのが 5日から開催されているようで、昨年の高校総体、国体を制した宮城県の古川学園が優勝候補なのだそうだ。身長 180センチを超える双子の姉妹、「大野ツィンズ (大野果歩、果奈)」が大活躍しているらしい。

スポーツ報知のサイトでも、「古川学園 3冠へ 大野 "ツインズタワー" が打つ!止める!…春高バレー」 と、華々しく報じられていて、なかなかの逸材のようなのだ。そして古川学園は今日も、既に 3回戦を勝ち進んでいるようなのである。

しかしここで述べようと思うのは、別に高校バレーボールの状況についてではない。「ツィンズ」という言葉の用法についてである。

"Twin" とは双子のことである。しかしここで注意しなければならないのは、この言葉は "pair" などと違って、「一組の双子」という意味ではない。"Twin" とだけ言うと、「双子の片方」ということなのだ。「一組の双子」というためには、"twins" と複数形にするか、"twin sisters" というように、"twin" を形容詞的に使わなければならない。

ただ形容詞的な言い方をすると、二卵性双生児で男と女の双子だった場合は "twin brother and sister" なんてまどろっこしいことになるから、普通は "twins" で済ませる。だから「大野ツィンズ」という言い方は正しい。

しかし、前述のスポーツ報知の見出しにある 「ツィンズタワー」 というのは誤りである。長身の選手を「タワー」に例えるのは別に問題ないが、上述のように、"twin" を形容詞的に用いる場合には、原則として単数形になるのだ。だから正しくは 「ツィンタワーズ」 でなければならない。

まあ、どうせ日本語化した言葉だからあまりうるさいことを言ってもしょうがないが、この際英語の正しい用法を覚えておいても損はない。もう一度確認しておこう。名詞を形容詞的に用いる場合は、原則として単数形になるのである。

だから、ニューヨーク・ヤンキースのホームグラウンドは、「ヤンキース・スタジアム」ではなく "Yankee stadium" である。かの朝日新聞まで、本文を書いた記者はちゃんと 「ヤンキースタジアム」 と書いているのに、見出しを付けるデスクだか誰だかがつい「ヤンキーススタジアム」なんてやらかしてしまっている (参照)。

ロサンジェルス・ドジャーズのホームタウンも「ドジャーズタウン」 ではなく "Dodgertwon" (この場合はあまり馴染みすぎてワンワードになっちゃってるが) だ。古い話で恐縮だが、1960年代のビートルズへの大熱狂も、「ビートルズ・マニア」 ではなく、(これもブームが大きすぎてワンワードになって) "Beatlemania" である。

その意味では、阪神タイガースがキャンプを行う安芸市営球場は「タイガースタウン」と自称しているようだが、本来は「タイガータウン」にすべきなのだ。しかし日本語化した感覚では「虎の町」みたいなニュアンスになるので、まあ、しょうがないだろう。

さらに、「ジーンズショップ」というのも和製英語で、本当は "jean shop" である。ただこれも、「ジーンズ」も「ショップ」も、もはや日本語になってしまっているので、日本語として 「ジーンズショップ」 でも OK と思うほかない。

ただ、これらは本来は誤用なんだよということを知っておかないと、野放図に変てこな和製英語の量産につながってしまう。某所の清涼飲料自動販売機に "Cans Shop" と書いてあるのは、やっぱりいただけないと思う。そもそも 「缶屋」 じゃないんだし。

 

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2011年1月 6日

「PC の時代」 の終わり

ごくごく普通のホームユーザーの多くは、PC を起動させてもブラウザとメーラーと、ゲームと、季節物(「筆まめ」とか)ぐらいしか使ってない。あとは、デジカメをよく使う人がせいぜい簡単な画像管理ソフトを使うぐらいか。多くの場合、Word や Excel は会社でしか使わないソフトになっている。

会社の仕事を持ち帰る人は別として、ホームユースではもはや MS Office がプリインストールされているなんていうのは、あまり意味がない。そもそもビジネスユースにしても、Word や Excel の機能をまともに使いこなしてる人なんかごくわずかなのだ。

ホームユースとしては、PC の時代は既に終わってる。iPhone や iPad の母艦としての機能と、年に一度ぐらいはあるかもしれないちょっと複雑な作業をこなすためという程度のニーズなら、一家に一台、XP のお古があれば十分だと思う。

定年過ぎのおっさんや家庭の主婦が、「今どきパソコンぐらいできなきゃね」なんて言って、パソコン・スクールかなんかに通い、起動の仕方やアプリの立ち上げ方、ファイル管理やコピペの仕方なんかを、鉛筆で必死にメモとりながら覚えるなんていうのは、不憫でしょうがない。

