「おばんざい」 を巡る冒険
昨日は京都の洛南を廻ったが、あちこちで「おばんざい」の看板を目にした。「おばんざい」というのは「晩のおかず」のことかと漠然と思っていたが、それはどうやら誤りで、漢字で書くと「お番菜」ということらしい (参照 1、参照 2)。
「番」は「番茶」の「番」と同じ意味合いで、粗末な日常のものという意味らしい。Goo 辞書にも、次のようにある。(参照)
《番号を付けて多数備えておくものの意から》 名詞の上に付いて複合語をつくり、当番の人の用いるもの、また粗末なものの意を表す。「―傘」「―茶」「―槍(やり)」
つまり「おばんざい」とは、日常的で粗末なおかずのことのようなのだ。だがそれにしては、ずいぶんもっともらしく「おばんざい」を供する店がありすぎるではないか。どうしてまた、日常のおかずを、結構な値段で食わせてもらわなければならないのだ。
それに「お抹茶」とは言っても「お番茶」とはあまり言わない。「お番傘」とはさらに言わない。「おばんざい」だけ、どうして特別扱いで「お」が付かなければならないのだ。「万歳」と区別するためか?
これはもしかしたら、伝統的な「おばんざい」は、今日ではもはや「日常的な粗末なおかず」というものではなくなってしまったためなのではあるまいか。
前述の Wikipedia のページには、「海に遠い盆地の京都では、寺も多く、漬物、乾物、精進料理を取り入れたおかずが発展し、よそとは違ったものがある」とある。また「京野菜」と称される伝統的野菜も使われていた。悲しいことにこれらは、現代では「日常のおかず」とは言えなくなってしまっている。
つまり本来的には「粗末な日常のおかず」であった「おばんざい」は、今では、わざわざ「おばんざい」の店にでも行かなければなかなか食べられない「非日常的なおかず」になってしまったようなのである。
ここまで考えて私は、マクドナルドが日本に上陸したとき、銀座に第一号店を出して、「貧乏人のファーストフード」ではなく「アメリカのお洒落な食べ物」としてプロモーションしたことを思い出した。
珍しいものであれば、どんなものでもお洒落になってしまうのである。
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コメント
お初です。京都在住のシリオンパパと申します。いつも楽しみに読ませて頂いております。
「お」の話ですが、正しい使い方かどうかは定かではありませんが、京都では普通に「お番茶」は使いますよ。「お番傘」は流石にありませんが(笑)
私、東福寺で産まれ、幼少期は宇治の万福寺辺りで育ち、現在は醍醐寺近辺に在住しておりまして(まあ、それは偶然なんですが)寺巡りが趣味の一つです。よく「地元にあるとそんなに興味がわかない」なんて言いますが、好きな者にとっては、巡りきれない程に社寺仏閣が豊富な、京都がとても気に入ってます。
昨日の更新でtakさんが醍醐寺に来られたのを読み、なんだか大物芸能人に遭遇したような、ソワソワした変な気持ちになってしまいました(笑) また是非お越し下さいませ。
醍醐寺は桜 東福寺はもみじが最高です。まあ、その季節は人が多過ぎて、観光には向きませんが(笑)
投稿: シリオンパパ | 2011年2月17日 19:15
シリオンパパ さん:
>「お」の話ですが、正しい使い方かどうかは定かではありませんが、京都では普通に「お番茶」は使いますよ。「お番傘」は流石にありませんが(笑)
「お番茶」、京都ならもしかしたらありそうな、そんな気が薄々してました。
それで本文でも、"「お番茶」 とはあまり言わない" と、「あまり」 の三文字で逃げときました ^^;)
>私、東福寺で産まれ、幼少期は宇治の万福寺辺りで育ち、現在は醍醐寺近辺に在住しておりまして(まあ、それは偶然なんですが)寺巡りが趣味の一つです。
それはまた、うらやましい限りの境遇ですね。
醍醐寺は、桜の木がたくさんあって、春にはさぞきれいだろうと思いながら廻りました。
ただ、ちょうどいい季節は人混みになるので、いつも季節はずれを狙って廻る傾向があります ^^;)
投稿: tak | 2011年2月18日 10:15
私も、「お番茶」はありだとおもっていました
寺廻りについてですが,これは例外ですが、ある個人の外国人で,キリスト教徒の人が,寺に入るのをいやがるのです
日本人なら,なに教徒であろうとも、名所旧跡・美術鑑賞みたいな気持ちで寺に入りますが、原理主義的な?(笑)人達は,気軽に仏を拝んだり,柏手を打ったりはしない
