「汝らのうち罪なき者、石もて打て」というのは、聖書の中でもよく知られた言葉の一つである。
当時、姦淫は石打ちの刑に処せられた。姦淫の現場を押さえられた娼婦がイエスの前に連れてこられた時、人々はイエスに「あなたなら、こういう女をどうしますか」と迫った。指で地面に何か書いていたイエスは人々に向かい、「あなたがたの中で罪のない者が、まず最初に石を投げるがよい」と言った。それを聞いた人々は、次々にその場から立ち去った。
八百長問題で揺れる相撲協会だが、八百長を認めたという 3人の力士をどう処分するのか、見ものである。放駒理事長は現役時代「まじめな魁傑」で通っていたから、八百長なんかしなかったかもしれないが、現理事の中に八百長なんて一度もしたことがないと胸を張って言える人が何人いるだろうか。
もし徹底的な調査をして、八百長相撲の経験者は年寄株を持つことができないという規定を作ったら、返上が相次いだ上に買い手もつかず、年寄株の相場は大暴落してしまうかもしれない。
さらに、八百長に手を染めたことのある現役力士は出場停止なんて処分にしたら、力士が足りなくなって、15日間の取り組みが維持できなくなってしまうなんて事態になりかねない。
全力のガチンコ相撲を 15日間続けるのは大変だ。だからどこかで 「阿吽の呼吸」 での互助会的意識が醸造されても不思議ではない。私はそれを責めようとは思わない。ただ「阿吽の呼吸」ならいいが、メールという形で残ってしまったら、それは言い逃れができないではないか。つまらないことをしたものである。
こんな証拠が残ってしまっては、公益法人認可などの問題が出てくる。政府・警察はこの際、相撲協会という組織を見放してしまおうという魂胆なんだろうか。相撲協会の中に色濃く残る「曰く言い難い体質」について、「このまま放っておいたら管轄官庁である文科省に傷が付く」というわけで、こうした荒療治に出たのだろうか。
私個人としては、相撲という「伝統芸能」は、祭祀性の強いものだから、純粋競技という視点でものを言うべきではないと思っている。内部での星のやりとりなども、たまにはあってもいい。さらに横綱に求められるのは「品格」なんてものじゃなく、「神格」であるべきだと思っている。大相撲の本来の最高位は大関であり、横綱は象徴としての特別な存在なのだ。
その意味で、私個人としては、朝青龍を横綱にすべきではなかったと思う。その昔、雷電為右衛門が実力的には飛び抜けていたのに、素行問題で大関止まりだったということがある。朝青龍も雷電のように、「スーパー大関」でいればよかったのだ。そうすれば「品格」 なんて生ぬるい幻想に縛られずに、のびのびと「強さ」だけを発揮できたのである。
しかし今や興業システムとして横綱は、必要不可欠になった。外国人だろうがなんだろうが、横綱にすえないと興業が成立しない。そんなこんなで、相撲は「国技」としての理念と、興業システムとしての実態が乖離しすぎてしまったのである。こうなると修復は効かない。私は大相撲がどのように衰退し、消滅するかに興味がある。
「相撲」というものを残したいなら、部屋制度をボクシングのようなジム制度に改め、純粋競技として再出発すればいい。もちろん財団法人なんてものではなく、単なる利益団体としての「相撲協会」を再結成しての上の話だ。
今のような太った大男の競技ではなく、ウェイト制にして競技性を高める。そして力士もちょんまげなんてしない。あんな前時代的な格好を強制するから、日本人の若者が入ってこないのだ。行司の衣装だって作務衣かジャージでいい。
そして、相撲の中の伝統的部分は「伝統相撲保存会」みたいなものを作って、アトラクションとしてやればいい。横綱は強さにはこだわらず、精進潔斎してひたすら「神格」と「見た目の見事さ」を磨く。そして「型」と「土俵入り」の完成度のみを追求する。つまり純粋に「伝統芸能」に徹する。
今の大相撲は「伝統芸能」でも「スポーツ」でもないところで、妙にうじゃうじゃやってきたから、こんなわけのわからないことになってしまったのである。
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