パソコン・スクールのカリキュラムには、大抵 Word と Excel を使いこなすためのレッスンがあるらしいが、実はそんなのは必要ないのだ。ホームユースの PC に MS Office がプリインストールされているのは、私物の PC で会社の仕事をしていた時代の名残である。今どきは、そんなことはコンプライアンス的にもあまりオススメでない。

ビジネスユースを考えなくてもいいごく普通のホームユーザーは、購入した PC に MS Office がインストールしてあるのは、別に必要だからというわけではないと気付かなければならない。必要だから入っているのではなく、入っているから使わなければならないような気にさせられるだけの代物なのだ。

そんなものがなまじ入っているから、それを使わないと PC ユーザーとはいえないなんて勘違いをさせられ、使わなくてもいいソフトを使わされて余計な金を払うだけ、マイクロソフトの思うつぼなのである。

家に 1台(あるいはそれ以上)PC があるのだが、なかなか使いこなせないと嘆く人には、私は迷うことなく iPad をオススメしている。Wifi 設定さえ誰かにやってもらえば、あとはテキトーにいじっているうちにインターネットやメールぐらいはできるようになる。インターネットとメールができてしまえば、ホームユーザーとしてほぼ合格だ。

この程度のニーズのホームユーザーに Windows 7 搭載の PC を薦めるなんて、軽自動車があれば十分という主婦にポルシェを薦めるようなものである。もてあまして当たり前なのだ。

ちかごろようやく、軽自動車で十分のユーザーがポルシェを乗りこなすなんていう無茶を強いられることがなくなった。喜ばしいことである。そして、IPhone アプリの示した最大の功績は、十分に使い物になるソフトが、115円とか350円とか、500円とかで買えると知らしめたことだ。

中小企業が汎用機を導入するのが馬鹿馬鹿しい所行であるように、ホームユーザーは PC に振り回されなくてもいいという時代に、やっとなったのだ。

 

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2011年1月 5日

餅をわしわし食うことのリスク

東京消防庁によると、正月三が日の間に、東京都内で高齢者 8人が餅を喉に詰まらせて死亡した(参照)。この数は過去 5年間のどの年よりも多いという。高齢者の増加につれて、餅を食うことのリスクはどんどん高くなっている。

私は 4年前の正月にも「餅のリスクをマジで軽減せよ」という記事を書いていて、その中で「のどに詰まりにくい餅」の商品開発をすべきだと主張している。例えば、小さく一口大に切った餅とか。

ところが、小さく一口大に切った餅は、それだけでは効果の程は甚だ怪しいということが、記事を書いた 5日後にわかってしまった。ラジオを聞いていたら、永六輔さんが慎重に小さく切った餅を電子レンジでチンしたら、せっかく切り分けた餅がふくらんでくっついてしまい、元に戻ったのだそうだ。これについて私は、"命がけで守る「美しい日本」" という記事にしている。

こんなことがないようにするには、切り分けた餅を少しずつチンすることになるが、年を取っても餅をわしわし食ってしまうようなせっかちなじいさんは、そんな手間のかかることはしないだろう。つまり、実効性が期待できないということだ。

「せっかちなじいさん」と書いたが、毎年餅をのどに詰まらせて死ぬのは、圧倒的に男が多い。今年の 8人の死者も、全員が男だ。同じ年寄りでもばあさんは「女が大口開けて食うのはみっともない」という美意識で育てられた世代だから、あまり息せき切ってわしわし食ったりしないのだろう。それだけで死ぬリスクは圧倒的に低下する。

とにかく、餅を喉に詰まらせて死なないための、最も効果的な対策は、「わしわし食わず、ちまちま食う」ということに尽きるようなのだ。年を取ると、食べ物を嚥下する力は思いの外弱まってしまうもののようなのである。過信しないで、ちまちま食うに限るのだ。

 

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2011年1月 4日

カジノ合法化について

「国際観光産業振興議員連盟」(通称: カジノ議連)という超党派の組織があって、 民主党の古賀一成という人が会長を務めているらしい。このカジノ議連が、昨年 12月 26日、大阪府の橋下徹知事や神奈川県の松沢成文知事らを招いて会合を開いたという記事(参照)に、今頃になって注目している。

この会合で橋下知事と松沢知事は、カジノ合法化に積極的に賛成する立場を表明し、合法化されればそれぞれの地元に誘致したいとの考えも示した。これを受けて古賀会長は、来年の通常国会にカジノ合法化のための法案を議員立法で提出し、成立を目指す考えを表明したというのである。

私自身はポリシーとしてギャンブルはやらない。パチンコと競馬はやったことがあるが、この 30年以上離れている。最近はパチンコ屋の建物が完全な異界に見える。競馬を見るのは今でも好きだが、馬券は買う気にならない。