特に賽銭を上げるのはいやみたいで(笑)
これは、一神教の世界にいない日本人としては,目にうろこでした
考えてみれば,無味無臭のように思っている寺でも,中に入れば,優しい悟りきったような観音様や阿弥陀仏だけでなく、戦闘的な怖い仏像もならんでいて、異教の巣窟(笑)という見方をするのも、むべなるかな
朝鮮の高麗などでは,戦争に仏教を利用もしましたしね
投稿: alex99 | 2011年2月18日 11:46
alex さん:
>私も、「お番茶」はありだとおもっていました
関西では 「お番茶」がありなんですね。
さすがに、「隣の犬、よう鳴きはる」 なんて言わはる土地柄 (^o^)
>原理主義的な?(笑)人達は,気軽に仏を拝んだり,柏手を打ったりはしない
若い頃、合気道をやっていました。
道場では稽古の前後に神棚に向かって拝礼をするのですが、外国人(アメリカ、ドイツなど)もいます。
私の師匠は「神棚は単なる窓口だから、あの窓口を通して、あなたの神を拝めばいいです。ただ、柏手などの作法だけは、一応従ってください」と言い、彼らも納得してやってました。
それで納得しなかったら、それはもう仕方ないですね。「入門お断り」ということになります。
>考えてみれば,無味無臭のように思っている寺でも,中に入れば,優しい悟りきったような観音様や阿弥陀仏だけでなく、戦闘的な怖い仏像もならんでいて、異教の巣窟(笑)という見方をするのも、むべなるかな
「明王」とか 「天」 とかいう名の仏像には、結構すごい形相が見られますね。
確かに 「異教」っぽい香りが立ちのぼります。
投稿: tak | 2011年2月18日 12:55
異教の巣窟(笑)まさしくですね。つい先日、三十三間堂に行った時、雷神の説明書きに英訳がありまして、「Thunder God」と書いてあるのが、妙にしっくりこなかったのを思い出しました。一神教であるところの「GOD」と日本の様に八百万のうちの一つにすぎない「神」は随分違うんじゃないかな、と思いました。そういや日本語に「God」に適した訳ってあるんですかね?一神教を信ずる諸外国人の方々には、サンダーゴッド はよくわからないんじゃないでしょうか(笑)
私の通っていた宇治小学校では、廊下の手洗い場の一番端の蛇口からは、「番茶」が出てました。普通の事だと思っていましたが、最近、珍しいのだということを知り、驚きました(笑)
投稿: シリオンパパ | 2011年2月18日 14:44
子供が小学生の時京都旅行しまして、そのときに哲学の道にあるおばんざいのお店に入りましたら、出てきたお料理を見て、子供が開口一番「普通のおかずじゃん」といったのが、妙におかしかったのを思い出しました。お店の人もわらってましたけど。子供にしてみれば、せっかくお金出して日常と変わらずじゃあな気持ちだったのでしょうね。
投稿: tomato | 2011年2月18日 22:20
シリオンパパ さん:
>一神教であるところの「GOD」と日本の様に八百万のうちの一つにすぎない「神」は随分違うんじゃないかな、と思いました。そういや日本語に「God」に適した訳ってあるんですかね?
英語では多神教の神々も、"a god" と言いますね。大文字で始まらないのは、多神教の神様と思えばいいのかもしれません。
当然複数形もあって、"gods" 。女神様は "goddess"。
"Thunder god" は、言葉だけ聞いたのでは、イメージしにくいでしょうね。
>私の通っていた宇治小学校では、廊下の手洗い場の一番端の蛇口からは、「番茶」が出てました。
恐縮ながら、「愛媛県では水道からポンジュースが出る」という類のジョークかと思い、エイプリルフールには早いぞと、一応ググって見たら、なんと、本当なんですね。
驚きました。恐れ入りました。
投稿: tak | 2011年2月19日 20:02
tomato さん:
>子供が小学生の時京都旅行しまして、そのときに哲学の道にあるおばんざいのお店に入りましたら、出てきたお料理を見て、子供が開口一番「普通のおかずじゃん」といったのが、妙におかしかったのを思い出しました。
わはは (^o^)
レストランみたいなのが出ると思ったんでしょうね。
そのうち、「おこさま用おばんざい」 として、ハンバーグなんかが出てきたりして。
投稿: tak | 2011年2月19日 20:04