6年前に参加した業界の視察ツアーの旅程にラスベガス訪問が組み込まれていたので、仕方なく 2日間滞在したが、この間もスロットマシンみたいなのも含めて、ギャンブルは全然しなかった。どうも体質的に合わないようだ。

しかし私はカジノの合法化に反対というわけではない。むしろ賛成である。私自身は興味がないが、興味のある人はやればいいというスタンスである。下手に非合法としているから、暴力団の資金源になったりする。やるならやるで、公明正大にやればいい。

ただここで疑問なのが、「日本では既に『パチンコ』という公認カジノがあるではないか」ということだ。パチンコが実質的に換金可能で、なんだかちんぷんかんぷんな建て前を装ってはいても、ギャンブルとほとんど変わらないのは誰でも知っていることである。パチンコを放っておいて、カジノ合法化もないではないか。

そこでちょっと調べてみたら、カジノ議連はパチンコの換金についても、カジノ法案と同じ仕組みで立法化していく方針なのだそうだ。それなら、ますます賛成である。きちんとやれば、現在の「建前は遊技、でも実質はギャンブル」という異常な状態を、これで整理することができる。

でも、パチンコにまで手を付けるとなると、かなりいろいろな問題がとぐろを巻いているから、ものすごく抵抗があるのだろうなあ。法案が提出されたら、社民党は反対するだろうが、それはパチンコ業界の利害と一致すると思うし、そんなこんなで、いろいろと思いやられてしまう。

【2021年 8月 4日 追記】

この記事の中で触れた、パチンコ業界の換金問題をカジノ法案と同じ仕組みで立法化というのは、その後完全に立ち消えになったようだ。約束が違うなあ。

 

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2011年1月 3日

200万アクセスを越えてしまった

ふと気付いてみると、私のブログへのアクセスが 200万を越えている。昨年末から 200万件が近いことには気付いていたが、こんなに早く大台を超えるとは思っていなかった。とくに私のブログは平日型で、例年、年末年始は極端にアクセスが落ちるだけに、達成は今月中旬頃になるものと思っていた。

こんなにも早く大台を超えてしまったのはひとえに、昨年暮れから「一見さん」のアクセスが異常に多かったことによる。

昨年の 12月後半、「年賀状/一言」などのキーワードで検索して、私が 3年前に書いた 「年賀状に書き添える手書きの一言」という記事にアクセスしてくる人が異常に増えた。このことは、年末 26日の記事に書いた通りである。

あまり多くてうっとうしいものだから、その記事の冒頭に、年賀状に添える一言の文例を期待してアクセスしてきた人をとっとと追い返すための断り書きを加えたほどだ。年賀状に書く一言も自分で考えられない人が、今後私のブログの常連さんになってくれるなんて考えにくいから、この間のアクセス急増は、見かけ上のバブルに過ぎない。

ちなみに、年賀状の一言関係の検索によるアクセスでは、Google ではなく Yahoo Japan 経由がずっと多い。私のブログは普段は、Google 経由のアクセスが Yahoo Japan 経由の 3倍以上多いのだが、「年賀状/一言」 に限っては、Yahoo Japan の舞台のようなのだ。

こう言っちゃナンだけど、私は今どき Yahoo Japan を使う人は「ネットの素人」というぬぐいがたい偏見をもっている。素人をバカにするわけではないが、Yahoo Japan 経由でやってくる人が、これを機に常連さんになってくれる可能性は極めて低い。だから、甚だ勝手なことを言うが、こんなことでアクセスが増えても嬉しくもなんともない。

この「年賀状に書き添える一言」の文例を期待してのアクセスは、実はまだなくなったわけじゃないが、さすがに年明けにはかなり減った。そのかわり、今度は年明け早々から「青木真也」というキーワードで検索してやってくる人がやたらと増えたのである。

青木真也というのは総合格闘技の選手で、一昨年末の K-1 Dynamaite で廣田瑞人という選手を相手に壮絶な腕折りを演じたかと思うと、昨年末は一転して長島☆自演乙☆雄一郎というちょっとふざけたリングネームの選手に、出会い頭の膝蹴りで壮絶失神 KO 負けしてしまった。毀誉褒貶に満ちているというか、なかなか話題豊富な選手なのである。

試しに 「青木真也」 でググったら、私が昨年の 1月 3日に書いた「青木真也 対 廣田瑞人 の惨劇を廻る冒険」という記事が 9番目にランクされてるではないか。そう言えば、昨年の今頃もこの記事にはアクセスが殺到したんだった。

昨年の青木真也の試合は、意図的な腕折りと、試合がストップされてからの青木の挑発的態度がかなり非難の的になっていて、私の記事も「もしかしたら荒れてしまうかな」という危惧をもっていたのだが、格闘技経験者と思われる方からのかなり専門的で真摯なコメントがいくつかついて、ある種独特な盛り上がりを見せてしまった。

ただ、私自身は格闘技フリークではあっても、このブログは格闘技専門ブログというわけじゃないので、このキーワードでググって来てくれた人もまた、常連さんになってくれるというわけじゃなかろう。

というわけで、昨年末からこのブログにはちょっと似つかわしくないほどの数のアクセスがあるが、私としては、早くいつもののんびりした状態に戻ってもらいたいと思っている。バブルはろくなことがない。

 

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2011年1月 2日

年賀状、手書きか印刷か

今年も年賀状がごそっと届いたが、ふとした思いつきで、その年賀状の束を「手書き/印刷」「オリジナルデザイン/出来合いのデザイン」という視点で分類してみた。

分類 その1: 宛名が印刷か手書きか

私としては、今どきのことだから宛名印刷ソフトなどを使ったものがずっと多いと思っていたのだが、きちんと数えてみると、手書きの方がまだやや多いという意外な結果になった。

宛名を印刷したもの: 47%
宛名を手書きしたもの: 53%

PC を使えない年配の親戚からのものはほとんどが手書きなので、案外順当な結果ともいえる。しかし、普段 PC を使いこなしているのに、敢えて宛名を手書きしてくれた人もいる。あるいはそういうポリシーなのかもしれない。

私自身についていえば、200通近い年賀状の宛名をすべて手書きするなんていうのは、気が遠くなってしまいそうで、もはやあり得ない作業という気がするのだが、世の中にはそうした手間をいとわない人がまだ多いということだ。

分類 その 2: 文面がオリジナルか、出来合いのものか

最近はコンビニなどで、印刷された文面の年賀状が販売されている。大抵はありきたりのおもしろくもなんともないデザインだが、そうした出来合いの文面でも、何かその人なりの一言でも添えてあればうれしい。ただ、既成のおざなりな印刷のみというのは素っ気なすぎる気がして、ちょっと寂しい。

文面がオリジナル・デザイン (手書きの一言あり): 30%
文面がオリジナル・デザイン (印刷のみ): 24%
出来合いの印刷文面に手書きの一言を添えたもの: 24%
出来合いの印刷文面のみ: 22%

「文面がオリジナル・デザイン(手書きの一言あり)」というものの中には、文面すべてが手書き(手描きの絵も含む)という労作もあるが、それは今となっては希少な存在で、わずか 2%しかなかった。

文面に手書きの一言などはないが、デザインや印刷テキストにその人なりの個性や気持ちが溢れているのは、それはそれでなかなか嬉しいものである。

さらに、もうちょっと細かくみると、宛名が手書きなのに、文面がコンビニで買ったのがみえみえのおざなり印刷のみで、手書きの一言も何もないというのが、全体の 12%もある。さらに宛名も文面も印刷のみというのは 10%だが、印象としての素っ気なさは、宛名が手書きだろうが印刷だろうが、同じようなものだ。

私としては、宛名は印刷でいいから、文面にその人なりのファクターを表現してくれる方がずっと嬉しい気がするのだが、まあ、いろいろな事情があるのだろうから、あまりくどくは言わない。もしかしたら、宛名の手書きだけで力尽きてしまったのかもしれないしね。

 

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2011年1月 1日

卯年のご挨拶

謹賀新年。元日は恒例の新年のご挨拶記事である。

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今年の年賀状でフィーチャーしたのは、幕末から明治にかけて活躍した歌川芳藤という浮世絵師の絵で、歌舞伎十八番の助六をウサギで描いている。刀を抜きかかる助六を、揚巻が袂の影で押しとどめる図。

まあ、こんな風に、今年は刀を抜くこともなく (もちろん比喩的な意味で) 平和に暮らしたいものという思いを込めたつもりである。

ちなみに卯年に関しては、Wikipedia に次のように出ている。(参照

「卯」は『史記』律書によると「茂」(ぼう:しげるの意味)または『漢書』律暦志によると「冒」(ぼう:おおうの意味)で、草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために動物の兎が割り当てられた。なお、ベトナムでは兎ではなく猫が割り当てられる。

ふうむ、卯年って、草木が地面をおおい尽くす状態を表しているのか、昨年の「寅」というのが、春が来て草木が生え始めた状態を表すというのだから、なるほど、順を追っているものと見える。願わくは、本当にそんな風に豊かな年になってもらいたいものだなあ。

それにしても、ベトナムでは、ウサギ年じゃなくて、ネコ年なのか。そうなると、あの有名な昔話(天帝のお招きをネズミがネコに知らせなかったってやつ)は、ベトナムでは通用しないってことになる。

というわけで、今年もよろしく。

 

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